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「よう、宏衛」
大学の廊下を歩いているとき、背後から友人が声をかけてきた。それに振り返ると、ちょうどその友人が僕の肩に手を置いて、にやっと笑ったところだった。
明るい赤茶に染め抜いた髪に、両耳にピアス。そのちょっとした不良のような外見は、僕とは正反対だ。性格も僕と違って社交的と言うか、人と垣根を作らない。でも若干素行不良なところがあって、講義のずる休みもよくする。そういうときは大抵家でゲームをしているか、街のどこかをぶらぶらしているらしい。
僕に下らないLINEを送ってくるのは、大抵彼だ。栗木才人という。
「ああ、なに?」
「次の講義、先生が風邪ひいて休みだろ? なあ、どっか行かないか?」
「どっかって?」
「ちょうど今から昼休みだし、駅前に行ってなんか食って、それからどっかのゲーセンとか。どうだ?」
なんかとか、どっかとか、随分と適当な提案だ。僕は思わず笑ってしまった。
「いいよ」
「よし、じゃ、決まりだな。何食いたい?」
「何でもいいよ」
「んー、じゃあさ、駅前に喫茶店あっただろ。ちょっと古そうなやつ」
「駅前のどこ?」
「古本屋を曲がったとこ」
「古本屋なんていっぱいあるでしょ。古本屋の街なんだし」
「じゃあ、いいや。あっちのサイゼにしようぜ」
「あっちって?」
「メトロの方にサイゼリヤあるの、知らないか?」
「ファミレス? 喫茶店はやめたの?」
「やめた。高いしな。どこでもいいなら、そこにしようぜ」
「いいよ、分かった」
僕達は連れだって大学を出た。今朝から雨っぽい天気だったが、今は少しだけやんでいた。でもこれから夕方にかけてまた雨が降るだろう。
僕達は空模様を見ながら、天気とは関係のない話をして歩いた。才人の言ったファミレスまでは少し距離があったが、戯れながら歩くのにはいい距離だった。ファミレスは昼時らしく混んでいて、少し待たされたが、わりとすんなり席まで案内してもらえた。喫煙席だった。僕は吸わないが、才人は吸う。
席に着くと、才人は早速ポケットから煙草を出した。愛用のジッポで火を点け、慣れた調子で指に挟んでいるその仕草は、随分と長い間喫煙している人のように見える。
才人は煙草を一回口に当てると、僕の視線に気付いたのか上目遣いにこちらを見た。才人らしい表情で、にやりと笑う。
「吸ってみるか?」
「吸わないよ。まだ未成年」
「悪いなー、未成年の前で喫煙して」
「別にいいよ」
才人はにやにやして、もう一度煙草を吸った。
「早生まれは損だな」
「そう? 何で?」
「酒もまだ飲めないんだろ」
「別に興味ないよ」
「嘘だろ?」
「嘘。ちょっと興味ある」
僕達はお互いをからかい合うようにじろじろ見て、それからくすくす笑った。
ファミレスの中には僕達のように大学生らしい人や、制服姿の高校生もいた。でも喫煙席に座っているのは大抵は社会人で、仕事の道具を持ち込んでいる人も多かった。
そんな中で、成人したばかりの才人が煙草を指に挟んでいる姿は、少し浮いて感じられる。煙草を吸い慣れている雰囲気が出ているものの、才人が喫煙しだしたのはきちんと成人してからだ。学年が上がるまでは吸っていなかった。
料理を注文してそれが運ばれてくると、才人は煙草を消した。灰皿にゆらりと紫煙が舞った。
そして料理を食べ始めてすぐ、才人はどこか遠くを見るような目つきをした。何か言いたいことでもあるような様子だった。
「どうしたの?」
「ん? ああ……」
「何かあった?」
「いや、別に」
と言うと、才人はいつものにやりとした笑顔を見せた。
「別にたいしたことじゃないんだけどさ。ただ、空耳がさ」
「空耳?」
「そ。最近急に気になりだして」
「人の話が別の言葉に聞こえて、会話にならないとか?」
「ああ、空耳ってそういう意味なのか? じゃあ違うかも。何て言うんだ、ほら、お前の専門だろ? 心理学の」
「え? 何だろう……」
