その4「エロは、実用です」
夏休みを間近に控えたある日のこと。
昼食時間を外し、ひとけの少ない大学の学食、その中でも隅の隅に座って、朱葉は悩んでいた。
「いいこと、朱葉ちゃん?」
対面に座り、ペットボトルに入ったミルクティーを飲むのは大学で一番仲の良い、文学部の百瀬ことモモで、今日は長い髪をゆるく三つ編みにしていた。熱帯よりも暑いと噂の外の気温のせいだろうか、モモはおとなしい顔をしながらもデコルテから肩を大胆に露出したサマーセーターで、日焼けを知らない白い肌が直視出来ない、と朱葉は思った。余談だけれど。
そんな、はたから見ればすっかり「ちょっとエッチなおねえさん」のモモが、厚めの唇を光らせて、きっぱりと言った。
「エロは、実用です」
迷いのない言葉だった。「うう」と朱葉は真っ白な食堂の机に頭をつける。モモは朱葉の返事を待たずに言葉をつないだ。
「もちろんそれだけが全てだとは言わないわ。そこに至るまでの過程と、そこにあるであろうエモーショナル、それが神髄だっていうこともわかるの。けれど、これまで数多くのラブストーリーを描いてきた朱葉ちゃんならわかるでしょう? そういうものは、実際の行為を描かなくても、描ける、のよ」
「ご……ごもっとも……」
やわらかく噛んで含める言い方に、朱葉が呻く。モモのありがたい教えは終わらない。
「でも、じゃあRを描くってのはどういうことか、わかるわよね? あの目印をつけるということが、どういうことか! 年齢制限と呼ばれるあの目印は、対象ではない読者を避けるための防波堤であり、同時に『求める人』にとっては夜の海にただひとつ浮かぶ灯台であり、砂漠の中のオアシスなのよ!」
力説であり、熱弁である。
朱葉のよく知る腐男子ほど勢いが強くないが、有無を言わせぬ迫力はかわりがない。
(求める人……)
「も、モモ……みたいな……?」
このモモという女性、出会った頃はわからなかったが、「エロはエロければエロいほどよい」という達観した価値観を持っていて、最近ではそうした二次小説をWEBに掲載して好評を得ているらしい。(よくよく聞いて見れば、一年浪人しているため朱葉よりも一歳年上だった。「浪人中にフラストレーションがたまってしまって……フラストレーション以外も……」と遠い目をしていた)
夏休みには学外の友人と夏コミにも出るらしい。
だからこそこういった話を相談したのだが。
「エロを欲しがる人は、います」
○○細胞はあります! もかくやというすがすがしさでモモはそう宣言した。聖母のごときやわらかな微笑で、
「その上で朱葉ちゃん。この際だから、歯に衣着せず言わせてもらうわね」
「は、はい!」
朱葉が背筋を正す。
いよいよくるぞ、と思ったが。
「昨日いただいたネーム、あれじゃあ、15が関の山ですね」
実際に、本当にくると。
「や、やっぱりかーーーーーーーーーーー!!!!」
少なからずショックをうけて、崩れ落ちた。そう、そうじゃないかと思ったのだ。朱葉は去年18歳になり、そして今年は晴れて大学生にもなったので、そういうの、にも挑戦してみようかと思った。読んでみたら最高だったし、それって自分でも書けたらもっと最高なのでは? と、一応ネームを切ってはみた、の、だが。
「あと6ページ、いいえ、8ページ欲しいところです。おまけでも構いませんね。なお表現、アングル、擬音など詳しい赤ペンが必要でしたらいつでも」
では私は次のコマがあるので、とモモが立ち上がり、朱葉は崩れたまま「ありがとう……」と礼を言った。
年齢制限の道のりまでは遠そうだった。帰り際、朱葉の背後に回り込んだモモが、そっと両肩に手を置いて耳元へ囁く。
「もしも朱葉ちゃんが、えっろえろの漫画を描いて、修正が必要になったら、ぜひ私を呼んでね?」
その甘くも強い言葉に、「はい……先輩……」と朱葉は思わず返していた。
描くべきか描かざるべきか、それが問題だ……と思いながら、大学は夏期休暇に入った。 朱葉は大学と自宅の間にあるファッションビル、本屋に併設された文具店でアルバイトをしながら、忙しい夏を過ごしていた。桐生の方も夏休みに入り、今日は二人、都心と地元から少し離れたところで花火大会を見にきていた。
「なぜかキングのリクエストで……」
と待ち合わせに現れた桐生が浴衣を着ていたので驚いた。「何コスですか?」と聞いたら難しい顔をして、「浴衣デートコス……?」との返事。
それは、すでに、コスではないのでは……? と思いながら、まあ、この格好だったら、もしも知り合いに会ってもすぐにはわからないだろう、と朱葉も隣を歩いた。
