62「早乙女くんに向けて歌うよ」
カラオケボックスの騒々しいドリンクバーで、桐生が都築を見下ろしている。なんとなく不穏な空気だった。
「先生、戻らないといけないんじゃない? 先生達がいれた曲、リクエストにいれといたよ」
「別に俺が歌うわけじゃないから」
「それよりこっちが大事って?」
「ドリンクとりにきただけだけど」
「なんだ、俺のこと追いかけてきてくれたわけじゃないんだ? 期待してたのに」
都築は挑発が上手だ。すっと朱葉が顔をそらす。
「…………」
「早乙女くん」
とげのある声で桐生が名前を呼んだのは、なぜか朱葉の方だった。
「いや!! 笑ってないですけど!?」
語るに落ちる。都築だけが「?」と不思議な顔をしていた。桐生はちょっとため息をついて、
「都築くんこそ、男子が呼んでたぞ」
そう言うと、「ハァイ」と都築はすんなり返事をした。
ただし、朱葉の腕をとると、後ろから両肩をつかむ形で言う。
「なんかね、あげはちゃん、空気こもっててきつくなったみたいだよ。先生に任せるし、落ち着いたらまた戻ってきてネ~」
返事も待たずに手を離すと、ふわりと軽やかに去って行く。捨て台詞は笑って。
「それまで俺はスーパーテクでみんなを釘付けしとくから、ごゆっくり~!」
その楽しそうな背中に、なんだったんだろう、と朱葉は思う。いまいち、つかみ所がなくて、よくわかんない人だな、と。
桐生の方は、何をどう思ったのか、よくわからない。見上げたけれど、そこには半ば目を伏せた端正な横顔だけがあって。
「……持ってて」
渡されたのは、ドリンクの入ったカップだった。言われるままに手にとったけれど、どうするのかと思えば桐生もまた朱葉に背を向けて歩いていってしまう。
「え、ちょっ……」
これ、どうするの? と両手にコップを持って立ち尽くしていると、ほどなく戻ってきた。
特にかわったところはないけれど、手に、伝票を持っている。
(伝票?)
なんのだ? と思っていたら、手を引かれて、奥の小さなボックスに入った。
「へ??」
先生、何、と言ったら、コップはテーブルに置かれ、ソファに座らされる。一緒になって桐生も座ったけれど、ソファではなく、朱葉の目前にしゃがむ形で。
「とりあえず一時間借りてきたけど、寝れるようなら延長してもいいから」
「ええっ、えーと……」
部屋を、借りてきたのだと思って、うろたえた。こういうことに、こういう感じで、お金を使われるのは、慣れて、いない。
「大丈夫です、きつくないし、あれは……」
都築の、適当な発言で、なんの根拠もなくて、と言おうとして、立ち上がろうとしたけれど。
「まぁまぁ」
立ち上がろうとした手が、引き戻されて。
「そういう、ことで。……ひとつ」
そう、言われたら。
「…………はい」
なんとなく、おとなしく、ソファに戻って、頷いてしまった。その様子に、桐生は少し安心をしたように息をついて、隣に座ると。
「口車に乗せられてるみたいで、どうも納得はいかないけどね……」
とひとりごとのように呟いた。
それは、どういうことですか、と朱葉が聞こうとしたけれど。
「寝るなら、膝でも貸す?」
「いや!! いいです!!!!」
聞かれて、全力で否定してしまった。なんだかびっくりした。今日はずいぶん、びっくりして。
振り回されてばかりのような気がした。
例えば、手を引かれた、そのあとの、手。
ソファの上で、重なっているのの、力の入れ方、動かし方がわからなくて、すごく、戸惑う。
クラスの部屋からだろう。楽しげが声が漏れ聞こえていた。外からは小窓を覗いても、二人が並んで座っている姿は見えないだろう。何の話をすればいいのかな、と思っていたら、口を開いたのは桐生の方だった。
「──俺は、ちょっと、疲れてる」
朱葉が、うつむいていた顔を上げる。桐生は朱葉の方は見ず、ちょっと下を向いて笑って。
「大人数カラオケとか。昔はよくやってた気がするんだけど。やっぱ元気だな、高校生」
「先生もう、アラサーですもんね」
朱葉が思わず言ったら、横目で睨んで笑った。
「言うね。早乙女くんも疲れてるでしょ。昨日までのイベントおつかれさまです」
「いや~わたし出たの一昨日だけですし、昨日は休みましたよ」
「俺は今日の午前も創作系のイベント並んでから来ました」
「疲れてる原因はそれだよ! っていうか創作系もいってんの!?」
「創作系はセーフかなと思って……」
セフトだよ! と朱葉が自分でもよくわかっていないことを言った。
「いや、それよりも……」
「それよりも?」
「ソシャゲのGWイベントが思ったよりヘビーで」
「それ!! な!!」
思わず重ねていない方の手で指さして言ってしまう。
「ほんとそれ。あれほんと終わる?」「いや無理はしないほうがいいでも地道にやれば捨てるよりも美味しい」という専門的な話を早口で終わらせると、朱葉が一息ついて、うつむいてから、言った。
「…………好きなんですか?」
ん? と桐生が朱葉を振り返る。
「ああいう、女子アイドルの曲」
別に聞かなくてもいいし聞く必要もなかったし、多分聞きたいのはそういうことじゃないような気もしたのだけれど、なんとなく、流れで。
あー、と桐生も、すぐ何の話かはわかったようで。
「あのアイドルグループって」
くい、と今はない眼鏡をあげる仕草をして。
「歌う曲のコンセプトが多くは『男性ファン目線でアイドルに向けて歌う』であるゆえに、基本的に一人称が『僕』で二人称が『君』なわけですよ」
「はぁ」
いきなり人称の話から入って。
「BLだと思って聞くとめっちゃ萌える」
結論がそれだった。
(馬鹿か?)
