第36話 天位の王と天令の大賢者――ハイボース&セイクリッドプロキシー その4
大雨と強風が吹き荒れる夜の街を、1人の女性が歩いていた――。
それは、やせた体に防水ローブをしっかりまとったユリア・ピクチャイだった。初老の女性は夜の闇に包まれた石造りの街をゆっくり歩き、広い前庭を持つ屋敷の門をくぐり抜ける。そしてすぐに玄関の分厚い扉を開けて中に入り、吹き込んでくる風を叩き出した。
すると突然、目の前にタオルが差し出され、低い男の声が漂った。
「お疲れ様です、ユリア様。この大雨だと、さすがに濡れたでしょう」
「……ロバート。来ていましたか。相変わらず耳が早いですね」
ユリアは濡れたローブをコートスタンドにかけてタオルを受け取る。そして編み込んでまとめた緑色の髪を手早くほどき、濡れた頭を拭きながら広い居間へと足を向けた。
声をかけてきた短い黒髪の中年男性も暖かな居間に入り、暖炉で白い湯気を吹いていたヤカンを手に取って茶をいれる。それから長椅子に座ったユリアにカップを手渡し、自分も湯気の立つカップを持って向かいの椅子に腰を下ろす。
「さて、ユリア様。こんな嵐の夜にいきなり呼び出されるとは、さすがにただ事ではないでしょう。ニコラス様に何を言われたんですか?」
「……どうやら五熾天使様のご来光を受けて、ちょっとばかりのぼせ上ったようです。かの運命の神子への情報提供と、エクスパルシオン・コードの準備を進めろとの仰せでした」
「おやおや。さすがは五熾天使様より直々に天令を授かった紅金杖章のユリア様。アレをクランブリン王国に潜入させたとたんに情報提供の指示がくるとは、やはりあなたの読みは当たりますね」
「たまたまです」
嫌味のない笑みを浮かべたロバートからユリアは目を逸らし、苦々しい顔で茶をすする。
「以前の指示どおり、転魔エリオンの情報をネイン・スラートに渡すのは今から数か月以内です。つまり、まだ3か月ほどの猶予があるということ――。その間に、既に情報を持たせたあの者がネイン・スラートの人間性と能力を見極めるでしょう。我ら聖なる瞳の同胞が多くの血を払って手に入れた情報を、無能な者に託すわけにはいきませんから」
「ですが、本当によろしいのですか? かの子どもは、我らが神アグス様に選ばれた存在です。それを疑うということは、神を疑うことと同じだと思いますが」
「かまいません。アグス様は神ですが、ネイン・スラートは人間です。相手が我らと同じ人間なら、慎重に評価するのは当然のこと――。それより問題はニコラスの方です。エクスパルシオン・コードの準備は明らかに早すぎます」
「さて。それはどうでしょうか」
熱そうに茶をすするユリアを見ながら、ロバートは軽い調子で口を開く。
「自分はニコラス様に賛成ですけどね。身を守るための爪を研いでおくこともまた当然でしょう」
「鋭すぎる爪は我が身を傷つけると言っているのです」
「だったら少し緩めにしておけばいいだけです」
「それができるなら苦労はしません」
「おやおや。我が国最強の大賢者様が、今夜はずいぶんと弱気ですね」
「私は常に悲観的ですから。それに、武器があれば使いたくなるのが人情です。我が国最強の天位騎士、六輝聖の1人であるあなたなら、それぐらいのことはわかっているでしょう」
「ええ、それはもう。誰よりも骨身にしみてわかっているつもりですよ」
ロバートは短い黒髪をかき上げ、にこりと微笑む。その陽気な顔を見て、ユリアは小さなため息を吐いた。
「……ですが、たしかに12卿のほとんどは、あなたと同じようにニコラスに賛成するしょう。しかし、国を導く立場の人間すべてが同じ方向を見ているのは危険なのです。ニコラスは誰よりも勇猛果敢な破業剣聖にして、常に数歩先を見通す大賢者――複天位の法王です。しかし、いかに強く賢い王といえど自分の背中を見ることはできません。ゆえに、我らベリス教の最高指導者であるニコラスが自ら剣を持って敵に立ち向かうというのなら、配下の我々は盾をもって周囲を警戒せねばならないのです」
「なるほど、盾ですか。それはつまり、ユリア様はコネクシオン・コードの発動を決意されたということですね」
ロバートは確認するような目をユリアに向けた。その視線をユリアはまっすぐ見返し、首を小さく縦に振る。
「そこでロバート。これからあなたとデイナにはいろいろと動いてもらうことになります。レオン……いえ、バハムートの行方は突き止めましたか?」
「ええ。実のところ、今夜はそれを伝えるために立ち寄ったのですが、こいつはとんだ藪蛇になりましたね」
ロバートは苦笑いを浮かべながらカップをローテーブルにそっと置き、言葉を続ける。
「奴は中央大陸のペトリン公国に潜んでいました。といっても、本人に隠れているつもりはないみたいです。領土争いをしているドルガリアとの国境を堂々と警備しているそうですから」
「やはりペトリンにいましたか……」
ユリアもカップをローテーブルに置いて、背もたれに寄りかかった。
