霧の伯爵
むかしむかし。まだメモーリアの海に、深い霧が立ち込めていなかった頃のお話。
とある国にマッツォレーニと言う伯爵家があった。当主のバルトロ・マッツォレーニは代々継いできた家を賢く支え、美しい婦人と子宝に恵まれていた。バルトロ伯爵はやや恰幅が良く、毛虫をくっつけたような口髭が特徴の、愛嬌ある人物であった。大勢の召使いとともに屋敷に住まい、月に一度は趣向を凝らせたパーティーを開いていた。
彼の婦人は夜空の星を繋げたような美しい金髪の持ち主で、宴は彼女を見せびらかすために行うのだと、伯爵はよく惚気ていた。実際、石膏のように白い肌と、清らかな泉を閉じ込めた瞳は、訪れる客人たちを魅了して止まなかった。夏場にほっそりとしたシルエットのドレスを身につけたときなどは、あれこそ女神だと囁かれたものだ。
男女五人の子どもたちも皆、美麗で聡明であった。
取り分け、嫡男のサルヴァトーレは文武に秀でた伯爵自慢の跡取りだった。よく本を読み、詩を作り、算術も得意とする一方で、剣や乗馬の技術も習得していた。幼い頃から何人もの家庭教師が付き、手厚く育てられていた。
またその容姿は母である婦人とよく似ており、燦めく銅色の髪を長く後ろへ伸ばしていた。彼が年頃になると、世の娘たちはこぞってその琥珀の瞳を射止めようと手を尽くした。
サルヴァトーレが二十六になったとき、伯爵は申し分ない家柄の令嬢を息子の嫁にと選んだ。その挙式は盛大なもので、若い夫婦は大いに祝福された。それからサルヴァトーレは次の当主となるべく、父の仕事を覚え支えた。若い婦人もよく従い、マッツォレーニ家の繁栄を願っていた。
しかし、一年経っても二年経っても、夫婦には子どもが出来なかった。
まだ結婚したばかりだから、若いから、焦らずとも良いと周囲は慰めた。子どもが出来ずとも、伯爵夫婦は若い夫婦を優しく支え続けた。サルヴァトーレは何とかその期待に応えようと様々な手を尽くしたが、四年が経っても子は成せないままであった。
若い夫婦は愛し合いながらも悲嘆に暮れた。
そんな彼らを元気付けようと、バルトロ伯爵は息子の誕生日祝いを船上で行うことにした。サルヴァトーレが丁度、三十歳になる年のことであった。その頃には下の弟妹たちもそれぞれに結婚し家を出ていたが、久しぶりに一族が揃うこととなったのだ。親しい間柄の客人も招き、メモーリアの南にある島で祝宴を開くことにした。
バルトロ伯爵はそこで息子に家督を譲るつもりでもあった。
子が出来ずとも、跡取りはサルヴァトーレであると皆に示すつもりであったのだ。
ガウディウム号は大勢の人々に見送られて出港し、毎晩酒宴を開きながら島へと向かった。三日目には到着よりも一足早くサルヴァトーレの誕生日となり、一段と豪華な宴が催された。このために乗せていた仔牛を屠り、特別上等なワイン樽を開けて彼を祝った。
バルトロ伯爵はサルヴァトーレが如何に優秀な息子であるかを褒め称えた。そしてその妻が、如何に息子を支えているかと言う事も。二人にはどんな困難が立ち塞がっても、きっと乗り越えられるだろうと、そう祝い述べた。若い婦人は伯爵の言葉に涙を浮かべて感謝をし、必ず妻の務めを果たそうと誓った。
伯爵も家族も、呼ばれた客人や使用人たちもが、未来の伯爵の幸せを願っていた。
そうして幸せのうちに酒宴は終わり、人々は酔いと夢の狭間に落ちた。
二度と目覚めぬ深い谷間に。
船が眠りについた頃、海は俄に霧が出ていた。
静まりかえった船内ですっと目覚めたサルヴァトーレは、剣を手に取った。そしてそのまま何も言わずにバルトロ伯爵の部屋へと向かった。彼はよく眠っている父親の胸元へ、真っ直ぐに切っ先を埋めた。それはほんの一瞬の出来事で、酔い潰れていた伯爵はろくに悲鳴も上げずに事切れた。隣でベッドの軋む音に寝返りを打った母も同様であった。
