116「先生の、好きは。ちょっと、暴力だと、思う」
結局朱葉はマリカと連絡先を交換しなかった。
マリカは、朱葉からは何も聞いていないし何も頼まれていない。そういう態度をとるつもりらしかった。
「未練がましいの、やなのよね」
だからあなた、弟くん、連絡先を貸しなさい、とマリカは太一と連絡先を交換して、それから数日。
「つかまったって。あいつ」
連絡を受けて、朱葉は太一と二人、待ち合わせとして指定された場所に向かった。駅前の、待ち合わせのメッカに。スマホを触る都築が確かにいて。
度の入っていなさそうなオシャレ眼鏡をかけていたけれど、その横顔は試験前と変わらず涼しいもので、安心した。
スマホをいじりつづけていたけれど、朱葉達がそばに行く前にふと、顔をあげて。
何かに引かれるように、朱葉と太一達の方向を見た。軽く眉を上げて。
「……」
ふわっと身体を翻して、足首に力をいれたように見えた、けれど。
「逃がすか」
となりのガチガチバスケ部員の方が反応早かった。大きく風が動いた、と思った時には、太一がダッシュからの跳び蹴りをかまして、都築が植え込みに転がり倒れていた。
ちょうど大きなスクランブルの信号がかわった瞬間だったから、都会の人混みは少年同士のこんな騒動なんて気にせず流れていく。
「って! いって!」
「おい」
「は、はい……」
倒れたまま、太一に胸ぐらをつかまれた都築が、オシャレ眼鏡をずり落として返事をする。朱葉が近くにかけよると、太一は都築に額をつかんばかりに近づけて。
「追い出し会、来るんだよな」
それだけを、聞いた。
今、それ? そんなこと? って。朱葉もちょっと思ったし、都築はもっと思ったことだろう。驚いたように眉を持ち上げて、それから。
「……行くよ」
ぱんぱん、と軽く、太一の肩を叩く。
「行きます」
ちょっと、眉尻をさげて、笑って。「ごめんね、たあちゃん」と小さな声で付け加えた。
太一はひとつ、ため息をついて。
「伝えとく。あんまマネ達困らせんなよ」
払うように手を離すと、ベンチから立ち上がった。そして。
「……じゃあ」
あとは、立ち尽くしていた朱葉に言った。
「俺、こいつに用事、これだけだから」
ジャンパーの襟をなおして。「あと、任せても?」と言った。
「うん」
朱葉も、これ以上、を、別に、太一に望んでいたわけではないのだ。都築は逃げる気も削がれていることだろう。それで十分だった。
お互い片手をあげて、選手交代みたいに軽く打ちつけて。
「ありがと」
朱葉の言葉に応えず、太一はもう、振り返ることなく行ってしまった。……心配は、していないわけがないと思うけれど。
それぞれ、もってまわる範囲って、多分あるだろう。
朱葉はそれから、ベンチに座り直す都築の目の前に、腕を組んで仁王立ちをする。都築は頭をかきながら、ちょっと情けなく笑って、言った。
「俺、これから美人とデートのはずだったんだけど?」
「残念でした。デートの相手はわたしです」
その返事に、「残念じゃないよ」と都築はまた笑った。
「よろこんで。朱葉ちゃん」
あったかいとこ行こうか、と都築は言った。
混み合う繁華街のファストフード、窓際隣り合わせの席しかあいてなかったから、そこで。朱葉は都築と並んで座った。
「何してたの?」
「何? 別に何ってことも、ないかなぁ。普通に。だらっと、してた」
一足はやい、春休み? なんて。笑う。
その笑顔は少し乾いている。
「先生、心配してたよ」
「だぁねぇ」
ちょっとだけ、目を細めて、横目で朱葉を見ながら言う。
「そんな先生が、心配?」
朱葉は頷く。
「先生も心配だし、都築くんも心配だよ。みんな心配してるよ。勝手かもしれないけど」
心配は、心配をする方の、勝手だ。朱葉はそう、思っているけれど。
「うん…………」
