第一夏 不幸は続くよどこまでも
「えー、今日で我が社は倒産します」
出勤して早々、大会議室に集められた僕ら社員。支部長はとんでもないひとことを言い放った。周囲の先輩社員や管理職を見回してみる。誰もがキョトンとした顔をしている。何を言われたのか理解できていない。もちろん僕もその一人だ。
「……支部長、どういうことですか!? おっしゃっている意味がわかりませんが?」
僕の上司でもある山形課長がゆっくりと口を開いた。全員が彼に視線を向ける。そう、誰もが今ここで聞きたい質問が集約されているからだ。
「言葉どおりだよ。残念だが倒産だ。私も含めて明日から全員無職ってことだ」
重々しい台詞が支部長の口からゆっくりと放たれる。いつもは堂々たる態度で立派な挨拶を繰り出してくるあの支部長の目が泳いでいる。彼自身も戸惑っているんだろう。
「まさかそんな……信じられません! 先月までうちの売上は好調だったじゃないですか!?」
課長が食い下がる。信じたくないという気持ちがそういう質問を出させるのだろう。確かに僕が所属するこの支部の売上げはずっと好調だった。大きな黒字という訳ではないけれど、赤字になることはなかった。だから、いきなり倒産の二文字を突き付けられても、にわかに信じられなかった。
「この支部は好調だったんだがな……他の支部は赤字だったんだ。会社全体の儲けは吹けば飛ぶような額だ。ここにきて欲をかいたヤツがいてな。役員が不祥事を起こした。それで役所からは3ヶ月間の業務停止命令だ」
「じゃあ3ヶ月間だけ全員休職って訳にはいかないんですか!?」
「うちは顧客との信頼関係で持っている事業だ。一度失われた信用は取り戻せんだろう。実際、不祥事と聞いて、大手の顧客はうちから離れちまったしなぁ」
支部長もやりきれないのか、口調が段々と普段の砕けたものに変わってきていた。もう上司部下の関係というより、運命共同体の同じ仲間として話をしている感じだった。
「ま、さらに言うとだ……うちの一番の稼ぎ頭だった南関東支部が、客ごと引き抜かれて他社に行っちまった。あの支部だけでうちの売上の6割を占めてたからなぁ。ぶっちゃけ、再生できる見込みがないんだよ。回せる金も足らない、信用がた落ちの今の我が社に金を貸してくれる銀行もない。もう事業が続けられないんだ。すまんな、みんな……」
課長以下、全員が言葉を失っていた。もちろん僕もあまりの展開の早さに脳がついていけてなかった。大手だから安定していて潰れないだろうとタカをくくって就職した会社が、まさか2年で潰れるなんて。
「ありえないだろ……ふざけんなよ」
先輩社員の1人がぼそりとぼやいた。僕だってぼやきたい。でもこの絶望感に満ちた会議室で、言葉を発する気力なんてもう残っていなかった。
正直に言おう。この会社に就職するために僕は相当な苦労をした。両親は「安定している公務員になりなさい」と煩かったが、民間企業で自由に仕事がしたかった。だから反対を押し切って東京へ出て、大手企業に就職した。安定を求める両親の心配もわかる。僕だってできれば一生同じ会社で働きたい。転職を繰り返すような不安定な生き方はしたくない。会社が倒産して再就職をするとなれば大変な時代だ。だから安定と自由が両立できる大手企業を選んだ。
「安易だヤツだ」といわれればそれまでだけれど、本音のところは多くの人が同じだと思う。良くも悪くも僕は本当に普通の学生から普通の社会人になった。もちろん仕事は大変だったけれど、やりがいもあったし、取引先との交渉や見たこともない商品を扱うのは面白かった。
趣味をきっかけにして恋人もできた。仕事は安定して軌道に乗り、プライベートも充実。そう、僕は今日のこの瞬間まで人生勝ち組のレールに乗り、将来盤石なハッピーな人生を送れると心の底から思っていたんだ。
――― それなのにまさかの倒産。人生計画のすべてが狂った。
「お前はまだ若いから、第二新卒って手もある。いいよな、羨ましいよ」
と管理職一歩手前のオジサン社員達が、わざと僕に聞こえるようにごちながら大会議室を後にしていった。まだ倒産という事実を受止められずに、呆けたままの人もいる。気持ちはわかる。僕だってショックだ。若いからやり直しが利くとはいえ、僕のような名も知れない三流大学出身で、浅い営業経験しかない人材は転職が難しい。いや、正確に言えば就職はできる。だけど待遇は悪いに決まっている。きっと馬車馬のように働かされ、社蓄にならないと生きていけないような企業がほとんどだろう。
「おい、柳田!」
「はい、なんでしょう?」
落胆の大会議室を後にして、とりあえず自席に戻った僕に先輩社員から声がかかった。
「今週は撤収作業だってよ。書類やら什器やらを片付けるんだとさ。だけど無給だぜ?」
「そう、なんですか……」
「お前、明日出て来る?」
「はぁ、はい。業務命令なら仕方がないですよね」
「つってもなぁ~、もう業務どころか命令する会社がなくなるんだ。やる意味ねえよな」
