その6<後編>「うん。好きだよ。朱葉くん」
『大切にする、ってのは、臆病であることとどう違うんだ?』
そんな風に言ったのは、腐れ縁みたいな友人の……秋尾だった。
『お前は自分の欲望を抑え込んで、紳士ぶって満足してるのかもしれないけど。もしくはその欲望だってその程度しかないのかもしれないけど。それはそれで個人の話だから一切構わんことだけど、それが本当に互いが納得した距離感なわけ? それは本当に恋人なわけ。気の合うオタク仲間と、神様と信者と、どう違うんだ。大切にしすぎるってのは、女の子としての彼女を軽んじることになりはしないか。ただでさえ……ただでさえ、彼女は、お前の神様を崩さずに、壊さずに、それでもお前のことを「先生」と言ってくれるんだ。今も』
そのことに、お前はずっと、甘えすぎなんじゃないか──。
「うわ。なにしてるんですか」
朱葉がバスルームから出ると、桐生が逆立ちをしていたので、思わず問いかけたら部屋の隅でぐしゃっと崩れた。なんなんだ、と朱葉が思った。
「あ、もしかして!!!!! 本に手をつけちゃったんですか!?」
桐生は萌えが限界になると逆立ちをする癖がある(らしい)。朱葉も数度しか見たことがなかったけれど。
「まだ」
そう言いながらぬっと立ち上がった桐生が、朱葉の代わりにバスルームに消えて行った。
「……?」
戦利品を読んでないなんて。体調でも悪かったんだろうか。それとも、緊張しているとか? そうして薄暗い部屋の、ひとつしかないベッドを見て、朱葉はため息をついた。
(緊張くらい、するよね……)
バスルームの音が聞こえないように、デスクにそなえつけられていたドライヤーを大きめにかける。パジャマは部屋に用意してあったけれど、朱葉は持ってきたTシャツに下だけパジャマを着ている。空調の効いた部屋は涼しく、それでも風の音はひどいのだろう。つけっぱなしのテレビから、臨時ニュースにはL字がかかっていた。
(ああ、今夜のアニメ録画は台無しになりそう……)
もちろん、災害情報の方が大切だけれど。特に自分達の立場にとっては。
ドライヤーをとめて、振り返る。桐生がとったのは、控えめだけれど、シンプルで小綺麗なビジネスホテルの一室だった。大きなベッドと、簡単なソファと、奥行きのそうないデスク。
「……………」
家族旅行だって、修学旅行だって、こんな部屋は泊まったことがない。だから。
だから……
「な、なにしてるんだ?」
バスルームから出た桐生が思わず聞いた。
椅子に立ってスマホのシャッターを切り続けていた朱葉が答える。
「し、資料写真を……」
「………………」
桐生がソファにあったクッションを持ってきてベッドにふくらみをつくる。
「あ!!!!! あ!!!!!! 悪くない!!!! 悪くないですよ!!! 先生GJ!!!!!!!!!」
それから二人ベッドのシーツを剥がして「それっぽい朝のベッド」の写真をとってから、あまりに盛り上がりすぎてしまい、二人でベッドに大の字になった。まったくどうして、こんなことで、すっかり一仕事終えた気持ちだった。
「どう……どう……します……?」
「ええっと……」
とりあえず、とコンビニで買ってきた飲料水を、桐生が冷蔵庫から出してきた。ちなみに夕飯は二人で、大嵐の中でお好み焼きをたべた。美味しかった。
「ありがとう、ございます」
「じゃあ、とりあえず……」
眼鏡を直して、水分補給を追えた桐生が言った。
「はじめようか」
「槍が降っても持ち帰る」という戦利品の束を積み上げて、桐生が言った。
「…………」
そうだとは思ってた。それは必ずあるとは思ってたけど。
「その前に、先生、一回、座って」
デスクの鏡の前、桐生を座らせると、朱葉がドライヤーを取り出す。
「濡れちゃ困るでしょ」
せっかく雨から守ったんだから、と言いながら、桐生がうなだれて、「はい」と言うので。
なんだか大きな犬でも洗ってるみたいだと、朱葉はひどく穏やかであたたかな、楽しい気持ちになったものだった。
それから二人、掛け布団がはがされ広くなったベッドで、思う存分転がりながら戦利品の鑑賞会をした。(朱葉は五回くらい萌えたシーンの写真をとり、桐生は三回くらい逆立ちをした)
気がついてみれば時間は深夜一時を過ぎていて、テレビではいつの間にか、暴風域も過ぎたことをL字のニュースが伝えていた。嵐が過ぎたのは、自分達だけではないらしい。
「明日は帰れそうですね」
ほっとしたように朱葉が言えば。
「うん。残念」
ぽつりともらした一言に、朱葉が眉をあげて振り返る。けれど桐生は小さく口元に笑みを浮かべたまま、立ち上がって「寝ようか」と言った。
