109「デート、いこ」
女は昔の男を店に呼びつけた。
休みの日ではなく平日にしたのは、その方が、男がこうした店に似合う格好で来るだろうと思ったからだった。読みはあたった。不格好な紙袋を持ってはいたけれど、車もやめてと言ったわけだから、そこはまあ、譲歩してやることにした。
デートコースで何度も使った店だった。ガラス張りの店内は道行く人からもよく見える。淡く照らされる光が、スポットライトみたいに自分を主役にしてくれる、と女は信じていた。
クリスマスを控えて、まわりもカップルだらけだった。
店のチョイスを嫌がられるかもしれない、と少しだけ心配していたけれど、到着した昔の男はどこかぼんやりとした様子で促されるままに空いている席に座った。
ぼんやりしているのはいつものことだと女は思った。
……この人には、色恋よりも大切なことがたくさんあるから。
それをわかっていたし、けれどそれじゃあ困るのだとも思っていた。
去年は、袖にされた。
そのリベンジを、今夜果たさせてもらうつもりだった。
オシャレなばかりのワインをついで。覚悟を決めて、女は言った。
「焼けぼっくいに火って言葉が、あるでしょう?」
ねぇ、カズくん、とマリカは、桐生に告げたのだ。
日付がかわり、時間がかわり。
休み明け、とはいえごく一般的な休日ではなく、風邪を引いたあと、まだ全快とはいかないけれど、だいぶ具合のよくなった朱葉は、マスクをつけて学校に登校した。
授業はすっかり受験対策の補習が主で、一日や二日の遅れはどうってこともない気がするし、一方で取り替えしのつかないこと、のような気もする。それでもまだ、前向きな気持ちだったのだ。
お守りみたいにポケットにのど飴をいれて。今日からまた頑張ろうって。
その気持ちを、すっかり滅入らせてくれたのは、朱葉よりもずいぶん遅くに教室に登校した夏美だった。
「朱葉ーーーー!!!! あげはあげはあげは、元気!?」
「い、いや、元気じゃないけど……元気だったら休んでないけど……一応……」
「そういうことじゃなくてーー!!」
「????」
朱葉を教室の後ろの方に引っ張って、隅っこで内緒話のていで、夏美が言った。
「もーーー!! 連絡しようかどうしようかめっちゃ迷ったんだけど!! 朱葉、本当に寝込んでたら可哀想だと思って!」
「いや、本当も何も、寝込んでたけど……」
可哀想とは? と首を傾げる朱葉に、ぐいっと顔を近づけて夏美は言った。
「やっぱり、先生となんかあったの?!」
「……は?」
瞬間、昨日部屋まできてくれた、桐生のことがぱっと思い浮かんで、うろたえる。いや、別に、何も、なかった。なかったはずだ。いつだって、別に。
なんにもない、ような、ものだ。
気持ち以外は。
「なにかって……なに……?」
「みちゃったのーーー!! わたし、昨日の夜、街で見ちゃったの!!!」
アニメショップの、帰り道に。
「きりゅせんが! 女の人と、ご飯たべてるとこ!!!」
んん? と朱葉は思う。
マスクの下で、ちょっと、変な顔になったけれど、自分でも、どういう顔をするのが正しいのかわからなかった。
「えーと」
「しかも、しかもしかもしかもね!!」
相手、あたしの会ったことある人だったの!!!
