第92話 夜に潜む悪魔の瞳――コントラクト・ハーモン&ヘクセンズミラー
遠く煌めく星空の下、石造りの王都に1つの影が降り立った――。
それは、影で作られた黒い翼を持つ男だった。その男は、地上に建ち並ぶ家々よりも高い位置にある細長い水道橋の上で姿勢を正し、背中の翼をすぐに消した。そして黒い執事服の内ポケットから小さな鏡を取り出すと、夜に溶け込む静かな声を漂わせた。
「――お待たせ致しました、カルナ様。ブリトラでございます」
『……ずいぶん待たせたわね』
男の声に呼応して、鏡の中から女性の声が流れ出た。
『それで、そちらの様子はどうなの?』
「はい。特に問題はございません――」
ブリトラは返事をしながら目を凝らした。その闇のような漆黒の瞳は、はるか彼方の建物に向けられている。そしてその建物の一室で、机に向かっている人物を見つめながら言葉を続けた。
「ネイン・スラートは現在、ソフィア寮の316号室において、T・O・Mの魔法陣を模写しております。どうやらメナ・スミンズとシャーロット・ナクタンの協力を得て、ソフィア寮への潜入に成功した様子です」
『なるほど。ソフィア寮についてはずいぶんと調べたつもりだったけど、メナ・スミンズの名前はすっかり忘れていたわね』
「はい。まさかあの寮で暮らしていた者が、カエンドラの瞳と関係するとは予想できませんでした」
『そしてそれがネインを通じて、わらわのところまで糸を紡ぐとは、運命というのは本当に不思議なものね……』
カルナは感慨深い声を漏らし、少しの間口を閉じた。
『……まあ、いいわ。それよりブリトラ。結界の様子はどうかしら』
「はい。先ほど私の影を飛ばしましたが、ソフィア寮の敷地に入った瞬間に消滅しました。あそこの結界にはやはり隙がございません」
『だけど、ネインは潜入できた――。となるとやはり、あの結界の感知機構は、固有属性を基準にしているということか……』
「その可能性が高いかと。闇の属性を持つ魔女や悪魔があの結界に触れた場合、ほぼ間違いなく存在が消滅するでしょう」
『だから貴族どもは安心して、自分の娘たちをソフィア寮に預けているわけね。しかしそれが自分たちの命取りになるとは、平和ボケしたヤツらは夢にも思っていないでしょう』
カルナは思わず鼻で笑い、ブリトラはわずかにあごを引いた。
『それでブリトラ。ネインはわらわの魔法陣を、どのようにしてすべての部屋に配置するつもりなのかしら』
「はい。ネイン・スラートは大量の一輪挿しを部屋に運び込んでおります。どうやら魔法陣を模写した紙を一輪挿しの底に貼りつけて、すべての部屋に配る算段かと思われます」
『あら。わらわの魔法陣を一輪の花とともに配るなんて、ずいぶんとロマンチックな方法じゃない。今度会ったらほめてあげなくちゃ』
「はい。しかもその模写した魔法陣ですが――」
ブリトラはさらに目を細め、ネインが描いている魔法陣に視点を合わせた。
「すでに数十枚を描き終えておりますが、どれも完成度が非常に高いです。あの魔法陣であれば、完璧なT・O・Mが発動すると思われます」
『ふふ。さすがはわらわが見込んだ少年ね。それで、ネインについての情報は集まった?』
「はい。ご報告致します」
ブリトラは一旦言葉を区切り、赤毛のウィッグをつけて魔法陣を描き続けているネインを見つめた。
「冒険職協会に登録されていた個人情報によりますと、ネイン・スラートの年齢は現在14歳と11か月。生まれはクランブリン王国のアスコーナ村。父のザッハ、母のジュリア、妹のナナルは7年前の落石事故ですでに他界。現在は村の薬師、ハンク・グリンが後見人となり、両親が遺した家で生活。今年の1月に冒険者協会に登録して冒険者となり、ランクの高い騎士の個人認識票を拾って協会に届け出たことで、ランク2の赤銅に昇格――」
『その騎士の名は?』
話の途中で不意にカルナが口を挟んだ。するとブリトラは首をわずかに横に振り、淡々と答えた。
「騎士の名前につきましては、記録に残されておりませんでした」
『記録にない? それは記録係がずさんなのか、それとも何らかの理由であえて記載しなかったのか、どちらかしら』
「おそらく後者だと思われます。記録用紙に改ざんの痕跡がありました」
