80「俺達ファンと彼らは、織り姫と彦星なのではあるまいか?」
今年の夏は、冷夏になるとか猛暑になるとか。そんな予測を耳にする前に、容赦なく列島の温度計はぐんぐんスコアをあげ、もう7月をクーラーなしで過ごしていた頃は思い出せない。
たまにまとまった量の雨が突然降り出すのが、梅雨らしい唯一の時間で、あとはただ、強い日差しがコンクリートを焼いている。
異常気象も、慣れてしまえば日常で、特に、高校三年生の夏は本当にめまぐるしい。
「つっかれた~!」
長期休暇を前にしたテストの最終科目がようやく終わり、朱葉が大きくのびをする。
「あげは~ごはんどうする?」
同じくぐったりした様子の夏美が朱葉に尋ねてきた。
「あ、今日購買やってないんだよね? わたし持ってきてないから、コンビニ行きたいんだけど。朝寄ってこれなくて」
「いいよお。付き合う。アイス買うんだ~」
教室はつかの間の開放感にあふれていた。「帰りて~」と男子が叫ぶ。
試験が終わったのだから、通常であれば午前で帰宅出来るはずだったが、三年生は昼食をとって午後からは自習となっている。
とはいえ、自習とは名ばかりで。夏美がぼやく。
「ほーんと、こんな日にやってらんないよね、進路面談なんてさ~」
「まあ、こんな日だからなんじゃない? 授業時間はなかなか潰せないんでしょ」
午後の自習時間に合わせて、個人面談が予定されていた。先月出した、進路調査表を踏まえて、というわけだ。
かったるいし、やってられないけれど、それでもまあ、テストよりはましだ。自習だって、監督もいないからみんなここぞとサボるに違いない。
朱葉も周りに気づかれない範囲で、今やっている原稿をすすめるつもりだった。入稿は来週末なので。
夏美に借りた日焼け止めを首筋に塗りながら、下駄箱までやってくると、そこに人影があった。
「あれ、都築?」
靴を履き替える人影に、声をかけたのは夏美だった。
朱葉達もコンビニまで行こうと思っていたけれど、都築はなんだか違っていた。いつも周りに人が絶えないのに、ひとりだったし。
ぺしゃんこの鞄を脇に抱えていた。
「どこ行くの?」
夏美の言葉に、ぺろ、と都築は舌を出し。
「サボり~!」
うひゃひゃ、と軽薄そうに笑いながら、外へ駆けだして行った。
「なんじゃありゃ」
と夏美が呟き。
「派手なサボりだこと」
と朱葉も呆れて、ため息をついた。
「早乙女さん、どーぞー」
「ありがと」
出席番号が前の子に呼ばれて、教室を出る。じわじわと暑い廊下を過ぎて、職員室の隣、小さな進路指導室をノックする。
「どうぞ」
中から声がして、「失礼します」と入れば、名ばかり自習で騒々しい教室よりも、ずいぶん温度の低い空気に包まれた。
毎日教室で見ている顔が座っていた。対面式にあわせた机には、進路指導用の資料や、プリントが積み上がっていて。
先生らしい先生なのに、二人きりだから、ちょっと変な感じだった。据わりが悪い、というか。
心の置き場が難しい、というか。
(最近、あんまり喋ってなかったしな……)
テスト前は部活動が停止になるせいだった。準備室で話していた時も、テスト期間は、あまり顔を合わせることはなかったけれど。
「ええと、早乙女くんは……」
あくまでも事務的に、桐生がファイルをめくり、進路調査用紙を覗く。
「地元と都内の公立が希望か」
「まだ、滑り止めと学部は迷ってて……」
「芸術系とかは、考えないのか?」
水をむけられえて、ちょっとだけ驚いた。それから、(ああ、先生だな)と変な感慨ももってしまった。
うまくいえないけど、なんとなく。
いろんな意味で、先生だ。
「あんまり、考えないですね。絵は好きなんだけど、これで食べていきたいって、どうしても思えないっていうか……」
口に出してみると、気持ちがするすると形になるのがわかった。
「こればっかりになったら、なんか、いろんなことに悩んで、嫌いになっちゃいそうで……」
本気とか、本気じゃないとか、そういうのは違うんだけど。
朱葉の言葉に、「うん」と桐生が抵抗なく頷いた。
「それは、俺も、それでいいと思うよ」
そう、言われて、ほっとした。ここにきてはじめて、進路のことを、桐生と話すのは、ほとんどはじめてだったことに気づいた。
あんなに二人、いつも話は尽きなかったのに。否、尽きなかったからこそだろうか。
進路調査用紙を眺めながら、桐生がなんということなく言う。
