89「その上着、脱ぐの?」
「海だーーーーーーーーーーーーーー!!!!」
待ち合わせ時間に自転車に乗って現れた都築水生は、子供みたいにそんな風に叫んで、クラスメイトの点呼もそこそこ、上着一枚脱ぎ捨てると、家から履いてきていたらしき海パンで、波に突撃していった。
夏の猛暑は、人を水辺にいざなう。海は多くの人にごった返していた。
「おーい準備体操しろー……って、聞いてないな」
「あれは聞いてませんね」
波打ち際から少し離れた木陰のベンチで、桐生と朱葉が呆れながら言った。
桐生は海だというのにいつものように半袖シャツにスラックスで、軽く色のついたサングラスをかけている以外は学校とそう変わらない。
朱葉といえば、一応高校生になってから夏美と一緒に買った、ストライプのビキニを着ていたけれど、上は長袖のパーカーだし、下は水着とセットで買ったデニムのショートパンツを履いているので、水着らしい露出はほとんどなかった。
結局、謎のクラス会という海水浴に、朱葉も参加することになった。
「せんせーも泳ごうよ!」
キラキラした水着を着た女子が、桐生に誘いをかける。しかし桐生は海に不似合いなタブレットから顔も上げずに。
「この格好見てわかりませんか? ただでさえ今は勤務時間外。俺はここで大事な仕事をしているから、ご勝手に。荷物と貴重品だけは見ててやるから、怪我と事故には気をつけなさいね」
(大事な仕事……)
朱葉はちらりと桐生の傍らにある、鞄の中身、辞書のごとく分厚い紙束を横目で見ながら思う。
(カタログチェック……)
それは大事だろう。宝の地図の制作だ。
他の生徒の姿がなくなったので、先生それ、と話しかけようとしたが、波打ち際から夏美の声。
「あーげはー! 写真とろー!」
「今いくー!」
応えて走り出そうとしたけれど。
「委員長」
ふと、呼び止められて朱葉が振り返る。
「なんでしょう、先生」
珍しかった。委員長って呼ばれるの。何か用事でも言いつけられるのだろうか、一応今日もクラス会だし、とりまとめとか、と朱葉が思っていたら。
桐生は日陰のベンチに座ったままで、一言。
「その上着、脱ぐの?」
と朱葉に聞いた。「えっ」と朱葉が目を丸くする。
「脱がない気で来ましたけど……。あとがつくほど焼きたくないし」
薄手のパーカーは水に濡れても大丈夫な仕様のものだった。もちろん日焼け止めも塗っているけれど、変に焼けたらあとがしんどい。
「あ、そ」
と桐生は小さく言う。朱葉はまだ、何かわからずに。
「どうかしましたか」
と聞いたら。
「いや、安心しただけ」
と桐生は、真顔で静かに答えて、言った。
「…………」
朱葉はちょっと考えたけど、わざと笑って、「そんなこと言って、見たかったんじゃないですか~?」とからかいまじりに言う。馬鹿言うんじゃありません、と言われておしまいにしたかったから。
桐生はサングラスの下で、目線は上げずに短く言った。
「来年は見るから」
今度こそ、固まる朱葉に、「どうしたの~!」と声がかかる。そこでようやく小さく桐生は笑って。
「行ってらっしゃい」
朱葉は答えず、砂浜をかけていく。安いサンダルの足が砂にとられて、よろめきながら、顔が赤いのは、強い日差しのせいにして。
海で遊ぶ、といっても、沖まで泳ぐようなことはほとんどなく、主に女子どうしで写真をとったり、ビーチバレーをしたり、大型の浮き具を持ち込んだ男子が馬鹿をやるのを笑ったりしているうちに時間が過ぎた。
「ねぇねぇ委員長」
誰が持ってきたのかは知らないが、少人数用のボートにのって遊んでいたところで、ぐい、と海から都築が身を乗り出して朱葉に聞いた。
「なんで急に来てくれたの?」
都築はもうすっかり水に濡れている。肌も黒くなったし、耳にはおおぶりのピアスに、髪は二段階ほど色が薄くなっていた。
でも、それが確かに似合ってしまうので、生き物として強さを感じた。思わずその顔をまじまじと眺めて朱葉が答えないでいると、都築は笑って。
「もしかして、俺に会いたくなっちゃった?」
そんな軽口を叩く。
最初に誘われた時は、確かにお断り、をしたはずだった。海なんて、別に行く理由がないって。
でも。
「うん」
小さく笑って、朱葉が言う。
「都築くんと、先生にね」
そう答えたら、都築は驚いたように目を丸くした。波の音に消されないよう、顔を近づけ朱葉が言う。
「付き合って、くれるんでしょう?」
約束したもんね? といえば。
「そりゃねーーーでしょーーーー朱葉ちゃあん」
ぼちゃん、とこけて沈んで行った。朱葉が笑っていると。
「っきゃあ!」
いきなりボートが転覆をして、朱葉が頭から海に飛び込んだ。
「ちょっと!! 都築くん!!」
犯人はにやにやとひっくりかえったボートの上、脅威のバランスで立ち上がりながら言う。
「まあ、いーや」
にやっと笑って。
「元気になってよかったじゃん」
多分、あとから聞かれるんだろうけれど、今はそれだけ言うから。
「……どーもっ」
朱葉は渾身の力をこめて、もう一回ひっくり返してやった。
水しぶきとともに、クラスメイトの笑い声がしている。
基本的にはインドア派だけど、悪くないなと、朱葉は思った。
エピローグみたいな話なのでした。
続きをもう一話更新してこの章おわりです。明日になるかこのあと日付変更線後になるかはわたしのがんばりし~だい~