『なるほど……。しかし、1人の個人が冒険職協会に影響力を及ぼせるとは思えないわね。そうするともしや、ネインは王国軍の手の者かしら?』
「お言葉ですが、その可能性は低いと思われます」
『その根拠は?』
「ネイン・スラートは昨日、王国警備軍の本部を訪れ、王都守備隊の小隊長に面会しております。話の内容は不明ですが、王国軍の手の者なら、このようなあからさまな接触は避けるはずです」
『それはたしかにそのとおりね……』
カルナは短く呟き、少しの間考え込んだ。
『ネインの目的は復讐と人探しで、その言動は一貫していた。そして今は、ソフィア寮に潜入して魔法陣を設置するという、かなり危ない橋も渡っている。それを考慮すると、本人が言うように、ネインは1人の個人として行動しているのは間違いないように見える。しかし、やっぱりどこか引っかかるわね……』
「それは、ネイン・スラートの行動の裏に、組織的な存在が感じられるということでしょうか」
『一言で言えばそういうことね』
ブリトラの疑問に、カルナはそう言い切った。
『だけど、もしもネインが何らかの組織に所属しているとしたら、それはクランブリン王国などという小さな枠組みではないでしょう』
「そうしますと、世界規模の巨大組織ということでしょうか」
『おそらくね』
「では、それを前提として考えますと――ベリス教会の聖なる瞳か、クロミル教の復活の血。または冒険職協会の第4窓口か、魔法研究秘密結社の禁書館――。候補はそんなところでしょうか」
『もしくは、魔女の情報組織、黒の血脈という可能性もあるわね』
「お戯れを」
『もちろん冗談よ』
カルナとブリトラは低い声でわずかに笑った。
『まあ、魔女の誰かがわらわを罠にはめようとする可能性はあるけど、さすがにカエンドラの瞳を渡す魔女はいないでしょう。それにネインはわらわに協力を求めている。つまり、わらわと敵対しないのであれば、ネインがいずれの組織に所属していても問題はないし、わらわにとってはむしろ頼もしい味方といえる。だけど――』
カルナは不意に、声に力を込めてブリトラに言った。
『自分以外の者を信じると、痛い目を見るのが世の常よ。だからネインがどんなに信用できそうであっても、心から信じてはいけない。そういうわけで、ブリトラ。ネインについては引き続き情報を集めて報告しなさい』
「かしこまりました、カルナ様」
カルナの命令を受けたブリトラは、鋭い視線ではるか彼方のネインを見つめた。
『それで、ネインが魔法陣の設置を完了するのはいつ頃かしら?』
「はい。現在の作業状況から計算しますと――おそらく2日後の金曜日には、必要な数の魔法陣を描き終えると思われます」
『そうすると、土曜には配置が完了するということね……。よし。ならば決行は、5月1日の日曜日、深夜0時にするわよ』
「かしこまりました。カルナ様の新たな第一歩を踏み出すには、大変きりのよいタイミングかと存じます」
『ええ。まったくそのとおりよ。1度は諦めたソフィア寮の攻略が、こうもすんなりと運ぶなんて、やはり運命はわらわに微笑んでいるとしか思えないわね――』
カルナは不意に低い声で笑い出した。心の奥底から湧き出る喜びを抑えることができない様子だ。
『ふふふ……ついに、アレがわらわのものとなるのか。そしてアレさえ手に入れば、195年の長きにわたる悲願が完全に成就する――。ふふふ、たぎる、たぎるわ。わらわの血がたぎっておるわ……。ふふふ、ふふふふふふふ、ふはははははは――ハーックショイっ!』
いきなり高らかに笑い出したカルナが盛大なクシャミをした。
『むぅ……まだ少しカゼ気味のようね……』
「カルナ様。大願成就の日は目前でございます。今宵もホットワインをお飲みになり、温かくしてお休みください」
『そうね。そうするわ』
ブリトラの提案にカルナは素直に従った。
『それじゃあ、ブリトラ。引き続き、ソフィア寮の監視を頼むわよ。何かあったらすぐに報告してちょうだい』
「かしこまりました。絶対なる忠誠とともに、ご命令は確実に遂行致します」
ブリトラは手の中の鏡に向かって、うやうやしく頭を下げた。それから執事服の内ポケットに鏡をしまい、姿勢を正す。
そして天空に広がる暗黒を見上げながら、邪悪な笑みをわずかに浮かべた――。