「第一希望の大学は、俺も出身だ」
「……うん」
知ってた。だから、選んだわけでもないけれど。桐生の出身大学ということは、近所のおねーさんも通っていた大学ということで。
どれも決め手に欠ける中で、なんとなく、書いていた。
「どうです? おすすめですか?」
ちょっと誤魔化すように早口で尋ねるけれど、桐生は少し口をへの字に曲げて。
「うーん……どうだろうなぁ……。正直……」
真剣な顔で呟いた。
「オタクやってたことしか記憶になくて……」
「おいしっかりしろよ教育者」と思ったし言ったけれど、まあ知っている。先生はそういう人間だ。
「まあ、オープンキャンパスか学祭に行ってみるのも手なんじゃないか? うまく都合がつきそうなら、付き合うよ」
「え、大丈夫なんですか?」
「まあ、大丈夫なんじゃないかね。そういう口実でもなければ、母校なんて滅多に行かないし。他にもこの大学志望者はいるから、何人かまとめて……」
「ああ……ああ、そうですね」
二人で、というわけではない。当たり前だった。全然がっかりはしてない。当然だと思っている。
「ただ……」
と、桐生がこれまでになく眉を寄せて言う。
「学部によっては今の成績だとちょっとな……」
「わーーーわかってます! それは! わかっています! ギリの判定も出てます! それは、それで……考えます……」
高望みはしないけれど、努力はする、つもりはあるのだ。
夏休みもあるし。
(もうすぐ、同人活動も、休むし)
ちらりと、朱葉が桐生を覗き見る。
決めていたことだし、順当だろうと思う。この夏前のオンリーイベントで、直接参加と新刊の発行を停止する。
オタク自体はやめるつもりはないけれど、絵だって描き続けるけれど。
視線に気づいて桐生が、小さく首を傾げる。
「? なんだ」
「いや、なんでも……ないです……」
決めている。当然だ。
……でも、言えなかった。
なんとなく。踏ん切りがつかなくて。SNSでもきちんと伝えられないでいる。最後の直接参加だと、そろそろ言うべきだとは思っているけれど。
「まあ、あとは早乙女くんの頑張り次第だ。いつでも相談には乗るよ。……志望校は自宅から通える範囲ばかりだけど、自宅から通学?」
「あ、はい、そのつもりです」
親は別に、希望もあるみたいだけれど。
朱葉の気持ちとしては、そうだ。都心に電車一本で出られる距離を、手放すつもりはない。
オタクは都市だ、と感じている。
都市型オタクだったこともあって、他を知らないせいもある。
それからいくつか、簡単に面談を終えると。
「じゃあ、次……」
「はい、次の子呼んで来ますね」
朱葉が立ち上がろうとして。ぐっとその手を桐生が引く。
「その前に、三分だけ、いい?」
真剣な瞳で乞われて、朱葉が目をぱちくりとさせ、座り直す。満を持して、これまでの余裕のある担任教師の顔から、深刻な、切羽詰まった声で、桐生が言った。
「七夕最高では?」
「今言う? それ言う?」
思わず朱葉が言う。桐生の言葉は止まない。
「今言わないでどうするのかというか何日もひとりで抱え込めるかこんなのいきなり七夕の夜に突然のSNS復活はやばいしかでないやばいしか出ない」
桐生が言っていたのは、先週の七夕の夜の話だった。桐生も朱葉も好きな、人気アイドルコンテンツが、七夕夜の限定でSNS発信を行ったのだ。
「一年に一度とは言わないいや一年に一度であってもいいまた一年がんばれる」
桐生が感激にむせびながら言い、はっと気づいて告げた。
「もしかして……俺達ファンと彼らは、織り姫と彦星なのではあるまいか?」
「先生その面で織り姫のつもり?」
思わず言ってしまった。いや、いいけど。別にいいけど。
ひとしきりそんな話をして、約束の三分。(きりがないので朱葉が測っていた)
次の生徒を呼んでくるために立ち上がった朱葉が、桐生を振り返り、言う。
「そういや先生、都築くん、なんかサボって帰っちゃったみたいなんですけど。いいんですか?」
「いーわけねーでしょ」
すでにサボタージュは桐生の耳に入っていたようだった。青筋を浮かべて、桐生が言う。
「あいつには別日別時間でたっぷり個人指導の予定です」
その返答に。
「おつかれさまでーす」と言いつつ。
個人指導ってえろいな、と思ったけど。
今まさに個人指導をおえたばかりの朱葉は、言わずに指導室をあとにしたのだった。
続くような続かないようなの進路相談編だよ。




