第二夏 帰郷と桔梗
僕の実家は田舎だ。実家に帰省するのを「夏休みは田舎に帰ります」なんて比喩として使う人もいるけれど、僕の場合はリアルに田舎だ。並の田舎じゃない。”超”田舎だ。だから屋敷と土地があると言っても資産価値は微々たるもの。確かに曾祖父の頃までは田舎の名家だったらしいけど。
関東北部のとある村が僕の生まれ育った故郷だ。ちょっと前の市町村合併ブームのおかげで、県内に「村」という行政単位はほとんどなくなった。にもかかわらずうちは相変わらず「村」だ。だから余計に田舎感が増す。
村内に電車は走っていない。一番近いローカル線の駅まで、車で40分はかかる。バスの時刻表は数字が疎らに並んでいるアレだ。2時間に1本くらいしか走っていない。乗り遅れると最悪の場合、次のバスは3時間後のこともある。最寄りのコンビニまでは自転車を飛ばして30分。アイスを買っても家に着く頃には溶けてしまう悲しい距離だ。
面積の7割以上は山林で、あとは農地ばかり。村の産業といえば農業と林業。大きな工場もなければ企業もない。豊かすぎる自然を売りにした観光産業は、全国の過疎地同様、相変わらず微妙な感じだ。流行っている訳もなく、たまに都会から気まぐれにやって来るアウトドア派の観光客がいるくらいだ。
とはいえ東京の喧騒、コンクリートとアスファルトに囲まれてわかったのは、田舎で生まれ育った僕はやっぱり自然豊かな土地が好きだってことだ。
僻地だからこそだろうか、独自の習慣や風習もたくさん残っている。その最たるものが「夜見箱」だ。夜見箱と呼ばれる神社に備え付けられた木箱がある。箱そのものはなんのへんてつもない、神社の鳥居と同じく朱色に塗られたただの木の箱だ。で、その箱に故人の愛用していた物を入れておくと、夏祭から秋祭までの3ヶ月間だけ、その故人がまるで生きている人間のような格好で現れ、家族や友人と過ごすことができるという。
もちろんただの言伝えでしかない。夏は先祖の霊が家に帰ってくるという仏教の「お盆」の話に似ているせいか、昔は熱心な信者が多かったらしい。さすがは神様も仏様も一緒くたに信じてしまう日本人の逞しさの賜物だ。僕の母親もこの話を信じて、毎月のようにお参りに行っていた。僕が小さい頃は夏祭前になると必ず神社に連れて行かれていた。
だけど、今では信じている人はほとんどいない。
それでも形だけは残っていたみたいで、夏祭り前に夜見箱に遺品を入れに来る人がたまにいたらしい。それも10年くらい前の話で、僕が田舎を出る頃には完全に廃れていた。熱心に信仰していた年寄り連中が亡くなってしまったからかもしれない。当然僕も信じてはいない。ただ、風習や伝統みたいなものは大切にすべきなんじゃないだろうか。……と漠然とは思うけど、実際に自分で何かをすることはない都合のいい横着者が僕だ。
東京から引っ越してしばらくは手続きに奔走した。両親の死亡届から遺体の埋葬許可、保険や預貯金、税金関連……もう数え出したらキリがない。葬儀はやらなかった。両親の親しかった友人も僕はあまり知らなかったし、誰に連絡していいのかもわからない。兄弟姉妹はもちろん、親類縁者も居ない。葬儀をしても誰も来る人がいない。近所の知り合いくらいは来てくれるかもしれないけど、せいぜい数人だろう。だから村のお寺のお坊さんを頼んで、読経をあげてもらった。まぁ、熱心な仏教徒というわけじゃないけれど、こういうのは気持ちの問題だからね。
おかげで、ようやく落ち着いて現実を考えられるようになったのかもしれない。……そう、僕には仕事がない。要するにお金がない。親の残してくれた財産や貯金はあるけれど、年金やら税金やら農地の維持費に充てると長くは持たない。僕はまったくと言っていいほど農業には明るくないし、興味もない。だから近隣の農家へ行き、お金を払って農地の面倒を看てもらうようお願いするしかない。そのお金もバカにならない。
まずいな……仕事を探そうにもこの田舎だ。農業林業以外といえば……コンビニのアルバイトくらいしかない。最高なのは村役場勤務だけれど、公務員はどうにも抵抗がある。というか勉強が苦手な僕にとって、まともに公務員試験が受かるとは思えない。そしてもちろんコネもない。両親が言っていた言葉が今になって胸に突き刺さる。なんてこった、いきなり困ったぞ。
