118 いくつかの長い夜を越えて
お風呂上がりにマリカがつけっぱなしのテレビを見ていたら、出身大学の二次試験のニュースが流れていた。
大きな混乱もなく、今年も試験は終わったらしい。といっても、特別な感慨はマリカにはない。大学入試はもう十年前のことであるし、今は数年ぶりに頭の天辺までハマった推しキャラの進路の方が気になる。
それはそうなのだけれど。
濡れ髪のまま、スマホを手に取り連絡をする。出会いテクも、媚びもない文面で。短く。
>会えない?
返事がくる確率は多分、五分より低い。
「終わったーーー!!!!」
試験を終えた朱葉は、一度家にかえって着替えて、それから駅で待ち合わせをした。
「おつかれーーーーーーー!!!!!! どうだった!?」
手を組み合わせてハイタッチをしながら、夏美が大きな声で聞いてくる。朱葉はやけっぱちみたいなテンションで笑った。
「わかんない! でももう終わった!!!!」
「終わった終わった!!! どうする!!!?」
夏美はすでに、推薦で進路を決めてしまっていた。
受験明けのハイテンションで朱葉が言う。
「とりあえず本屋に行って、ためてる漫画と小説を買う!!! 薄い本も!!!!」
「そんでそんで?」
「ソシャゲもやる!!!! お祝いでガチャまわす!!!!」
「やったろやったろ!! それでそれで?」
「カラオケも行く!!!! 大声で歌う!!!!」
「付き合う付き合う! キンブレ持ってきた!!! あたしもお願いあるんだけど!」
「なになに?!」
「オールで積んでるライブディスク見よーーーー!!!!」
「見ようーーー!!!!!」
そこまで盛り上がってから、ふと、夏美が気づいた。
「そういえば、いいの? 先生に報告とか」
せっかく、終わったんだから。もちろん報告したって受験の結果が変わるわけではないのだろうけれど。
心配もしているし、報告も必要なんじゃない? と思うけれど。
あっけらかんと笑って、朱葉が言った。
「いいのいいの。とりあえず受験終わりって一枚絵をあげたら」
ぱたぱたと、手を振りながら。
「全部わかるように出来てるの」
たとえば、受験が失敗だったって。やれることをやったし、今はこんなに晴れ晴れしくて愉快な気分なのだ。
これはきっと、絵にもあらわれるし。
描いたなら、届く、と朱葉は信じている。
その顔を、ちょっとうらやむように夏美は見て。
「いいなぁ。わたしはまだ、そういう風にはなれないなぁ」
そう、ため息まじりに呟いた。
夏美にも、お付き合いをしている相手がいて、一進一退、うまくいったり、歯がゆかったり、色々だ。あんまり、そういう話は、朱葉とはしないけれど。
あたしね、と歩き出しながら夏美が言う。
「きりゅせんの顔がすごく素敵だなとか、推せるとか思うのとは別にね、朱葉とくっつくのはちょっと嫌だったんだけど」
幸せにしてくれなさそうで。焼肉だし。
そう、焼肉だし。
言ったら朱葉も「まあ……焼肉だし」と呟く。
「でもね、なんか……ふたりは、ちゃんとしてると思う」
と夏美は言った。
その言葉に、朱葉はほほを小さくかいて。
「ちゃんと、してないよ」
と言った。色々ある。色々あったし、今もある。先生と生徒で、趣味と性癖の合致するオタク友達で。それでも。
「恋愛はまだ、別に、ちゃんとしてない」
多分、気持ちはあっても、すべてはこれからだ。これから、一体どうなるかわからないけれど。
「ちゃんとできたらいいと思う。そのうちね」
どんなに抵抗したって、時間は過ぎていくのだ。あんなに面倒だった、受験もこんな風に晴れ晴れしく終わってしまうように。
わたしたちは、べつの何かになっていく、と朱葉は思う。でも、だけど。だからこそ。
「今は。今が、大事だよ」
最後の、高校生活が。
うん、と夏美は頷いて。朱葉の手を引き、騒がしい街へと繰り出した。