それから年の順に一つ下の弟、三つ下の妹、四つ下の妹、更に下の弟、とサルヴァトーレは家族を殺して回った。彼らが連れてきていた配偶者や子どもまで丁寧に殺し、それから乗り合わせていた客人も残らず刺した。
船は静かに静かに様子を変え、気付いたときには既にどこも血まみれであった。
順番が最後になった水夫たちは抵抗をしたが、結局全員が殺された。
なぜサルヴァトーレが突然狂ったのか、誰にも分からなかった。訳も分からぬまま、家族も客人も水夫も皆殺された。
華やかな酒宴会場だった船は巨大な棺になったのだ。
誰もいなくなった船に穴を開け、サルヴァトーレは甲板に立ち月を仰いだ。美しい満月の光が、靄の上から彼の髪をきらきらと撫でた。彼は棺が海に沈むのを感じながら自分の胸に剣を突き立てた。そして歓喜に満ちた声でこう叫んだ。
「嗚呼!これこそがハッピーエンド!」
船は大勢の亡骸を乗せて夜の海に沈んでいった。
メモーリアの西側に、深い霧が発生するようになったのはそれからのことである。
そこは丁度、ガウディウム号が南の島へ渡る途中の海であった。
霧と伯爵の船が関係しているかは分からない。ただ、その霧の海に迷い込んだ船は棺となって発見される。帆は風を受けて走っているのに、誰一人として生存者がいないのだ。稀に逃げ延びてきた者がいると、彼らの言い分は決まってこうだった。
「ハッピーエンドをくれと言われた!でも、奴は殺したって死ななかった!」
サルヴァトーレの亡霊だと彼らは言った。
殺しても殺しても死ぬことのない、不死の亡霊だと。
そのうちに、彼らはその名前すら呼ぶのを恐れ、暗に"霧の伯爵"と呼んだ。
南の島へ下るとき、決して西側へ寄ってはならない。例え遠回りになっても、東の大陸沿いを進まなければ霧の海へと誘われる。霧の中で古い形の船に出会ったならば、直ぐに逃げ出さなければならない。
船首の脇に掘られた"Gaudium"は歓喜を意味する。しかしその言葉とは裏腹に、船に響くは悲哀の声。霧の伯爵が、ハッピーエンドを求めて彷徨う声。
メモーリアの西を通ってはならない。
霧の海に決して近づいてはならない。
***
メモーリアとは、南北に伸びた沿岸部と海、島々を合わせて大雑把に認識されている地域のことである。その北端には、獣人化が世界に広まって以降、強大となったアウロラ帝国が君臨していた。そして反対側の南端には、半島の先っちょが千切れて独立したような島が浮いていた。南の楽園と呼ばれる大きな観光地である。
南回りにメモーリアの対岸大陸へ向かうには必ず通る島でもあった。真っ直ぐ西へ抜けようとすると、海霧が酷い場所を通ることになるからだ。水夫たちは皆それを嫌って、必ずこの南端の島を迂回するようにしていた。
それともう一つ、この霧の海には古くから伝わる幽霊船の話があった。「ハッピーエンドを!」と叫びながら船に乗る者たちを斬り殺すという、狂った伯爵の話だ。その昔、大勢を殺し海へ沈んだ伯爵が、まだ殺し足りずに幽霊となって彷徨っているらしい。
港育ちの子どもであれば、必ず一度は聞かされる昔話の一つである。
霧も幽霊船も出くわしたいものではない。だから水夫たちは、メモーリアの南西の海域は避けて通るのが常であった。
そんな普通なら近づきもしない西の海に、一隻の船が真っ直ぐに向かっていた。
向かいたくて向かっているのではない。追い風を掴もうとすると、不運にも西へ向かってしまっていたのだ。しかしこの船は西へ走る他なかった。なぜなら、その後ろに二隻の海賊船が追ってきていたからである。
逃げているのは貴族の個人的な船らしい。商船や客船にしては小さすぎる。どこかの街の紋章がマストに翻っていた。帆を目一杯に張り、風を掴むことに必死だ。それを追うのは一回り大型のガレオン船とブリッグ船で、こちらも強く追い風を受けて走っていた。どちらの船もマストの上には羽根と髑髏の海賊旗が見える。錫羽根の旗だった。