そしてさらに困った問題に気が付いた。
――― この家には車がない。田舎の移動手段は基本的に車だ。自転車という手もあるけれどたくさんの荷物は運べない。つまり買い出しができないのだ。遠方にお出かけするには、バスのみってことになる。これは不便極まりない! 本数の少ないバスで何時間もかけて買い物をしていたら、それだけで1日が終わる。
我が家で唯一の車は両親が事故で廃車にしてしまった。保険で車代くらい賄えるだろう、と思うけど実は免許を持っていない。東京都内では必要なかったしな……。これから運転免許を取るにしても、相応の時間がかかるしお金もかかる。そして車を持てば維持費がかかる。税金、車検、保険、メンテナンス費、ガソリン……諸々合わせると無職ニートの僕には贅沢品なのかもしれない。なんといっても両親を奪った車というものに抵抗がないといえばウソになる。
それに買い物ならネットがある。今やネットショップやネットスーパーで買えない物の方が少ない。生鮮食品から大工道具まで生活に必要な物ならほとんどが揃う。とりあえずは節約生活をしながら、ゆっくり先の事を考えて行こう。
……と思ったのが大きな間違いだった。
生来インドア派の僕は見事に引きこもりになった。人生の目標がなくなり、親もいなくなり、その後始末も終わった。ピンと張った糸が切れ、気が緩んだのかもしれない。一気に怠惰な世界へと引きずり込まれた。そう、ネットゲームにハマってしまったのだ。いやいやネトゲのせいにするのはよくないな。僕の心が弱いせいだ。
潤沢ではないけれど当面の生活費はある。出費は通信費と光熱費くらいだ。ネットスーパーで安い食材を買って適当に料理すれば、1日300円くらいの食費ですんでしまう。この状況を僕は都合のいいように解釈した。
「外出すればお金がかかるし、ひきこもっていた方が節約できるよ」とか「両親が亡くなったのだから喪に服する意味でも出歩かない方がいいんだよ」とか……。まぁ当然ただの屁理屈で、本当は仕事をしたくない怠慢な考えを正当化するものでしかなかった。
こうして怠惰な引きこもり生活が1ヶ月以上も続いたある日 ――― 何気にテレビをオンにすると、食べ歩き情報番組が流れていた。しょうもない番組だなぁとチャンネルを変えようとすると、そこには大きくて美味しそうなスイカが映し出された。そうだよ、もうスイカの時期が終わってしまうじゃないか! 村の直売所なら何とか歩いて行ける距離だ。ネットよりも安く買えるハズだし、何よりもこの辺りでとれるスイカは桁違いに甘くてみずみずしくてとても美味しい。
「いつ食べるの? 今でしょ!」
なんて調子のいい台詞を吐きながら、僕は大好物のスイカのために1ヶ月ぶりに外出することにした。スイカ万歳。スイカ様最高。スイカの魅力は引きこもりすら更生させるのである。
ポケットにスマホを突っ込み、玄関を開けて一歩出る。
「……オウフ、あ、暑いぜ……」
灼熱の日光が鈍りきった僕の体から容赦なく水分と体力を奪う。スマホで今日の天気を確認したら、最高気温が36℃だった。体感温度は軽くそれを超えるだろう。
「ダメだ。こりゃあ水分補給しながら歩かないと、熱中症になるなぁ」
仕方なく財布をポケットに突っ込み、ペットボトルを片手に覚悟を決めて外に出た。家の前の通りを出て、村を通る唯一の国道を渡ると、一気に田園風景が広がる。緑の水田をわたる風も、今日はさすがに熱気を帯びている。
そういえば、この辺の田んぼの水路でよくザリガニ獲りしてたっけなぁ。ちょっと昔の事を思い出していたら、次から次へと少年時代の楽しかった想い出が湧き上がってきた。郷愁ってこういうのを言うんだろうか? 当時は大変な事もあったけれど、記憶の中ではすっかり美化されている。「今となっては良き想い出」ってヤツだ。
「スイカは後回しにして、昔懐かしいスポットを少し巡ってみるか」