都築には多分、届いている気がした。冷たい窓辺で、頬杖をついて。
「俺、きりゅせんには、よくしてもらったと思うんだよね」
そう、ぽつりと呟いた。
朱葉が黙ったままでいると、言葉を探しながら、都築が言う。
「いろいろさ。大学も調べてもらってさ。遠いけど、田舎だろうけど、結構いいとこなんじゃねーかなって思ってたの。俺は、それなりに好きなことがあって……結構これでも、長くやってたことがあってさ。どんな形であっても続けられるようにって、多分きりゅせんはすげー考えてくれたと思うんだよ」
黙ったまま、朱葉は頷く。
好きなことを、好きなままに、生きていくこと。
桐生にとっては、それが、多分、勉強よりも大切なことなのだろうと思う。そのための、勉強なのだろう。
「そんで、俺に何回も言ったんだよね。大丈夫、大丈夫だから、って」
ゆっくりと、段々と、都築の顔が背けられていった。
「でも、俺はずっと、その『大丈夫』ってのがなんなのかわかんなかった」
声は、震えてないけれど。その肩も、指先も。でも。
揺れている、と朱葉は思う。
「試験受けてる時に思ったんだよな。このまま、きりゅせんの言うとおりに、この受験をのりこえたら。俺は好きなことをずっとやれるんだろうって。でも……」
一息で、朱葉の返事を待たずに、言ってしまわなければ言えないように、都築は言葉をつなげた。
「俺、ほんとにそんなに好きかな? って」
こんな風にうつむく都築を見たのは、はじめてのことだった。いや、はじめてではないのだろう。
カラオケボックスで二人きりの時にみた、さみしさの片鱗のようなものが、朱葉の胸をしめつけた。
「ずっととか、ないし。絶対とか、ないし。そんなんで、未来を決めるのも……自分の、今を、決めるのも、なんか、すっげ怖いなって思った。先生は大丈夫だっていうけど、それは先生だから大丈夫なんであって、俺が大丈夫とは限らないし、けどそれを言ったら、先生の大丈夫も、大丈夫じゃなくする気がして……」
だから、逃げたんだ、と都築が言う。結局のところ。びびって、逃げた。それだけだと。
「……情けないっしょ」
と、笑う。なるほどそうかと朱葉は思う。情けないと、都築は自分のことを思っているのだろうと。
「情けなくは、ないよ」
朱葉はそう言って、自分の言葉の薄っぺらさに、辟易した。言葉がちゃんと、出てこない。説教をしたいわけでもない、説得をしたいわけでもない。
だから、ずいぶん考えて、言葉を選んで、言った。
「先生の、好きは。ちょっと、暴力だと、思う」
桐生は多分本気だったのだろう。真面目だったし、誠意をもって都築のことを思った。都築の大事なものをさがして、好きなものをさがして。それを大事にしようと思ったのだろう。
ただそれは……ちょっと、強すぎるのかもしれないと思った。
うまく言えないけれど、好きって気持ちは、たまに暴れる。暴れて、しまう。
悪いのは、誰なんだろう。誰も悪くはないとも思う。先生も、都築だって、多分。ただ、上手く噛み合わなかったんだろう。
誰も悪い人はいなくても、不幸なことだってあるのだ。
「暴力かぁ……」
ぼんやりと、朱葉の言葉を、都築は繰り返した。うん、と朱葉は頷いて。
それから、しばらく都築は考えて。
朱葉を隣から、覗き込むようにして言った。
「…………暴力、受けてる?」
それが、すごく、いつもみたいに、懐かしい、野次馬みたいな、好奇心に満ちた、それから少し心配をするような、目だったから。
朱葉はちょっとだけ、笑って言った。
「私も結構、やるほうだよ」
「好き」の、暴力なら。
負けてないと、朱葉は思っている。
「そっか」
いいね、と俯き都築は笑った。ぽつりとこぼした、うらやむ言葉だった。
先生が悪いわけじゃない。都築だって。びびって、逃げたこと。間違いだったとも。ただ……そう、ただ。