「思い出した。幻聴だ」
「幻聴?」
「そ。幻聴。ふとしたときに急に聞こえるんだ」
「どんな?」
「教えない」
「何で?」
僕は思わず笑った。
「幻聴の話を始めたのは才人じゃないの。何で秘密?」
「別に宏衛に言ったってしょうもないからさ」と言って、才人は灰皿の吸い殻を指で弾いた。「どうせ聞こえるなら、エッチな幻聴がよかったんだけどな」
「エッチなって何? どんな幻聴? それ」
才人の言ったことがおかしかった。僕は料理をつつきながら笑った。
「じゃあ真面目な内容が聞こえるんだ」
「まあまあ真面目かな」
「酷いの? その幻聴」
「たまに聞こえるくらいだよ」
「どんなことが聞こえるんだろ」
言いながら料理を口に運ぶと、喫煙席独特の煙草の香りが口の中に入ってきた。その時ふと、夢の中で口の中に入ってきた、写真の部屋の空気の香りを思い出した。
「んーまあ、女の子の声は女の子の声なんだけどさ」
「じゃあいいじゃん」
「でもどうせならさあ、もっといいこと囁いてほしいぜ」
「いいでしょ、別に。彼女いるんだから」
「別れたよ」
「別れた?」
びっくりした。僕は思わず才人を見たが、才人はこちらを見ていなかった。ただ、料理を口に運んでいる。
「何で? 付き合い始めたばかりだったんじゃないの」
「んー、何か、気が乗らなくなっちゃって」
「なに、それ」
「あるだろ、そういうの」
「気が合わないなら分かるけど」
「そういうのとは違うんだよな。本当、気が乗らなくなったんだ」
「ふうん……」
その別れたという彼女のことは、僕も学内で幾度か目にしたことがある。細身で可愛らしい顔をした、特に欠点の見当たらない人だったような気がする。
別れたという話は突然だったが、才人はそういうことは珍しくなかった。付き合ってもすぐに別れ、と思うと、すぐに彼女ができる。だから、同級生の中には才人のことを悪く言う人もそれなりにいた。確かに、彼女をすぐに取り替えるというのは、いい印象を与える行動ではない。
しかも、別れる理由が毎回よく分からないのだ。人には「飽きた」だの「そろそろいいかなと思った」だの、適当なことを言う。僕にはそれが本気でないことは何となく感じられるものの、その本心はうかがえない。どうしてすぐ別れるのか、すぐ別れるならどうして女の子と付き合うのか。才人の謎の部分の一つだった。
才人は時々、よく分からないなと思わせることがあった。そんなところが、ますます人にいい印象を与えない要因になっているのは僕にも分かる。だから生来人との間に垣根を作らない性質であったとしても、人からは敬遠されることも多かった。性格に反して友人が少ないのもそのせいだった。
「そうなんだ」
「そ」
と言って、才人は料理を飲み込んだ。
才人がすぐに女の子と別れるのは僕も慣れてしまったので、この話はそんな簡単なやりとりで終わってしまった。そんなに深く突っ込んで話し合ったこともないし、才人もこういった話題に僕がさらりとしているのを好んでいるような気がしていた。
普通の人なら、彼女と別れたばかりだから変な幻聴も聞こえるんじゃないの、などと冗談を飛ばすところだろう。けれど僕はそんなことを言う性格でもないので、黙っていた。
「どうせ聞くなら、いい幻聴の方がいいよな」才人は話題を戻した。
「いい幻聴なんてそうそうないでしょ。大抵、そういうのって病的になっているから聞こえるんだから」
「じゃあ、俺、今病的ってことなのか?」
才人は自分自身をからかうような顔をして笑った。
「聞こえてる内容によるけど」
「宏衛は幻聴とかないのか?」何が聞こえているのか言いたくなかったのか、才人はそんなことを訊いてきた。
「幻聴? うーん……。ちょっとした空耳ならあるけど、幻聴はないかな」
「空耳な。空耳って楽しいよな。昔テレビ番組でそういうコーナーあったよな、深夜のさ。まだやってるか分からないけど」
「ああ、あったね、そういうの」
