その2<中編>「……彼氏、ですか。先生って」
周囲に煙草を吸っている人はいないのに、騒がしい居酒屋は、どこか煙草のにおいがした。
繁華街の居酒屋の、個室というには大きなパーティルームだった。新入生歓迎の飲み会ということもあって、朱葉達は胸元に名前と推しジャンルを書いた名札をさげている。
すっかり打ち解け仲良くなったモモの隣に座って、朱葉はかわるがわる声をかけてくれる先輩達の相手をする。
「こんにちは! 楽しんでる!?」
漫研サークルはもちろん内向的な人も多いようだが、こうした飲み会にくる人達はみんな陽気で人好きをするようだ。けれど。
(歓迎はされてるのわかるけど、全然名前は覚えられなそう……)
名前よりも先にジャンルを見てしまう。やっぱり、男性が多いこともあって、自分と同じジャンルの先輩はいなさそうだった。
アニメからSF、造形系まで幅広い。
そして、ごくたまに、積極的にアプローチをかけてくる人もいる。
「早乙女ちゃんと百瀬ちゃん、彼氏はいるの!?」
「えっ」
いきなりの問い詰めに、朱葉が身を反らす。隣にいたモモが動じずにっこりと笑みを深めて。
「妄想の方に忙しくて」
と答える。その彼女の推しジャンルには堂々と、『オールジャンルエロ』と書かれている。(飲み会がはじまった時から気づいていたけれど怖くてつっこめなかった)
その推しジャンルに気づいた上級生がモモの隣に回り込み、肩を抱いて「エロってどこまで? 俺もかなり詳しいけど?!」とにやつきながら言った。
朱葉が同じ女性の目から見ても、モモは魅力的だった。顔もそうだけれど、とにかく……胸が、大きい。朱葉がハラハラとしていると、やんわりとその手をどけて、モモが言った。
「さわらないでいただけます? |××に××××ぶちいれてもいいですか?《ピーーーーーーーーーーー》」
とたんテーブルの気温が五度は下がった。嫌味や牽制ではなく、はっきりきっぱり、「真剣だぜ」とモモの顔に書いてあったせいだろう。
オタクの性癖は、コミュニケーションのツールにもなれば、人を殴る鈍器ともなりうる。モモのそれは、圧倒的な後者らしかった。「お、おう……」と上級生はあとずさり、去っていく。それを見た、同テーブルの女性達は一気に笑い声をあげた。
「ごめんね~~あいつ酒のむとあんなだけど普段は人畜無害だから~~」
そんな風に、フォローといえるのかいえないのかわからないことを言って。同テーブルの先輩が身を乗り出して聞いた。
「で、本当は彼氏いるの?」
朱葉がモモと目をあわせる。「わたしは、さっきのが本当です」とモモは笑みのままに言う。
「そっかぁ。あ、質問答えたくなかったらいいからね、単に、高校時代の彼氏とかいるんだったら、変に期待持つなって周りにいってやるだけだから」
と先輩も、無理強いをする気はないようだった。ただ、そのまま流してもくれないようで、朱葉の答えを待っている
「私、は……」
迷いながら、朱葉は
(彼氏、か?)
信者で、元先生で、仲間だ。それは確か。でも、彼氏かと聞かれたら。
(確証には、かける、ような……)
結局、「ノーコメントで……」と答えたけれど、朱葉の中でも、うまく答えが出なかった。
新歓コンパが終わったのは、大体十時が過ぎていた。飲み放題の時間からも考えて、いつもこの時間にお開きになるらしい。二次会は自由参加でカラオケをとってあるらしく、朱葉は高校時代を懐かしく思いながらも、辞退した。
「二次会でないの? よかったら新入生だけ飲んでいかない?」
帰り際そんな風に、誘われた。朱葉はモモと顔を見合わせる。女子だけならいいけど、男の子達とは、ちょっと。お互いそんな目配せをして、けれど引き下がる様子もない相手を、断りあぐねていた。その時だった。
「──早乙女くん! ……朱葉!!」
名前を、呼ばれた。びっくりして、肩を揺らして振り返る。近くの路肩に車を停めて、そこに、いた、……桐生は。
「帰ろう。迎えに来たよ」
と朱葉に言った。
(……は!?)
