29「またね」
後に、梨本太一が語ったことだが。
朱葉と桐生に置いていかれたのち、太一はひとりの女性に話しかけられたらしい。綺麗な顔でにっこりと笑いながらも、笑っていない目で。
『今の女の子、あなたのツレよね?』
そう、言った。めちゃくちゃ怖かった、と太一は言った。
そりゃこえーよ、と朱葉も思った。
その時のことはまだ知らなかったわけだけれど、太一の家のインターホンを押して出てきたのが、今日桐生と予定があった、はずの、マリカという女性で、朱葉は玄関先で硬直してしまった。
冷え切った沈黙が流れた。
それを割って、自覚はないだろうが、助け船のように現れたのは、太一の姉である縁だった。
「あげはちゃーん! 今日まりかセンパイと会ったんだって!? 偶然だねー入って入って!」
修羅場中なのだろう。縁はいつもとは似ても似つかないぼろっとした格好をしていた。両親はデパートに買い物に出ているそうで、家には縁と太一、それから客人であるマリカだけがいるようだった。
「あ、あの、おねーさん、これCD……」
「ありがとありがと!! なんかセンパイがあげはに話あるんだって! あたしちょっと今スカイプで友達に原稿の指示だししてるから、しばらく二人で話しててもらえる!?」
マリカから、朱葉に。話がある。それは決して聞きたい話ではないのでは? と思ったが、断れる雰囲気でもなく、家の奥へと入っていこうとして、廊下に出てきたのは太一だった。
「あ、」
目があって朱葉が開口一番言う。
「今日はごめん」
太一は相変わらず、あまり喜怒哀楽の変化の少ない顔で。
「いいけど」
と言ってから、先に歩いていくマリカをちらりと見て。
「なんか、お前、大丈夫?」
と聞いた。その時にようやく、アニメショップで太一がマリカにつかまったことを知ったのだった。
大丈夫か大丈夫じゃないかと聞かれれば。
「大丈夫……だと思いたい……」
そううなるように呟いて、それから「今日は映画、ありがと」と一連のことを思い出して付け加えた。「腰、お大事に」とも付け加えようとして。
軽々しく、言っていいことじゃないのかもな、と言葉をひっこめた。
そしてリビングに入ると、お茶だけを出されて縁も自室に消えてしまう。
にこにこと笑うマリカが言う。
「こんにちは、アゲハちゃんね。わたしのことはマリカさんと呼んでくれたらいいから。今日はどうも」
「今日はどうも……」
いきなりだけど、と前置きして。
「どうしてカズくんと貴女が逃げたのか、あたしに教えてくれる?」
とマリカが聞いた。
だよねー、と心の中で朱葉は思った。
連絡をしてくれと、朱葉は桐生には言ったのだけれど、桐生の連絡をマリカは結局最後までとらなかったのだった。
『怒ってると、そういうとこある』
と言葉少なに桐生が言ったので、とりあえず二人で、今日の一件の表向き、を決めたのだった。なぜならオタクは狭いから。
「…………学校の先生だ、って、気づいて、わたしが……ええと……言いふらす前に……先生が……止めようと、して……」
桐生と二人で決めた、その言い訳をしどろもどろに朱葉は言ったが。
「ふぅん?」
マリカの笑顔が怖すぎてそれ以上は続けられなかった。絶対やばい。
「いや……わたしが、意地悪を、言ったんです。なんか、先生が、あんまり、うるさいから。太一とのこととか……。だから、ここから連れていってくれたら、いうことを聞く、って」
「カズくんと仲いいの?」
切り返しの鋭い問いだった。聞きたいことだけを、聞く。潔いまでに。確かに彼女は……強い。
「先生と、生徒です」
「ほんとに、それだけ?」
自分の得たい答えを得られるまで、言い続ける。そんな気配を感じてしまったから、朱葉はもう半ば諦める気持ちで、言った。
「……先生……が、わたしの……サークルの、ファンで……」
「あーーーーーーーーーーーーーー」
いきなりマリカが、額に手をあてて、頭上を仰ぎ見た。
驚いたけれど、ものすごく、なんだかものすごく、一瞬のうちに深いところまで理解をした感嘆だった。
がばっと朱葉に向きなおって、言う。
「それはあれね。地獄かな。めんどくさいでしょ?」
「めんどくさいっすね。色々と」
思わず朱葉も頷いていた。とても神妙に。心の底から、正直に。
「そうかー……そうきたか。まあ、そうね」
がっくりと肩を落とすようにして、マリカがため息混じりに言った。
「真面目につきあうだけ馬鹿をみるわよ。あの男は」
なんとなく、一瞬のうちに、はっきりきっぱり、わかりあってしまったので。朱葉はおそるおそる、聞いていた。
「……マリカさんは、真面目じゃなかったんですか?」
「真面目だったわよ。あの時はね。だから、馬鹿を見た」