それから話題はどんどん違う方へと流れていった。やや言いたそうにしていたにもかかわらず、才人は幻聴についてそんなに深くは話さなかった。結局、どうして幻聴の話なんかしたのか、僕には分からなかった。
そうして食事を終えると、僕達はファミレスを出てゲーセンに向かった。さすがに授業をサボって街を歩くだけあって、才人は僕よりも周辺の地理に詳しくて、目的のゲーセンに向かって迷わずに歩いて行った。僕はそれについていくだけでよかった。
僕は家でゲームはしてもゲームセンターにはあまり行かないので、到着したその場所は何となく不思議な空間に思えた。クレーンゲームや音楽ゲームの筐体があったり、奥の方にスロットが並んでいたりするのは、見慣れない光景だった。平日の昼時だということもあって店内には人が少なく、ゲーム機から音がするわりに静かな感じがした。
「何する?」と、才人。
「何でもいいよ。ゲーセン詳しくないし」
「音ゲーやるか? それとも、ガンシューティングで協力プレイするとか」
「そうだね、それおもしろそう」
「今置いてあるの、あのホラーゲームのアーケード版なんだぜ。お前にはぴったりだろ」
「どのホラーゲーム?」
「行けば分かるさ」
才人に促されてそのゲーム機の所に行くと、確かに僕の知っているホラーゲームのタイトルのものだった。ゲーム機全体にぼろぼろのカーテンが掛かっていて、ホラーな雰囲気を出している。
「本当だ」
「だろ?」
と言って、才人はにやりと笑った。
僕は才人にはホラーゲームの実況者をしていることは教えていないが、ホラーゲームを好んでいることは教えている。でもホラーゲームを好んでいるのは才人も同じだった。才人が住んでいる部屋には、僕も持っているタイトルのゲームが多い。
「じゃ、さっそくやるか」
「いくら?」
「二百円」
「案外高いなあ」
「まともにやれば一時間だ。それくらいたっぷり遊べれば、二百円くらい普通だろ」
「ふうん。そういうもの?」
ゲーセンに馴染みのない僕は、才人がそう言うのを真に受けるしかない。僕達はゲーム機にそれぞれお金を入れ、銃の形をしたコントローラを取った。プレイ中に手が疲れないようにだろう、随分と軽い銃だった。前に目を向けると、大きな画面があり、そこに早速オープニングのムービーが流れ始めていた。
才人は銃をふるふる揺らした。
「敵が出てきたらヘッドショット狙えよ。そうすりゃ一発だ」
「僕、こういうの慣れてないから下手くそかもよ」
「それならそれでフォローしてやる。言っとくけど、俺無駄弾撃たない主義だから」
「へえ、強気」
「慣れだよ、慣れ。ちなみに自動で歩いてくれるから、お前お得意の空間把握は役に立たないかもな」
「ああ、そうなんだ。どうやって移動するのかと思ってた」
「だから、敵が来たら撃てばいいって、それだけだ。簡単だろ?」
才人はにやりと笑った。
その時オープニングが終わり、マップが街中に切り替わった。すると敵らしいものが画面の奥から走ってきた。僕達は銃を構え、それに向かって引き金を引いた。
移動は本当に自動だった。敵が来ればそれを撃てばいいだけの、言ってみれば単純な作業だ。途中ボス戦もあったりしたが、さすがに自分で無駄弾は撃たない主義と言っただけあって、才人が器用なので苦労はなかった。
そうしてステージが進んでいくと、病院のステージになった。
「病院って、このゲームじゃ定番だよな」
敵の頭を撃ち抜きながら、才人が言った。
「そうだね。随分シリーズ出てるけど、結構定番かも。アーケードでもこうやって病院があると何だか感動する」
「今、新しいPCゲーム買ったからやってるんだけどさ」
「へえ」
「それも舞台が病院なんだ。こんなんじゃないけど」
「奇遇だね。僕も今病院が舞台のゲームやってる」
言うと、ちょうどイベントが始まったので、僕も才人もいったん構えを解いた。
才人は画面を見たままだったが、何か考えるようにじっと黙り込んでいた。顔は相変わらず笑っているので、何を考えているのかは分からない。
「……でさ」
才人にしては珍しいくらい静かな声で、
「思い出すんだよな」