「あ、はい」
ぴっと背筋を伸ばして、朱葉が言う。慌てて戦利品を寄せていたら、「俺、フロントにいって毛布を借りてくるから」と桐生が言った。
「え、寒かったら空調きってもいいですよ?」
部屋の空調がかかっていたが、戦利品による興奮のせいか少し暑いくらいだった。
「いや、俺ソファで寝るから」
少し眉を下げて桐生が言った。困った顔をしていた。
「え、どうしてですか?」
と朱葉が聞いた。
部屋の隅には確かに丸テーブルと一緒にソファがある。けれど二人がけも難しいような小さなものだ。
「…………」
桐生は指を口元にあてて、少し考え込む仕草をした。
「間違いがあると困る」
「間違い」
朱葉がオウム返しに聞いた。それから。
「それは……私達、何か、間違ってるって、ことでしょうか」
特に、ショックをうけた風でもなく、深刻な風でもなく。
あえていうなら、まるで、疑問点を教師にぶつける、生徒のように、まっすぐな様子で朱葉が聞いたので。
「……いいや」
桐生は、教師らしく、先生らしく。
「俺が間違ってた」
自分の間違いを、素直に認めた。
ダウンライトのあかりを落として、けれど真っ暗には出来なくて、淡い光の中で寝転がった。ダブルベッドは二人で寝ても、大きな寝返りを打たなければぶつかることはなさそうだった。
一度すっかり剥がしてしまった、軽い羽毛布団をかけて。
風の音もすっかり静かになってしまっていた。
「おやすみなさい」と声をかけあっていたけれど、すぐに寝入っているわけがないのは、その呼吸の音でもわかった。
小さく桐生がため息をついて、眼鏡を外してベッドサイドに置く気配がした。
なんだか、いろんなことがありましたね。
小さな声で、ぼんやりホテルの天井を見上げながら朱葉が言った。うん、と不明瞭な声で頷いたようなうなったような返事がした。
計画どおりにいかなかったことも多かったけど、楽しかったです。一時はどうなることかと思ったけど。ひとりだったら、諦めていたかもしれません。……連れてきてくれて、ついてきてくれて、ありがとうございました。
いや、俺は、おれは……
桐生がなにごとかためらい、それから。思い切るように、固い声で言った。
礼を言うのは俺の方だと思う。もう何ヶ月も、朱葉くんとは、いろんなところにつきあってもらったけど。二人で遠征することなんて、恋人同士じゃなかったら出来なかったと思う。昔の俺達だったら……。
朱葉は声にも気配にも出さず、少しだけ笑った。
あんなにも何日、毎日過ごしていたのに、それが昔だなんて。
遠いところにきたものだ。
長い時間をかけて。遠い場所まで。
本当のことを言うと。
桐生の声はまだ、緊張していた。
本当のことを、言うと。俺は、早乙女くん、に、卒業なんかして欲しくなかった。ずっと俺の生徒でいて欲しかった。先生と生徒っていう特別な形で、毎日を過ごしていたかった。神様と毎日を過ごしていたかった。
それは、まるで、こう言っているようにも聞こえた。多分朱葉の想像は正しかったんだと思う。ごめん、と桐生が続けたから。
彼はこう言ったのだ。『卒業して、恋人同士になんてなりたくなかった』という、ようなことを。
朱葉は少し胸が痛んだ。
それでも、それでも。
「和人さん」
ベッドに腕をついて、身体を持ち上げて、桐生の方を向いて。朱葉が言う。
「和人さん。楽しかったですよね」
楽しいですよね。私達。間違ってないですよね。
「うん。好きだよ。朱葉くん」
桐生の返事は、どこか今度も、ずれていた。ゆっくりと唇を合わせたら、同じシャンプーのにおいがした。
電気を消そうか、とどちらともなく言った。
暗転?
そう、暗転。
真っ暗にしたら、もうそこでは、何があったかはわからないから。
あとは、読者の、想像通り?
そう。
なにかがあるかもしれないし、なんにもないのかもしれない。
でも、大抵の場合。
──悪いことじゃ、ないはずだから。
翌日、ギリギリにとれた昼の臨時バスは、行きの三列のものとは違って、四列の狭苦しいものだった。けれど昼のバスなんて、スマホと充電さえあればいくらでも時間が潰せるもので。
「ねぇ先生、この編成って……」
朱葉が顔をあげ、隣の桐生に尋ねたら。桐生は少し身体を斜めにして、スマホを握ったまま、すっかり寝落ちてしまっていた。
朱葉は小さく笑うと、斜めになった眼鏡を外して、誰とはなしに、呟く。
「おつかれさまです」
色々あった、初遠征だけど。
次はまた、きっと楽しいものになるだろうと、朱葉は思った。
初遠征編でした!!! センキュー!!!