先輩はもう完全にやる気を失っていた。僕にもやる気なんてない。だけど先輩や上司が出て来るというなら、後輩の僕が出ないというのも何となく気まずい。それに短い間だったけれど、お世話になった会社だ。最後の片付けくらいきっちりやって、さっぱりした気持ちで次に行きたい。
「お世話になった場所ですし、片付け作業出てきますよ」
「……そうか。じゃ、まぁ俺も付き合ってやるよ」
「ありがとうございます、先輩」
そう言って課長の方へ目を向けると、自分の席でまだ呆然としている姿が見えた。頭を抱えたまま動きが止まっている。いつも元気にちょこまかと忙しそうに動き回っている姿とは正反対だ。僕もどう声を掛けていいのかわからない。
◆◇◆◇
――― 翌日。僕と先輩達4人は、誰も居ないオフィスに早朝から出勤していた。本当に僕たち以外には誰も来ていない。
「ま、そりゃそうか。……潰れる会社から無給で力仕事しろって言われても誰も出てこないよな」
「しゃあない、俺たちだけでできる所までやろうぜ」
先輩たちは意外にも前向きだった。もしかしたら、家に居ても不安と不満に押しつぶされそうになっていたのかもしれない。かくいう僕も、昨日は帰宅してもぼんやりといつものように過ごしただけだった。両親にも恋人にも友達にも連絡しないで、普通にご飯を食べ、風呂に入り、テレビを観て、ネットして、床についた。
会社が倒産して職を失う。あまりに突然の出来事に実感が湧かなかっただけかもしれない。ちょっとでも先を考えると気が重くなってしまう。だから無意識に考えるのを避けてしまった。それだけのような気もする。
「じゃあ僕はキャビネットの書類をダンボールに梱包しちゃいますね」
「おう、頼むな。俺らは業務課と経理課のファイルを整理してくる」
今はゴールデンウィークを終わっての5月末日。季節は春の陽気から夏の空気へと変わろうとしていた。当然エアコンなしのオフィスで動いていれば暑くなる。残念ながら、オフィスの窓は嵌め殺しでどこも開かない。
「せんぱーい、暑いっす!」
「柳田ぁ、扇風機が倉庫にあっただろ? アレ持って来い」
「……はーい」
エアコンは既に使用禁止命令が出ていた。使用する電気量を最小限に抑えるためだ。扇風機と電灯、そしてトイレだけなら使っていいという事だった。仕方なしに僕は倉庫まで行って、扇風機を台車で運んだ。台車を押しながらオフィスへ戻ると、普段はネット会議にしか使わない大型の液晶モニタのスイッチがオンになっていた。普段はただのモニタだが、先輩の1人が受信機と繋いでテレビが映るよう設定していた。
「ヘヘヘ、これくらいはいいだろ?」
電気工事とITが得意の先輩がニヤリと得意げに笑う。無給で出勤してるんだ、テレビを観ながら作業するくらい十分許されるだろう。先輩がチャンネルを変えると、テレビからは朝のバラエティ情報番組が流れてきた。そしてピロリンという味気ない音とともに「ニュース速報」の文字が小さく画面の上に表示される。
「おっ!? 何か事件でもあったのか?」
好奇心旺盛な先輩が素早くチャンネルをNHKへと変えた。緊急の時は民放ではなくなぜかNHKにチャンネルを合わせてしまうのは、みんな同じだ。
「……高速道路で大規模玉突き事故。トンネル内で火災発生。死者26名、重軽傷者87名……なんだか大変なニュースだな」
「霧でも出てたんでしょうかね?」
「わからんが、最近あんまりこういう大きな交通事故なんてなかったからなぁ。俺らも営業に出る時は運転に気を付けなきゃな」
「出たくてももう出られませんけどね」
「……柳田、そういうなって」
先輩は何かを我慢するような憎々しい顔で僕をチラリと見て、直ぐに作業へ戻って行った。僕はちょっと悪いことを言ってしまったと思いながらも、ニュースの続きを観ていた。
大きな交通事故なんて、確かに久しぶりだ。最近の自動車は、緊急回避ブレーキなんかも付いて、かなり安全な乗り物になったんじゃないかと思っていた。だけど現実はこれだ。
ふっと画面に見覚えのある白い車体が映った。
「あっ、実家のと同じ車種だよ。ぺちゃんこじゃないか……惨い。これはさすがに厳しいだろうな」
と、まるで遠い世界の話のように思いながらニュースを聞き流していた。そのうちに死亡者の名前が男性アナウンサーの低くて聞き取りやすい声で読み上げられ始めた。
「……井上康子さん、田中一郎さん、柳田めぐみさん、柳田堀二郎さん……」
「えっ!?」
僕は耳を疑った。両親の名前が読み上げられたからだ。暑かったオフィスの気温が一気に下がったように感じられた。血の気が引いて行く。目の前が暗くなる。嫌な予感と不安がどんどん膨れ上がる。
「もう一度読み上げます」
僕はモニタにかぶりつくように近づくと、アナウンサーの読み上げる声に全聴力を傾けた。そして、確かにそこに両親の名前があるのを確認した。
「そ、そんな……」
両親は旅行好きで車であちこち出掛けるのが常だった。だからこそ交通事故には十分注意していたはずだ。いやいや、まてまて。もしかしたら全くの偶然、単なる同姓同名かもしれないじゃないか。「柳田」なんて名字は日本全国普通にある。そうだ、そうに決まってる!
