103 文化祭編 邂逅
クリスマスまで二ヶ月と少し。マリカは恋人と別れた。
正確には、恋人達と。
色々増減はあったけれど、その時点で、三人いた。恋人が。
一ヶ月は四、五週あるし、一週間は七日ある。土日だけとっても十日近くあるのだから、五人くらいまでなら許容範囲だと思っていたのに、全然足りなかった。日数が。
なぜか。
……ハマってしまったからだ。とあるアニメに。作品に。深みに。沼に。
絶対に足抜けしたと思っていたのに、ハマって一ヶ月で部屋がグッズであふれた。大人の財力とはげに恐ろしい。
部屋にもおちおち男を呼べなくなったし、二次創作も公式燃料もこれでもかとある作品だったから、余暇がほとんどなくなってしまった。もういいやと別れた。
男のいない生活なんて考えられないと思っていたのに、それなりにすっきりしてしまった。全然さみしくなかった。そのことの方が、マリカにとっては、ちょっとショックだった。
どの彼氏の顔を思い浮かべたって、自分のはまったイケメンスポーツアニメの話なんて、わかってもらいたくなかった。踏み込んで欲しくなかった。
でも、ただひとつ言ってもいいなと思ったのは、大学時代につきあっていた、同じサークルの桐生和人だった。
言ってもいいなと思った。盛り上がる気がした。
楽しいような気がした。でも、それが一番癪だった。
桐生にイケメンの擬態の仕方を教えたのはマリカだった。アニメや漫画が好きでもいいけど、自分のことを一番好きでいて欲しかった。
……自分は別に、相手のことが、たったひとりでも、何においても一番でも、なかったのにね。
マリカはその矛盾と傲慢さ、わがままを十分に自覚していたし、許されるのが愛だろうと思っていたし、愛されるだけの自分だろうという自信の体現でもあった。
でも、そういう愛され方から、脱却をしてみて。
もう一度、桐生と会うことが、自分にとって正しいことなのかどうかはわからない
桐生が自分以外に熱を上げていることも知ってる。せっかく苦労して教師になったくせに。教え子だなんて、馬鹿みたい。でも、教え子だからとかどうとかいう問題ではなく、もっともっともっと馬鹿みたいな理由なんだということも、知っていたし。
ねぇ、そんな馬鹿なら、わたしでもよくない?
そう言ってやろうかなと、思っていた。とりあえず、この文化祭に。黙ってきた文化祭で、桐生と会えたら。会えたのなら。会え……。
「…………」
会えたは、会えた。彼の教室のそばで、
会えた、けど。
「何、その格好」
思わず腹の底から声が出た。隣では、この文化祭を案内してくれた、同じくサークル後輩の縁が、「えーーー? 桐生センパイマジで!?」と声を上げている。
「はぁ」
と派手な女装をした桐生は居心地の悪そうに返事をする。縁のことはすぐには思い出せないようで、曖昧な顔をして笑っている。
マリカは、コスプレがあまり好きではないし、女装はもっと、好きではない。多分、彼女自身が、高いプライドをもって自分自身をコーディネートしているからだろう。
「恥ずかしくないの? 何考えてるの? せっかく格好良い先生で通ってるのに──」
そう、学校に来たら、擬態している桐生が見られると思ったのだ。その桐生と、美男美女で並んで立つ。そういう、目的が、あったはずなのに。
「恥ずかしくないよ」
ぽつりと、けれど、はっきりと桐生は答えた。
「恥ずかしがってちゃ、祭りじゃないでしょ」
それから少し困ったように笑って。手のひらを上に、教室に導く。
「ようこそ、華占茶房へ」
そつない仕草で、綺麗な姿で案内されたから。
ああ、自分は客なんだと、今更なことを思って。……なんだかすごく、腹が立った。
しかも教室に着いた途端、接客は自分の仕事じゃないからと他の生徒の元に立ち去ってしまう。会話なんて、している暇もない。
「なにあれ」
腹が立つ、と怒りが抑えきれないマリカを、縁が「まぁまぁ」となだめてくれる。
「びっくりしましたよね~。ね、せっかくだからお茶して行きましょうよ。あとから弟の店も案内しますけど、あっちはホットドッグとかみたいだし。なになに? 恋知るフォーチュンクッキーですって」
可愛い、と縁は笑うけれど、マリカは苛立ちがおさえきれず、不機嫌な顔で頬杖をついていた。
その時だった。
「おねーさんっ」
いきなり傍らに手をつかれ、近距離で覗き込まれた。わざとらしくて安っぽい香水のにおいがした。
「美人だね。ろくでもない恋愛いっぱいしてるでしょ」
開口一番そんなことを言ってきた、チャイナ服を着た──
(女? じゃない)
男だ、とマリカが思う。
この店はどうなってるんだ。第一。
(ろくでもない恋愛いっぱい)
失礼極まりない。
高校生のガキに、なにがわかる?
