119 卒業、おめでとう
卒業式の朝、いつもよりはやく家を出た。
借りてあった鍵をつかって、部室に入って、部長の最後の仕事として、漫研の部室を片付けた。
卒業式の日の早朝ということもあり、校内は閑散としていた。その静けさが、部室にも満ちていた。
あれだけたくさんあったBL漫画を、都築は読破してしまったらしい。今は漫画喫茶や太一の家を渡り歩く生活だとか。
人間何がどう転ぶかわからない。どこに沼があるかも。
ひとつひとつ、片付けて。文化祭につくった部誌を見たりして。
それから最後に、仕事をひとつ。
「……うん」
満足をして、部室を出た。
チョークで汚れた袖を、払いながら。あーあ、お母さんが、綺麗にクリーニングに出してくれたのに、と思って。
でも、自分らしいなとも、朱葉は思った。
卒業式がはじまる前の、最後のホームルームだった。
「えー……」
桐生が教壇に立つ。いつものような白衣は着ていなかった。卒業生の担任だからだろう。胸には花。おろしたての背広に、白いシャツだった。
そして、少し驚いたことに……コンタクトではなく、眼鏡をしていた。オシャレではなく、オフ用の、分厚い眼鏡だ。
髪はきっちりセットしてあって、その表情に、眼鏡は少し浮いて、でもなじんでもいた。
教室もざわついたし、朱葉もまた、オフがオンを侵食してきたみたいで、不思議な気持ちになった。
その変化を、桐生は詳しく説明はしなかった。
「いよいよ今日は、卒業式となります」
そう、口火を切って。桐生はしばらく、考えるように視線をめぐらせた。
その視線の先には、徹夜あけなのだろう、眠い顔をして座っている都築も、どこか実感のわかない朱葉もいた。それから桐生は先生らしい、全体をしっかり見据える視線で言った。
「君達はもちろん、これが最初で最後の高校卒業式ですが、先生にとっても、担任として見送るはじめての卒業式となります。今日この日を全員で迎えられること、非常に嬉しく思っています」
それは、定型めいた言葉から、はじまった。
「はじめてだから。もちろん至らぬところもあったかと思う。けど、別にそれは謝らない。ある程度は、君達の運だ。……ガチャみたいなもんだろう?」
くすくすと、笑い声があがる。そんなことを言っても、笑って受け止めてもらえるのは。
先生が、多分、はじめてでも、立派な先生だったからだろう。
大きく息を吸って、桐生は続けた。
「初めての三年生の主担任だった。この一年がはじまるまで、俺は、できるだけフラットに、距離をもって、指導という役割にあたってきたつもりだった」
その時、ふと、朱葉が思いだしたのは、まだ、担任ではなかった頃の桐生の姿だった。
格好よくて、人気があって、非の打ち所のない、社会人のコスプレだった。
自分とは、関わりのない人だと、思っていた。でも、いつの間にか。朱葉と桐生の関係もかわったけれど、桐生もどこか、かわっていったような気がする。
桐生はまっすぐ生徒達を見て、続けた。
「けれど、それとは別に、この一年、俺は俺の信条を持って、嘘のない指導をしてきたつもりだ」
俺には信条がある、と桐生は言う。
「この担任の一年間、俺は、君達に、夢を持てとは一度もいわなかったはずだ。夢は何かと聞いた。夢があるなら頑張れと背中を押した。でも」
夢があるのがすべてじゃない、と桐生は続けた。
「そんなものは、生きているうちに見つければいい。夢があるから幸せになれるわけじゃない。俺だって、夢があって教師になったわけじゃなかった。ただ……」
これは、あくまでも持論だけど、と断りをいれて。
「好きなことは、あった方がいい。好きなものはあった方がいい。ささやかなものでかまわない。いや、好きになったらささやかなものなんかない。他人のものさしなんてどうでもいい。……好きなものを、見つけて。見つけたら、大事にしなさいと、この一年、言い続けてきたつもりだ。なぜなら、その気持ちは、君達の人生を輝かせるから」
教壇の上に置かれた、桐生の拳に強く、力がこもる。
「俺はそう思っているし、そう伝えてきた。そして……これが、今日、言っておきたいことなんだけれど。……俺の言葉は、すべてじゃない」
少しだけ、教室が困惑した。声には出なかったけれど。
桐生は迷いなく続ける。
「教師が正しいわけじゃない。勉強みたいに、テストみたいに、正解なんてないんだ」
朱葉はその時そっと、視線の端で、都築のことを見た。
桐生の言う、「大丈夫」が、信じられないといった、都築は。
隣あったファストフード店の時のように、うつむいて、真剣な顔で、桐生の言葉を聞いていた。
桐生は続ける。
「そう思っていたから、これまで深く踏み込んだ指導なんてしたことはなかった。押しつけはしたくなかった。けれど、君達を教えるうちに、それは違うような気がした。君達は、指導という名の、偏向を受ける。けれど、それを、信じたり、また……はねつけるしなやかさも、同時にもっていることだろう」
君達にはそれだけの自由がある。
君達にはそれだけの力がある、と桐生は繰り返した。
「信じたいものを、信じていきなさい。そして……好きなものを、好きでいてください」
前傾になりつつあった姿勢を正して、改まった様子で、桐生は言う。
「俺は、教師には、職業としてなった。手を抜いたことなんて一度もないけれど、俺にとっては、生きていくのに必要な社会だった。けど、今日という日を迎えて思います」
ふっとそこで、小さく笑って。
「教師になってよかった」
どこかで、すすり泣く声がした。朱葉も、眼球に痛みを感じていた。でも、涙なんて見せたくなかった。ちょっと、恥ずかしかった。卒業式で泣くのは、感動出来るのは、素敵なことだと思うけど。
今更……先生に、泣かされるなんて、まっぴらだと、朱葉は思った。
桐生は笑顔のままで、最後に言った。
「君達に、出会えてよかった。君達は、俺が自信をもって送り出せる……しなやかな生徒達だった」
卒業おめでとう。
その言葉に、堰を切ったように、教室から、すすり泣く声があがった。朱葉のすぐそばでは、夏美が、ぼろぼろに泣いていた。朱葉も、声を上げないようにするのに、精一杯だった。
こんな状態で、式なんて出られない、誰もがそう思っていた時だった。
「先生、俺」
がたっと、立ち上がる音がした。都築だった。ぼろぼろと、涙をこぼして、彼は言った。
「俺、卒業なんかしたくねぇよ……!!!!」
その言葉に、桐生はそっと微笑んだまま、教壇を降りて都築のもとにいき。
そっと両腕をのばして。
「お前はしてくれ!!!!!!!!!!!!!!!」
全力でヘッドロックをかけた。
どれだけ、心配を、かけたと思ってるんだ!!!!
そう、顔に書いてあったし、泣き面だったクラスメイトがどっと笑った。最後まで、都築はそういう役割を、ちゃんと果たす奴だった。
そしてさんざっぱら都築をいためつけてから。
「卒業しても、俺は、お前の先生だよ。いつでも来なさい」
頭をくしゃくしゃになでて、そう言った。
みんな、涙を拭いて。泣き笑い顔で。……最後の、卒業式がはじまる。