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Lucy, close to you  作者: 蓼丸エコウ
2/10



  2



 ……森の中にいる。

 夜の森だ。

 森の中にひとりぼっち。

 母が僕を、この森の中に置いていった。

 幼い僕は暫くぽつんと立ち尽くして、車のエンジン音が遠ざかっていくのを聞いていた。母が去って行く、その音を。

 足下は、獣道とすら言えないような道なき道だ。

 僕はうっそうとした森の木々を見上げた。夜風に葉ずれが起きて、さらさらと音が鳴っていた。

 そうして上を見たまま、ぼんやりとこれまでの道のりを思い出した。

 覚えている、と思った。

 車を降りてからここに連れてこられるまでの木々の形も、車の中から見ていた外の景色も。家からここまでの道のりの、その全てを。

 僕は瞬きを数回して、歩き出した。



 と、いう夢を見た。

 時々思い出したように見るのだ。

 小さい頃から繰り返し見ている夢だ。夜の森の中に置き去りにされるのだが、まだ小さい僕は、恐怖もなく家までの遠い道のりを歩いて行く。そして家について、……という、たったそれだけの夢なのだけれど。

 僕は体を起こした。

 窓を開けて寝ていたので、外の音がよく聞こえる。雨が降っているようだった。

 置き去りにされた夢を見た後の雨音は、何だか悲しい音に聞こえる。そう思った。



 大学から帰ってくると、僕はいつも通りに夕食を作って、それを食べながらスマホやパソコンを見た。

 雨はまだ降り続いている。今日は日付が変わる頃までこんな調子だろう、

 動画のコメント欄を見ていたら、『次、はよ』という催促のコメントが付いていた。『これから撮りますよ』と返信した。

 ブラウザを閉じると実況の準備をして、ゲーム画面を開く。いつも通りに部屋の電気を消せば、準備は完了だ。

「皆さんこんばんは。カタロエです」

 天気雨の降る『Lucy, close to you』のスタート画面には、やはり前回の終わりに見た『メモリー』の項目が追加されている。

「ええっと、続きをやる前に、こちら。気付いている方もいらっしゃると思うのですが、スタート画面に『メモリー』という項目が追加されています。僕もまだ見ていないんですよ。気になりますよね? ちょっと見てみましょう」

 と言って、『メモリー』をクリックする。

 すると画面が遷移して、薄暗い室内になった。ベッドとチェストがあり、椅子が二脚、隅に置いてある。様子を見る限り病室だ。

 そしてその病室の中に、一枚写真らしきものが漂っていた。クリックしてみると、前回手に入れた家族写真だった。やはり四人全員がこちらを指さしている。

 その写真にはコメントが付いていた。

『責める心』

 さっぱり意味が分からない。

「ふむ。なるほど。やりこみ要素というか、コレクションですね。手に入れたアイテムをここで確認できるみたいです」

 写真をもう一度クリックすると、家族写真は元の通り空中に戻っていった。

「うーん、どうしますか。何か手に入れたら、一応動画の最後に確認に来てみますか? 僕が個人的に見て楽しむっていうのもありかな……。それとも皆さん見たいですか?」

 今喋っている段階ではまだ独り言にしかなっていないので、視聴者の意見が聞けるわけではない。しかし、動画をアップロードすれば、何らかのコメントが寄せられてくるだろう。僕はスタート画面に戻って、セーブデータを読み込んだ。

「じゃあ、そろそろ本編にいきましょう。ああいうコレクションも、集められたら集めていきましょうね。ただ僕のプレイスタイルは、あんまり探索型じゃないというか……さらーっと歩いて行っちゃうタイプなんで、そんなに集まらないと思いますけども」

 と言っている間にロードが完了し、前回セーブした地点に戻ってきた。写真ばかり壁に掛かっている部屋の前だ。扉は開いたままなので、たくさんの写真の掛けられた壁が見えていた。