そんなことを言い出した。
僕は才人の方を見たかったが、イベントが終わってしまい再び戦闘が始まったので、また画面を見なければならなくなった。
「思い出すって?」銃を構え、引き金を引きながら訊いた。
「昔入院してたことがあったんだ」
「え? へえ……。なんで?」初耳だった。
「さあね。知らないよ」
「知らないって? 理由も忘れちゃうくらい昔のこと?」
「中学生の時」
「じゃあ、そんなに昔でもないんじゃない」
「そうか? まあそうかもな」
「どこか悪かったの?」
「だから、知らないよ」
「何で知らないの?」
「よく分からんが入院しろって言われてさ。無理矢理病室に放り込まれた」
「何それ。誰も説明してくれなかったの?」
「説明はいらないだろ」
「いるでしょ」
「いや、いらないね」
よく分からなかったので、僕はちらりと才人を見た。けれどその横顔はいつも通りの表情で、心の内を見せていなかった。それに別に秘密を打ち明けているという雰囲気でもなかった。けれど、僕には何か重大な告白なんじゃないかという予感がした。
才人は何でもないことを言うような調子で、口を開いた。
「俺の意思はどうでもいいね。家族がそうしたかったんだ」
「……そんなに悪かったの?」
意味も真意もくみ取れなかったので、僕は当たり障りのない質問しかできなかった。けれど才人はそれには答えなかった。
「部屋は鍵付きの完全個室。窓は小さいし外出は禁止だし最悪だったな」
「入院ってそういうものじゃないの?」
「普通の入院なら良かったんだけどな」
「なに、じゃあやっぱり相当悪かったんじゃないの」
「さあね。どう悪かったんだかな」
「今は?」
「今って?」
「今は何ともないの?」
「別に、何とも」
才人は肩をすくめながら、器用に敵の頭を撃ち抜いた。
「入院してたなんて初めて聞いた」
「俺も人に話したのは初めてだ」
才人は笑い声を上げた。
「病院のゲームやってるとさ、思い出すんだよな。とにかく最悪だった」
「どう最悪だったの?」
才人はそれに答えなかった。ただ、敵の頭を撃ち抜く発砲音だけがした。聞こえなかったふりをしたのかも知れない。
「ところでさ」と、才人。
「なに?」
「このゲームのシリーズって、トラウマとかがテーマだよな。過去のトラウマとか、精神的なこととか、何て言うか、悪夢? そんなのが中心だろ」
「そうだね」
「だからおもしろいよな」
「うん、そう思う」
「今やってるゲームもそんな感じするんだよな」
「トラウマっぽい感じ?」
「そ」
「へえ……。何やってるの?」
「クリアしたら教える」
「何で?」
別に隠すようなことでもないのに、どうして隠すのか分からず、妙におかしみを感じた。
「教えてよ」
「教えられたらな。クリアできるかどうかも分からないし」
「そんなに難しいやつ?」
「難しいって言うか、何だろうな。よく分からない」
「よく分からないって?」
「さあ。バグがあんのかも」
「バグがあったら困るね」
「ああ。困ってる」
才人はにやにや笑った。
会話はそこでいったん途切れた。ボス戦前の敵のラッシュがあり、やや僕の余裕がなくなったせいもある。
これからこの病院ステージのボス戦が始まる。ラッシュが終わると静かな廊下を進む画面が続き、静かになった。
……静かになった。
不思議なほどしんと静かなので、僕はあれっと思った。カーテンに遮られて周りは見えないが、今までは他のゲーム機が稼働する音が聞こえてきていた。なのにその音がしない。
しんと静かな中、画面の進みが止まった。病院の廊下の真ん中で、立ち止まってしまう。奥の方は暗闇で何も見えない。どうして立ち止まっているのか。そういう演出なのだろうか?
すると、ゲームのスピーカーから、カサカサカサ……という音が聞こえた。
――え?
聞き覚えのある音だった。
ルーシーが接近してくるときに聞こえる、あの音だ。
しかしこのゲームは『Lucy, close to you』ではない。それなのに、どうしてこの音がする?
