54「それでもいいよ」
覚悟はしていたけれど、初担任となった新学期、受け持ちが三年生ということもあって、桐生は毎日に追われていた。入学式を終えて通常の時間割になってくれば、もう少し落ち着くだろうとは思ったが、それまでは帰宅が夜中となることもしばしばだった。
それでも、放課後一度は生物準備室に顔を出す。単純に必要なものがまだ置いてあるせいもあるし、息抜きという側面も大きい。オタクはどうしても、ひとりの時間が大切なのだ。もしくは、気の合う仲間達との時間が。
「……なにしてるのかな」
準備室の前まできて、座り込んでスマートフォンをいじっている姿に、半ば呆れながら桐生が言う。
「待ち伏せ♡」
へらっと笑って答えた都築の膝の上には、クラス日誌が置かれている。
しばらくその笑顔を眺めたあと、小さくため息をついて、準備室の鍵をあけながら言葉を交わす。
「職員室来ればいいじゃないか」
「俺職員室苦手~。生徒指導の小田セン、めっちゃうるさくない?」
「苦手とか言う前に、頭と耳、なんとかしなさい」
あと、スマホも。一応校内使用禁止だから。
せめて、隠れるとかしてほしいものだった。
「きりゅせんがずっとここにいりゃいいだけじゃん。委員長も来やすいと思うよ?」
「早乙女くんは職員室でも来るよ」
「俺も委員長です~朱葉ちゃんだけじゃないです~」
煽るなぁ、と心の中だけで思った。顔には出なかった。動揺するほど気持ちを張り詰めているわけでも、後ろ暗いことがあるわけでもない。
「……日誌、置いて帰りなさいね」
「ちぇ」
つまんねーの、と口をとがらす、いつしか都築は丸椅子に座っていた。そこは、いつも朱葉が座っていた席だ。
夕日が差し込んでいる。生徒の手前、タブレットも見られなくて、手持ち無沙汰に書類を眺めた。
都築が椅子をがたがたとゆらしながら机に近づいてくると、頬杖をついて言う。
「ねぇねぇ先生、朱葉ちゃんとどういうおつきあいしてんの」
どうせそんな話をしてくるだろうと思っていた。だから、眉も動かさずに桐生が言う。
「どういう、って?」
「具体的には、どこまでいったの?」
どうせそんな話だろうとは思ったけれど、飛躍の仕方が想定外だった。ぽかんと口をあけて、それからため息混じりに言う。
「別に、君が妄想をするのは自由だけど、早乙女くんに迷惑をかけないように」
「あ、もしかして噂を流すとか思われてる!? ないかんね!? 俺これでも、デリカシーあるって有名なんだから!」
「そっちの有名は聞いたことがないな」
「じゃあどの噂かな~悪い噂ばっかり信じちゃだめだよ。噂するやつみんな俺のことが好きなんだから」
「じゃあ、俺の噂をする都築くんは俺のことも好き、と」
「それでもいいよ」
覗きこむように都築が言う。
「……やめよう」
その目線を隠すように桐生が言うと、「もー先生なんだよー!」とブーイングが入った。こっちこそなんだよと言いたい、と桐生は思う。
「ひとには言わないからさ! ね、生徒と先生の禁断の恋! いーじゃん! 俺素敵だと思うよ~!」
「百回言っても聞かなさそうだから、一回だけしか言わない。……誤解だよ」
ゆっくりと、やわらかい口調で、桐生は言う。
「都築くんの思ってるような関係では、ありません。決してね」
本当は、思っていないような関係ではあるんだけれど。それを別に、説明してやったっていいはずだった。もういい、という気持ちは、桐生にはあった。オタバレ、するならしてしまえば、楽なことだってあるのだ。上手くやれるという自信はあった。
でも、一緒になって、悪目立ちするようなことには、なって欲しくなかった。朱葉のことだ。
いじめられていたことがある、と朱葉は軽い調子で言ったことがある。あんな風に言えるのだから、彼女なりに整理をつけて、乗り越えているんだろう。けれど、だからといって、波風を立てたいわけじゃない。
大事にしたい。
出来うる限り、あらゆる意味で。
それが恋だと……この、恋愛脳であるところの都築は言うのかもしれないけれど、たとえそうだとしても、都築に教えてやるような義理はないと、思う。
都築も大切な生徒のひとりだ。一年上手くつきあっていきたいと思う。
……けども、朱葉を怖がらせた、恨みを忘れたわけでもない。
都築は鳩が豆鉄砲をくらったような顔をしていた。
「えー、でも、だって……」
おかしいじゃん……と、そんな、女子みたいなことをぶつくさと言って。都築は立ち上がる。
「俺、いつでも相談のるよ。全然、うまいことしてやるからさ!」
なおも言いつのるけれど。桐生はそんな彼を追い払いながら言う。
「都築くんにしてもらいたいことっていったら、委員長業務くらいだ」
それから、ふっと笑って。
「俺も早乙女くんも、そんなことにかまけるほど暇じゃないってことだ」
その言葉に、都築は釈然としない様子で頬をかく。
「っかしいなぁ。朱葉ちゃんも、むしろなんか楽しそうにしてるしさ……」
俺の勘違いだったのかなぁ、とぶつくさ言いながら、都築が出て行ったので。
「…………」
桐生はタブレットを開いて、ちょっと考える。
開いたのはSNSのメッセージページで。朱葉は多分、桐生からの連絡を待っていることだろう。しばらく考えたあとに、言うことを決める。とりあえず、これまでの会話の内容は、置いておいて。
>準備室の前で待ち伏せされた。ドアの前でしゃがみこんでた。
とだけ送る。
もう帰宅しているであろう朱葉から、速攻でメッセージが返る。
>っかーーーーー萌えるわ。
その一言だけ。数日前に迫られて怯えていた女子のものとは思えない。朱葉は色々考えた結果、「都築×桐生はありかもしれない」という結論に達したらしい。「ほら、どっちも顔はいいわけだし、チャラ男に真面目教師。いけんじゃない??」という感じで。桐生はこれまで漫研の女子達にさんざん素材にされたことがあるので、げんなりしながら「早乙女くん秋尾にだってそんなこと言わなかったのに……」と言ったら、「そりゃやっぱり、秋尾さんによくしていただいてるしは罪悪感ありますもん~」と言っていた。
都築には罪悪感がないらしい。
だからいいと。よくない。よくないぞ、と桐生は思う。
「まずい…………」
机に突っ伏しながら、桐生が呟く。
「ぱぴりお先生のジャンルがかわってしまう前になんとかせねば……」
なんとかってなんだ。わからないけれど。
ああ、暇で楽しい放課後だった、去年度に帰りたい、と、なんだか予想外な方向から、桐生は思ったのだった。
そろそろ多分入学式だお。




