108「お願い、寝かせて」
リンゴーン、と鐘が鳴っている。
空は抜けるような青空で。
絶好の結婚式日和だ、と誰かが言った。
(──結婚式?)
自分は少し窮屈なドレスを着ている。白、ではないので。花嫁ではない。
びっくりだよ、ねぇ、と親友の夏美が話しかける。
式の参列者には、秋尾にキングの姿も見えた。
──先生が結婚するなんて!
(ええ?)
誰と????
教会の扉が開き、ウェディングドレスとタキシードに身を包んだ、花嫁と花婿が現れる。祝福してくれる動物たち。そう、タキシードをに身を包むのは、森のお友達。そして桐生が純白のウェディングドレスで──。
「お前が花嫁なんかーーーい!!!!」
ていうか、2017年現在、結婚機能は、実装されていません!!!!!!!!!!!
という自分の叫びで目が覚めた。
実際に叫んだわけではないけれど、起きてみれば喉が痛かった。
(悪夢だ…………)
寒気を感じるほど、背中に汗をかいていた。
といっても、汗は夢のためだけではない。
(着替えよ……)
外の雨はあがったのだろうか。週明けの月曜日……本来ならば学校に行っているはずの日だけれど、風邪をこじらせてしまい今日は休みだった。変な夢をみたけれど、汗をかいたおかげで熱は下がったようだ。午前中に病院にも行ってきたし、一応インフルエンザなどではなかった。けれど。
(自己管理、出来てないって怒られるかなぁ……)
熱を出してしまったせいで、受けるはずの予防接種ものびのびになってしまった。少なからず、朱葉は少なからず落ち込んでいた。
受験生、やっぱりこれじゃあまずいだろう。
最近はめっきり同人活動の方はお休み中だけれど、受験には焦りがつきまとう。着替えながら机の上に置かれた、スケジュール帳に目を留めて。
(落ちる、わけには、いかないし……)
学校を休んでいる分、少しは勉強をした方がいいのだろうかと参考書を取り出し、寝転がりながら開いてみるけれど、どうにも気持ちが乗らない。
(喉渇いたな……)
枕元に置いたペットボトルに手を伸ばした、その時だった。
(…………ん?)
インターホンが鳴る気配。宅急便か何かだろうか。階下には母親がいるはずだから、任せておいてよいはずだけれど……。そう思っていたら、しばらくのちに母親が階段を上がってくる音がした。
「朱葉、起きてる~? 先生、お見舞いにいらっしゃったわよー」
はあ? と思わず大きな声で聞き返してしまった。
なので、起きていることがバレた。
寝てるっていえばよかったかなと、ちょっとだけ、思った。
「ちょっと、ちょっと待って!! ちょっと待って下さい!!!!」
階段を上がってきた桐生をドアの前に立たせたままで、朱葉は部屋の中のものをチェックした。さっき脱いだ着替えとかはまとめておけばこの際どうでもいい、机の上とか。本棚とか! そういうところだ。別に桐生に隠す趣味もないのだけれど、それでも心の準備というものは、ある。
なんだか気まずいので、スケジュール帳の上にもノートを置いた。
「いや、俺としても別に……部屋まで入らんでも……」
玄関先でおいとまする予定だったんだけど、とどうにも気まずそうな桐生の返事。
「そもそも、なんで来たんですか」
カーディガンを着ながら、扉越しに思わず聞いてしまう。家庭訪問だなんて、今日日高校生はやらない。もしや、ここにきて学校をサボっているとも思われてはないだろう。原稿修羅場じゃあるまいし。ていうか修羅場だったらむしろ学校でやってるし。手伝わせるし。
扉の向こうから、まだ気まずい声。
「あー、集計をとってた……卒業者講演会の……参加希望アンケートが週明けで……」
「あ、やば。本当だ」
慌てて鞄からファイルを取り出して、ありました、と扉をあけたら、いつもの姿に、白衣ではなくコートを一枚羽織っただけの、桐生が立っていて。
「元気そうでよかった」
少し笑って安心したようにそう言ったので、
「どうぞ」
と朱葉が、部屋に招き入れる。
ねぇ、アンケートなんて、口実でしょう?