そのカサカサという音はどんどん近付いてくる。やがて画面奥の暗闇から、長い手足が現れた。
――ルーシー。
ルーシーが猛烈な速度でこちらに迫ってくる。僕は銃を構えることもできず、思わず後退った。
すると黴っぽいような、ほこりっぽいような冷たい空気が鼻をついた。どうしてか、僕がいるのはゲーム機の前ではなく、ゲーム画面の中の廊下だった。靴底が朽ちた床をこすって、じゃりりと音を立てる。
「あ……」
反射的に息が漏れたが、どうすることもできなかった。ルーシーが僕の眼前に迫ってきて、常人の三倍はある細長い腕を振り上げた。僕は思わず目を閉じて、頭をかばった。ルーシーが見えなくなる。視界をふさぐなんて、何て愚かなことをしているんだと思った。
あと一呼吸でルーシーの腕がこちらに届く。
「……さみしいの」
覚悟をしていたが、ルーシーの腕が僕に届くことはなく、静寂の中で少女の声がした。
「さみしくてたまらないの。このさみしさをどうしたらいいのか、わからないの。……それはあなたもいっしょでしょ?」
――僕も? どうして?
これは何だ? どうして僕にそんなことを言う?
「……さよなら。宏衛」
――おかあさん。
「――宏衛!」
不意に僕の腕を掴む人がいた。僕はびくりと肩をふるわせて目を開いた。その瞬間ゲームセンターの音が戻ってきて、僕はゲーム機の前にいた。僕の腕を掴んだのは才人だった。
僕は呆然としていた。今のは一体何だったのか? そんな僕の顔を見て、才人はにやりと笑った。
「何だよ、飯食ったのに貧血か?」
「貧血……」
「急にふらっとするからびっくりしたぜ。どうした?」
「どうした……。……どうしたんだろう」
「しっかりしてくれよ。これからボスだぜ?」
言われて画面を見てみると、そこは廊下などではなかった。場面が変わっていて、ボスが目の前にいる。
「あ、ああ……。そうだね」
「大丈夫か?」
「うん、大丈夫。ちょっとふらっとしただけだし」
「俺の心配よりお前の心配した方がいいかもしれないな」
才人はにやにやして、銃を構えた。僕も銃を構えて、苦笑いした。
「そうかも」
才人が引き金を引く。僕もボスに向かって発砲した。
……今のは、何だったんだろう。
――さみしいの。
――それはあなたもいっしょでしょ?
――さよなら。宏衛。
まただ、と思った。また、『Lucy, close to you』の夢を見たのか。
それからゲームは順調に進んで、才人の腕前が相当のものだったのもあり、無事ハッピーエンドまでたどり着けた。
エンドクレジットが流れ始めると、才人は銃を元の場所に戻した。
「これ、マルチエンディングなんだよな」
「へえ、そうなんだ」僕も銃を戻す。
「ボス戦ごとに、友人を助けるイベントがあっただろ。あれで全員助けられないと、このエンドにはたどり着けないんだ」
「え、じゃあ全員助けたんだ。分からなかったよ」
「特に一人目はな」才人はにやりと笑った。「分かりにくいんだよ、最初のあいつは」
と言って、才人はうんと伸びをした。
「さあ、これで一時間たっぷり遊んだわけだ。どうだ? これで二百円なら別にいいだろ」
「そうだね。かなりおもしろかった」
「だろ? 今度は別のエンド目指してみようぜ。このエンドより難しいやつ」
「全員救出より難しいのがあるの?」
「プレイしてると、ステージのどっかにUFOが飛んでくるんだよ。それを全部撃ち落とすと、UFOエンドに行ける」
「アーケード版にもあるんだ、そのエンディング。おもしろそう」
「ぜひ見たいだろ?」
「見たいね」
「ま、でも、エンディング回収は次の機会だ。ぼちぼち大学に戻らないと、遅刻だしな」
「遅刻とか、才人も気にするんだ」
「気にするのは、お前だろ」才人は僕を指さす。「俺は別に、このまま遊んでてもいい」
「それは困るなあ」
「困るだろ。じゃ、戻るか」
「そうだね。ああ、楽しかった」
「そりゃ何よりだ」
僕達はゲーセンを出て、大学まで戻った。空には曇天が広がっていた。
夕方、全ての授業を終えて大学を出る頃には、また雨が降り出していた。才人と大学の門をくぐると、ここで別々の道を行くので、いったん立ち止まった。
「じゃ、また明日な」
「うん」
「なあ、宏衛」
「うん?」
「お前、一人でさみしくないか?」
「え? 何で?」
「さあ。何となく」
