第33話 天位の王と天令の大賢者――ハイボース&セイクリッドプロキシー その1
石造りの広い部屋で、一糸まとわぬ裸の男がひたすら汗を流していた――。
それは焦げ茶色の髪を短く切った老齢の男だった。男はただ黙々と、砂を詰めた人間大の革袋を素手で殴り続けている。高い天井から吊るされた革袋は、男の無骨な拳を受けるたびに鈍い音とともに揺れ続けている。
男の顔には長い時を現す深いしわが刻まれていた。しかしその肉体はまるで岩のように筋肉が盛り上がっている。その鍛え上げられた広い背中からは汗が蒸気となって沸き立ち、足元の石の床には体中から流れ出た汗が小さな水たまりを作っている。どうやら既にかなりの時間、革袋を叩き続けているようだ。だからだろう。男の頑丈な拳も皮膚が破け、赤い血がにじみ出ている。しかしそれでも裸の男は奥歯を噛みしめたまま、延々と左右の拳を繰り出し続ける。
すると不意に部屋の中に光の粒が漂い始めた。同時に男は拳を止めて、周囲の光に目を凝らす。
「……む。これはもしや……」
その光はランプやロウソクの灯りとは明らかに異なる光だった。男は低い声をわずかに漏らすと、すぐに大きな窓の方へと足を向ける。そして窓の外で荒れ狂う豪雨と雷を視界の隅に収めながら石の床に片手を伸ばし、放り投げていたローブを拾って身にまとう。さらにすぐさま振り返り、部屋の中央の広い空間に向かってひざまずき、首を垂れた。
その瞬間、突如として光の柱が発生し、中から1体の天使が現れた。それはロゼ色の長い髪を持つ美しい女性型の天使だった。
「……五熾天使フロリス様。ご来光、お慶び申し上げます」
男は顔を伏せたまま、低い声で言祝いだ。
「面を上げなさい」
天使フロリスは穏やかな声を漂わせた。そしてゆっくりと立ち上がった男にさらに言う。
「貴方と会うのは6年ぶりですね、ニコラス・サイレン。変わりはありませんか?」
「はい、フロリス様。アグス様の御言葉をいただいて以降、我が信仰心は一層強固なものとなりました」
男は胸の前で両手を組み、再び丁寧に頭を下げた。その様子をフロリスは無言で見つめ、それからゆっくりと言葉を続ける。
「本日、貴方に会いに来たのは他でもありません。貴方が集めた情報を、かの者に渡す時がきました」
「それではついに、運命の神子が戦いの準備を整えられましたか」
「そうです。アグス様に選ばれしか弱き人の子が、ようやく小さな牙を手に入れました。よって、貴方がこの7年間で収集した情報を、かの者に渡す手はずを整えるのです」
「かしこまりました。直ちに手配し、中央大陸への船を速やかに出航させます。そして以前のご指示どおり、運命の神子の元へ3か月以内に届けさせましょう」
男は低い声でうやうやしく答えた。その男の顔をフロリスはじっと見つめ、それから再び口を開く。
「アグス様は以前、このようなことをおっしゃっていました。――この世界で最も強い者は、その強さゆえに弱さを持つ――と。ニコラス・サイレン。貴方の瞳の光には、ごくわずかな揺らぎがあります。貴方は私の指示に忠実に従い、この世界を守るために尽力してきました。ゆえに質問を許しましょう。貴方の迷いをこの場で断ち切るのです」
「……五熾天使様の御慧眼、誠に恐れ入りました。そしてその深き御慈悲に、心より厚く御礼申し上げます」
男は再び胸の前で両手を組み、深々と頭を下げた。そして胸の内に秘めていた想いを口にする。
「先ほども申し上げましたとおり、アグス様への我が信仰は絶対不変――。それゆえ、他の神を崇める不信人者どもが許せぬのでございます」
「信仰とは己の魂を見つめること――。自分以外の者に対し、自分の考えを強要するのは神の御言葉を踏みにじる行為であると、貴方ならじゅうぶんにわかっているはず。迷いの源はそこではありませんね」
「……まさに、おっしゃるとおりです」
