26「心当たりがありすぎて……」
走り出した桐生と朱葉を、振り返った太一がぽかんと口をあけて見ていた。
声をかけるため歩いてきていたマリカも。
とっさのことで動けなかった。
細く狭い、アニメショップビルの階段。人の波をくぐりぬけて、駆け下りていく。二人、重い鞄を提げて。
「おい、早乙女!」
吹き抜けた上階から、太一の声。
「ごめん、ちょっと!」
朱葉はそれだけ言った。つかまれた腕に力がこもり、駆け下りる足が加速する。すれ違う人達が驚いたように二度見していくが、止まらない。そのうち、なんだか、朱葉は笑いがこみあげてきた。
いきなり身体を動かしたから、ハイになったのかもしれない。
3階、2階、1階と、底まで降りて、そのまま店の外へ。師走でごった返す人混みの中を、駅までまっしぐらに走って。
駅前の、待ち合わせの広場で、ようやく、信号に足を止められた。
「どこまで──」
二人、肩で息をしながら。特に桐生は、自分の膝をつかむようにかがんで、上半身全体を揺らしながら、叫ぶみたいにかすれた声で言った。
あごから汗が、一滴落ちて。
「どこまで連れて行けばいい!?」
そう、必死になって聞くから。
「は……はは……あはは……」
朱葉は思わず、天を仰いで笑ってしまった。
いつの間にか離れてしまった手を、上下する背中に置いて、さすって。そっとかぶさるようにして。
「もう、もういいですよ……」
笑えて、笑えて。
なんだか少し、泣きそうな気持ちだった。
お願いしたら本当につれていってくれるのかもしれないと思った。このまま電車にのって。車でもいい。海でも山でも、宇宙の果てでも。
でも、別にそういうことじゃ、ないのだ。
もう、いい。
朱葉の願いはもう、十分に叶っていた。
駅の周縁をまわるように、少し離れて、背の高いビルのある場所で。とりあえず二人は腰を落ち着けた。自販機でコーヒーを買って渡したら、桐生は一気飲みをしていた。それでようやく人心地をついて、ため息とともに、腰をひっかけるだけのベンチに腰かけた。
朱葉はスマホを取り出して言う。
「あのー、とりあえず、太一に連絡してもいいですか?」
「え!?」
びっくりしたように桐生が振り返る。
「今この流れでそれってめっちゃひどくないですか早乙女くん」
「ひどくないです」
だって、と朱葉が持っていたナイロン袋を開いて見せる。
桐生が買っていたものと、同じCD。
「これ、太一のおねーさんのだもん」
持ち逃げされたと思われたら困るでしょ、と言ったら、桐生はぽかんとした顔で。
「おねーさん?」
と聞き返した。さてはやっぱりこいつあんまり聞いてなかったな、と思って、朱葉はもう一度懇切丁寧に説明をしてやった。
梨本太一は幼なじみで、朱葉は特にオタクであったおねーさんの方と仲がよかったこと。今日朱葉が誘われたのも、けがをした太一が、リア充の友達に心配されるのがつらくて、そういう話題が出ない相手として朱葉を選んだだけだったこと。アニメショップに行ったのはおつかいだし、家に呼ばれたのも、おねーさんが朱葉に用があると言っていたからだということ。
「まあ多分、このCD布教でくれるんだと思うんですけど……」
とりあえず、連絡しておきます、と朱葉がスマホを操作した。当たり前だけれど、太一はめちゃくちゃ心配をしていた。あとでまた連絡するから、先に帰ってて、と言って、通話を切る。
「はい、それでは」
朱葉は腰をかけた桐生の前に仁王立ちになって、言う。
「先生はお連れの女性のことを教えて下さい」
「え、なんで?」
「え?」
なんでってなんでだよ。
その打っても響かない調子に少なからず腹を立てながら、朱葉がいう。
「いいからキリキリ答える! 彼女さんなんですか!?」
「い、いや、マリカは……」
「え、」
思いもつかなかった。いっそぽかんと、馬鹿みたいに朱葉も口をあけて。
「元カノさんじゃないですか」
思わず言ったら、桐生が眉を寄せて、とても嫌そうに言った。
「…………なんで知ってるの」
えーと、なんでだっけな、と朱葉はちょっと、考えて。
「オタクが狭いから」
と端的に伝えた。
こういうのが狐につままれた顔っていうんだろうなと、桐生を見ながら朱葉は思った。
オタクが狭い話を聞いた桐生はまだ少し納得いっていない様子ではあったけれど、ぽつぽつと、昔の話をしてくれた。
確かに大学サークルの時代に、マリカとはつきあっていたこと。けれど上手くいかなくて、別れてしまったこと。
「上手くいかなかった理由、聞いても良いですか」
「……それは、マリカに聞いた方がはやいんじゃないかな……」
目をそらし、桐生がぼそぼそと言う。
「心当たりがありすぎて……」
あー、と朱葉は思った。
心当たりがあるだけマシだろう。マシか?
