44「平気じゃなくてもいいけど、大丈夫」
イベントはいつもより少し早く終わらせ、アフターの誘いも断って、朱葉は会場を出た。あまり多く歩き回ることもしなかったので、持ち込んだ新刊も、買い物とあわせても宅急便で搬出するほどの量にはならなかった。ただ、帰り際会場を横切り桐生のお使いだけはすませたあたり、「何をしているんだ?」と自分で思わなくともなかったが。
しかも買い物に行ったら流石に、朱葉も好きそうな本で、ぐう、となった。桐生とはこんなところも趣味が合う。
(読ませてもらおう……)
指定の既刊を買い、足早にそのホールを出ようとした。時間もちょうど、桐生が着くと言っていた時間だった。
ぱっと、目の前に人影がきて、朱葉は反射でよけた。イベントを歩く若者の嗜みのごとく素早い動きだった。そのまま、人影に顔を上げることもせずに立ち去ろうとして。
「あの」
その身体が、朱葉の前に立ちはだかるように、慌てて動いた。
「すみません、あの」
そればかりか、明確に声をかけられた。男の人の声だった。ざわりとした不安とともに顔を上げる。
スーツだ、と思った。きっちりとしたスーツなのに、顔はどこか疲れたような褪せた表情だった。変だな、と思った。
目つきがあんまりよくなく、年齢は、若くはないだろう、とだけ思った。ただの印象だ。でも、そんなことより、朱葉の心にひっかかったのは。
(荷物が、少なすぎる)
このイベント会場、両手を手ぶらで歩いているのは本当に客だろうか。スタッフらしき、しるしもかけてはいない。
じり、と朱葉が、踵に力をいれる。
男性はどこか焦ったような顔で、眉間に皺を寄せながら、早口で言った。
「ちょっと、お話を、……見えない、ところで」
スーツの。男性。心当たりなんてひとつもない。けれど。
「嫌です」
朱葉はきっぱりと言った。拳に力をいれて、強く睨んで。
「誰ですか」
そう尋ねたら、男性は露骨に困った顔をした。薄いため息。それから周りを気にする様子を見せて。
「あちらで、ちょっと」
肩に手を触れようとした。強い力ではなかったけれど、突然触れられて、大きい手が、……それなりに、怖かった。
「嫌です!!」
振り払って、来た道を戻ろうとする。ホールの地図は完全に頭に入っている。今からなら、宅配搬入の口から外に出られるはずだった。
きびすを返した朱葉の背に、慌てた声がかかる。
「待って下さい!! あの、……先生……」
先生、と、言った気がする。何かの聞き間違えだったかもしれない。けど。
(先生)
朱葉の神経が、過敏に反応した。
思わず大声で叫ぶ。
「警察を呼びますから!!!!」
そして、周りのぎょっとした様子を振り切り、人にぶつからないように走りだす。暑いわけでもないのに、じわりと汗がにじんで、だというのに指先は冷たかった。心臓の音がうるさい。でも、足を止めることも、振り返ることも出来なくて、朱葉は待ち合わせの場所に急いだ。
今、たとえば、会う、ことが、得策だとは思わなかったけれど。
ひとりでいるのは、ちょっと、耐えられそうになかった。
指定された会場脇の広場に出ると、朱葉は息を整えることもせずに辺りを見回した。目の前がちかちかとしていた。それが動揺であることも、朱葉にはわからなかった。
ぱ、と音が鳴った。
あやふやなステップでも踏むように、朱葉が辺りをぐるりと見渡す。焦点さえも定かではなかったけれど、その傍らに車が停まって、助手席があいた。
奥から手を伸ばしているのは、──見慣れた、桐生の、きっちりした教師姿だった。オンの姿だ、ということは、何か仕事も入っていたのかもしれない。
けれど、安心を、した。
「早乙女くん」
呼ばれた。朱葉が転がりこむように車中に入る。乗ったことのない、助手席に。
「はぁ、は……」
「落ち着いて」
朱葉の前で桐生が手を数度、開いたり閉じたりしてみせる。その仕草で、ゆっくり、焦点があっていくのがわかった。ものの輪郭がはっきり見えてくる。
「いや、平気……」
「平気じゃなくてもいいけど、大丈夫」
まだ少し青ざめた顔で、言った朱葉の言葉を桐生が遮るように言う。そうか、平気じゃなくていいんだ、と思った。
平気じゃなくていい。
でも、大丈夫。
その二つはちゃんと、同時に成り立つことなのだと思った。だいぶ、肩の力が抜けた。
「もう、なんなんだよ……」
うわごとのように朱葉が言う。
「わけわかんない……」
「うん」
ぽんぽん、と肩を叩かれて。
「よく頑張ったな」
そう言って、助手席のシートに座る朱葉に、覆い被さった。
(えっ)
驚きに朱葉が強く目をつむる。抱きすくめられる、と思った。それは、ちょっと。
「先生、だめ……っ」
「だめじゃない」
ジーっと音がして。軽い、圧迫。目を開いてみれば。
「シートベルト、道路交通法」
真顔で言われた。
あ、そう、ですよね、と朱葉は答えた。
抱きすくめられるかと思った。言わなかったけれど。
桐生は自分もシートベルトをつけると、車を発進させる。それまで桐生はどこか落ち着いた顔をしていたけれど、しばらく車を走らせて少し目つきを変えた。
「早乙女くん、頭下げて。振り向かないように」
静かな声だったけれど、その言葉に朱葉が眉をよせて聞き返す。」
「後ろ。タクシー」
ついてきてる、と言われ、ぞわりと背筋があわだった。
「せ、先生」
サイドミラーさえ見られないでいると、桐生は信号で軽くオーディオを触って。
「一度やってみたかったんだよな」
鳴りだしたのは、有名な刑事ドラマのBGM。年代は違うけれど、朱葉にも聞き覚えがあった。
高らかな音楽とともにアクセルを踏み込んで、桐生が楽しげに呟く。
「レインボーブリッジを封鎖せよ、ってね」
おいこら遊びじゃねえんだぞ! と朱葉は思ったけれど。
軽快な音楽は、なんだかもう、怖くはなくて。
(わたしは小さい名探偵のやつのほうがいいけどな)
と言おうとしたけれど。
なんだか、生存率がとたんに下がりそうなので、言うのはやっぱり、やめにした。
この話はどこにいくんだ。
そして年代は大丈夫なのか。(映画のFINALは5年前だよ!)
はやめに!!次ははやめに更新します!もうらちがあかんからな!がんばります!