老齢の男は苦渋に顔を歪め、言葉を続ける。
「この世には様々な宗教が存在しております。アグス様を崇めるベリス教以外にも、惑星神ヴァルスを崇めるヴァルス教、女神たちを崇めるソルナ教、預言者クーラの教えを守るクーラ教、さらには怪しげな古代神を崇めるクロミル教や、悪魔崇拝のダイン教などの邪教もあります」
「たしかに。ですが、人間の魂はすべて異なります。ゆえに、魂が求めるものもまた一人ひとりで異なるのは道理――。しかしすべての魂はアグス様の元へと導かれ、癒しを得るのです。人間として生きるほんのわずかな時の狭間でどのような迷いを持ったとしても、それは大したことではありません」
「しかしながら、人間にとっては自分の人生がすべてです。悠久の時から見ればほんのわずかな一瞬でしかなくとも、今を生きる我々にとっては、今という時こそがすべてなのです。そして我々が今という時を迷いなく生き抜くためには、絶対なる支えを授けていただく必要があるのです」
「なるほど。それが貴方の迷いですか……」
フロリスは涼やかな瞳で男を見た。人間として長い時を生き抜いてきた男は、真剣な表情で答えを待っている。
「よいでしょう。ニコラス・サイレン――。貴方には今この場で、貴方の望む道を授けましょう」
フロリスは穏やかな声でそう告げると、白い手をゆっくりと宙にかざす。その瞬間、世界が変わった。石の床も石の壁も、石の天井も砂を詰めた革袋もすべてが消え去り、フロリスと男は青い空の中にいた。
「こっ!? これはいったいっ!?」
男は愕然として両目を見開いた。さらに慌てて周囲を見渡し、思わず唾をのみ込んだ。男が立っていた青空は普通の空ではなかったからだ。そこは色とりどりに光輝く無数の川が、空の果てから彼方へとゆるやかに流れる世界だった。
「ここは安息神域セスタリアの空です」
「こっ! ここがセスタリアっ! 神が住まう神秘の世界かっ!」
「そうです。そして貴方がいま目にしているのは、はるか遠い過去の記録です」
「これが過去の記録……? なんと……五熾天使様の奇跡とは、かくも凄まじいものであったか……」
まるで現実にしか見えない広大な風景を目の当たりにして、男はひたすら感服した。そんな男にフロリスはさらに淡々と言う。
「よいですか、ニコラス・サイレン。貴方にはこれより、かつて繁栄を極めた人類の歴史を開示します」
「繁栄を極めた人類……? それはつまり、今の我々とは異なる人類が存在していた、ということでしょうか……?」
「そうです。彼らは今の人類よりも高い知能と強靭な肉体を持った存在――。第3世代人類です」
「だ……第3世代……」
男は口の中で呆然と呟いた。それから思い切ってフロリスに質問した。
「おそれながら、フロリス様。そうしますと、我々は何代目の人類になるのでしょうか……?」
「貴方が生きる時代は第9世代になります。そして第9世代の歴史は、およそ866万年になります」
「なんと……」
男は思わず絶句した。
(我々の世代だけでそこまでの歴史があるのなら、第3世代というのはいったいどれほどの時の彼方なのか想像すらできぬ……)
男は額に冷たい汗を浮かべながら眼下に目を向けた。はるか下の大地には広大な森が広がり、天を衝くほどの高い山脈と、そこから流れ出る巨大な河、そして果てが見えないほどの平野がどこまでも続いている。
「おお……。セスタリアとは、これほどまでに美しい世界であったか……」
「そうです、ニコラス・サイレン。そして現能世界で繁栄を極めた第3世代人類は、この美しい世界を自分たちのものにするため、愚かにも攻め入ってきたのです」
「ンなっ!? なんですとっ!? 神の世界に攻め入った!? なんと恐れ多いことをっ!」
男は思わず声を張り上げた。しかしフロリスは落ち着き払った顔で白い手を前に伸ばし、眼下の広大な平野の奥を指さしてさらに言う。
