その9 僕らのステイホーム
朝食のパンは冷凍のクロワッサンをオーブンで焼いたもの。甘めのコーヒーに牛乳をいれて、マグカップと皿を持って自室に向かった。パソコンを立ち上げて、自動でオンラインになる前に画面の中のオンライン状況を見る。着替えをして軽くベースメイクとリップクリームだけ塗って、髪を結んだらオンラインになった。
すぐにかかってくる通話をつなぐ。画面上に小さな窓があらわれて、画面の向こうとつながる。
「おはようございます」
『おはよ』
小さな窓の向こうの桐生は無線のヘッドセットをつなげながらそう言った。朝食は終えているようだが、ラフでオフ、な身なりを見て朱葉が言う。
「今日出勤なしなんですか?」
『一応午前はね。とにかく出勤の人数を制限しろって上からお達しがでたらしい。しかし在宅で出来る仕事でもないからな……』
「大変そうですね」
『まあ大混乱だな。大変なんてもんじゃないけど……それより入学したばかりの生徒や受験生の方が大変だからな……』
「おつかれさまです」
クロワッサンをかじりながら朱葉の朝はSNSの巡回からはじまる。
長い歴史上はじめてとなる夏コミの中止が決まり、それでも本をどうか描き上げてくれと桐生たっての願いを聞き届けて朱葉が新刊を脱稿する頃には、すっかり世の中は「ステイホーム」に様変わりしていた。
朱葉の通っている大学も新学期開始が延期され、今はオンラインでの受講が主で、学校に行かなくてもよくなってしまった。加えて具合の悪いことに、ちょうど自粛がはじまった期間、朱葉の母親は単身赴任の父親のもとに行っていて、帰ってこれなくなってしまった。
とはいえ朱葉もはたちもすぎたいい大人であるので、粛々と自宅の警備に励んでいる。週に1、2度、近所のスーパーくらいであればマスクをしてでかけられたし、桐生に頼めば必要なものを自宅前に宅配してもらうことも出来た(たまに布教物も押しつけられるので、受け渡し専用ボックスを置くことにした)
家から出られず退屈かと思われた自粛の期間であったが。
『うわーーーー!!!!』
「ど、どうしたんですか?」
スピーカーから流れ出た悲鳴にびっくりして朱葉がウィンドウを見た。向こうでは桐生が頭が抱えている。
『今週、例のテレビシリーズ一挙上映、別の生配信トークイベントとかぶった! 死!!』
「うえっマジでそれは死ぬのでは? 大丈夫? アーカイブある?」
『アーカイブはあるが!!! リアタイができない……!! オタクはもう死ぬしかない!!! 見るものが、多すぎる!!!!!!!』
そう、ただでさえ見るものが多いオタク、ここにきて「配信が多すぎる問題」に直面していた。
「あれでも先生、確かあのシリーズ、ボックスで持ってましたよね?」
わざわざ配信で見なくてもいいのでは? という朱葉に、
『再生数イズ、ジャスティス!!!!!』
と絶叫が戻った。
『俺だって本当はこんな風に無料のものを享受したくない、コンテンツに金を払う、それは俺の愛の基本だ! だが! 公式が配信をしてくれるというなら! 無料配信の手応えは視聴者数とコメント数という>>数<<でしか届けられない!! 俺の視数1は微力な1だが、ただその1が集合体となり万になり億になるのだからな!』
「あ、はい」
『あと一挙上映でみんなの実況を楽しみたい!!!!!!!!』
「せやなー」
朱葉がソシャゲの周回をしながら生返事をする。画面の向こうでは桐生が『仕方ない、旧世代タブレットを同時視聴用に出しておくか……俺の耳が二つしかないことが悔やまれる……』と言いながらごそごそと動いていた。
こういう生活をはじめてもう数週間になろうとしている。通話はつなぎっぱなしなので、電話でもかかってこない限り切られることはないし、ともすれば自粛前の期間よりも「一緒にいる」ように感じてしまうのは不思議なものだった。
今度はスピーカーからうめき声。
『今度はあの名作漫画が24時間全話公開だと……仕事してる場合じゃないな』
「いや、仕事をしてください」