部のOB父兄が経営している、行きつけの鉄板焼き屋は今夜も貸し切りだった。バスケットボール部の追い出し会は、いつもと同じように酒も入らず大賑わいだったが、今ひとつ、騒がしさが精彩を欠いていた。
喋るよりもむしろ食べることに重きを置いている太一は、はじまって一時間ほどもして、ようやく開いた店のドアにいち早く目を向けた。
「ちょりーっす」
普段なら誰より先に来て、座席を決めたり音頭をとったりするはずのお祭り男が、異例の遅刻だった。
それでも、来ただけいいだろう、と太一は顔には出さずに安堵した。繁華街の待ち合わせで蹴り倒した以来の都築水生は、元気そうな様子だった。受験も結局、都内の私立で決めたらしい。
あの時もしていたでかい眼鏡をしていたけれど、どうやら今日は、それにレンズもはまっているようだった。
「ミオ先輩遅い~!!! 何してたんですか!!!」
マネージャーや交流のあった女子バスケの連中がわっと盛り上がる。「うん、ちょっとね。最近忙しくて」とへらへら笑いながら都築は席についた。ジャケットも脱がず、飲み物のコールもせずに、声の大きな集団に、溶け込むように笑っていた。
その様子を見ながら、もう大丈夫そうだなと、太一は思う。何が大丈夫かは、わからないけれど。
「じゃあ、二次会はカラオケなー!」
おくりおくられのセレモニーが一通り終わり、成人したOBや他校生もまじってきて、河岸替えとあいなる。太一は早々に立ち上がって、
「俺、帰るから」
と片手をあげて挨拶をした。会いたい人には会えたし、腹一杯に飯も食べた。あんまり夜遊びには興味がなかった。いつものことだった、けれど。
「あ、俺も」
そう言って、都築の手が上がったのには、太一だけではなく他の部員達も驚愕を隠さなかった。
「ミオちゃんなんで!?」
えー忙しいから~と女子連中の引き留めにも耳を貸さず、
「たあちゃん、帰ろ」
と早々に引き連れて道を出た。
夜の道を駅に向かって歩きながら都築が言う。
「ねーたあちゃん今から時間あるでしょ」
「ないけど」
「えっ」
振り返る都築に、太一が言う。
「これからちょっと、用事がある」
「これから!? 聞いてないんだけど!!」
「別に言ってないけど」
太一は一瞬、目をそらして。
「………おまえも来る?」
どこに、とか誰ととか、そんなことは言わずに聞いた。
けれど都築は聞かずに。
「くそーーー!! たあちゃんのねえちゃんオタクだったはずだからオススメのBL漫画読ませてもらおうと思ったのに!!」
「は?」
「んじゃ俺漫画喫茶行くわ!!! オールで読み明かすもんいっぱいあるし! じゃあな!!!!! 今度ぜってーぜってーたあちゃんち行くから!!!! ねぇちゃんによろしくな!!!!」
そう言って、走って行ってしまった。
残された太一は、もう一度。
「………は……?」
立ち尽くしたままで、首を傾げた。
それから数十分後のことだった。
太一の目的地は、深夜までやっているような酒も提供するカフェだった。
所在なげに帽子を深くかぶって、太一は指定された店に入っていく。補導とかされたら、困るなと思いながら。
相手はすぐに見つかった。
「……どうも」
帽子をぬいで、軽く頭を下げたら、「あら」というような顔をした。来るとは思わなかったというような顔だった。
「本当に来た」
自分で呼んだくせに、と太一は思った。
呼び出したマリカは少し、酒を飲んでいるようだった。前に置いてあるアルコールは半分くらい減っていた。
すぐに帰るつもりだったけれど、なんだかそうさせない迫力があって、太一はマリカの向かいにあわせに座る。座りづらい深いソファ席だった。
元々マリカは姉の友人で、太一の家だって知っているはずだった。そうでなくても連絡先は必要に迫られ交換したのだから、別に顔を合わせる必要なんてないはずだのだけれど。