「見るのです。あれこそが、繁栄と愚かを極めた人類の姿です」
言われたとたん、男ははるか遠い地上に目を凝らした。すると大地の端に無数の巨大な黒い壁が突如として現れた。それは丘よりもはるかに大きな壁で、しかもずらりと横に並んだいくつもの黒い壁の中からは、何かが続々と列をなして進み出てくる。
「あれはまさか……軍隊か……?」
男は瞳の中に緊張の色をにじませながら首をかしげた。蟻のように小さく見える黒い列は人間の兵士たちに違いないが、それ以外のモノがよくわからなかった。人間よりも大きな箱のようなモノが大挙して大地を進み、丸型やひし形や三角型の塊が無数に空中に浮かんでいる。さらには黒い壁とほとんど同じぐらいの非常に巨大な船らしきものまでが、やはり宙に浮いたままゆっくりと姿を現した。
「――あれが魔道科学を極めた第3世代人類の戦力です」
不意にフロリスが口を開き、男に説明した。
「大地を走っているのは戦車で、空を飛んでいるのは戦闘機という戦争用の兵器です。そして宙を進む巨大な船は宇宙戦艦です」
「うっ!? 宇宙戦艦!? それはつまり、奴らは星の世界を航行できる船を造ったということですかっ!?」
「そうです。アグス様が人間に与えた英知とはそれほどのものなのです。しかしその素晴らしい贈り物を、彼らは間違った方向に使ってしまったのです」
フロリスは悲しそうに顔を曇らせ、今度は平野の反対側に顔を向けた。するとはるか果ての地平線から何かがゆっくりと近づいてくる。それは大地を埋め尽くすほどの軍隊だった。
「あれはもしかして……天使の軍隊……?」
「それと、悪魔の軍団です」
フロリスは大地の半分を覆う黒い闇のような軍団を指さしてから、続けてもう半分を占める白く輝く軍隊を指さした。
「このセスタリアは神に許可された存在が住まう世界――。そのため女神と界竜、そして悪魔が独自の領域を保有しています。ゆえに、セスタリアに攻め込んできた第3世代人類を撃退するため、天使と悪魔の軍団が協力して迎え撃ったのです」
「なんと……。アグス様の御威光は、あれほどの数の悪魔をも従えてしまうのか……」
男はただひたすら呆然とした。第3世代人類の軍隊もものすごい数量なのだが、天使と悪魔の軍団はそれをはるかに超える規模だった。もはや大地の果てから果てまですべてが天使の白い輝きと、悪魔の黒い闇で覆いつくされている。
「これではさすがに、人類に勝ち目はない……」
男は思わず呟いた。しかしその瞬間、いきなり大地が大爆発した。
「なっ!? なんだっ!?」
男は両目を見開いた。すると人類側の宇宙戦艦から無数の何かが次々に高速で撃ち出され、天使と悪魔の軍団の中に続々と突っ込んでいく。そしてそのたびに高い塔のような巨大な火柱が発生し、天使と悪魔たちを片っ端から焼き尽くしていく。
「なっ……なんだ、これは……? 大地が噴火しているだと……?」
「あれは第3世代人類が開発した爆炎兵器です。そして彼らの攻撃はさらに続きます」
フロリスは不意に眼下の空中を指さした。男が目を向けると、フロリスが言っていた戦闘機というモノが無数に空を飛んでいく。広大な平野の空を埋め尽くさんばかりの数の戦闘機は、整然と隊列を組んで高速で飛翔し、大量の火柱で混乱に陥った天使と悪魔の軍団の上空に突っ込んでいく。その直後、無数の小さい塊を一気にバラまいた。その小さい何かは大地に接触した瞬間、大爆発した。さらに続々と広大な平野のほぼ全域で爆炎が発生し、延々と続く爆音が空の彼方まで響き渡る。
「なっ……なんと恐ろしいことを……」
男は再び言葉を失った。自分が見ているものが信じられなかった。大地を埋め尽くすほどの天使と悪魔の軍団が、あっという間に壊滅してしまったからだ。しかも人類側の大量の戦車と宇宙戦艦は進撃を開始し、逃げ惑う天使と悪魔を容赦なく殲滅していく。
