68「やっぱ手ブレ補正は必須なわけで」
90分とあった入場列の待ち時間は、スマホを握って熱くなっていればすぐだった。水も飲まずに立ちっぱなしでちょっとめまいがしたけれど、広い展示室に入ると、飾られていた大きな絵は、圧巻だった。
元々日本で人気の芸術家だけれど、今回の展示会の盛況は、間違いなくその絵の巨大さにある。描かれた国を出ることもはじめてだというその絵画の数々は、何よりもまず、「なぜこれを持ってこようと思ったのか」と思わせた。
人間が多すぎて、近づくことが出来ないかと思ったけれど、そういう種類のものではなかった。近づくんじゃない。何歩も下がらなければ、絵全体をとらえることが出来ない。
美術館らしき静寂もなく、あたりをざわめきがつつんでいた。美術鑑賞に慣れていないような人も多いのだろう。そんな人のところまで、絵が、届いていることにあたたかなものを感じた。
「キラキラしてる……」
まず飛び込んできた絵に、口をついて出たのはそんな言葉だった。口をあけて、間抜けな顔をしていたと思う。
「はい」
と、隣の桐生から渡されたのは、双眼鏡だった。小型だけれど、結構しっかりしたやつ。
「え、これなに? ガチ?」
言いながら構えてみると。
「うわめっちゃ見える」
やばいやばいやばい、と朱葉が言う。筆跡が迫ってくる。見てはいけないところまで見てしまっているようで、ドキドキする。
「やっぱ手ブレ補正は必須なわけで」
言いながら桐生も双眼鏡をのぞきこんでいる。……先生も? と朱葉が眉を寄せて尋ねる。
「……なんでふたつ持ってるんですか?」
「それは予備です」
だからその鞄は四次元かよと。
ツッコみたかったけれど、今回ばかりはその恩恵にあずかっておくことにする。
そろそろとふたり、巨大な絵の前にすり足になりながら、進んでいく。「死に場所まで情緒がある」「幻想の方がくっきりしてる」「ここに百合を感じる」「美少年っょぃ」「妻もっょぃ」「はーまた燃えた」「景気よく燃えてる」「すぐカップルの家を燃やす腐女子みたい」「わかりみ」などとやくたいもない話をしながら。
しかしじきに朱葉がつらくなってきた。
「うう……つら……」
眉間をおさえて、噛みしめるように。
「うまくてつらくなる……」
別に自分と比べるわけではないけれど。ただ、やっぱり、圧倒的な美術というのは、暴力なのだ。
「白がすごいなー……煙とか、金属の光、とかが……」
「がんばれ、がんばれ」
隣の桐生からはいい加減な合いの手が入る。もちろん、それ以上のものは望んではいなかったし、その合いの手が入ることで、むしろ一周回って面白くなってきたことも事実だった。
巨大な作品群をぬけ、馴染みの深いポスターなどの小品の展示に入る。スペースの関係か、こちらの方が混雑がひどく、空気も薄かった。
「いやーすごい、すごいしか出ない」
「作品ひとつひとつにオリジナル一万人usersのタグをつけていきたい」
そんなことを言いながらも、朱葉達は人の波の隙間から、食い入るように作品を見詰めていく。
一点の下絵の前で、思わず朱葉が声をあげた。
「はーー?? ちょっと、ちょっと見て!! アタリ!! アタリがある!!!」
「マジか」
隣の桐生も思わず顔を近づけて見てきた。下絵とされた展示物の端に、朱葉も慣れ親しんだ、まるを描いて十字を描く、アタリとしか言いようがないアレ、が描かれていた。
「そうか……アタリ描くんだ……なんか……勇気出るな……」
ほろり、と朱葉が目頭をおさえる仕草をしたら、そのまま少し、ぐにゃりと、認識がゆがんだ。
(あれ?)
床が、やわらかくなった、という、感覚。傍目には、ぐるりと頭を揺らした、だけだったけれど。
「早乙女くん?」
背後に立っていた桐生が、朱葉の両肩を掴んだ。しぱしぱと、朱葉は瞬きをする。
「あ、すみません……」
謝る言葉が口をついて出たけれど、とたん、ガンと頭痛がして、顔をしかめる。
「いたた……」
酔ったのかもしれない。夢中で見てたけれど、人が多すぎて、空気が薄かった。なめていたのかも。水分も、塩分タブレットも、食べておけばよかった、と今更な後悔が脳裏をよぎった。
「こっち」
耳元で桐生の囁きが聞こえて、人の波から外される。
「大丈夫です……」
根拠はなかったけれど、そんなにひどくはない、と言おうとして。
「もう出口だから。いいからおいで」
そう遮られて、腕をつかまれて出口へ。
天井の高い展示場外に出ると、ほっとした。
「医務室とか、いる?」
「いえ、いらないと思います。ずいぶん、楽になりました。でも、ちょっと外の空気吸いたいかも」
「じゃあこっち」
エスカレーターは避けられ、エレベーターで下におりる。見られなかった物販を横目に、(図録だけでも欲しかったなぁ)と思ったけれど、我が儘はいえない。
外のテーブル席に座ると、ほっと息をつく。
桐生は必要以上に心配することはなく、てきぱきと鞄から必要なものだけ出してくる。
「はい、飲み物。タブレット。甘い物の方がよかったら、黒飴がある」
「ふだせんすごい、ドラえもんみたい」
ぺったりと、冷たい金属製のテーブルに上半身をあずけて、朱葉が笑う。桐生も少し笑って。
「未来からきた?」
「そう、具体的には夏のお台場から……」
「冬の装備もぜひお見せしたいところですね」
そんな軽口をたたき合って、陽の落ちかけた、夕暮れの風を感じる。頬杖をついて、朱葉を見下ろしながら、桐生がふと、言った。
「膝でも貸そうか」
「え?」
視線だけ、上を向く。桐生の表情は、横顔でよくわからない。
「この間のお礼に」
ぱっと、思い出したのは、昼休みの部室のこと。
「いらないです」
反射で答える。ちょっとダウンしたけど、あのときの先生ほど、だめじゃ、ないし。
朱葉の答えを予測していたのだろう、「残念」と桐生は言うと、小さく唇の端を曲げて笑うと、横目で朱葉を見下ろして、言った。
「すごくいい気持ちだから、そのうち体験してみるといい」
その言葉に、なんだか少し、下がっていた血がのぼる、ような気がして。「…………」帽子をずらすと、つっぷしたままで顔を隠した。その時だった。
コンコン、と音がした。
近くの、ガラス。建物の壁を、叩くようにして。
(え?)
誰かが立っている。こちらを見ている。知り合いだろうか? どっちの? ──大丈夫?
そんな風なことを思いながら、相手の足下から、ゆっくり、見上げていったら。
『か ず く ん』
そこに立っていた女性の赤い唇が、そんな風に動いた。
マリカ? と小さく呟く、桐生の声がした。
まだ続く!