「じゃ、今回は二階を歩いてみましょうか」

 早速階段まで行き、二階へと上がっていく。

 二階は回廊になっている。玄関の真上はステンドグラスがあるだけで、部屋の扉らしいものは確認できないが、他の三方は扉があるのが見えた。

「前回隠れた部屋は、隠れただけで全然見ませんでしたもんね。そこから見ますか」

 一番近くの部屋の前に行く。前回ルーシーに追われて、とっさに逃げ込んだ部屋だ。

 中には、ベッドの他には特に何もない。

 ただし、前回は気付かなかったが、床の真ん中辺りに何かあった。近付いて拾ってみたらプラスチックの指輪だった。子ども用だろう。

『小さなおもちゃの指輪だ。』

「あー、何か昔、お菓子のおまけでこういうのありませんでしたっけ。今もあるのかな?」

 ここにあるのはこれだけのようだ。部屋を出る。

 隣の部屋はもう少し物があった。ベッドとチェストと椅子。病室らしい見た目だ。チェストを探るとロケットペンダントが入っていた。中に写真が収まっている。

『少女が写っている。なぜかこちらを指さしている。』

「またそういうのか……。このゲーム好きだなあ、指さし。何か意味のあるポーズなのかな?」

 暫く他の部屋を見てみたが、これといったものはなかった。もちろん僕があまり緻密に探索していないというのもあるが。

 今度はステンドグラスの前を通って、反対側へと回り込む。

 そちら側の部屋も適当に探索してみるが、入れる部屋と入れない部屋があって、入れる部屋は隠れられそうだということ以外には拾えそうなものもなかった。

 更に回廊を行って、受付カウンターの真上に来ると、随分立派な扉があった。今まで見てきた病室らしい雰囲気ではない。特別な部屋なのだろうか。

 開けてみると、そこは部屋ではなかった。

 中庭だ。

 しかも二階にあるのだから空中庭園だろう。

「いきなり外だ」

 外とは言え四方を壁に囲まれているので、上を見上げてみても空が狭い。

 サクサクと足音を立てながら歩いていると、ぽつんぽつんと音がした。雨のようだった。

「あ、雨が降ってきた」

 もう一度空を見上げてみると、確かに雲から雨粒が落ちてきている。

「何だか舞台になっている土地が雨期に入っているっていう設定らしいんですよ。いいですね。雨。何か起こりそうな感じがして」

 中庭の向かいには同じような扉があった。そこを開けてみると、すぐに階段があった。

 そして階段を下り始めて聞こえた、カサカサと言う音。

「ん。ルーシーの気配」

 念のためランプを消す。まだ音は遠いようなので、慎重に階段を下りて廊下を見回してみる。

「まあ別に……ルーシーと追いかけっこしてもいいんですけどね」

 と言いつつ、廊下を行く。

 今度はまるで迷路のような構造で、窓や調度品がぽつんぽつんとあるものの、廊下自体がかなり入り組んでいるようだ。とは言え、この程度なら道を覚えられないということはない。窓や調度品などの目印や、どう右左折したかということを覚えていけばいいだけだ。

 カサカサカサカサ……。

「カサカサ音がする」

 立ち止まって見回してみるが、ルーシーの姿はない。

「んん……?」

 カサカサ……。本当に、音だけ聞いていると虫か何かのようだ。ルーシーには失礼だけれど。

「こんなに近くで音がするのにいないっていうことあるのかな?」

 天井も見上げてみるが姿はない。

「ふぅーむ……。無視しますか」

 ランプを点けて、歩き出す。

 歩いている間もカサカサと音がしているものの、いつまで経ってもルーシーの姿は見えない。ルーシーが追いかけてきてもBGMが変わったりしないので、目視してから逃げるしかないのだが、今のところ現れる様子はない。なのでまだルーシーの移動音がしているのみだ、つまり演出なのだと判断して、無視し続けた。

『さみしい……』

 そうして歩いていると、廊下の途中で例の女の子の声が聞こえた。

『いかないで……』

「あ、今また声がしましたよ。さみしい、いかないでって。……カサカサうるさいですけど」

『さみしい……いかないで……』

「いかないでと言われても……。ところでこれは誰のせりふなんだろう。ルーシーが言ってるのかな」

『さみしい……さみしい』

「うん、さみしいねえ。さみしいさみしい」

「……いかないで」

 耳元で声がした。

「ん……?」

 気のせいだろうか?