と朱葉は、思う。
(頼んで、ない!)
というのが、正直な気持ちだった。でも。
上から下まで、きっちりとした格好をしていた。先生で、社会人で、大人で、悔しいくらい、格好よかった。
そういうの、わかりきったように立っていた。有無を言わさぬ、迫力で。
「わぁ」と隣でモモが手をあわせ、にこにこと言った。
「彼氏さんですか?」
モモも、何かをすぐに、察していたのだろうと朱葉は思う。さっきの、会話とか、朱葉の逡巡とかも、鑑みて。
背中を押すみたいに、朱葉の肩に、力をこめた。
見送るみたいに。
そして、朱葉の腕を、確かに桐生はとって。
「うん。……彼女を、これからもよろしくね」
そう言って、助手席に乗せると、自分も颯爽と乗り込み、車を走り出す。朱葉は、その間、なんの返事も出来なかった。
「……彼氏」
顔を伏せて、しばらくして。朱葉がいう。
「ですか? 先生って」
「俺は、そのつもりだった」
そんな風に言ってから、ハンドルをにぎる手を、何度か開いたり握ったりした。
「異論は受け付ける」
それも違うかな……と呟いて。
「嫌だった?」
と聞き返した。狡い、と朱葉は思う。大人は狡い。先生は狡い。この人は……狡い。
「嫌だったら、こういうの、言ってないし」
「うん」
「でも、彼氏でいいのかなって、聞かれたら、思うし」
「うん。ごめんね」
俺が、きちんとした手順も、取引もしなかったから、と馬鹿みたいなことを桐生はいった。取引。そうだなって、朱葉は思う。
きちんとした出会いじゃなかった。きちんとしたお付き合いじゃなかった。
でも、好きな人だった。
桐生にとってもそうだったのなら、それでいいと、朱葉は思った。流れる景色を見ながら。
それから、どこか照れや戸惑いを隠すみたいに、朱葉は言う。
「………………なんで、いたの?」
今日。今、ここに。
「…………」
不自然な沈黙。
「……店は……わかってたから……他のサークル会員のSNSから、割り出して……」
「ストーカー!!!! だめ!!!! 絶対!!!!!!」
「ごめんなさい!!!!!」
正直に謝られた。
悪いことは悪いことって、自覚があるんだ。いつも。
「でも、送ったりするのが、夢だった」
そう、運転をしながら桐生が言う。
「イベントとか、それ以外でも。足に使ってくれていい。呼びつけられたりするの、俺は、嬉しい」
彼氏の特権で。
そう言われたら、なんとも言えない。正しいことはわからない。彼氏も、お付き合いも。恋人の手順も。
わからないけど、わからないなりに、自分達の手順でいいのだろうと朱葉は思った。
それから二人は、あまりオタクらしい話もせずに、生活の話をした。サークルにはこんな人がいて、友達はこんな子が出来そうだって話。
それから桐生は、なぜだかしきりに朱葉の家のことを聞いた。
こんな風に遅くなってもいいのか、心配をしないのか、みたいなことを。
「うち……親が寝るのが早くって。このくらいの時間になったら、もう何時に帰ってもいっしょなんです。大学になったらこういう付き合いもあるだろうって言ってるし……終電で、帰れば、本当に」
「だったら」
ぐっと、ハンドルをにぎる、手が強くなる。
もう、車窓は朱葉の見覚えのある景色だった。朱葉の自宅のすぐそばの公園のそばに、車を停めて。桐生は言った。
「次の、土曜日、俺の家に来て欲しい」
君さえよければと、一世一代の告白みたいに、桐生は言った。
朱葉は虚をつかれて、ほんのしばらく、考えたのち。
「………………なにしに?」
と、聞いた。台無しだった。普通の恋愛なら、聞くようなことじゃなかった。でも。
おずおずと、桐生が鞄から、一枚のディスクを取り出して。
「…………それまでに、この録画を、見てきて欲しい…………」
つまり、まさに。
リアタイ実況のお誘い、そのものだった。