70「悪い男は、俺だけでいい」
「ごめん」
マリカの姿が見えなくなって、どすん、と桐生が椅子に座った。
ため息を隠すように口元に手をやって、なんだかすごく、考え込むような横顔だった。
朱葉は桐生の横顔を見て、去って行ったマリカの背中を思い出して。
「いいんですか、謝る相手」
思わず、言ってしまう。
「わたしだけで」
我ながら、意地の悪い言葉だとは思ったけれど、思い切って、続けた。
「マリカさんも、傷ついてると思いますよ」
言ったらちょっと胸が詰まった。多分、同じ、女として。こんなのは同情なのかもしれない。本人に知られたら、自意識もプライドも人一倍あるであろう彼女のことだ。それこそ呪われてしまいそうだけれど。
朱葉を傷つけようとした、あの言葉は。
多分、彼女自身を過去に、もしかしたら今も、傷つけている言葉なんじゃないかと思った。
「………………」
桐生は考え込むみたいに、額をおさえて首をふると、少しだけ疲労のにじむ声で言った。
「…………マリカには、多分ずっと、間違った選択肢をとり続けてきたんだと思う。あんまり正解をとったことがないから、今でも何が正解なのか、よくわからない」
選択肢って……と思わなくもなかったけれど、とりあえず朱葉は黙って聞いた。
「だから、本当は」
陽の落ちかけて影が色濃くなって。
「ぱぴりお先生にだって、間違った選択肢をとり続けてるんじゃないかって思うことがある」
そう、続けられた言葉に、いよいよ朱葉は呆れて、言ってしまった。
「ゲームじゃねーですよ」
うん、と頷いて。振り返った桐生が、親指と、人差し指で、朱葉のバストアップを切り取るみたいな仕草をして、言った。
「ゲームだったら楽なのに」
なるほどこれが、あのマリカさんを怒らせる、ダメ選択肢か、と思わなくともなかったけれど。
朱葉は呆れこそすれ、何故かあんまり怒りがわかなくて、むしろ、いつもの調子が少し戻ってきたことに安堵して。
自分も、親指と人差し指で、桐生を切り取りながら言った。
「ふだせんはねー。結構ちょろいですよ」
攻略キャラとしては。イラスト一枚、コピー本の一冊で、いくらでも懐柔出来るし。課金するまでもない。
「知ってる」
と桐生が小さく笑って言うと、
「でも、ぱぴりお先生がチートなだけだよ」
そう、付け加えた。
俺にとってチートだから、と。
朱葉はその言葉に、「そうかなぁ」と呟いてみる。少しの照れ隠しと、それからほとんど本音で。
「わたしが本当にチートなら、もっと最強で、上手く攻略出来たんじゃ、ないですかね」
こんな風に、いろんな人に、可哀想とか、言われることもなくって。
もっと、なんかわからないけど、上手くやれたはずだった。
「それは、攻略相手のバグだよ。ぱぴりお先生のスキルもパラメータも、本当に最強だよ」
「信じられないなぁ」
チートだったら今頃ハーレムだったはずなのに。好きな人の、ひとりも落とせる気がしない、と心の中だけで思う。
攻略とか。
チートとか。
冗談めかして言っているけれど、すれすれの会話だ。どこまで本気かわからないし、どこまで本当かもわからない。でも、悪い魔法があれば、いい魔法もある、なんてことを朱葉は思う。
今日、ここにきたこと、一緒に楽しんだこと。
何かのチート能力が作用した、ボーナスみたいな魔法なら。
朱葉は片手を持ち上げて、桐生に差し出す。
「送ってくれるんですよね。直結の駅は、混んでそうだから。少し、歩いて。この先の駅まででいいですから」
わたしのこと、チートだって言うなら。
これくらいは、許されたい、と思った。
「……うん」
桐生が立ち上がり、朱葉の手を取って。ゆっくりと、歩き出す。
もう、夜はすぐそこまで来ているようだった。
歩き慣れない大人の街は、その時間帯も相まって、朱葉にとってどこか異国めいていた。桐生は駅までの道は頭に入っているようで、スマホを開くこともなかった。
なるほど、と朱葉は思う。
片手が塞がっていると、ゲームがしにくいものだ。わからないけれど、マリカさんだって、こういう風に、桐生の性質をうまく操っていけたらよかったのにと思って、他の女性のことばかり考えているのも、おかしいことだなと思った。