才人は肩をすくめると、にやっと笑った。
「さみしくなったらいつでもうちに来ていいんだぜ? 鍵は開けっ放しだからさ」
「だから、それ、すごく不用心でしょ」
才人はどういうわけか、一人暮らしなのに家の鍵を絶対にかけない。留守にするときだけはかけるようなのだが、在宅中は施錠しないのだ。
才人は僕に指摘されてにやにや笑うと、ぱっと手を振った。
「じゃあな、宏衛。マジでうちに来ていいからな」
「別に、そんなにさみしくないよ」
「あっそ。おもしろみのないやつ。じゃあな」
「うん。じゃあ」
才人と別れると、僕は自分の家へ向かって歩き出した。今日こそは、『Lucy, close to you』の実況を撮らなければ、と思った。
この雨の降り方だと、マイクが雨音を拾うことはなさそうだった。小雨というより、霧雨に近い降り方だったからだ。
家に着くと、僕はきちんと施錠した。いつも通りに玄関に傘を開いたまま置き、暗い家の中を進んだ。
電気を点け、ソファに鞄を置く。
そして、まるでモデルルームのような、生活感のない部屋を見た。
夢の中で見た、写真ばかりの広い部屋。そこにかかっていた僕の部屋の写真。まさに、その写真の通りの光景がそこにはあった。
本当にあれは夢だったのか。今日のあれも。思い出せば思い出すほど分からなくなる。まるでゲームの中に入っていったようなあの感じ。
ゲームの中に。
まさにそうだ、と思った。
でもそんなこと、ありえない。僕はキッチンに立って夕食を作ると、それを食べながらスマホをチェックした。相変わらず才人から下らないLINEが来ていた。さみしければいつでも来ていいと言った才人の言葉を思い出す。さみしがっているのは僕じゃなくて、むしろ才人の方なんじゃないか、という気がした。
それに返事をすると、ちょうどメールが届いた。誰からだと思ったら、母親からだった。
『ひろえくん。
元気にしていますか。
今日はおとうさんとおかあさんはラーメンを食べましたよ。ひろえくんはなにを食べていますか?
そっちは雨が続いているそうですね。体を冷やしていませんか?
風邪をひかないように、体を大事にね。』
『メールありがとう。元気にしてる。今日は焼きそばにした。心配してくれてありがとう。そっちも沖縄旅行の前に体調崩さないようにね。』
返事を送りながら、この母親は本当にまめだな、と思った。気を遣っているんだろう。
僕はスマホを置くと、食器を洗って実況の準備をした。今回はきちんと動画を撮らないといけない。おかしな夢を見たせいで、動画の更新が滞っているのだから。
部屋の電気を消して録画を開始すると、こうして実況を撮るのが何だか随分と久々のような気がした。
「皆さんこんばんは。カタロエです。何だか更新が滞っちゃっててすみません。なんか変な不具合があって、うまく進まなかったんですよ。まあ今回は大丈夫だと思います。で、ですね、これ、『メモリー』っていう項目が追加になっているんで、まずはこれを確認しましょう」
そう言って『メモリー』をクリックすると、前回の通りに病室の画面に遷移した。そこに家族写真が漂っているのも、前回と一緒だ。
「これ、前回取った家族写真ですね。全員がこっちを指さしてるやつ」
クリックしてみると、やはりその写真で、『責める心』というコメントがついていた。
……ここまでは、先日実況を撮ったときと一緒だ。実際にはあの時は実況は撮れていなくて、ひたすらにスタート画面が表示されているだけだったが。つまり、僕はスタート画面から進まず、『メモリー』すら確認せず、『つづける』からプレイすることもしていなかったことになる。スタート画面しか録画されていなかったということは、そういうことなのだ。
おかしな話だった。おかしな話と言うより、やや不気味な話だった。
でも僕はそれを声に出すこともせず、『つづける』を選んでプレイを開始した。マップは、やはり前回プレイしたときと同じだ。プレイしたと言えるのかどうかも怪しいが。途中、おもちゃの指輪や、少女の写真の入ったペンダントなども同じように拾った。少女の写真も、こちらを指さしているところまで全て同じだ。
そして雨の降る空中庭園を通って、廊下が迷路のように入り組んだ場所までやってきた。