『この作品は今そういう目で見るとマジでマジで沼だから都築にも連絡をしておくか。この一挙で再録がWEBにあがる可能性はごまんとある。世界救われる』
「手厚いですね。でも先生都築くんの二次脳に水やるのやめてもらえません?」
『怪物は勝手に育つから怪物なんだなぁ』
「まあそうですけども」
そんなこんなを話しているうちに、じきに昼前になって、時計を見た桐生が慌てたような声をあげる。
『うわ、もう出ないと』
「はーい」
だらだらと描いている落書き作業の手をとめて、朱葉がひらひらと画面越しに手を振った。
「いってらっしゃい~」
その姿を、正しくは画面を、じっと見つめるような気配を感じて、朱葉が顔を上げる。
「どしたんですか?」
『いや』
小さく笑ったのは、苦笑だろうか。
『いってきます』
そう言って、通話が切られる。朱葉はあくびをしてのびをすると、昼ご飯はパスタでもゆでるかと立ち上がった。
午後はだらだらとリモート講義の課題を読んでいると、トークアプリが通知音を鳴らした。おはようのスタンプとともにゲームの誘いをしてきたのはキングで、遊んでいると名作漫画をマラソンしていると思われる都築からも連絡が入る(先生に聞けばと軽くあしらった)。自粛の期間で運動不足を感じたら推しのライブを見ながら上下左右前後の運動が出来るので、推し活は身体にいい。これは科学的にも証明されている。
親との定期連絡を済ませて軽い夕食を食べていると、滑り込むみたいに通話システムが「オフライン」からオンラインにかわった。流れるようにかかっていた通話をとる。
『ただいま』
「おかえりなさ~い」
桐生は髪をくしゃくしゃとしながらテイクアウトしたらしきサンドイッチをデスクに置いた。
『やばかったな開始時間間に合わないかと思ったギリギリセーフ!』
「ちゃんと食べなきゃだめですよ」
『ちゃんと』
桐生がオウムのようにかえす。ぶい、と朱葉がサインをつくった。
「わたしは今日は昼の余りの材料でスープとチャーハンつくりました」
眉を寄せて、強くはない調子で朱葉が言うと、サンドイッチを出す手を止めて、桐生が視線を泳がせた。
『はー、いいな』
その後になんらかのことをいいかけて、けれどやめてしまったようで、サンドイッチごと食べてしまう。手を拭きながら、カチカチカチっとクリックする音がする。
もうすぐ桐生をの言っていた一挙配信の時間だった。別のイベントもかぶっていると言っていたし、ゲームのイベントもあるだろう。
「忙しいなら切りますか?」
邪魔でしょう、という朱葉に。
『え、切らない』
邪魔じゃないから、と桐生が言う。それからどこの画面にもよそ見をせずに、カメラじゃなくてウィンドウの中の朱葉を真っ直ぐ見ながら言った。
『あのね、一応、色々配信や供給がありますが』
ぼそぼそとした口調だったが、誠意のある言葉だった。
『君が優先度第一位なことに、かわりはないので』
あ、はい、とまたそっけなく答えたのは、呆れより……まあ、どちらかといえば、恥ずかしさで。
なので、と桐生が身を乗り出す。
『朱葉くんもいっしょに見ようぜ!』
リアタイ実況! というのに朱葉が身を反らす。
「すぐひとを巻き込もうとすな!」
途中でお風呂入りますからね、と朱葉が断った。
自粛期間のオタクの夜はまだまだ、長い。
七転八倒の夜を終えて、オールならいくらでもできるところだが、桐生の生活時間にあわせている朱葉があくびをする。
「ねむくなってきちゃった」
『ねるかぁ』
「ねますか」
『おやすみ』
「おやすみなさい、先生」
そこで桐生が、わずかに目を細めて呼び止めた。
『あのさ』
「ん?」
『……いや、なんでもないな』
「なんですか?」
いいや、とまた桐生は笑うと、『今日もありがとう』となぜか改まったようなことを言った。「どういたしまして?」と首を傾げて朱葉が答える。別に、礼を言われるようなことはしてないつもりだけれど。
『また明日、朱葉くん』
「また明日、和人さん」
ステイホームは、まだ続いていく。