僕は必死で実家の電話番号をダイヤルしていた。
呼び出し音が鳴り続ける。いつまで経っても誰も出ない。ちっくしょう、母さん、何やってるんだよ! ……あっそうか! きっと買い物に出てるんだ。そう思ってスマホの番号へかける。呼び出し音が10回鳴ったところで留守番電話サービスへ繋がってしまう。2回、3回と掛けるが誰も出ない。
その時だった、見知らぬ番号から僕のスマホに着信があった。
「誰だよ! こんな時に!」
憤りながら電話に出る。
「もしもし? 柳田堀二郎さんと柳田めぐみさんの息子さんですか?」
「え、あ、はい、そうです。息子の柳田国彦ですけど……」
「ああ、よかった。私は茨城県警の狭間といいます。今ニュースでやってる事故にご両親が巻き込まれてね……お気の毒だけどこれから司法解剖に……あーもしもし?! 聞こえてます? もしもし?」
それから先はかなり記憶が曖昧だった。気が付いたら家のベッドで横になっていた。後で先輩から来たメールを見たら「こっちのことは気にするな。今はゆっくり休め」とだけ書いてあった。
僕に兄弟姉妹はいない。一人っ子だ。親戚もこの世を去っている。両親だけが唯一の肉親だった。その両親が死んだ。両親が未来永劫生きている訳はない。必ず僕より先に逝くと頭ではわかっていても、こんなにも早く、そして突然に永遠の別れが来るなんて想像もしていなかった。倒産のショックなんて完全に何処かへ吹き飛んでしまっていた。
……もう両親はいない。僕に味方してくれる人は一人もいない。
いい知れぬ不安に襲われた。24歳の僕は、恥ずかしながら自分が死ぬなんて意識をしたことがなかった。でも両親が亡くなったことで「次は僕も死ぬんだな」と漠然とした感覚がわかるようになってしまった。考えが一度悪い方向へ動くと、坂道を転がり落ちていくようにネガティブな事ばかりが浮かんでくる。仕事を失い、両親も失った。肉親はもう誰もいない。この世で僕は一人ぼっちだ。強烈な孤独感が心を支配する。ガタガタと震えながら、僕はベットの上で布団に包まりながら、唯一心が繋がる恋人の愛奈に電話をかけた。
「もしもし愛奈?」
「今仕事中。忙しいから後にしてくれない?」
「あ、ゴメン。悪かったね。じゃあまた後でかけるから」
「……何よ、メールじゃなくてわざわざ電話してくるなんて」
「ちょっと話したいことがあってね」
「そう。じゃあ仕事が終わったら家に行くわ」
そう言うとプツッと唐突に切れた。
愛奈は同い年の大学の同期だ。優柔不断な僕とはまるで正反対の性格で、スパっと竹を割ったような女性だ。今は大手IT企業でシステム開発をやっている。大きなプロジェクトを任されて、最近はほとんど家に帰っていない。まさに仕事の虫とは彼女の事だ。
正反対の僕らがくっついたのは、共通の趣味があったからだった。僕も彼女も写真好き、カメラ好きだ。2人で撮影旅行に出かけているうちにいつの間にか付き合っていた。とにかく告白しなくても、2人とも何となくで関係を持ってしまった。そんなフランクな感じだ。
愛奈は、予想外の早さで僕の家のインターフォンを鳴らした。仕事を早く切り上げてくれたのだろうか?