桐生は気まずそうに、小さな声で続ける。
「でも、振ったのは、俺」
朱葉は無言で、その理由を促した。
「もっとあたしを見て、っていう、あたし、が、なんなのかわからなかったから」
それを聞いて、朱葉は、思い出す。
桐生の話は、朱葉がおねーさん達から聞いた話とは少し食い違っていた。けれど、多分、そういうものなのだろう。その食い違いが、埋められない二人の溝だったのかもしれないし、仕方のないことだったのかもしれない。
そう、思った上で。
「め、めんどくせーーーー!!!!!!」
朱葉は思わず叫んでいた。
それは、その、女のそれは、ぶっちゃけすごくめんどくさい!!
すると桐生がすごい勢いで顔を上げて言った。
「そうだろ!? そう思うよな!?」
「思うけど!!!! それ言わせちゃう先生もアカンからね!?」
正論だった。
「ハイ」
しゅんとしおれる。
その丸まった背中に、朱葉は何か、声をかけそうになって、言葉をかけそうになって……のど元まで出かけた言葉を、飲み込んだ。
先生が悪い。多分十中八九先生が悪いし、でも、そういう人を好きになったんだからマリカさんだって覚悟が足りない、と思う。いや、足りないと、一言でいってしまえるのかはわからない。
だって、もう一度、声をかけてきたってことは。
……別に、その、ゲームを返したいだけってわけじゃあ、きっと、ないから。
「先生は、その、マリカさんに連絡しなくていいんですか」
「あっ忘れてた!」
「あのね? そういうところがね? まずね? ほんとにね? 先生ちょっとそういうところあるからね? 反省しよっか?」
思わず幼稚園の先生のように説教してしまった。「ハイ」ともう一度神妙に答えながら、「でも」と桐生が続ける。
「でも、俺も、必死で」
その言葉に、朱葉がちょっと、自分の頬をかく。
確かに、ついかっとなって、あんなことを言ってしまったのは、自分の方だった。思い出すと、自分で、ちょっと、いやかなり、恥ずかしい。
あの時は、つい、ちょっと、腹が立ってしまって。
そんな風に、心の中で言い訳をしていたけれど。
「早乙女くんが、言うこときいてくれるっていうから……」
そう、桐生が呟いたので。
「先生?」
朱葉は桐生に一歩、歩み寄り。ぽん、とその両肩に手を置いた。
「あのね? いっこ聞いていい?」
にこにこと、不自然なほどにこにこと、やっぱり子供に言い聞かせるように、笑って。
「先生の聞いて欲しいことってなーんだ?」
その不穏な空気を、感じながら。
眼鏡の奥の、目をそらし。
けれど、誤魔化しきれずに、欲望を、告げた。
「…………クリスマス絵の、リクエスト…………」
そんなことだろうと思ったよ。バーーーーーーーーーカ。
とりあえず殴るために胸ぐらをつかんで拳を、かまえた。(桐生も殴られる心当たりはあるのか、目を閉じて頬を差し出す勢いだった)
その時だった。
ぱっと辺りが、明るくなった。
まだ夕暮れのはやい時間だが、陽の短い季節、うす暗闇の中で、あたりが光っていた。
クリスマスイルミネーション。
その綺麗な光景を、見ていたら、なんだか怒りが収まってしまって。
朱葉はこぶしをおろし、胸ぐらを離した。
そして、それから、周囲に広がるイルミネーションをぼんやりと眺めながら。
朱葉がぽつりと、呟いた。
「先生、ちょっと、お取引をしませんか」
もうちょっとだけつづくで!




