75「イケメンみたいなこと、しないで欲しい」
日本列島の多くが雨雲に覆われた日。登校したばかりの朱葉は、小走りで職員室に向かっていた。職員室のドアをあけるまえに、担任である桐生の姿を見つけて声をあげた。
「先生! いいところに!」
声をかける前から朱葉に気づいてた桐生は、足を止めたまま、思わずと言ったように呟く。
「早乙女くん、ひどい格好」
言われた朱葉は頭のてっぺんから一見してわかるように濡れ鼠で。
「わかってます! すみません、部室の鍵借りられますか!?」
「待ってて」
職員室に入った桐生がすぐに出てきた。
「この天気で傘、持ってなかったの?」
鍵を渡しながら桐生が言う。
外は早朝から雨が降ったり止んだりの、ぐずついた天気だった。特にここ十分ほどは、雨粒が大きくなっている。その雨にやられたのだろう。
理解は出来ても納得は出来なかった。家を出る時から、傘が必要な空模様だっただろうに、と言外に尋ねれば。
「電車の中に置いてきちゃったの! ありがとうございます!」
ぱっと鍵を受け取った朱葉が、きびすを返して走って行ってしまった。
桐生はどこかあっけにとられた顔をしていたけれど、「ふむ」と息をつくと、職員室には入らず、方向転換して歩き出した。
まったくついてない、と朱葉は大きなため息をついた。
基本的には放課後にしか開かないはずの漫研の部室の鍵をかりて、とりあえずシャツの上だけでも体操服に着替えた。
スカートもじっとりと重く、不快極まりないけれど、あまり目立つことはしたくない。
鞄はすぐにハンカチで拭いたから、紙ものの被害は少なかったけれど、何より気持ちがブルーだった。
(やっぱりコンビニで傘、買うべきだったかなぁ)
傘を通学電車の一角に立てかけて、日課のスマホゲームのストーリー消化に熱中しすぎてしまった。だから過去編を読むのは気をつけねばならないと思っていたのに。ついつい雨の日モノだったから、ちょうど良いとか思ってしまって……。夢中になってストーリーを消化して、そのまま画面から目を離さず降りて、しまったと気づいたのはもう電車が出た後だった。
駅のコンビニには多分ビニール傘があったけれど、なんだか負けた気がして嫌だった。もったいない、という気持ちもあったし。
駅舎を出た時には、小ぶりになりつつあったのだ。だから、油断した。まさかこんなに降られるとは思ってもみなかった。
そしてどっちみち、スマホの天気予報は、雨が夜まで断続的に降り続くと告げていた。結局帰りもぬれるんじゃないか。だとしたら、やっぱり買うべきだったのかもしれない。
そんな風に落ち込んでいたら、部室のドアが、トントンと鳴った。
「はい!」
俺だけど、と桐生の声がした。いつもならそのまま入ってくるのに、ドアがあくかわりに声。
「入っていい?」
「あ、大丈夫です!」
多分、気を遣ってくれたのだろうと朱葉にもわかった。入ってきた桐生は、朱葉に白いタオルと折りたたみのハンガーを渡してくる。
「準備室においてあったやつだから、薬品くさいかもだけど」
とりあえず、綺麗なはず、という言葉に朱葉は諸手を上げる。
「やったーマジ神!」
言葉は軽くていつものやつだけれど、感謝の気持ちは本物だ。とりあえずばさばさと乱暴に濡れた髪をぬぐった。
「保健室まで行けば、ドライヤーとかあるかも知れない。聞いてこようか?」
「そこまでいらないですよ。ハンガーもありがとうございます」
濡れたシャツをいそいそと干す。これなら室内でも乾いてくれるかもしれない。その背中を見ながら桐生が椅子に座って言う。
「帰りは?」
「うーん。誰かにいれてもらおうかなぁ……雨がやめば、本当はそれがいいんですけど」
朱葉は背を向けたままでそんなことを言う。
桐生は、タオルの隙間から見える、朱葉の首筋にはりついた髪を見ながら。
「遅い時間になっても、やまなかったら」
なんでもないことのように、肘をついてぼそりと桐生が言う。
「送っていこうか」
その言葉に朱葉は目をまるくして、桐生を見た。桐生は朱葉と目はあわせなかった。
「早乙女くんには、風邪でも、引いてもらったら、困るし」
そんな風に桐生は言うけれど。
「先生」
朱葉が、ぎゅっとタオルを握って言う。
「先生、だめですよ、先生」
そういうのはだめです。
先生、と繰り返し、呼んだのは。
……そういう立場、だからだ。
朱葉は、生徒で。
桐生は、先生で。
だから、それは、ふさわしくない。今の、自分達には。この、そういう、ロールプレイ-には。
「うん」
桐生は静かに頷いて、立ち上がる。
「ごめん」
言ってから、それも違うと思ったのか、顔をあげて。
「なんでもなかった」
そう、言うから。
「そうですね。なんでもなかったです」
と朱葉も頷いた。それでいい。今更、こんなことで。また距離をとったり、お互いうろたえたり、もしたくない。
近づきたいのか、はわからないけれど。
遠ざかりたいわけじゃないから。
部室を出る間際に、桐生が言う。
「……委員長が、風邪引くと困るから、それだけは、本当に気をつけて」
わざと、委員長と言ったのは、朱葉の立場を尊重した結果なのだろう。「はい」と朱葉はこたえて。
「あの、でも」
一歩踏み出し、呼び止めると言った。
「タオル、ありがとうございました。助かったし。……嬉しかったです」
その言葉に、桐生はふっと、微笑んで。
「どういたしまして」
と出て行った。
桐生が出て行ったあと、どこか遠くに響く、予鈴の音を聞きながら。
「……気をつけよう」
小さく呟く。白いタオルで顔を隠すと。ほのかに薬品と、桐生のにおいがする気がした。
無事に昼休みまでにシャツは乾いたので、放課後、いつもより早めに咲と一緒に帰ることにした。
「センパイと相合い傘ですか!? 喜んで!!」
と咲は無駄にテンションが高い。先日、一緒に帰ろうと言っていたのを反故にしたのもあって、彼女が喜んでいるのを見るのは朱葉も嬉しかった。
「なんでしたら、駅からも咲の傘、お持ちしますか!? 咲は迎えにきてもらえますし!」
「いや、そこまでするのはね……」
駅で忘れ物を探してみるよ、と言いながら、自分の下駄箱の前に立ったのだけれど。
「…………あれ」
出席番号が打たれた、靴の入った下駄箱の、上段に。
(これ……)
見覚えの無い、折りたたみ傘。
(…………もー、)
心当たりは、ひとつぐらいしかなかったけれど。
「……イケメンみたいなこと、しないで欲しい」
そんな風にうめいていたら。「センパイ、どうしましたか?」と咲に話しかけられた。
「なんでも! ないよ!」
「? あれ、傘……」
「ああうん、折りたたみがね、あったみたい」
でも、一緒に帰ろうか、と言って。
ぱちん、と玄関先で傘を開いたら。
そこに広がった模様に、愕然とする朱葉の隣で、咲が金切り声をあげる。
「せせせせせんぱいそれ!!!!!! 一番くじのラスワンじゃないですかーーー!!」
内側にプリントされた大判の痛傘に。
(……前言、撤回)
イケメンなんていない、と思った、その時に。
桐生がくしゃみをしたかどうかは、朱葉は知らない。
びーずろグ文庫アリス版、発売いたしました。
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