「これはもはや戦争なんかではない……。ただの虐殺だ……」
「そのとおりです」
男の呟きに、フロリスは小さくうなずいた。
「見てのとおり第3世代の人類は、天使と悪魔を容易に打ち破るほどの兵器を開発しました。そしてその武力を用いてセスタリアを占領し、人間だけの楽園を築こうとしたのです」
「人間だけの楽園とは……なんという傲慢なことを……」
男は心の底から呆れ果てた声を漏らした。それから不意に眉を寄せると、疑問に満ちた声で呟いた。
「しかし……強い力を持つ騎士や魔導士は、自らのおこないを厳しく戒めるはず……。そうかっ。あの強力な兵器のせいか。兵器ということは、誰にでも扱えるということ。つまり、厳しい修行の末に手に入れた力ではないから、それがどれほど恐ろしいものか理解できていないということか……」
「そのとおりです、ニコラス・サイレン。よくぞ力の本質に気づきました。ですが第3世代の人類は、その真実から目を逸らしてしまったのです。誰にでも扱える兵器を開発し、それを自分たちのために使うことを正義だと思い込んでしまったのです。そして、手に入れられるものはすべて手に入れてかまわないという、浅ましい幻想に彼らは取りつかれてしまった――。もはや悪魔すら凌駕する邪悪な思想に凝り固まった彼らは、惑星ヴァルスの資源をすべて使い果たしてしまったのです。そして生活に行き詰った彼らは活路を求めて、セスタリアを奪いにきたのです」
「なんという……なんという愚かなことを……。それではセスタリアを占領しても、また食い尽くしてしまうだけなのは目に見えているだろうに……」
男は思わず身震いした。
「たしかに、第3世代の人類がとてつもない技術を手に入れたことは間違いない……。しかし、奴らの進む道はただの行き止まりではないか……」
「まさにそのとおりです、ニコラス・サイレン。ゆえに、彼らの命運はここで尽きてしまったのです」
「ここで命運が尽きた……?」
その言葉に、男はハッと顔を上げた。するとロゼ色の長い髪を持つ天使は悲しそうに眉を寄せて、空の彼方に目を向けた。
「第3世代の人類はセスタリアに攻め入り、天使と悪魔の軍団を壊滅させました。それは踏み越えてはいけない最後の一線だったのです――。さあ、よく見るのですニコラス・サイレン。あれこそが、貴方が探し求めていた光です」
フロリスは天空の光を指さした。男も慌てて顔を向ける。そして次の瞬間、男は宇宙の真理を目の当たりにした――。
「おおっ! あれがっ! あれこそがぁーっ! 私が追い求めていた究極の光かぁーっ!」
男はその光の正体を知ったとたん、涙を流した。そして身も震えんばかりの幸福に包まれたまま、世界の終わりを見届けた――。
それから少しして、五熾天使フロリスは男の前から姿を消した。
広い石の部屋に1人残った老齢の男は、呆然とした面持ちで奥の重厚な机に足を向ける。そして椅子に腰を下ろし、机の端に並んだ音叉の一つを鉄の棒で軽く叩いた。するとすぐに入口の分厚い扉が開き、ローブ姿の少年が入ってきた。やせた少年は男の前で足を止め、うやうやしく頭を下げる。しかし男は少年には目もくれず、何もない宙の一点を見つめながら淡々と口を開く。
「……すぐにユリアを呼べ。それと食事だ。鶏を1羽とスープをもて」
男の命令に少年はやはり無言で頭を下げて、すぐに部屋をあとにした。素肌にローブだけをまとった男は入口の扉が閉まるとおもむろに立ち上がり、背後の大きな窓に近づく。そして豪雨と雷が暴れ狂う暗い夜空を見上げながら、ぽつりと呟く。
「あれが絶対なる神の御力……。しかしそうなると、このままでは我々第9世代の人類も確実に滅びてしまう……。やはりここは、エクスパルシオン・コードの準備を急がせねばなるまい……」