あー、と朱葉は思う。
なんとなく、話が見えてきたぞっと。
「……あのー、前、前売り特典の、取引を、した……」
「やっぱり朱葉、知ってるの!?」
あの人、きりゅせんとどんな関係?! と夏美が詰め寄る。
(どんな、関係、ねぇ……)
そりゃ、ばっちり、元、恋人関係なんじゃないですかね、と思う。今まで夏美に説明してこなかったのは、それは、桐生のプライベートのことだからだ。そりゃあ、朱葉にだって、関係のないことでは、ないけれど。
「まあ、知り合い、なんじゃない……?」
「うっそだ!! 知り合いが、この時期にあんな、めっちゃデートっぽい店でご飯食べる!? しかも絶対絶対、お酒も飲んでたよ!!! 女の人、めちゃくちゃ気合い入ってたし!!」
まあ、やりかねないだろうな、と朱葉は思った。
相手はあの……マリカだ。
しかも、受験に追われて忘れかけていたけれど、今はそういえば、クリスマスの前だった。
なんとなく……彼女が、勝負を、かけるなら。
今しかないような気もした。
マスクの中で、深い深いため息をつく。
「……ねえ、夏美」
夏美を疑ってるわけではないし、多分そうなんだろうけれど。
「それ、本当に先生だった? ちゃんとよく見た? 確かめた?」
似た別人なんじゃない? と、面倒になって言い切ろうとした。けれど。
「あったり前だよ! これ!!!!! 証拠写真!!!!」
現代は本当に、誰だって探偵になれる時代だ。
夏美がスマホで撮った写真は確かに、ガラス越し、オシャレな店で飲食をともにする桐生とマリカの姿があって。
暗いこともあって詳細には見えなかったけれど。
マリカは相変わらずとてもとても気合いが入っていたし。
桐生の傍ら、隣の椅子には、朱葉が断った、ディスクの紙袋があった。
(ふうん)
その写真を見て、胸が、痛んだというか、切なくなったというか。
そういう感情もあったけれど。
ため息をついて、朱葉が言う。
始業のチャイムが鳴り終わる前に。
「わたし、やっぱ、保健室、いくわ」
まだ何か言いたげな夏美にゴメン、のジェスチャーをして。
「今、ちょっと先生の顔見たくないんだよね」
そう言い残し、鞄を持って保健室に。
(あー、珍しいな……)
わたし、多分、めっちゃ怒ってるなぁと、朱葉は冷静に分析をした。
体調のせいもあったのだと思う。それからいろんな不安もあったのだろう。保健室に乗り込んだ朱葉は、病み上がりという立場をフルに使い、しばらく保健室で休ませてもらうことにした。受験生の大切な時期ということもあり、養護教員はとても親身になってくれたし、しんどいなら家に帰ってもいいとも言ってくれた。
帰ってやるのもありだなあと思ったけれど、とりあえず保健室のベッドに寝転がりながら、スマホゲームでもやることにした。むしゃくしゃしていたから。
(だいたい、先生は脇が甘すぎなんじゃない!?)
取引もしたし、約束もした。
モトカノに会うなとは言わないけれど、二人でお酒を飲むことがどういうことなのか、本当にわかってるのか。
(しかも、わたしの、見舞いに行った帰りに!)
結局そこが、一番腹立たしかったのだ。
怒りのタップを続けていたら、保健室のドアが開く音。
「せんせーえ、寝かせてぇ」
そんな聞き慣れた声がして、手が止まる。「寝ている子がいるから静かにして」という養護教員の声に、
「えー? あれ、この靴って……」
ためらいもなく、カーテンをめくって覗く顔。
「やっぱり、委員長じゃーん」
現れたのは、朱葉と同じクラス委員である都築だった。
「さぼり?」
にこにこと聞いてくる都築にマスクを挙げながら、「……風邪」と小声で答える。
「そういや昨日も休んでたじゃん。だいじょーぶ?」
そのままずかずかと入ってこようとするけれど、養護教員に閉め出された。「待って待って! わかったから追い出さないで! 寝かせてー!」と泣きつく声がして、静かになったと思ったら。
>ねーえ、委員長~。
そんなLINEがぽんと隣から入った。
返事をしたのは、気まぐれだ。
>なに?
二枚のカーテンの向こうから、言葉が文字でとんでくる。
>からだ大丈夫?
>うん。都築くんは、サボり?
>俺は遅刻~。次の時間くらいから出ようかと思ってたんだけど~
なんどなく、笑っている気配が、カーテンとスマホ越しにうかがえた。
>せっかくだから、朱葉ちゃん、このままサボらない?
>は?
>だからさ~。
デート、いこ。
都築の、いつものノリだと思った。本当に呆れてしまうくらいいつもだ。初めて会った時から、ずっと都築はこうだった。
多分本気ではないのだろう。朱葉はそれを毎回、丁寧に断ってきた、つもりだ。
>デートはいかない。
でも、その日は。
なんだかとても、腹が立っていたので。
魔が差した、のかもしれない。
>でも、サボり、なら、つきあってもいいよ
「やったーー!」
と隣から声がして。「うるさいよ!!」と養護教員の檄が飛んだ。
まだちょっと続くのじゃん。