錫羽根とは、鳥の獣人である船長ウーゴにちなんでついた通称だ。稼ぐも遊ぶも派手にやるのが信条の、メモーリア指折りの海賊である。彼らは交渉を得意とする副船長ルカと共に、商人たちとの裏取引で儲けていた。特定の商品だけを奪い、独占し、需要が高まったところに高値で売りつける。それが錫羽根の商売だった。
彼らと取引をする商人たちは、売買の情報や手数料を求められる代わりに一つだけ頼みを聞いてもらえる。依頼内容は何でも良い。表沙汰には出来ないような妨害も、復讐も、略奪も、彼らなら可能である。海賊が人を襲うことに世間は疑問を抱かない。だから願いのある商人たちは、人々が苦しみ喘ぐのを踏みつけてでも彼らと取引をしたがった。
今、追い風に乗って西へ逃げる船は今回の依頼対象だった。騙し取られた家宝を奪い返して欲しい、相手ごと沈めてくれるならそれでも構わない、という内容の。
風は貴族に味方して力強く吹いている。
ただし、メモーリアの海を南西の方向に撫でつけていた。
ガレオン船の甲板から、逃げる船を肉眼で捕らえながらもウーゴは苛立っていた。いつものように一儲けした後のついでの仕事が、予想外に手間取っていたからである。物の略奪など手慣れているが、こちらが動く前に相手に気付かれてしまった。おかげで貴族は逃亡を図り、慌てて追いかけるはめになったのである。
小型な船はその分スピードが出る。見えながらもなかなか追いつけない状況が腹立たしい。だがやっと見つけた相手を目前に、手を引くのはもっと腹が立つ。ウーゴは発散しようのない鬱憤を抱えながら砲列甲板を覗き込んだ。
「おいっ!エーデラッ!エーデラはどこだっ!この距離で届く弾ァねーのかっ?」
ほぼ怒鳴り声のような問いかけが船内に響く。水夫たちはそれに慣れているものの、びくりと体を震わせて縮み上がった。そんな船長に対し、臆さず飛び出して行ったのが呼ばれた本人、砲撃長のエーデラである。
エーデラは一抱えもある大きな筒を持って走ってきた。
「船長っ!あの、流石にまだ遠すぎて大砲は届きそうにないんですけど、でも、この試作のやつ撃ってみても良いですかっ?」
「ああ?何だそれ?弾を鎖で繋げてあんのか?」
「はいっ!マストや帆の破壊用に試していた大筒です!飛距離はそんなにないんですけど、今は風があるんで高いところから狙えば届くかもしれません!」
狙撃を得意とする彼は、飛び道具を研究することもまた得意であった。日頃から趣味でいろいろと作ってみては試している。船長から指名されて興奮気味に持ち出した特殊な弾も、そんな試作品の一つであった。
ウーゴはエーデラの口が閉じると直ぐに上を指して言った。
「当てりゃあ今日の功績一等はお前だな!さっさと試して来い!」
「よおっしゃッ!」
一等、という言葉にまた興奮しエーデラは強く拳を握った。戦闘で功績を挙げれば通常の分け前とは別に報酬がもらえる。たくさん手柄を立てれば立てるほど、欲しい物が手に入る。錫羽根の水夫たちが我先にと戦える理由であった。
エーデラは直ぐさま筒を背中に括り付け、弾のようにメインマストを登っていった。船の一番高いところ、見張り台まで上がると貴族の船は程良く眼下み見えた。彼はその大きく広がった帆に狙いを定め火を付けた。ボンッ、と言う鈍い爆発音と同時に二つの弾が射出される。弾が前後に並んでいたのは最初のうちだけで、二つは直ぐに離れ、鎖で引っ張られながら円を描いて飛んでいった。
追い風に乗って飛距離を伸ばした弾の端が、見事に相手の船のマストに引っかかった。その反動でもう一方がぐっと引き寄せられ暴れ回った。エーデラが狙っていた通り、風をたっぷりに受けていた帆の一部が不能になったのだ。
それを見たエーデラはわっと歓声を上げ、見張り台から滑り落ちるように甲板へ下った。甲板でも思わぬ離れ業に場が湧き、向こうの速度が落ちたのを見てウーゴも喜んでいた。
「良くやったエーデラッ!よぉし、後は追いつきゃこっちのもんだ。手間ァ取らされた分、派手にやるぜっ」