(その前に、もう少し、相談をしてくれたら)
よかったのに、と思うけれども。それもなんだか、ひどく偽善的な思考だった。
(……もう少し、都築くんと、そんな話をしてくれる人が、いてくれたらよかった)
その言葉も、失礼すぎて口には出せないと思った。
肩を並べる二人はとても近く、ひどく遠かった。
「どうするの、これから」
このまま、逃げる、というのなら。
朱葉はそれを桐生に伝えようと思った。傷つくかもしれない。ショックを受けるかも知れない。憤るかもしれない。でも。
都築は逃げてもいいはずだと、朱葉は思った。
けれど、都築はまだ、やわらかく笑みを浮かべたままで、小首を傾げて言うのだ。
「俺に、どうして欲しい? 委員長」
久しぶりに聞く、その呼び方だった。もう、委員長らしい仕事なんて、ひとつもしていないけれど。
「なに、それ」
どうしてわたしに聞くの? と朱葉が言えば。
「俺のこと。探してくれたから」
あっけらかんと、都築は言った。
「委員長も。たあちゃんも……俺の、恋人でもない誰かが、俺のことを探してくれるなんて、思ってもみなかったんだ」
そんなことを、冗談じゃなく、言うものだから。
「先生のためかな」
「頼まれてないし、多分してほしいとも思われてはないよ。心配してるのは、わたしも、太一も自分の勝手だよ」
都築くんの、ためでさえないよ。
でも。
「先生だって、探してるよ」
思わず朱葉は、言ってしまう。
「すっごくすっごく、めっちゃすごく、探してるよ。心配してる」
そしてそれは、多分、都築くんのためだよ。
頬杖をついたまま、都築はまぶたを落として。
「うん」
子供みたいに、頷いた。
それから。都築水生がどうなったのかといえば。
とりとめのない話をしながら私服のままに学校に行って、下校時間もとっくに過ぎているのに、職員室には桐生がいた。
都築のことを見た瞬間、椅子を蹴らんばかりに立ち上がって熱い抱擁……とはならなかった。
「いでっいっ先生マジ! マジいて!! マジ卍!!!」
手のひらで都築の両こめかみを挟んでそのまま進路指導室に直行。涙ながらの感動の対面をちょっと期待していた朱葉は拍子抜けした。
「先生! 先生、気持ちはわかるけど」
怒らないであげて、と朱葉が言う。その言葉が、正しいのかはわからないけれど。
「怒ってませんよ」
ため息まじりに髪をかきあげ、桐生が言う。
「元気そうで、安心してる」
イエーイ、とピースをつくる都築の首根っこをつかんで。
「じゃあこれから、こいつにみっちり進路指導だから」
早乙女くんは、帰りなさい。そう言ってから、少しだけ考える顔をして。
桐生は朱葉に手を、差し出した。大きな手。
「ありがとう」
そんな短い、お礼の言葉だった。反射みたいに、朱葉が手を伸ばし返して。
握手みたいに、強く。握った。冷たくて、大きな手だった。
強く、すごく、強い手だった。しびれそうだった。感謝とか、憤りとか、ふがいなさとか、心配とか、……愛情とか。
そういうの全部、言葉にならないものがつまっている気がした。
それから、都築をつれていく背中を見て、朱葉は自分の手の平を見て。
(先生は、本当は)
もっと、たくさんのことが言いたいんじゃないかなと、朱葉は思った。
先生って、大変で。想像でしかないけれど、大変で。
朱葉は生徒だから。それも、先生の生徒だから。「大変だ」なんて、言うわけにもいかない。もちろん慰めることも、力になることも出来ない。
(遠い)
多分、都築よりも遠い。
自分達は、ファーストフード店で肩を並べることも出来ない。
(でも、いつか)
いつか隣にいこう、と朱葉は思った。
都築のあとのことは、「先生の仕事」として。朱葉は朱葉の、「生徒の仕事」をするために、家路についた。
なんとかかんとか……しかしまだオチない。多分次の話くらいが最終か?