65「大人がサボりだ」
桐生先生の、元気がない。
そういう噂が瞬く間に流れたのは、週明けの月曜日、いつもより手早く朝礼を終わらせて、桐生が教室を出て行ったあとだった。
「先生、元気なくない?」
「どことなく顔色も悪いし」
「髪のセットも乱れがちだった」
「肩も落ちてた気がするし」
「声もちょっとかすれてた」
「そんな風に見えた? 背中向けるばっかりであんまりわかんなかった~」
「いや、俺はわかったね」
そんなときに、いつも、軽やかでそれでいてよく通るこえで、ひょいと机に腰を下ろしながら、上段から言うのは都築水生である、とすでに相場は決まってる。
「枯れた声に腫れた目! あれは失恋でもしたんじゃないかな」
その言葉に、教室は大いに盛り上がった。
あの、桐生和人が、失恋!
恋人もいなければ結婚の予定もない、と言っていたはずなのに。もちろん何の根拠もなかったけれど、そこは現役高校生、いつだって、そういう話が好きだから。
「どう思う? 委員長」
わざわざ朱葉の机の近くまで来て、のぞき込んでいうから、「あほくさ」と朱葉は素直に言ってしまった。
もしかしたら、かまをかけられたのかもしれないけれど。
かけられたところで、ひっかかる余地もない、と朱葉は思っている。だからクールに教科書を用意しながら言うのだ。
「みんなが都築くんみたいに、色恋で動いてないと思うよ」
「じゃあ、委員長が確かめてきてよお」
「なんで、わたし?」
「朱葉ちゃん、先生と仲いいでしょ?」
ほら、委員長なんだしさ、と都築。
「忘れがちだけど。あなたも委員長だからね、都築くん」
と朱葉は答えたけれど。
桐生先生の失恋で盛り上がっているクラスメイトを横目で見ながら、小さく朱葉は、ため息をついた。
結局その日は生物の授業はなかったけれど、よその教室での桐生の様子が、休み時間ごとにクラスには駆け巡る。
やっぱり元気がなかったって。
目が腫れてた? それはわかんないけど。
くまはあったって言ってたよ。
じゃあ、やっぱり?
えー誰か聞いてきなよ~。
どうやって聞くの?
よくもそんなに楽しく盛り上がれるものだなぁ、と朱葉はいっそ感心をしていたけれど、昼食時間になり、購買にパンを買いに行こうと、椅子から立ち上がる。
「夏美~」
声をかけたのは、仲良しの夏美だった。いつも一緒に食事をとっているわけだけれど。
「今日はだめ……」
夏美は机に突っ伏したまま、腕を振る。
「あたし今日……閉店中でぇ~~す……」
その腕に握っているのは、リストバンドの名残だった。この週末、ドームで大型のライブイベントに行ってきた彼女が、身体の芯から憔悴しているのがわかった。朱葉は現地には行っていなかったし、映画館でのライブビューイングもなかったから、実際のライブを体感したわけではないが、念願の参戦を果たした夏美が身も世もなく泣いて帰ってきたこと、SNSを含めていろんなすすり泣きが聞こえてきていたから、とにかくすごいライブであったことは、想像に難くない。
「ゆっくり休め……」
学校に来ただけ偉いよな、と朱葉が彼女を置いて購買に行く。適当にパンを買って、教室で食べようか、屋上で食べようかと思っていた時だった。
ふと、思い出したのは、都築の言葉だった。
(「じゃあ、委員長が確かめてきてよお」)
何を? と思わなくもない、し。
なんか確かめるまでもないんだけどなぁ、と思いながら、冷たい飲み物を一本、自販機で買って、生物準備室に。
(いない……)
鍵がかかっていたので、職員室に。
(ここも、いない……)
ふむ、と思いながら、何気なく、特別教室の鍵が下がっている壁の前に行って。
(ない、ってことは)
足早に、職員室をあとにする。
人通りの少ない、廊下で、周りを少し意識して。誰も見てないことを確認してから、ドアに手をかける。
(開いた)
だと思ったよ、とすべりこみ、朱葉が言う。
「いっけないんだ」
昼間は鍵がかかっているはずの、漫研部室、その隅っこで。
並べた椅子に横たわる、あやしげな、影。
「大人がサボりだ」
朱葉が言えば、打ち上げられた死体のごとき背中から、うめき声が上がる。
「傷病休暇が必要……呼んでないのにきた月曜が悪い……」
その手には、夏美が持っていたものと似たリストバンドと、それから銀テープが握られていた。
どうせそうだろう、と思ったのだ。いかにチケット戦争苛烈を極めようと、いや極めているからこそ、この男は現場に入っていないわけがないし。
銀テープを持っているということは、またえぐい席で見たに違いない。
そりゃ、声も枯れるし目も腫れるわ、と思ったけれど。
「しっかりしなよーー!! 夏美だってちゃんと学校来てるんだよ!!」
朱葉が腰に手を当てて見下ろして言えば、
「うう……うう無理……俺の魂はドームに置いてきた……現場で泣きすぎた上に帰宅して全アニメと過去ライブDVDマラソンしてしまった……。わかっていたのに……」
大人らしからぬ言い訳が聞こえる。朱葉は盛大なため息をついて。
「はい! ちょっと! 上半身を起こす! どく! はい!! そう!!」
叱咤だけで抜け殻を起こさせると、頭の部分の椅子に座って、無理矢理自分の膝に寝かせた。
世に言う膝枕、だったけれど。
まあそれは別に、どうでも……よくはないけれど。今は、目をつむることに、する。色々と、まずいけれど。
「手どけて」
きょとんとした目元に、冷たいドリンクのボトルをのせた。
「目、腫れてるって噂たってるよ。コンタクトは?」
「朝、腫れすぎてて……入らなかった……」
ばか、と朱葉が言う。
知ってたけど。本当に、馬鹿だなぁ。
膝の上からずっと、うめき声が上がる。
「現場は最高なんすよ……」
「知らないよ。わたし行ってないもん」
「行こうよ……早乙女くんも行こう……」
「無理ですよあんな激戦区」
円盤か、映画館上映が関の山。今回も、夏美が念願の現場に入れたことを、我がことのように喜んだのだ。
けれど桐生は諦めの悪い声で。
「次は、一緒に行こうよ……」
うわごとみたいに、小さく言うのだ。
「俺を介護して……」
「ぜってえやだ」
このまま、勢い結婚を申し込まれそうなので。しっかりしろよと、ほっぺたをつねる。
まだ、夢うつつで、あんまり、痛くはなさそうだった。
結局目の腫れもおさまり、幾分しゃっきりとした桐生に、「桐生先生、失恋したって言われてたよ」と伝えたら。
「失恋でこんなに泣くわけないでしょう」
と返された。
いやいや断言も出来ないだろう。失恋で泣く人もいるだろうし、それがすべてって人だって、きっといることだろう。都築くんとか。泣くかは知らないけど。
それでも、オタクはすぐに死ぬし、オタクはすぐに泣くから、その感受性の高さに共感と敬意と、それから半ば、呆れもこめて。
ほんとにそれな、と朱葉も答えたのだった。