「はいっ!船長っ!」
二隻は両側から挟み込むように貴族の船へと距離を縮めた。
いよいよ船が近づき大砲も届く距離になった。ウーゴは反撃されることを見越して砲撃の準備をさせたが、望遠鏡を覗いて中止にさせた。海賊船が間近に迫るというのに貴族の船は砲門一つ開ける様子がなかったからだ。
逃げられないと思い抵抗を止めたのだろうか?それにしたって静かすぎる。いかに市井事情に疎い貴族様でも、海賊に乗り込まれれば命がないことぐらい知っているだろう。だがその船はウーゴたちが接舷しても尚、物音一つ響かせなかった。
「なんだ?やけに静かだ……」
愛用の鉄鞭を片手にウーゴ自ら乗り込んだ甲板はまったくの空であった。どこにも人影が見当たらない。しかし今の今まで追いかけていた船である。人が乗っていないはずはなかった。
例の品を見つけて手柄を立てようと乗り込んできた水夫たちも、どことなく異様な雰囲気を感じて身震いさせていた。それでもエーデラがさっと船内へ潜ると、それに続いて他の水夫も入っていく。戦闘がないのであれば、真っ先に品を回収した者に功績が認められるだろう。それを持って早く立ち去るのが一番。皆そう思ったのだ。
ウーゴはさして広くない甲板を警戒しながら見て回った。マストを見上げてみたり、後甲板まで歩いてみたりもした。だがやはり人がいないという事以外、不審な点はない。
再び前甲板まで戻ってくると、そこにブリッグ船からルカがやって来ていた。
「おい、ウーゴ。まずいかもしれない」
「あ?もう十分駄目だろ。お前久しぶりに割に合わねぇ仕事持ってきやがったな。こんな遠くまで追いかけるはめになるなんてよ」
「金の問題じゃない!それに、回収したのを渡せば追加で五十ポンドだ。旅費ぐらい出る」
「何だよ。聞いてねぇ。こんな南まで来たんだ、もっと上乗せしようぜ」
「お前がいつも金勘定を俺に全部投げてるからだろ…。ああ、でも、今はその話じゃない」
ターコイズブルーの美しい瞳が船長を叱る。ウーゴと同郷で幼馴染みのルカは、当然のように隣へ並んだ。彼は普通の人間だが、すらりと伸びた身長は大柄なウーゴとほぼ同じだ。一見落ち着いた雰囲気の優男でありながら、ウーゴに負けず劣らずの派手好きで、戦闘には両手持ちの大剣を振り回した。
二人は気兼ねなく文句や嫌味を言い合える仲であった。
「今日の追い風は南西の方角だったんだ。どこぐらい走ったがよく分からないけど、ここは霧の海に近い」
「マジかよ。海で迷子なんて勘弁だぜ」
「俺もだ。早いとこ見つけて陽のあるうちに帰ろう」
自分たちの居場所を確認してきたルカの言葉を聞いて、ウーゴは顔を顰めた。
海で発生する霧は視界を遮り船を迷わす厄介者である。ただでさえ迷いやすい海原で、一層危険が増す。目の前の獲物を追いかけるのに夢中で、意図せずそちらへ寄ってしまっていたのだ。
早期撤退と二人の意見が一致したところで、船内へ探しに行っていた水夫の何人かが戻ってきた。品を見つけたのなら好都合。ウーゴはそう思って視線をやった。だが、水夫の手には何もなく、妙な事を報告してきたのだった。
「船長っ、この船の奴ら……みんな、死んでます…」
「それもただ死んでるだけじゃなくて、どいつも胸を一突きなんです!」
「はあ?」
水夫たちの言葉にウーゴはまた顔を歪めた。
自分たちが乗り込む前に反乱でもあったのだろうか?それにしたって分からない。誰かが殺したのであれば、その誰かは生きているはずだ。胸を一突きで殺すほどの手練れが。しかしその誰かの姿は見当たらない。
おかしい。何かがおかしい。だが何がおかしいのか誰も分からない。
報告してきた水夫たちに近づこうとウーゴは足を踏み出した。その爪先が、不意にゴツリと何かを蹴った。ウーゴが視線を下へ向けてみると、いつの間にか足元には霧が漂い、その中に死人の頭が見えた。
「うっ、おおッ?」
バチンッ!