とは思ったけれど。一周まわって考えたら。
「…………あ、やばい、めっちゃ萌える気がする」
でっしょー、と桐生が言った。二人っきりのカラオケルームだけれど、まったくムードもへったくれもない。
「俺はもうしばらくしたら先に帰るつもりだけど」
と、手を伸ばした桐生がテーブルの上のマイクをとって、朱葉に言う。
「歌う?」
え? と朱葉が目を丸くする。
「一曲くらい。バレないと思うけど。よかったら」
せっかくだから。アニソンでも、ドルソンでも、声優ソングでも、なんでも。
一緒に歌おうか、と誘われてるのは、わかったけれど。
「……やめときます」
ちょっと笑って、朱葉が言う。
「先生の歌、みんなも聞きたいと思いますもん。わたしがここでひとりで聞くのは……フェアじゃない、と思います」
そこまでの。
特別扱いは……『気分が悪くて休んでいる』自分には、過ぎたものだと、朱葉が思った。
「そっか」
残念、という言葉は、口の中だけで、明確に言葉にはしなかった。なんとなく、伝わったけれど。
「帰る前に、一曲くらい歌って下さいよ、喜ぶと思いますよ。別に、ドルソンでも、アニソンでも、別に、どう転んでも盛り上がるだけだと思いますよ」
「生徒の前で、歌ねぇ……」
「別に上手くなくたっていいんですよ。都築くんみたいになんでも歌えるチートさはいりませんし!」
「つづきくんみたいに、ね」
変なところだけそんな風に繰り返して。
「わかった」
立ち上がると、さらりと言った。
「早乙女くんに向けて歌うよ」
少し休んだら戻ってきなさい、と言って、桐生は伝票を持って出ていってしまった。
「…………」
ひとりになった朱葉は、かんがえることをやめて。
ぱたん、とソファに、ほんのしばらくの間だけれど、倒れるように、寝転んでしまった。
なんとか気力をふりしぼってカラオケルームに戻ると、ちょうど桐生がマイクをもったところだった。
「委員長~!! 調子大丈夫? おかえり!」
そんな風に迎えてくれたのは、コミュ強の都築で、適当にあしらって座ると、生徒達が噂をしている。
前奏が始まる。
なんの歌うたうの?
えー知らない。
あれ、この人歌手だっけ。
え、でも歌上手いらしいよ。
英語じゃん。っていうか、きりゅせん……。
歌、うまいね……と誰ともなく聞こえる。なんの、歌なのかは、朱葉には、すぐにわかった。前奏三秒でわかった。
(早乙女くんに向けて歌うよ)
アニソンではあったけれど、一般向けの俳優が歌っていた曲で、しかも全曲英語歌詞を、桐生は難なく歌い上げていた。
その横顔は端正で、音も発音も、まったくの外れがない。
みんなが感心して聞き入ると、終わってから、大きな拍手。朱葉も同じように、手を叩きながら。
「……おめでとう……」
万感の涙を浮かべて言うのだ。
「映画化、おめでとう……」
まあ、感動の涙としては、ちょっと人とは、違ったけれども。
オタク的には、そういうこともある。し、桐生が朱葉に向けて歌うといった、その気持ちははっきり受け取ったと、いってもよかった。
一曲さらりと歌いあげた桐生は、そのままリクエスト責めを逃れるように部屋から出て行った。
「あ、朱葉いいんちょ~」
桐生が出て行ってから、都築がわざと大きな声で言った。
「きりゅせんに、帰り際フロント寄っていってっていうの忘れた! ごめんだけど言ってきてくれる?」
わかった、と朱葉は部屋を出たけれど、
(多分、先生もそれくらいわかると思うけど……)
そう思った通りに、桐生はちゃんとフロントで手続きを済ましていた。
「どうかした?」
追ってきた朱葉に桐生がきくと。
「いえ、都築くんが、フロント寄っていけって……。あの、さっき、すみませんでした。ありがとうございました」
朱葉は、そう言って、頭を下げた。
ただの、そういう、プレイだけれど。そういうプレイには、慣れているのだ。
「問題が起きないようにするのが来た目的だから」
と桐生も穏やかに答える。
「……あの」
ぐっと朱葉は、拳に力を込めて。ちょっとだけ、覚悟を決めて……言った。
「妬きましたか? さっき」
今日は、なんだか戸惑う日だから。学校の外。オフでもオンでもない時間。戸惑いついでに、言ってみれば。
「……妬いたよ」
それから、かがむと、朱葉の耳元に囁くように、低い声で。
「だから、もうちょっと、警戒して。……お願いします」
それだけを言うと、顔を見られないように、素早く背を向け歩いていってしまう。
「…………」
残された朱葉は、自分の前髪を、行き場なく掴んで。
「……ずるいなぁ、もう……」
どんな顔でクラス会に戻ればいいのかと、結構、本気で、途方にくれた。