 ヘッドフォンから聞こえるゲーム音とは聞こえ方が違い、直接耳に響いてくるような声だった。

「すみませんね、変な声出して。何か今……空耳がした」

 気のせいだった……のだろう。

 気のせいだったということにして、僕は操作を続けた。

 操作していると、突然画面がぼやけた。水で滲んだみたいにぼやっとする。演出だろうか?

「見づらいな……。あの、これエンコミスじゃないです。今実際に画面が滲んじゃってます。ちょっと……何だろう、このぼやーっと……見づらいですね本当に。おさまるまで待ちますか」

 しかしいつまで経っても画面の滲みはおさまらない。ぼやーっとした画面を見ていたら、僕の実際の視界までぼんやりしてきた。目がかすむ。

 早くおさまらないだろうか……。画面がこんな状態では、ルーシーに来られたときに非常に困る。

 なかなか画面の滲みがおさまらないので、僕は思わずふうーと息をついた。

 その時だった。

 画面が消え、室内が真っ暗になったのだ。

 一瞬何が起こったのか分からなかった。

 視界が真っ暗だ。

 ゲーム画面の話ではない。僕自身の視界が、本当に真っ暗なのだ。

「……え? 何だ?」

 呟いた口の中に入ってきたのは、冷たい空気だった。その空気のにおいが、僕の部屋のものじゃない。

 土と埃と黴の臭いが混ざったような、廃墟特有の臭いがする。

 しかも、頭が軽い。頭にヘッドフォンの感触がないのだ。胸元を触ってみるが、ピンマイクもないようだ。

 落とした?

 一瞬そう思って体を触ったり足下を見てみたりしたが、それらしいものは見当たらない。そもそも視界が暗いので、物を探すのには不向きだ。と言うか、大人しく椅子に座っていて、ヘッドフォンやピンマイクが落ちるわけがない。一体どうなっているのか。

 その時気付いた。僕は椅子に座っていなかった。なぜか、立っている。一体どうして?

 と思っていると、暗闇にだんだん目が慣れてきた。

 僕はもう少し暗闇をよく見ようと、数秒間目を閉じてから目を開いてみた。

 そして見えたのは、見覚えのある室内だった。とは言え現実に見た部屋ではない。ゲームの中で見た部屋だ。

 写真ばかりが壁中に飾ってある、広い部屋。

 そしてその写真はいずれも、誰も写っていない室内のものだ。なぜ無人の部屋を写しているのか分からない、そんな不気味な部屋。

 なぜその部屋に、僕がいる?

「え……?」

 僕は自分の腕を触ってみた。現実感はある。しかし突然の異常事態に、その現実感を信用することができない。途中で眠り込んでしまって、こんな夢を見ているのだろうか。

 いや、でも、実況の途中で眠るなんて。あり得ない。

 ではこれは何だ?

 視線だけで室内を見回す。

 無人の部屋を写した沢山の写真と、同じ数だけの白紙の額縁。

 そうして見回していると、ふと、一枚の写真が目にとまった。

 ……奇妙に見覚えがある。

 僕はおそるおそる近付いてみた。

 その写真も、やはり誰も写ってはいない、無人の部屋を写したものだ。

 ベッドと、ソファと、勉強机だけがある。勉強机の上にはノートPCと小さなサボテン。まるでモデルルームのような部屋。

 さっと背中を寒いものが這っていった。

 これは、僕の部屋だ。

 どうして?

 やはり夢なのか?

 カサカサカサ……。

 不意に、ルーシーの接近音がした。ヘッドフォン越しに聞いていたのと同じ音だ。けれど今は、耳に直接届いてくるリアルな音。

 ルーシーがいる?

 近くに?

 とにかく、ここにいてはいけない!