と、思ったけれど。聞かなかった。肯定されても、熱が上がりそうだったから。
朱葉の部屋は、別に特別なところなんて何もない部屋だ。ベッドがあって、机があって、気分によって変わるカレンダーがあって、お気に入りのカードや切り抜きをはっておくボードがあって、本棚は少し飽和気味で、棚の上には小さな玩具がいくつかあって……。他は、普通の女子が普通に生きていればこうなるだろう、という部屋だ。
ベッドに座るのもおかしい気がして、朱葉は椅子に座った。
桐生はどこにも座らなかった。立ったままで、アンケート用紙を受け取ると、「これ」とコンビニの袋を差し出した。
「なんですか?」
「大したものじゃない。手ぶらで見舞いにくるわけにもいかないので、差し入れ」
見れば、コンビニで買ったであろう、インスタントのレモネードと、のど飴がいくつか。
「え、こんなの、もらってもいいんですか」
「あんまり、よくはないだろうけど。……前も、いただいたからね」
そう言われて、ちょっとだけ考えて、思い出す。
(ああ……)
言われて見れば、そんなことも、あったっけ。
先生が風邪を引いて。あの日は、休みの日で。そうか、だから来たのか、と朱葉は少し、得心をした。
「身体の方は?」
「薬が効いて、熱は下がったみたいです。このまま夜も上がらなかったら、明日はいけると思います。インフルエンザとかでもないんですけど、マスクはしていきますね」
すみません、と言ったら、「ここで風邪を引いて、ちゃんと治して免疫をつけておきなさい」と先生は先生らしいことを言った。
頭ごなしに叱るようなことは、決してなかった。
「あと、これ」
それから渡されたのは紙袋だった。「なんですか?」と言いながらそのずっしりとした重さに嫌な予感を覚える。
中から出てきたのは、ブルーレイのボックスだった。
真顔で固まる朱葉に桐生の長台詞が降ってくる。
「俺的に風邪の時でも見られるチョイスを選んだつもりだけどどれくらいの病状かわからなかったからとりあえず熱が高いとき用と治りかけ用の2種類用意してみたんだ熱が高いと感情に起伏があるようなものはしんどいだろうから主に美しい映像と音楽がメインだけど中身としても中盤は退屈かもしれないけど終盤は確かに名作の呼び名にふさわしいしもうひとつはこれ絶対にマラソンして見た方がいいやつだし本当に誰が見ても面白いから古さなんて一切感じられないから欺されたと思って三話まで、三話まで見て欲しいから特に俺のオススメはラスト二話の……」
どす、とその胸元に拳をぶつけてだまらせると、朱葉が凍った微笑みのまま言った。
「お願い、寝かせて?」
まさか自室のベッドのそばでこんなことを言うなんて、思いも寄らなかったし。
けど、そのうち、また言いそうだなこのセリフ、とも思った。
結局桐生は朱葉の母が用意したお茶も辞退して帰っていった。
まだ何か言いたそうではあったけれど、これ以上は病状が悪化しそうなので遠慮したし、ブルーレイは持って帰っていった。「風邪の時はマラソンに限るのに……」とかなんとか言っていたが残念ながら朱葉の部屋にはブルーレイ再生環境がないのだった。(しまったポータブルも持ってくるべきだったか、の発言は聞かなかったことにした)
わざわざ来てくれるなんて、と母親はいたく感激していたけれど、多分大したことじゃなかったよ、と朱葉が言う。
食欲も戻ってきたので、母親のつくってくれたごはんを食べながら、少しだけ会話を交わす。
「相変わらず、格好良い先生ね」
「顔はね」
そんな風に答えて、とっとと部屋には戻ったけれど。
食事をとったせいだろうか、身体の芯がぽかぽかとあたたかく。
もう悪夢は、見ないで済みそうだった。
朱葉の家に寄ったあと、直帰をした桐生は、家には戻らなかった。珍しく電車に乗って都内へ。イルミネーションも灯りはじめた街を歩き、待ち合わせに指定された店に入る。
自分の方が早いだろう、と何の根拠もなく思っていたのに、すでに相手が到着していて驚いた。
「……本当に来たのね」
自分で呼んだくせに、と思いながら、腰を下ろす。
マリカとこうして食事をするのは何年ぶりだろうかということを、考えながら。
今夜はこれ以上寒くなるだろうかと、そんなことばかりが、気にかかった。
不穏に続く。