「さて、前回ここで不具合があったんで、録画に失敗したんですよね。だからここまでは知ってるんですが、ここからは完全に初見です」
そう言って、廊下を歩く。別に部屋らしい部屋があるわけではない。迷路のように入り組んでいるとは言え、ただの通り道なのだろう。時折ルーシーのカサカサという音がするものの、別に遭遇したりもしない。ただ、『さみしい』とか『いかないで』とかいう声はしなかった。そこだけは、前回と違うところだった。
「うーん、カサカサいう音がしてはいるものの、なかなかルーシーと遭遇しないですね。ルーシーと遭遇できないと、動画的にもだれちゃうんで困るんですが……」
そんなことを言いながら進んでいたら、迷路の廊下を抜けたようだった。廊下の突き当たりに扉が見える。
「あ、扉だ。どうやら迷路ゾーンは抜けましたね。あらま。ルーシーとは一回も遭遇しないまま終わってしまった」
その扉を開けると、そこは食堂だった。
僕は思わず操作をする手が止まってしまった。
それは、夢で見た食堂と全く同じだったからだ。暖炉、調理場らしいカウンター、食器返却用のワゴン。テーブルの配置も全て同じ。
「……食堂ですね。広い食堂」
僕はやっとそれだけを言った。
その時、夢の時と同じように、カサカサという音がした。僕はとっさに夢の通りの行動を取ってしまい、迷わずワゴンの裏に隠れていた。
すると、夢の時と全く同じようにしてルーシーが扉を開けて現れた。
僕はそれを、ワゴンの食器越しに眺めていた。ルーシーは食堂を通って、迷路の廊下の方へと去って行った。
「行きましたね。ようやく遭遇できましたけど、そんなに濃密に絡んでいけなかったのが残念だ。じゃあ、今のうちに行きますか。それともちょっとここを探索してみますか?」
何かあるとは思えなかったが、僕は一応食堂の中を見て回ってみた。すると、暖炉の灰の中から鍵を見つけた。
「鍵だ。このゲーム、鍵なんていうアイテムあったんですね。それとも、これもコレクションアイテムなのかな……。ちょっとまだ分からないですが」
とりあえず、食堂にあるのはこれだけらしい。僕はルーシーが入ってきた扉から食堂を出て、念のため扉を閉めた。
その先は廊下だった。左右に扉が並んでいるが、別に開けられたりはしないようだ。
廊下の突き当たりは壁だった。白い壁。しかし、その壁には子どもが描いたと思われる落書きが沢山あった。太陽があるかと思えば、雲から雨が降っていたり、草花が色とりどりに描かれている。そこに椅子の絵もあった。
「何だろうこの落書き」
そんな落書きの真ん中に、鍵穴の絵が描かれていた。そこに視点を合わせると、『enterキー 使う』と表示が出た。
「え? 使う? 何を使う?」
戸惑いながらenterキーを押してみると、さっき暖炉から拾った鍵が鍵穴の絵にさし込まれた。そしてカチャリと音がすると、画面が白く光った。
「眩しい眩しい」
思わず目を細めてしまう。
その光が落ち着くと、そこは明るい屋外だった。
花畑に、椅子が一脚置かれている。しかも天気雨が降っていた。
「あ、これ、このゲームのパッケージと同じですね」
と言いながら椅子に近付いてみると、一瞬パンと音がしてフラッシュがたかれた。するとその椅子に少女が現れた。黒髪に、白い服を着ている。うつむいていて、ただじっとしていた。
……この子は。
この外見には見覚えがあった。夢の中で雨の降る館の中に入ったとき、その先にいた女の子だ。その子と全く同じ。その時は床にひたすら落書きをしていて、話しかけると、こう言ったのだ。「さみしいの」と。
僕はWキーを押して女の子に近寄った。するとイベントが始まった。視点が自動的に女の子に合わせられ、ゆっくりと前進する。女の子の目の前に来ると足が止まった。
女の子は暫く下を向いたままだったが、やがてぽつりと口を開いた。
『……さみしいの』
夢と同じことを、言った。
『このさみしさをどうしたらいいのか、分からないの。それはあなたもいっしょでしょ?』
女の子は顔を上げた。そして、こちらを指さしてきた。
『うしろ』
「……え?」
僕は意識せずに声を漏らしていた。
『うしろ』
動けなかった。キーボードに手を載せたまま、息が浅くなる。
画面の女の子に目が釘付けになった。
さみしいの。
それはあなたもいっしょでしょ?
うしろ。
どうして、
どうして夢と同じことを言う?