 これが現実だろうと夢だろうと、ルーシーにつかまるのは何だかよくない。そんな気がして、僕は写真の部屋を飛び出した。

「あれっ……」

 しかし、僕は飛び出した瞬間に立ち止まってしまった。

 ゲームではそこには廊下があったはずだが、飛び出した先は廊下ではなかったからだ。

 広い室内に並んだ沢山のテーブル。その内のいくつかには食器が置かれていた。

 ――食堂?

 どうも食堂のように見えた。暖炉や調理場らしいカウンター、食器返却用のワゴンがある。ワゴンには食器が沢山置かれているのが見えた。

 とにかく、ルーシーの接近音が近い。隠れられそうな所は、テーブルの下か、ワゴンの裏。もしくは思い切ってカウンターに飛び込むかだ。

 僕は万が一見つかってもすぐに逃げられるだろうという判断で、ワゴンの裏に隠れることにした。ワゴンの裏に入り、しゃがみ込む。食器の隙間から食堂を見渡すことができた。

 ワゴンのちょうど向かい側に、大きな扉がある。あそこが正規の入り口だろうか。そこを見つめていると、がたんがたんという大きな音がして、乱暴に扉が開いた。

 長い腕が食堂の中に入ってくる。ルーシーだった。

 ルーシーは何か探るように食堂の中を見回すと、ゆっくりと食堂の中に入ってきた。僕を捜しているのだろうか。よく分からないが、見つかってはまずいということだけは分かる。

 ……とにかく冷静になれ。僕の得意なことは、冷静になることのはずだ。自分の特性を今は信じて、この夢が覚めるのを待つしかない。

 食器の隙間からルーシーの動きを見る。

 自分の鼓動と呼吸を感じる。少しでも音を立てれば見つかるという、確信めいた緊張感がある。……まるで現実のようだ。これは紛れもなく現実の出来事で、事実食器の向こうにルーシーがいるという感じがする。

 ルーシーはテーブルの間を縫うように這っていくと、僕が出てきた写真の部屋へと出て行った。カサカサという音も遠ざかる。あの部屋はそんなに遠ざかれるほど広くはなかったはずだが。まあ、夢だから何でもありなのだろう。

 ルーシーの姿が見えなくなると僕はほっとした。夢とは言え緊張する。おかしなほど現実感があるのも問題だ。

 僕は足音を立てないように立ち上がると、そっとワゴンの陰から出た。

 ルーシーの出て行った方を見てみるが、暗くて何も分からない。当然だろう。僕は何も明かりを持っていないのだ。

 ルーシーの去って行った先がどうなっているのかは分からない。後をついていくのは、好奇心はあるが、危険な気がする。これがゲームの中なら、敵を視界に入れたままの方が楽だったりするのだが。予期せぬ所からの突然の奇襲を避けることができるからだ。

 僕は逆にルーシーが入ってきた大きな扉のほうを見た。開けっ放しだ。食堂から出て行くなら、あそこからだろう。

 僕はテーブルの陰に隠れながら慎重に行くのではなく、できるだけ急いで扉まで行った。こういう場合、慎重になりすぎると危険だ。

 扉の先は廊下だった。僕は廊下へ出ると、念のため食堂の扉を閉じた。

 廊下は左右に扉や曲がり角が沢山ある。どうやら迷路のような構造らしい。

 今は探索するのが目的ではない。夢から覚めるまで、ルーシーを避け続けるのが目的だ。

 ……どこかに隠れて覚めるのを待つか。それとも先へ進んでみるか。

 今の状況から判断するに、あまりふらふらするのは得策ではない気がする。

 僕が下した判断は、ルーシーからできるだけ離れて、安全な場所で隠れて待つ、だった。

 だってこれは、……多分……夢なのだから、いずれ覚めるはずだ。夢かどうか怪しく感じるのもおかしな話だが、これだけ現実感がつきまとっていては仕方がない。

 僕は廊下をまっすぐに突っ切った。そして突き当たりで左折し、更に行く。すると開けた場所に出た。

 ダンスホール……だろうか?