朱葉は去年と同じ浴衣だった。買い換えようかなとも思ったけれど、サイズがかわったわけでなし、年に一度か二度しか着ていないし。
ただ、帯の扇子に去年もらった、狐のお面をひっかけて。
化粧と髪をまとめるのが、少し上手くなったくらい。
台風も近づいているという熱帯夜だったが、花火大会は人でごった返していた。
去年はそういえば、雨にも降られたっけと思いながら、綿あめの屋台でなつかしアニメの袋を買って、花火を見ながら推しカプの花火デートについてひとしきり談義を交わす。
今年の夏コミは、キングのところで売り子をする、その導線を聞いたりしながら。
流れで、「そういえば最近、モモが……」と言葉をつなげようとして、朱葉がちょっと口元をおさえた。
「モモって確か、サークルの?」
「……うん……そう……」
「? どうかした?」
朱葉はぐるぐると考える。桐生の見ていない没ネームがある(しかもR15相当)ということだけは絶対にバレてはいけない、と思いながら。
「モモが……詳しい、ので、Rのついた表現のこと、色々教えてくれるんだけど……難しいですね……」
「えっ俺見てないですが」
「見せてないからですが!?」
そう答えたら。今度は桐生が口元をおさえてよろめいた。うわ、露骨にショックを受けている……と朱葉は思う。
「てかね!!! あのね!!! 見せなきゃだめですかね!?」
クソ恥ずかしいんですけど!!!! と必死に訴える朱葉に、
「見せなくてもいいから見えるところに置いておいて!! 見るから!!!」
と桐生も必死で答える。
「見てんじゃねえか!!!!!!!!!」
頭上では花火が鳴っている。
その音にかきけされないギリギリのおさえた声で、二人は言い合う。
「見たいのはめっちゃわかりますよ! わたしが逆の立場だったらめっちゃ見たいもん! でも恥ずかしいんです! すごく! その気持ちはわかってもらえませんか!?」
「すごくわかる!!!! けど見たい気持ちは我慢できない!!!!」
「どうしたらいいんでしょうね!?」
ぜえはあ、と互いに耳まで赤くして肩で息をしながら激論をし、そこではっと気づいたように桐生が眼鏡をおしあげ言った。
「……俺達が……もっと……恥ずかしいことをすればいいのか……?」
どん、どん。
頭上では花火が鳴っている。
夜の空がきらめていてはこぼれているのを見ながら、朱葉は、モモの言葉を思い出していた。
(「エロは、実用です」)
逆説。もっと、恥ずかしい、ことをすれば、恥ずかしく、なくなる?
R、18の。
年齢制限の、解除。
まだ、キスもぎこちないわたし達の、これから、先。
「~~~~~」
朱葉は絶えきれなくなって、腰にさげてあった狐の面を、かけながら、言う。
「…………秋尾さんにチクってやる……」
面の向こうで見えなくなったけれど、青くなった桐生が、だらだらと冷や汗を流しているのが、見なくてもわかった。
「今のなし。カット。テイクツー。言わないで。本当にごめんなさい。マジで殺される可能性がある。まだ死にたくない」
まだ死ねない……と、きっとツッコめば台無しになるような呟きが続いて、朱葉も心底呆れてしまったけれど。
自分のせいでもある、と朱葉は思った。
子供で、よくわかんないから。
まだ、どうせ、頭の中も、出力したって、15程度、だから。
我慢をさせたり、も、しているんだろうかと朱葉は思う。そういう魅力がないかもとか、あんまり乗り気じゃないとか、そういうのとかを、置いておいても。
わかんないけど。うん、全然、わかんないんだけど。
もどかしい、と思った。
描きたい漫画を、思ったように描けない自分と、重なって。ものすごく、ままならない気持ちに、なった。
沈黙ばかりが二人の間におりる。桐生は多分、自分の言葉に後悔をしているし、朱葉はまともに顔も見られなくて、フォローさえ上手く出来なかった。
しばらくたって。
「でも、好きだから」
暗がりの中、花火の音にまじって、焦った、必死の、桐生の声がする。
「全部、好きなので」
つながれる手が、強くて、冷たい。きっと緊張している。自分もだけど、すごく。
「いつか、見せて下さい」
いつまでも待つから、とお面の向こうで、願いのように、囁いた。
わたし達は、いつ大人になるんだろう、と答えの出ないことを朱葉は思う。
いつかこの、どうしようもない会話も、笑い話で思い出すことが出来るんだろうか。
だといいな、と朱葉は思う。
だったらいいな、と黙ったままで、つねるみたいに強めに、桐生の手を握り返した。
今年の夏は、まだ、暑くなりそうだった。
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