彼は驚いた反射で思わず鞭を振るい、死体を強く弾き飛ばした。それに驚いた水夫たちが後ずさると、またその足に別の死体がぶつかった。先ほどまで何もなかったはずの甲板に霧が立ちこめ死体が湧き上がってきたのだ。
死体など山ほど見てきた海賊たちもこの怪異に顔色を変えた。
「何だよこれ……。これじゃまるで…」
頭を過ぎるのは港町でお馴染みの昔話である。
それはメモーリアに船を浮かべる者なら誰でも聞いたことのある話であった。
「おい、ルカ!お前も探しに行ってさっさと……」
「…いいぜ、ウーゴ。ただし俺が探しに行ってる間、あいつの相手はお前に任せる」
「あいつ?」
相棒を急かせようとウーゴが振り向いたとき、今度はズシンッと船が揺れて足元がふらついた。ルカが見る先、船首のところに別の船の先端が見えた。船の振動はそれがぶつかったことによる衝撃だった。今ではあまり見ない古い形の船である。
ウーゴはその古ぼけた船首に目を奪われたまま、幼馴染みに皮肉を言った。
「やっぱり割に合わねぇじゃねぇか、今回の仕事」
濃度を増していく海霧の中に一隻の船が現れた。
どこの船かは分からない。だが趣向の凝らされた船首像の天辺に、一人の男がふわりと立っていた。霧の中でも目立つ赤い服を着ている。その手に剣を、……正確に言うと、その両手を、腹に突き立てた剣の柄の上に重ねて、男は甲板を見下ろしていた。
西の海の幽霊船。霧の伯爵。錫羽根の男たちは皆同じ昔話を思い出していた。
「今日は運が良い」
波音だけが聞こえる静かな甲板に澄んだ声が響いた。低くて、落ち着きのある男の声だ。男はそのよく通る声で続けた。
「今日は船が三隻もやって来てくれた。一隻では駄目だったが、もう後二隻。二隻続けて戦えば、さすがの私も疲れ果てて力尽きるかもしれない。そうすれば、やっと私もこの世を去れる。ああ、待ちに待ったハッピーエンドを迎えられる!……長かった。あの日、皆で幸せに幕を閉じるはずだったのに。私だけが除け者にされてしまった。やはり私が不出来だったから、嫡男としての役目を果たせなかったからだろうか……」
男はブツブツと一人で喋りながら剣の柄を握った。腹に突き刺さったそれをやや引き抜いては乱暴に戻す。ぐちゅり、ぶちゅり、とその度に不気味な水音が立つ。言葉が途切れ重いため息に変わる。よく見れば美男と言えるその顔を、悲哀に歪めながら、男は自分の腹を抉った。
背中側で緩く結ばれた銅色の長髪が揺れ、琥珀の瞳が甲板を向く。
「さあ、私と共にハッピーエンドを迎えよう」
「ッ!」
男の視線がウーゴを捕らえた瞬間、腹にあった剣が引き抜かれ真っ直ぐにウーゴの胸元を突いてきた。それを反射的に鞭で弾いたウーゴは大きく後ろへ飛び下がった。
「冗談じゃねーぞっ!ふざけた昔話が本当だったってのかよッ?」
「昔話の通りならサルヴァトーレ伯爵は不死者だ。持久戦だな」
「さっさと探して来いっ!」
ウーゴは口の減らないルカを振り向かずに怒鳴った。悪い、という捨て台詞を吐いて彼は船内へ消えていく。甲板に残されたウーゴは邪魔になる水夫たちを遠ざけ、サルヴァトーレに向き合った。今の一突きで、伯爵が手練れであることをウーゴは感じていた。不死者に手練れも何もないのかもしれないが、とにかく半端な実力では胸を一突きにされる。
昔話が実話なら、彼は初犯から船一隻分を殺した大物である。
伯爵は自分の剣を弾かれたことが意外だったようで、その刃に頬を当ててしばらくじっとしていた。ぼんやりと考えるような表情でまたブツブツと呟いていた。
「素晴らしい。今日は、今日こそは本当に、ハッピーエンドを迎えられるかもしれない。久しぶりの手応えだ。不思議なナリをした男だ。首に羽が生えている?足が人の形をしていない。ああ、もしかしたら、私をハッピーエンドへ導くために天が使いを出してくださったのだろうか?ああ、やっと死ねる。やっと逝ける。ああ、嗚呼!私は嬉しい!」