マリカはいくつか質問をした。都築のことだった。太一は言葉少なく、大丈夫そうだということを伝えた。改めて、礼も兼ねて。
「早乙女も、感謝していると思います」
そう、伝えたら。
「あの子ね」
そう言ったまま、静かに黙った。長い沈黙だった。
「……あの」
沈黙が気まずくて、太一が口火を切る。
「都築、あいつ、もう連絡したら答えると思います。あなたには、ずっとそうだったわけだし。早乙女だって、あなたにお礼は言いたいと思うし、……俺はよくは、知らないけど、桐生先生だって……」
自分が一番、ここにふさわしくないんじゃないかというようなことを、ぼそぼそと太一は言った。「そうね」とマリカは答えた。
「カズくんにも、連絡しようと思ったんだけど……やめちゃった。弟くんも、来ないんじゃないかって思ったわ」
足を組み、頬杖をついて。少しだけ上目遣いに太一を見て言う。
「あなた、アゲハちゃんのことが好きだったんじゃないの?」
太一は軽く、ため息をついた。なんでそんなことを言われなければならないのか、わからなかったけれど。
「あいつ、いい奴ですよ」
それから、思ったまま、素直に言った。
「趣味もあわないし、考え方もあわないし、でも、普通にいい奴だと思います」
そうじゃなかったら。心も体も参っていた時に、一緒に出かけようなんて思わなかったことだろう。
お互いに、踏み込みたくないところに、踏み込まないし。
大事だとは思う。でも、それは、腐れ縁の、幼なじみとしてだ。
マリカはそれ以上は追求しなかった。
「……そ。なんだかな。いい子だから、恵まれてるのね、友達にもね」
うらやましいわ、ともらす。
別に、そのつもりはなかったけれど。求めていたのは傷のなめ合いだったのかもしれなかった。自分がひとつの恋に破れたように、太一が同じ立場であったなら、なんて。
でも、この年若い子達は、もっとちゃんとしているのだと、マリカは思った。
太一はそんなマリカに、ちょっと難しい顔をしてから、
「あなたも、いい人だと思いますよ」
そう、ぼそりと言った。マリカは目を丸くして。
「そんなの、はじめて言われた」
そう言ってから、ふっと、笑った。
「だって、それ、振り言葉の常套句じゃない?」
泣き笑いみたいな、表情だった。太一はうまい返しが出来なかった。そこで、いつまでもオーダーのないことにしびれを切らした店員が注文を聞きにきたが。
「あ、俺、帰りますんで」
すみません、と立ち上がった。マリカはもう引き留めなかった。微動だにしない彼女を置いて、そのまま店を出ようとして。
太一が席に戻った。こちらを見上げない、マリカを見下ろして、言う。
「よかったら、一緒に来ます?」
唐突のことに、マリカが返事を出来ないでいると。太一が早口で説明をする。
「家、姉貴もいるし。なんか、……都築が、突然漫画に目覚めたらしくて。このまま漫画喫茶で夜明かしするっての、見つかったらやばいと思うんで、連れて帰ろうかと。姉貴には連絡してあるし、明日休みだから別にいいって言ってるし」
太一の言葉に、マリカは呆れたように笑った。
「それで、何? あたしも? 漫画を読むの?」
太一は頷く。
「俺は姉貴の漫画興味ないし。姉貴と都築だけだと、不安なんで、頼みます」
早乙女はよそでオールで遊んでるだろうし、とつけくわえて。
それからちらりと、テーブルの上のグラスを見て。
「ここでこれ以上飲むより、いいんじゃないすか」
そう、言ったら。
「……そうね」
小さく笑って、マリカが伝票を握って立ち上がった。
「漫画の方が、楽しいかもしれないわ」
いろんな夜があって、様々な思いがあった。でも、今夜だけでも。
いい人になってやろうじゃないの、と、マリカは思った。
今日、明日、明後日、最終エピソード更新予定です。よろしくお願いいたします。