即答だった。少し自嘲めいた笑いは、これまで見たことのないものだ。きれいに彩られた爪を眺めながら、マリカがいう。
「だからね、今日はね、不真面目につきあうつもりで、カズくんを誘ったの」
不真面目? と朱葉が聞き返せば。唇の端を曲げる、悪い笑い方をして。
「不真面目な、大人の、おつきあいをね。あたし、カズくんの顔は本当に好きだったもの」
と、マリカが言った。
「未だに、彼に振られたことは結構な、あたしの人生の汚点なんだ」
朱葉は返答に困り、黙りこくってしまった。
マリカも返事を期待しているわけではないようで、思うがままに朱葉に言う。
「最近なんかイライラしちゃって、彼氏くん達とも喧嘩しちゃってね。せっかくだし、メイヨバンカイって思ったのよ。クリスマスくらい賭けてもいいやって思って」
彼氏くん、達。
なんかすごいことを聞いてるな、と朱葉はどこか他人事のように思う。いや、他人事ではあるのだけれど。
「でも、カズくん、相変わらずめんどくさかったから、もういいわ」
肩をすくめて、足を組み直しながらマリカが言う。
「興ざめしちゃった。あたし、あたしを置いていくような男は嫌なのよね」
朱葉は、今日のことを思い出し。
「まあ……いやですよね……」
と心底答えた。
「ねぇ、アゲハちゃん」
マリカがにっこりと、美しく笑って。整った声で、うたうようにさらさらと言う。
「カズくんとつきあうならやめといた方がいいわ。これは経験者からのアドバイスよ。面倒だし、馬鹿だし。クズだし、それからそうね、先生と生徒じゃハイリスクなだけだし。それなのに、若くて一番魅力がある時期吸い取られちゃうわよ」
突然の言葉に、朱葉が困惑を隠しきれずに言う。
「つきあう、とか、考えて、ない、です」
嘘では無い、つもりだった。つきあうという以外の方法で、限られた時間をうまく、一緒にいるために。
交わした取引のことは、マリカには言わないつもりで。
「あら、そ。じゃああたしの考え違いね」
マリカはそう言って、それ以上は追求することはなかった。
手の中のスマホを操作すると、
「彼氏くん達から、いっぱい謝罪の連絡がきはじめたから、この辺で手をうつことにするわ。賭けは、あたしの負けだけど。……まぁ、たまには、いいでしょ」
そう言って、立ち上がる。
「またね」
朱葉ちゃん、と。上段から笑いかけて。
「カズくんのこと、矯正できるならしておいてよ」
そんな風に、まるで友達に言うみたいに、戦友に言うみたいに、朱葉に言った。
美しく、笑って。
「その時、あたしがもう一回、メイヨバンカイしてみせるから」
それは、強い強い言葉だった。
またね、という言葉の意味を。
朱葉は思う。考える。
そして縁に声をかけ、玄関に出て行くマリカの背中を追って。
「あの」
その背中に、朱葉は言った。
「先生は、馬鹿で、クズですけど」
本当にどうしようもなくて、駄目だけど。
「でも、真面目な人だと思います」
自分の、好きなものに対してだけは。
だから、朱葉はきっと、話していて楽しいし、嬉しいのだ。
マリカはその言葉に、振り返ることもせずに。
「知ってるわ」
ヒールを鳴らして、玄関のドアを開きながら言った。
「だからあたしの、汚点なのよ」
彼が真面目に夢中になれるような、あたしになれなかったから。
パタン、とドアが閉まる。
へなへなと朱葉は、思わず座り込んで。
「怖かったー……」
そう、心の底から呟いた。
(またね、か……)
もう来なくていいよとも思ったし、なんて怖い人だろうとも思ったのだけれど。
(多分、悪いのは)
彼女じゃないな、と朱葉は思ってしまったのだった。
同情をする、というわけでもないのだけれど。そんなのは、あの、美しい人には似合わないのだけれど。
(女だからな……)
自分も、彼女も。
なんだかそんなことを、思ってしまった。そしてそれから、もう誰もいなくなった玄関を見ながら。
(あの人にも、いいクリスマスがくるといい)
そんなことを、朱葉は思う。
自分のクリスマスは、まあ、ゲームとイラスト作業と、そういう諸々でそれなりに幸せにすごせるとはいえ。
朱葉は、イラストのリクエストをしたい、という桐生のことを思い出す。
先生の。桐生和人のクリスマスは。
(わたしが、幸せにするんだもんなー……)
それを、少し心のどこかで呆れたけれど、その一方で、どこか、嬉しいと思う気持ちも確かにあったのだ。
メリークリスマス。
ウィーウィッシュアメリークリスマス。
すべての人に、よいクリスマスがありますように。
朱葉はそんなことを思って、その、長い長い、一日を終えた。
年内ラスト1話。冬祭り編を書いて、一区切りです。(別に完結はしません)