ただ、こんな時でもないと、聞けないこともあるので。
朱葉は桐生にマリカのことを聞いたし、ぽつりぽつりと、断片的にではあるけれど桐生も話してくれた。
もちろん、踏み込んだことなんてひとつも聞かなかったけれど、桐生の中で、マリカとのことは、いい思い出となっていることが多いようだった。彼女の冴えたデザインセンスや、漫研サークルの面白かった話なんかを、聞いて。
迷ったけれど、朱葉は桐生に尋ねた。
「もう一度、やり直したいって言われたら。どうするんですか」
終わってしまったことかもしれないけれど。
悪い思い出じゃないなら。もしも、もう一度やり直したいと言われたら。
カップルも多い夜道を歩きながら、桐生が答える。
「なんて返すかは……その時にならないとわからないけど」
出来るだけ嘘のない、誠実をにじませる声で。
「俺は、ぱぴりお先生との取引を、反故にするつもりはないから」
その答えに、朱葉は自分達の間にある取引のことを思った。
今ある立場。二人の立ち位置。かろうじてよるべにするのは、あの取引ひとつなのだろう。
あのささやかな取引が、自分達を支えているように思えたし、その一方で、自分達を、縛っているようにも思えた。
「……ごめん」
もう一度、桐生が言った。
「何に対する、ごめんですか」
「いや……俺が、ひどくて」
きっと、ぱぴりお先生のことも傷つけている、と桐生は言った。朱葉は、行く先に駅の淡い光を見ながら、桐生の手を引き、足を止めて言った。
「わたしは、今のところ、傷ついたことないです」
呆れることもあるし、怒ることも、まああったけれど。桐生に傷つけられたことは、これまでない、と朱葉は思った。
「でも」
強めに、手を、握って。
覚悟を決めて、朱葉が言う。
「別に、傷ついてもいいと思ってますよ」
虚を突かれたような顔を、桐生はした。驚かせたな、と朱葉は思って。ゆっくりと握った手を離した。
そして、安心させるように笑って、言う。
「傷つきたいわけじゃないですけどね。そこは、大事」
その時、ふと、ビル風が吹いて、朱葉の帽子が煽られた。「あ、」と朱葉が声をあげ、数歩駆けだした、桐生が朱葉の帽子を拾った。
「早乙女くん」
そして、朱葉の名前を呼んだ。そして、朱葉に背を向けたままで、言う。
「…………何か、希望や、要望があったら言って。見捨てないでくれるなら、俺は、反省と、努力をする」
俺は多分、上手くはないけれど。
知ってるよ、と朱葉は思いながら。
「──そんなこと言って」
少しばかり、意地悪な気持ちが、頭をもたげた。
「わたしがすごく、わがまま言うようになったらどうするんですか」
目を伏せ、ちょっと笑って。そう尋ねた。何を、どうとか、別にないけど。もしも、もしも言ったとしたら、桐生はどうするんだろう。
この、魔法みたいな時間に。
これ以上、を、今。望んだら。
けれど、桐生は振り返ると、朱葉の頭に帽子を乗せて。
「言ったら?」
向かい合わせに、低い声で、言う。
「言ってごらん」
その、響きと、近さに。声に、言葉に、朱葉は唐突に、どうしていいのかわからなくなって。
硬直して、言葉を、失ってしまう。時間にしてみればほんの少しの、永遠めいた、沈黙のあとに。
「──嘘だよ。ずるいことを言いました」
そう言った桐生が、朱葉の頭をぽんぽんと叩いて。
「そのままでいいよ。早乙女くんは良い子でいてください」
そんな風に、どこか突き放すようなことを言って。
かぶせた帽子を、目深にさげた。
そうして、朱葉の視界を奪って。
「悪い男は、俺だけでいい」
囁きは、耳元に。
頬に触れた……かすかな、けれど、確かな、熱。
驚き、朱葉が顔をあげる頃には。
「じゃあ、気をつけて」
桐生はもう、背を向けて、歩き出していた。
「おやすみ」
最後の、言葉はそんなもので。背中が人混みにまぎれ、消えて行く中で。
(……びっくり、した……)
朱葉はその場でしゃがみこんで。
しばらく、立ち上がれそうにもなかった。
美術館デート編、これにて終。
おつきあいありがとうございました。
でもちょっと、アフターエピソードを書くつもりです。