ドアを開けると、そこには相変わらず強気で勝気な顔をした彼女が立っていた。どこから来るのかわからないが、いつだって彼女は自信たっぷりだ。その自信の百分の一でもいいから分けて欲しいものだ。
「酷い顔……どうしたの?」
「両親が交通事故で亡くなったって警察から連絡があってね……」
「うそ……本当に?」
「うん、警察が言うんだ間違いないよ。ただ遺体の方は原型を留めてなくて身元確認が難しいからって」
そこまで口にして、僕はみっともないことに、ハラハラと両目から涙をこぼした。悲しい気持ちが募って、まるで眼からあふれ出ているみたいだ。
「大変じゃない! 死亡届は出したの? 火葬埋葬の許可は? 保険の手続は? これからお通夜? 葬儀の準備は? 喪主になるならいろいろやらなきゃ!」
さすがは愛奈。彼女は僕を慰める前に実務的な心配をした。期待はしていなかったけれど、ここまで見事に愛奈らしい現実主義なところを見せつけられると、心がヒンヤリとしてくる。彼女の厚意はよくわかる。でも今の僕が欲しいのはそれじゃない。すべてを薙ぎ倒して現実を突き進む強い彼女と、僕は少し距離を取りたくなった。
「それと会社が倒産したんだ。僕は来週から無職なんだ」
「えっ!? ウソ!? あの会社が潰れた……どういうこと?」
愛奈の表情が一変した。普段から釣り目で勝気な顔立ちだけれど、今はそれがもっと強張って攻撃的な顔になっている。
倒産の件を僕が洗いざらい話をすると、彼女ははぁーっと大きなため息をついた。その顔は本当に残念そうだった。
「それで……次の就職先は見つかったの? ご両親が亡くなって大変なのはわかるけど、とにかく良い仕事に就かないとお話にならないわよ。第一、無職の男じゃこの私とつり合いが取れないし」
愛奈の言葉を聞いて、僕は心がますます冷えていくのを感じた。「つり合い」って何だよ。お前は僕の仕事の肩書きに好意を寄せていたのかよ!
「……今日はもう帰ってくれ」
「何よ! 人が心配して来てやったっていうのに!」
突然彼女は激昂し始めた。昔から自分の思う通りにならないと、口調を荒げる性質だったけれど、今は露骨に怒っている。こんな顔の彼女を見るのは初めてだった。いや、そもそもこんな顔だったっけ? 違和感を覚えながら、一刻も早く彼女との距離を取りたかった。このままじゃ僕の心の方がもたない。今の僕には彼女の感情を受止められる余裕がない。
無理やり彼女を玄関から追い出し、ドアを閉めて鍵を掛けた。
それでも彼女の怒りは収まらないらしく、玄関のドアに向けて大声で叫んでいた。
「私は貴重な仕事の時間を削ってまで心配をしてやってるのよ! それなのにその態度は何様!? もう知らない、勝手にするといいわ。無職のニートになんて興味ないから! あんたと付き合ったのも大手企業の社員だからよ。フン、さっさと野たれ死ね!」
酷い罵詈雑言を残して彼女は嵐のように去って行った。元々口は悪い方だった。裏表なく何でも素直に話すタイプだった。そこが彼女の魅力でもあったのだけれど、就職してからは異常なまでにステータスや収入を気にするようになっていた。最近ではお互いの趣味だった写真の話もしなくなった。既に冷え切った関係だったのかもしれない。とはいえ、今回の事で彼女の本心がわかってしまった。僕の心が彼女に戻ることは二度とないだろう。
倒産で失業、事故で両親を失い、そして恋人も失った。僕に残っているものはもう何もない。夢も希望もない。いっそ死んでしまおうか。
自殺 ――― そんな危険な言葉ですら今は甘美な響き。
だけど死ぬ勇気だって僕にはない。だったら、とりあえずどうにかして生きるしかないよな。
「……はぁ」
ベッドに寝転び、天井に向かって大きなため息をつく。悲しみと虚しさが入り混じり僕の心を満たす。それだけだ。心に空いた穴が大きすぎて何も考えられない。涙も出ない。とはいえ、田舎の実家に戻らない訳にはいかないだろう。何しろ屋敷があるし、土地もある。放置しておけば直ぐに傷んでしまう。畑や田んぼも手を入れなければ雑草が生えまくって近隣の迷惑になる。メンテナンスが必要だ。
「失業したし、ちょうどいい機会なのかもな……」
誰も居ない部屋で独り呟く。
そういえばもう直ぐスイカの季節になる。毎年田舎のご近所農家からスイカの差し入れがある。小学生の頃はおかげで毎日スイカ三昧だった。そのせいか、今でも僕の大好物はスイカだったりする。夏といえばスイカ。条件反射で情景が思い浮かぶ。
「田舎暮らしも悪くないのかも……な」
誰も居ない部屋でまた呟く。今までも同じだったのに、今日は声がやけに寂しく響くような気がする。
とにかく田舎に帰ろう。そう思い立った僕は、直ぐにネットの引っ越し屋サイトで見積を始めた。