そう思い立って、僕はスイカ直売所ではなく、田んぼの水路の方へ足を向けた。長い長い真っ直ぐな農道が続く。びっしりと生えた緑の稲が鮮やかだ。陽射しを遮るものが何もない。さすがに暑い。歩き始めて10分で後悔し始めた僕は、ちょっと一休みのつもりで足を止めた。あぜ道を見ると、小さいカエルがゲコゲコ鳴いていた。セミの声もジージーと凄まじい。だけどこれが不思議と心地いい。小学生の時に毎日友達と遊んで、泥だらけになっていた夏休みの光景がよみがえる。
「はぁ、あの頃は本当に楽しかった……」
ちょっぴり感傷的になりながらも、暑さを避けるために僕はあぜ道横に降りた。そこは足首の上くらいまで水に浸る浅い小川になっている。川底は綺麗に磨かれた砂利で、水は濁りがない。さすがにちょっと温い気もするけれど、やっぱり水の中は気持ちがいい。履いて来たサンダルもいわゆるビーサンなので濡れても平気だ。
「よし、久々に神社にでも行ってみるかなー」
神社は古くからこの土地の守り神らしい。詳しくは知らないけれど、五穀豊穣を司る農業の神様って話をよく母さんから聞かされたな。まぁ、農業しか取り柄のないこの村らしい神様だ。まさに”身の丈に合った”ってヤツだね。
神社の境内は、皆が集う公園みたいなところでもある。夜見箱の儀式も夏祭りも毎年ここでやるし、子供の安全な遊び場といったら神社の境内だ。小さいながらも社務所があって、神主さんも住んでいる。だから目の離せない子供達が遊ぶには恰好の場所なのだ。もちろん僕も小さい頃からよくお世話になっていた。鳥居に落書きをして、大目玉を喰らったこともいい思い出だ。
水路から上がる前に、ちょっとカエルの様子を見ていたら。突然隣に人の気配を感じた。
「うあぁぁぁっ!」
思わず口に出してしまったけれど、横目にちらりとその姿が入った瞬間は本当に肝を冷やした。そして僕は件の彼女に出会ったわけだ。
「あのー、どちら様ですか?」
「わ、私は斐伊川桔梗といいます。職業は……ええとー……神様ですよ、アハハ」
「……はぁ?」
何言ってるんだ、この女子は。いきなり登場したかと思えば、挨拶にギャグを織り交ぜてくるとは。それとも今流行っているボケなのか? じゃあ突っ込まなきゃいけないの? う、いや、でも下手に突っ込んでハズしちゃったら恥ずかしい大人になってしまうし……。ったく、なんでただの挨拶で苦労しなきゃいけないんだよ。
ゲームだったら、間違いなくこういう選択肢が画面下に出ていることだろう。
【1】こちらもボケ返す
【2】スルーして普通に挨拶する
【3】頭にチョップして突っ込んでみる
ということで僕が出した結論。カーソルは迷わず「2」を選ぶ。当然一番無難な路線だよな。現実はゲームじゃない。こんな超絶美人がかましたボケを、優雅に捌けるほどの度量は残念ながら持ち合わせていない。
それにしても名字も名前も珍しいな。斐伊川なんてこの村では聞いたことのない姓だ。
「斐伊川さん……僕は柳田国彦。職業は……」
「ちょっと待ったぁっ!」
ボケ挨拶の美人こと斐伊川さんが、僕の方に掌を突き出してストップをかけた。
「職業は当ててみるから言わないで!」
「え、う、うん……」
「ええと君の職業は……うーん、アレだ。そうアレだよ、間違いない!」
いつの間にか、会話は僕の職業当てクイズにすり替わった。このテンションの高いボケ女子は一体何なんだよ。ちょっと緊張して損したかも。まぁ、でも美人だしな。と顎に手を当てて腕組みして唸っている彼女をチラリと見る。虹色に輝く黒髪。透き通るような白い肌。大きくてパッチリとした猫目。どこを見ても綺麗で見蕩れてしまう。そんな彼女が出した結論。
「あなたの職業は……ニートですね? しかも引きこもりですね?」
うっ、当たってる。どうしてわかったんだよ。エスパーかよ。だけど君は根本的なところを間違っている。ニートは職業じゃない。働く気のないただの無職だ。
「……な、なんでわかった?」
「えっへん、だって私神様ですから」
「答えになってない。はぐらかすなよー」
「へへへ、ゴメンなさい。だってこの平日の昼日中に若者が炎天下の田んぼをブラブラしてるなんて……ニートの暇人しかいないでしょ?」
痛い所をズバリ突いてくる。が、確かにそうだ。この田舎でブラブラしてたら目立つことこの上ない。病気の人間がこの炎天下をの田んぼを歩いているわけもないし、農作業するにしても涼しい早朝か夕方にしかやらないのが基本だ。