……そろり。
その時、背後から気配がした。同時に僕の頬を撫でるものがあった。ひんやりとした、どこか女性のもののような指の感覚。
僕は反射的に振り返った。
しかし、背後には何もいない。暗い室内が見えただけだった。けれど、今確かに……。
僕は息をついた。
……何なんだ。おかしなことが続きすぎて、感覚が敏感になっているのだろうか。
もう一度ため息をつくと、僕は画面に向き直った。
女の子はこちらを指さしてはいなかった。下を向いたまま、ただじっとしている。今こちらを指さしていたはずなのだが。その行動はもうやめて、再びうつむく姿勢に戻ったのだろうか。
『……さみしいの』
女の子は、もう一度ぽつりと呟いた。
さみしい……。
『あなたも、いっしょでしょ……?』
僕も……?
もう一度画面が白く光った。僕はその光で、今は実況中なのだということを思い出した。何か……。何か言わないと、何か、実況中らしい何かを……。
画面の白い光が消えると、そこは先程の廊下だった。ただし、落書きされた壁の真ん中が扉になっていて、先に行けるようになっていた。
「ああ、何か、怒濤の展開で何もしゃべれていなかった」
僕はごまかすようにそう言った。
「今回はこの辺にしましょうか。ちょうどきりも良さそうなので。ね」
そこでセーブして、スタート画面に戻ってみると、『メモリー』の表示が目についた。
「そうだ、終わる前にこれチェックしてみましょうか。『メモリー』」
クリックすると、おもちゃの指輪と、少女の写真の入ったペンダント、それに暖炉から拾い上げた鍵が追加されていた。
「ああ、この鍵もコレクションの一つだったんだ」
とりあえず、拾った順に見ていくことにする。
おもちゃの指輪には『甘い思い出』、ペンダントには『後悔する心』、鍵には『閉ざす心』とそれぞれコメントがついていた。
「このアイテムごとのコメントって、何か意味があるんでしょうけど……さっぱり意味が分からないですね。指輪と鍵のコメントは何となくそうかなって感じですけど、ペンダントのこれ……『後悔する心』って何だろう」
スタート画面に戻って、最後の喋りを入れる。
「まあ、いいでしょう。ストーリーもこれから色々明らかになっていくんでしょうし、今回はルーシーの活躍はほとんどなかったですけど、それもこれからに期待ということで。では、ちょっと短めになってしまいましたが、今回はここまで。どうもありがとうございました。カタロエでした」
そこまで言って、僕は録画を切った。
ぐったりと机に肘をつき、ヘッドフォンを外す。疲れていた。実況動画を撮っていて、ここまで疲れたのは初めてだ。
……編集は明日にしよう。
僕はあまりにぐったりしてしまい、暫く動くことができなかった。
――さみしいの。
――それはあなたもいっしょでしょ?
――さよなら。宏衛。
女の子の言葉を思い出すと、母の声まで思い出されてきた。
さよなら。宏衛。
母の声。
思い返せば、それが最後だった。
それが最後に聞いた母の言葉だったな。そんなことを、思い出した。
翌日、大学から帰ってくると、僕は早速編集作業を始めた。作った夕食をつつきながらの作業だったが、そこで一つ驚いたことがあった。
動画はきちんと撮れている。僕の声も問題なく録音されている。しかし、プレイ中に見たイベントと、録画されているイベントが、少し違うのだ。
『さみしいの。このさみしさをどうしたらいいのか、分からないの。それはあなたもいっしょでしょ?』
そう女の子が呟くところは同じだ。
しかし、それだけで、それ以降女の子は顔も上げず、うつむいたままだったのだ。顔を上げてこちらを指さすこともしないし、『うしろ』とも言わない。再び『……さみしいの』などと呟くこともしなかった。
では、僕がプレイ中に見聞きしたあれは何だったのか?
気のせいなどではない。思い返してみても、絶対に気のせいなどではあり得ない。
確かにあの子はこちらを指さして『うしろ』と言い、『……さみしいの。あなたも、いっしょでしょ……?』と言ったはずだ。
……おかしい。
このゲームは、何かがおかしい。
僕はそんなことを確信にも似た感覚で考えていた。
――幻聴。
同時に、才人が言っていたことも脳裏にちらついた。
幻聴。
まさに、そんな感じだ。
そう思った。