声が徐々に高まり興奮した伯爵の首筋からぶしゃりと水飛沫が上がった。頬に当てていた切っ先が彼の首筋を切り裂いたのだ。血の代わりに飛び出た水は濁った海水のようで、びしゃびしゃに甲板を濡らした。
彼は自ら首を切り恍惚としていた。
痛みを感じるのか、顔に苦悶を浮かべながらも天を仰ぎうっとりとしていた。
伯爵の首から吹き上げていた水は次第に弱まり、やがてピタリと止まる。
その始終を見ていたウーゴは武器を構えたまま顔を引きつらせて吐き捨てた。
「ハッ、話に出てくる通りの狂人伯爵ってか…」
「狂人?失礼な。私はただの一度たりとも狂ってなどいない」
彼はウーゴの暴言にぴくりと反応し、反論を述べた。
「貴方も私のことを知っているのですね。今までにもいました。ガウディウム号のことを、マッツォレーニ家のことを知っている人が。そしてその度に、なぜか私は狂人と罵られてしまう……。確かに今はこのような有様ですが、私は狂ってなどいません。今も昔も、私は私。狂人と呼ばれる筋合いなど、どこにもありません」
剣を片手にそう抗議する伯爵の様子は確かに真っ当であった。
ぴしりとした佇まいに品の良い服を着込み、頭の先から足の先まで清潔に整っている。首に巻いたスカーフと刺繍が施された大きな袖は一昔前の貴族そのものだった。赤いコートの下に見える森色のベストも美しい。大きな襟に飾られたボタンには百合の紋章が刻まれていた。
絵画から抜け出してきたような美男であった。
しかし。
「自分の誕生日に船一隻分殺しまくって、挙げ句沈めた男のどこが狂ってねぇってんだ」
巷に残るサルヴァトーレの昔話はさながら殺人鬼のそれであった。
伯爵は不思議そうな顔をして首を傾げた。
「世間はあの日のことをそんな風に言っているのですか?それで私が狂ってると?とんでもない。あの日は本当に幸せな一日だったし、皆幸せだったのですよ。たくさんの幸福を享受して、幸せに、幸せに終えたのです。誰も後に残すことなく、皆でハッピーエンドを迎えられる一生で一度の好機だったのですよ」
ウーゴの意見がまるで分からない、と言ったふうに彼は剣先で床を削った。不満そうな顔でザリザリと床板を傷つけていく。やがてそこに出来た切れ目にぐっと切っ先が食い込んで、甲板が大きく割れた。
剣に刺さった木片を、伯爵は手袋をした指先で丁寧に抜いた。
「……どれだけ努力をしても、私は周囲が求める立派な嫡男には成れなかったのです。学問が出来ても、剣術が出来ても、子が作れなければ完璧な跡取りとは言えないでしょう?」
彼は悲しそうな顔をしてそう言った。
ふわりと前へ倒れるように、一突きにウーゴの心臓を狙いながら。
キィンッ、という耳に響く金属音が辺りに飛び散る。瞬時に詰められる間合いを何とか避けながら、ウーゴは返す手で伯爵の首を引きちぎった。小さな刃のついた鞭がキュッと締まる瞬間に頭が飛ぶ。切れた金髪がぱらぱらと宙を舞い床に落ちる。だがその顔は訳もなくごろりとウーゴを向き直り、拾いに行った胴体によって元の位置に居直った。切り口は一撫でもするうちに消えていた。
サルヴァトーレはどことなく嬉しそうであった。
「今、少し向こうが見えた気がしました。やはり貴方なら私を殺せるかもしれない。さあ、共にハッピーエンドを迎えましょう!大丈夫、貴方を残したりなどしません。誰かの後に残されるということは、とても悲しいことでしょう?私は他人を悲しませたくはないのです。だから皆一緒に!一人残らず!幸せのうちに死ぬことこそがハッピーエンドッ!私をそこへ導いてくれるのならば、私は必ず貴方を殺すっ!船に残っている貴方の仲間も一人残らず丁寧に!残された者が悲しい思いをしないようにっ!」
喜びに目を見開いた伯爵はそう叫びながら剣を振るった。血の気がなかった頬が興奮で紅潮していた。背筋が凍るような純粋な狂気にウーゴは防一戦を取った。
昔話の伯爵は実物とやや異なっていた。