「でも、田んぼを見回っている農家って事もあるかもしれないぞ」
「アハハ、ないない。それはないです。だってそんな真っ白で日焼けしてない農家さんなんてあり得ませんー。指も全然汚れてないし、普段から土を触ったり力仕事してる腕じゃないですもん」
むぅ、意外と切れるなこの女子。人の事をちゃんと観察している。当てずっぽうで言ったのかと思ったが、違うようだ。侮れない。
「でも、会社がたまたま休みの社会人って事もあるよね?」
「うーん……でも今のあなたの酷い顔を見たら、誰も会社勤めをしてるなんて思わないですよ」
ドキリとする事を言う。別の意味で僕の心臓は跳ね上がった。僕はそんなに酷い顔をしているのだろうか? そういえば引きこもって以来、まともに自分の顔を鏡で見たことがなかった。
「そ、そんなに酷い顔、かな……」
「ええ、やつれて目の下にクマが出来てますし、お肌もガサガサですよ。何よりも死んだ魚みたいな眼をしてます」
充実した引きこもりライフを営んでいるつもりだったけど、やっぱり不健康だったか。現実から逃げている罪悪感も、無意識に感じていたのかもしれない。とはいえ、今の僕にはやることもないし、何よりもやる気そのものがない。目標とか憧れとか夢とかもないし……。
「そうか、そんなにヤバくなってたか、僕……」
「ええ。ヤバいですよ、本当に」
無邪気な笑顔で言い放つ彼女の美しさに心を奪われそうになったけれど、今は何に対しても感動は薄い。心が堅くなってしまったというか、生きるエネルギーや欲望が無くなってしまったというか……そんな感じだ。唯一あるとすれば、昔への懐かしさだけだ。
「それにしても今日は暑いですね。もしお暇だったら私の家でスイカでも食べません?」
「あ、スイカ……」
そういえば僕はスイカ目当てに外に出たんだっけ。懐かしい風景にちょっと寄り道してしまったけれど、本来の目的は大好物のスイカをゲットすることだったんだ。今、欲望が唯一あるとすればスイカしかない。
「スイカ、お嫌いですか?」
「い、いや、大好物だけど」
「じゃあぜひご馳走させてください! うちのスイカ、とっても甘くて美味しいんですよ」
「え、君の……斐伊川さんの家ってスイカ農家なの?」
「桔梗でいいです。見た目は私の方が年下ですし、ウフフ」
「あ、うん、わかった。僕の事も国彦でいいよ」
「はい、ありがとうございます、国彦さん」
そう言って彼女は礼儀正しく、そして深々と頭を下げた。その姿はまるで上品な令嬢のようだ。絶対にこの辺りじゃ見られない人種だよ。うん、お辞儀一つでも品がある。美人とイケメンは何をやっても得だ。世の中不公平だ。いやいや、今の問題はそこじゃない、彼女の家がスイカ農家なのかどうかだ。
「違いますよ。でも畑は結構広いんです。スイカの他にも枝豆、トマト、キュウリ、ナス、ゴーヤなんかも作ってます」
笑顔いっぱいに嬉しそうに語る彼女。もしかしてちょっと前に微妙に流行った”農業女子”ってヤツだろうか? 都会の女子が畑を借りて、自分好みの野菜を育てたりするアレだ。あくまでも趣味の範囲内だから、普段は土地を貸している農家が面倒を看て、苗を植えるところと収穫だけを体験するって商売だったかな。成長途中の作物の写真や動画をSNSとかに公開して、ちょっとした農家体験ができる。本物の農家から見れば、お遊びみたいなものなんだろうけど、余っている土地を遊ばせておくよりは全然いいと思う。
今の今に知り合った女子の家にいきなりお邪魔するのは、少し図々しい気もする。だけど彼女の警戒とは無縁のくったくの無い笑顔を見ていると、断るのも気が引ける。
「へぇ、たくさん育てているんだね」
「はい。大地の恵みに感謝しゃなきゃです」
「そ、そうだね。じゃあお言葉に甘えて家までお邪魔するよ」
「えへへ、久々のお客様だからちょっと緊張するなー」
何だろうこの感覚。友達の家に遊びに行くときのワクワク感があるぞ。僕の乾いて堅くなった心に、雫が一滴落ちたみたいな。やっぱり美人の力……じゃなかったスイカの効果は素晴らしいのかもしれない。