 天井がドーム状で、ガラス張りだ。所々割れていて、その隙間から雨が滴り落ちてきている。……そうか、今は雨が降っているのか。

 雨粒がガラスを叩く心地いい音がする。

 壁際にはソファがいくつかあり、奥には扉が二枚ある。メインの出入り口だろう大きな扉、給仕が出入りするためらしい小さな扉。

 僕はメインの大きな扉の方へ行くことにした。その時だった。

 カサカサカサ……。

 ルーシーの接近音。

 僕は思わず振り返りそうになったが、そんな時間はない。急いで駆け寄り、最小限に扉を開けると、体を滑り込ませてさっと閉めた。

 出たところはまた廊下だった。ただし広い。左右の壁はガラス窓になっていて、両側の部屋の様子がよく見えるようになっていた。

 両側の部屋は、どうやら大部屋の病室らしかった。いくつもベッドが並んでいる。しかし隠れられそうかと言えばそうは見えない。ベッドにはマットレスもカーテンもなく、骨組みだけだったからだ。僕はもう少し奥へ行ってみることにした。

 突き当たりには扉があった。そこを通り、忘れずに閉める。

 その先は礼拝堂だった。ベンチが並んでいる。礼拝堂の奥には扉があった。

 こういう場合、奥の方には懺悔室があるものだが。懺悔室は通常狭いものだし、ルーシーは入ってこられないんじゃないだろうか?

 楽観的な思考だが、今はとりあえず隠れた方がいい。

 僕は礼拝堂の奥の扉を開けてみた。短い廊下には扉が三枚並んでいる。その内、一番奥の扉を開けてみた。

 思った通り懺悔室だ。椅子があり、罪を告白するための小窓がある。

 ここは廊下も狭い。人間の二、三倍はあるルーシーが入ってこられるとは思えない狭さだ。とりあえずここにいれば……。

 そう思って足を踏み入れたら、床を踏んだ感触が奇妙に柔らかかった。

 えっと思った瞬間には、そこは森だった。

 雨が降っている、夜の森。

 ああ……やはり、夢だから一筋縄にはいかないみたいだ。

 しとしとと、頭や肩に雨が当たる。

 僕が立っているのはどうやら切り通しだ。この道を外れるのはかえって危ない気がするので、雨に降られたとしてもここを歩いて行くしかないだろう。

 歩いていると、遠くの方に家が見えた。

 あれは……。

 『Lucy, close to you』のスタート画面の家屋じゃないのか?

 僕は家の前に立った。

 立派な家だ。しかし家のどの部屋にも明かりは点いていないようだ。無人なのだろうか。

 僕は玄関の扉に耳をあてて、中の音を聞いてみた。自分の耳の中のざーっという音と、雨の降る音が聞こえるだけで、他には音はしない。

 そうっとドアノブに手をかけてみると、鍵はかかっていなかった。

 この扉を通ったら、また別の場所に飛ぶかも知れない。もしかしたら、ルーシーの目の前かも。

 そう思いながらも、他にどう進んでいいのか分からなかったので、僕は扉をくぐった。

 すると、そこは病室だった。

 奥の方に窓があり、雨が当たって水滴が流れている。その窓の真下にベッドがあり、ベッド脇にはドレッサー。そして、部屋の真ん中で、見たことのない女の子がこちらに背を向けてうずくまっていた。

 クレヨンを手に握っている。床に絵を描いているようだ。

 この夢の中で、初めて人の姿を見た。

 僕はそっと近付いて、声をかけてみることにした。他に扉がないため、無視していくことができなかったせいだ。

「あの……こんにちは」

 女の子は絵を描き続けながら、こちらに体を向けた。そして顔を上げ、僕のほうを見た。

 黒髪をした、まだ十歳かそのくらいの少女だ。

 無表情に僕の顔を見つめてくる。僕の挨拶に対しては返事はなかった。

「君は?」

 その子はクレヨンを握ったまま、虚ろとも思える目をこちらに向けていた。

「……さみしいの」

「え?」

「このさみしさをどうしていいのか、分からないの」

「さみしい……?」

「それはあなたもいっしょでしょ?」

「僕もって? いや、僕は別に……。君は一体……?」

 問うてみたものの、女の子は僕の問いには答えない。ただ、すっと僕を指さしてきた。

 あの家族写真や、ロケットペンダントの写真の少女のように、無表情に、僕を指さしてくる。

 何だろうこれは?