「ピピル・ペトリン公爵――。若くしてドルガリア君主国の最上位貴族までのぼり詰めた稀代の英雄にして、ドルガリアの南部を奪って独立を果たした野心あふれる反逆者。しかも建国してわずか8年の小国でありながら、軍事大国ドルガリアの侵攻を完全に防ぎ続けている鬼才の策略家でもある。そんな男の元にあのバハムートがいるということは、やはり――」
「ピピル・ペトリンは、転魔エリオンの1人――ということですか」
「その可能性は極めて高いでしょう。厄介な話です」
ユリアとロバートは目を見合わせ、小さな息を吐き出した。
「とはいえ、ロバート。我々の目下の狙いはバハムートです。私の勘ではおそらく、バハムートへの対応が我々の命運を左右するものと思われます」
「なるほど。この世でもっともバハムートを殺したがっている私にそれを言いますか」
短い黒髪の中年男性は再び苦笑いを浮かべながら肩をすくめた。
「あなたの苦悩と憎しみはわかっているつもりです」
初老の女性は顔を曇らせながらさらに言う。
「ですがあえて命じます。ロバート・ルーラン。あなたはこれよりコネクシオン・コードを実行するのです。そしてその最優先対象として、バハムートを指名します」
「お断りします」
「許しません」
ロバートは即座に断ったが、ユリアもまた即座に却下した。
「あなたの気持ちはわかります。私もまた、この手で殺したいほどバハムートを憎んでいます。しかし、あの者の利用価値は非常に高いのです。それはロバート。父親であるあなたが一番よくわかっているはずです」
「だからこそです」
ロバートは真剣な顔で拳を固く握りしめた。
「……私は妻と娘に誓ったのです。私は必ずこの手でバハムートを斬る。そして我が子の魂をソルラインへと送り出す――。この8年間、私はその誓いを果たすためだけに奴を探し続けてきたのです」
「では、どうあってもバハムートを斬るというのですね?」
「無論です。そこに議論の余地はありません」
「私の命令に従わない場合、あなたの娘の命は保障されません。それでもバハムートを斬りますか?」
「その質問には何の意味もありません。その言葉が本気だとしたら、この場であなたの首から上が床に落ちるだけです」
ロバートは瞳の中に鋭い光を宿しながらユリアを見つめた。ユリアもまた感情を消した顔で口を開く。
「剣を持たない今のあなたが、大賢者である私に勝てますか?」
「逆ですよ、ユリア様。我々が本気を出せば、素手でもじゅうぶんに人を殺せることはご存知でしょう。そしてこの間合いで騎士に勝てる魔法使いは存在しません。それは一段階上の階梯魔法が使えるようになる天令を持つユリア様であっても例外ではありません」
「では、試してみますか?」
「どうぞお好きなように。ですが、私は何もしませんけどね」
そう言ってロバートはニヤリと笑う。その瞬間、ユリアは肩の力を抜いて息を吐いた。
「なるほど。そういうことですか……。たしかにいくら私でも、紅金の天位騎士2人を相手にしたら勝ち目はないでしょう」
「すいませんね、ユリア様。ご存知のとおり、うちのデイナは慎重な性格ですから」
ロバートは軽く肩をすくめて廊下の方に目を向ける。ユリアもつられて顔を向けると、角の暗がりの中に一瞬だけ人影が見えた。
「……さてと。それでは我々は、そろそろ失礼するとしましょうか」
話が終わったと判断したロバートは立ち上がり、ユリアを見ながら言葉を続ける。
「とにかく、バハムートはいずれ必ず私が斬り捨てますので、それはどうかご理解ください。その代わり、コネクシオン・コードにつきましては早速取り掛かるとしましょう。エクスパルシオン・コードの準備はジャンヌかバランに命じてください。他に何かご要望はおありですか?」
「まったく……。ルーランの人間は相変わらず頑固ですね」
「立てた誓いは命を懸けて必ず守る――。己の剣に魂を捧げた騎士というのは、生きるのが下手な人間ばかりですからね」
ロバートは自嘲するような笑みを浮かべ、薄暗い廊下の方へと歩き出す。しかしふと足を止めて振り返ると、長椅子に座るユリアに向かって質問した。
「そういえばユリア様。一つお訊きしてもいいですか?」
「なんですか」
「私が言うのもなんですが、運命の神子の人間性と能力をアレに評価させて本当に大丈夫なのでしょうか?」
「問題ありません。私が作成した評価基準を持たせてありますので、評価自体は誰にでもできる仕事です」
「なるほど……。では、万が一ネイン・スラートがその評価基準に達していなかった場合、アレにはどのような指示を与えているのですか?」
「そんなことは決まっています」
ユリアはロバートの目をまっすぐ見上げながら、淡々と言葉を続ける。
「もしもネイン・スラートが我々の求める能力を持ち合わせていない場合は、転魔エリオンに関する情報は一切渡しません。そしてそのような人間を運命の神子と認めるわけにはいきませんので、速やかに殺害するように言ってあります」