彼は誕生日の日に突如狂ったわけではなかったのだ。
「とんだイかれ野郎だぜ…、善意で皆殺しが出来るなんてなァ!」
「愛する者を幸せにしたいと思うのは当然だろうッ?」
「テメェのそれを狂ってるって言うんだよ!」
勢いが増す猛攻にウーゴは思い切り鞭を振り切った。避けようともしない伯爵はそれをまともに受け、胴が真っ二つに飛び散った。ぼとり、ごとりとそれぞれが甲板に転がり動きを止める。さすがに疲れの色を見せていたウーゴは相手の動きが止まったことに一息ついた。
しかしルカが言っていた通り、幽霊船の主となったサルヴァトーレは不死者である。
二つの胴は再びうぞうぞと動き出して互いを引き合った。
ウーゴはまた身構えたが、伯爵の上半身は下と結びつく前に、船室から飛び出てきた刃によって更に切り飛ばされた。二振りのククリが続けざまに下半身も切り直す。よりばらばらに分かれた伯爵の体はそれぞれに転がった。
黒い鉄砲玉のようにやって来たのは鳥の獣人ペッシェだった。
「船長っ、俺、見つけました!」
「よくやった!さっさと引き上げるぞお前らっ!」
いつもはあまり表情を変えないペッシェが、自分の手柄を伝えに喜び勇んで飛んできたのだった。彼は水夫の中でも特に船長を慕っている。自分と同じ種類の獣人で、一団を束ねるウーゴに強い憧れを抱いていた。
ペッシェに続いて捜索に行っていた水夫たちがぞろぞろと戻り、二隻の船に撤収し始める。状況が状況なのでろくに物は持っていない。探すついでに掴んだ金や香料の袋が少しある程度。残りが惜しいが今は逃げるのが先だった。
最後にルカが出てきて、引き上げが完了したとウーゴに伝える。その後ろには蛇の獣人アルベロがついていた。彼は主に商談の手伝いをしている水夫なのだが、こういう場にも自ら飛び込む血気盛んな男だ。
品は回収した。撤収も終わった。後はこの厄介な海域を抜け出すだけ。
幸いまだ空には太陽が見え、どちらが東がを知らせてくれていた。
「ルカッ!後でこっち来いよっ!」
「陸に着いたら行く!」
厄介事を持ってきた本人に悪態をつきながら、ウーゴは自船に向かい急いだ。ルカたちも同様に縁へと走る。
だが霧はまだ彼らを取り巻いていた。
「置いていかないでくれ。もう少しなんだ」
「あッ?」
体が転がっていた方、ブリッグ船へ渡る手前でサルヴァトーレが再度姿を取り戻した。
不意を突かれ、避け遅れたルカの左胸を切っ先が掠める。体に走る痛みを耐えながら剣の柄に手を掛けるが、伯爵の剣もまた間を開けずに二撃目を斬り込んできた。ルカの剣は大振りな分、初動が遅い。歓喜に満ちた伯爵の顔がルカを見つめる。
「させるかッ!」
ドッ!
逆の縁にいたウーゴもまずいと感じたとき、砲弾がぶち当たったような低音が響きサルヴァトーレが横へ吹き飛んだ。ルカと同じ船へ戻ろうとしたアルベロが、切っ先を愛用の鎖で絡め取り伯爵の横っ面を殴ったのだ。
彼は眼鏡の奥で目をカッと怒らせて叫んだ。
「おい幽霊っ!テメェよくもルカさんにっ!そのツラ吹き飛ばすぞッ!」
「馬鹿、アルベロッ、吹き飛ばしたってそいつは死なねぇんだ!さっさと手ぇ貸せ!」
「うっ、でも、……はいっ!」
副船長を傷つけられ腸が煮えくりかえるアルベロはまだ殴り足りなかったが、それでも本人に窘められ大人しく肩を貸した。そうして何とか自船への渡し板を通り撤収する。
けれどもサルヴァトーレはまだ諦めていなかった。
剣を拾い、まだルカたちの方を向いていた。
それを見ていたウーゴは再び鞭を振るい、伯爵の腕を吹き飛ばした。
「俺から他に乗り換えるたァ良い度胸だ。余所見すんな!」
「別にそんなつもりはなかったのですが……。だって、ハッピーエンドのときはみんな一緒ですよ」
「テメェと迎えるエンドなんて俺は御免だね」
飛ばされた腕が霧で繋がり元の位置に戻る。
ルカたちの乗ったブリッグ船が舵を東へ取り動き始めた。ウーゴのガレオン船も準備が整い、甲板で水夫たちが船長を呼んでいた。