 この行動には何か意味があるのか?

「うしろ」

 女の子は言った。

「うしろ」

 え?

 後ろ?

 ――後ろ。

 まさか。

 振り返ろうとした、その時だった。

「……さよなら。宏衛」

 背後から、母の声がした。



「――は――ッ!」

 僕は突然目を覚ました人のように、ばっと前のめりになった。

 息が荒い。

 ここはどこだ?

 夢から覚めたのか?

 とりあえず、椅子に腰掛けている。確認してみると確かに僕の椅子だ。目の前のパソコンの画面が眩しい。

 パソコンの画面は、『Lucy, close to you』のスタート画面を表示している。録画もしたままだ。

 僕はため息をつきながら、録画を切った。

 ……何だったんだ、今の夢は。

 しかもどこから夢だったのか、全然分からない。途中まで普通に実況していたはずなのだが、実況中に突然眠ってしまうなんて考えられないし、訳が分からない。

 ヘッドフォンを外す。窓の外から雨音がしていた。時計を見てみると、録画を開始してから三十分くらいが経っていた。どのくらい眠り込んでいたのだろう……。

 そして頭を触ったその時、違和感がした。

 ……濡れている。

 驚いて自分の両腕を見た。

 やはり、雨に当たったかのように濡れている。

 夢の中では、確かに雨の下を通った。

 でも、あれは、夢だった――夢だったはずだ。

 どうして濡れているのか分からない。

 ――うしろ。

 ――さよなら。宏衛。

 夢の中で最後に聞いた、その言葉が、なぜか頭の中でもう一度鳴り響いた。



 もう一度実況を撮り直す気分ではなかったので、部屋の電気を点けて、今録画した分を見てみた。

 きっと、雨の中庭を抜けた先、迷路のような廊下の場面で止まっているに違いない。そう思ったのだが、不思議なことに、全く実況が撮れていなかった。録画はされているが、三十分間、ずっとスタート画面が流れ続けている。いつも言っている第一声も、『メモリー』を確認したところも、全く撮れていない。まるでそんなことなどしなかったかのように。

 奇妙な夢を見始めるまで、それまでは普通に実況をしていたはずだ。それなのに、そこまでの実況すら撮れていない。

 僕はスタート画面の明るい風景を見ながら、何がどうなっているのか全く分からなかった。

 もしかして、実況を撮り始めたと思ったところから、既に夢を見ていたのだろうか? もしそうなら、全く実況が撮れていないのもうなずけるのだが……。

 どちらにしろ、意味が分からない。僕は目頭を押さえながら、パソコンの電源を切った。

 それにしても、起きながら夢を見るだなんて、おかしなこともあったものだ。そんなことは今まで一度もなかった。初めての奇妙な経験に頭がぼんやりし、何だか思考が鈍っていた。

 僕は気分転換にと、スマホを手に取った。友人からまた下らないLINEが来ていて、それを見たおかげで何となく感覚が現実に戻ってきた。

 それに返事をしながら、僕は考えた。本当に、何だったんだろう、と。

 ――さみしいの。

 ――それはあなたもいっしょでしょ?

 僕も? いや、それは……。

 夢で見たことなら、その言葉の原因も僕の中にあるはずだった。しかし、思い当たることは特に思いつかなかった。

 大学では友人もいて、両親とも関係はいい。一人暮らしをしているものの、そういう人たちとの繋がりがあれば、さみしさを感じることはないはずだ。それに僕は、ゲーム実況の動画を通して、沢山の人たちと繋がってもいる。それなのにどうしてさみしいと思えるのだろう。

 僕は自分の生活を改めて振り返ってみて、夢の中での出来事も、夢で言われたことも、やはり夢だったのだと結論づけた。


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