第零夏 序
「……あっつい」
うだるような昼下がり。刺すような陽射し。肌に纏わりつく湿気たっぷりの重い空気。セミの声が支配する炎天下。どこまでも真っ直ぐに伸びる農道にゆらゆらと陽炎が昇り立つ。むせかるような青臭い田んぼの香りが鼻の奥を突く。夏の田舎道。少年時代の思い出を誘う情景がそこかしこにある。
1ヶ月以上も引きこもり生活をして、すっかり体が鈍っていた僕には、たださえ外出は辛い。そしてこの猛暑だ。普通に歩くだけで全身の毛穴から汗が噴き出す。
そして……暑いだけで何もない田舎道に「彼女」は現れた。
田んぼのあぜ道横で、涼みがてら小さなカエルを眺めていた。カエルもこの猛暑で茹っているのだろう。ゲコゲコと鳴くでもなく、水から顔を出してはじっと動きを止めていた。今なら簡単に捕まえられる。そういえば昔はカエルを捕まえて遊んだよなー。なんて思い出に浸っていたら、急に人の気配を感じた。
田んぼは見晴らしがいい。見渡す限り青い稲が育つ平らな土地だ。大きな建物もない。間違いなく今の今まで僕しかいなかった。身を隠す場所なんてありはしない。そもそも、この炎天下でわざわざ稲の間に隠れている人もいないだろう。それに彼女は泥に塗れてもいないし濡れてもない。つまり農作業していたわけじゃない。どこからか降って湧いてきたとしか思えなかった。
見た目は高校生くらいだろうか。清楚な白いワンピースに麦わら帽子。真夏の定番スタイルではあるけれど、これほど綺麗な白ワンピの妖精を僕は見たことがない。「彼女はもしかして幻なんじゃないか?」と半ば本気で思うレベルだった。”話しかける事をためらうほどの美しさ”という言葉は、きっと彼女のためにある。
「ウフフ、カエルさん、早く捕まえなくていいんですか?」
「い、いや……別にいいけど」
彼女の端整な横顔を至近距離で見た僕は、気恥ずかしさで顔が熱くなるのを感じた。夏の暑さとは違う熱さが全身を駆け巡る。心臓がドキドキする。年甲斐もなく思わず声が上ずってしまう。
この辺では見かけたことのない子だった。就職して離れていたとはいえ、この村は僕が22年間生れ育った地元だ。しかも県内一の過疎化率。出て行く者は多いが、引っ越して来る者はほとんどいない。特に若者人口は激減の一途だ。近所で見かける子供の数も相当に少ない。集落はすべて顔見知りで、名前を知らなくても見覚えのある子ばかりだ。
今にして考えれば、この時点で何かがおかしいと気付くべきだったのかもしれない。後悔はないけれど、出会ったこの時に彼女の事をちゃんと考えていれば、もっと違う結末が待っていたのかもしれない。
――― そしてここから、腐ったゴミみたいな僕の人生は大きく変わっていった。