突き出される剣を飛び退いて躱し、ウーゴはもう一度伯爵の首を掻き切った。
「そんなに死にたきゃこの船ごと沈めてやるっ!派手に撃ち込んでやるからその首抱えて大人しくしてやがれッ!」
高く打ち上がった首が目を見開く。それが落ちてくる前にウーゴは縁を蹴ってガレオン船に飛び乗った。間髪入れずに怒号が鳴り響いて貴族の船に大砲が撃ち込まれた。
大きく揺れる船の上で、伯爵の体が落ちてきた頭を受け止める。頭を首の上へそっと戻し、サルヴァトーレはぽつりと言った。
「そうか、あの日のように沈めば私も逝けるかもしれない」
沈み始めた船に重ねて二撃目が入り、バキバキと物音を立てて甲板が崩れだした。転がっていた死体も積荷も、何もかもが海へ飲み込まれていく。その勢いに身を任せ、濁流に呑まれながらサルヴァトーレは剣を胸元へ突き立てた。
「ハッピーエンドを私に!」
貴族の船が沈むのを振り返ることなく、二隻の海賊船は東へ離れていった。
***
海の上にもやもやと霧が出ていた。
霧は、冷たい海の上を暖かい風が通ることによって発生する。
しかしメモーリアの西の海域ではいつも霧が深かった。
その霧の中に、一隻の船が浮いていた。帆で風を受けているが、その側面には櫂も飛び出ていた。櫂のついた船は今ではほとんど造られない。古い形の船である。櫂は漕ぎ手が漕いで初めて効果を発揮するのだが、その船の櫂はただついているだけだった。
甲板に一人の男が仰向けに寝ていた。
胸に一振りのカトラスを抱え、静かに目を閉じていた。
波が静かに流れ、ときおり船の側面を強めに叩く。ざざぶ、ざぶりと船は揺れてぽつりと漂っていた。
死人のような顔色の男は、銅色の髪が美しい美男であった。赤いコートと、揃いの生地で仕立てたズボン。褪せた桃色のスカーフに、鮮やかな森色のベスト。白い手袋がそっと指先まで覆い、長めのブーツが足先を守っていた。
男はそっと琥珀の瞳を開き空を見上げた。
灰色の、霧で覆われた空である。
男はまたそっと起き上がり徐にその胸を剣で突いた。
ごぶりと水が滴り落ち、苦悶の表情を浮かべる。
男はぽろぽろと大粒の涙を零した。
「ああ、嗚呼……、まだ、生きている。私はなぜ、まだこの世にいるのでしょう……?」
剣を何度も刺し直し、サルヴァトーレは死ねない悲しみを嘆いた。
遠い昔、幸せの絶頂で人生の幕を閉じるはずだったのに。
周囲が望む理想になれなかった男は、愛する者たちを失望させないために、ハッピーエンドを選んだのだった。
しかし今も尚、彼は一人海に取り残されて霧の中を彷徨っている。
「私が父の理想を裏切ったから、まだ許してもらえないのだろうか……。後どれほど待てば、私もハッピーエンドを迎えられるのか……」
サルヴァトーレは腹に剣を突き立てたまま船の縁へと歩いた。船首の脇には"Gaudium"の文字が刻まれた装飾が施されている。彼はそこをそっと撫で、物憂げに海を見つめた。
海は霧が視界を遮りいくらも見えない。
「早く、私をここから連れ去ってくれる人に会いたい。私と一緒にハッピーエンドを迎えてくれる人が、早く、早く来れば良いのに。後どれほど試せば出会えるだろう?私の、私のハッピーエンド。早くこの世を去りたい。皆のところへ。私のハッピーエンドを、早く……」
***
メモーリアで語り継がれる昔話に幽霊船の話がある。
西の海域に出る、霧の伯爵の話だ。
その伯爵の船に出くわすと、商船も軍船も関係なく、たちまち棺となってしまう。
家族や客人を殺し自らも命を絶った狂人の伯爵が、未だ飽き足りずに人々を殺すのだ。
なぜ彼が人々を殺すのか誰も知らない。
誰も知らないが、出会えば心臓を一突きに狙われる。
だから霧の海に近づいてはならない。
伯爵に会えば生きては戻れない。
これは、古くから続く船乗りたちの言い伝えである。
END 2018/1/20