その思いがそのまま顔に出てしまっていたんだろう。相手はにやっと笑うと、フェイスベールを揺らし、マリカに囁く。
「そういうの、わかっちゃうんだ、俺。どう? 恋占い、していかない?」
露骨に色気をにじませる言い方だった。けれどその言い方に、心拍数があがるどころか、冷静になる自分がいた。
「間に合ってるわ」
ゴメンネ、と綺麗に笑う。ガキに興味はねぇんだよ、と顔にだけ書いて。すごんだ笑い方をすれば、ひるむと思っていた。
狭い視界の中で、桐生の姿を探した。……残念ながら、目につかなかったし、こちらのことを見ている気配もないけれど。
「じゃあ、手相だけでも、見せてよ」
そう言って、自然な仕草で手を取ると、おもむろに取り出したペンを走らせた。驚いたことに、マリカの手のひらに。
突然のことに、止める間もなく。ためらいなく強い筆跡で書かれたのは、特徴的な文字列で。
「俺のLINEのID。気が向いたら、連絡して?」
そして耳元に囁く。
「先生のことだって、相談にのれるからね、俺は」
イキがってる、子供。自信満々で恥ずかしい、と思わなくともなかったけれど。
「……名前、教えてくれる?」
ちょっと思いついちゃった、とマリカが笑ってそう尋ねた。
そしてお茶をして、桐生がひとりになったところを見計らって、席から立ち上がると、近づく。
「ねぇ」
「……まだ、何か?」
ちょっと困ったように桐生が答える。圧の強い笑みを浮かべて、マリカが言う。
「あの子。都築くんっていうんでしょう? 誘われちゃった」
自分の手のひらの、IDを見せながら。
「可愛い子ね。……ね、少し、遊んであげてもいい?」
少しでもうろたえればいいと思ったのだ。
別れたあと、マリカが誰と付き合ったという話をしても、顔色をかえなかった桐生だけれど。知っている、相手だったら、それが生徒だったら? どうだろう。
止めてくれるかもしれない、と思った。
だけど。
「……あの、馬鹿」
小さく呟く、桐生の顔は、真剣そのもので。
目を伏せて、低い声でマリカに言う。
「悪い。俺から言っておくから、無視しておいてもらえるか?」
とても、真摯に、真剣に。
「今、大事な時期なんだ。あいつも、進路に迷ってて。だから……」
余計な悩みは、増やしたくない。
と、桐生は言った。
「ああ、そう」
笑みを凍らせたままで、マリカは言う。
「ああ、そう!」
「!!!!!!!!!!」
高めのヒールで足を力一杯踏みつけて。
「縁! 行きましょう! 弟の店でもどこでも!!」
もうここにはこれ以上、金輪際いたくはない、と身を翻す。痛みにもだえる桐生の気配を背中に感じて。
怒りのままに、教室を出て行く。
その背中に。
「あーあ」
占いブースから覗いていた都築が、呆れたように言った。
「……だから、俺が相談乗るって言ったのにね」
くわばらくわばら、と頭を引っ込める。そのうち先生から、詳しい話を聞こうと思いながら。
怒りのままに学校の廊下を歩きながら、マリカの腹の虫は全然おさまらなかった。自分でも、どうしてこんなに怒っているのかわからないくらいに。
「先輩、先輩ちょっと待ってー! あっち! 太一の店、あそこです!」
見れば、男子生徒が大声で接客をしている模擬店に、バスケットボールの絵とホットドッグ、の文字。
「ええと……先輩、食べられます?」
マリカの無言の怒りを察してだろう。縁がおずおずと聞く。マリカは小さくため息をつきながら、「いいわよ。そういう話だったもの」と列に並んだ。
「……ねぇちゃん」
淡々と会計をしていたのは、縁の弟の太一だった。そういえばこんな弟だったな、とマリカは無感動に思い出す。
前に会った時も、そういえば、怒っている時だった。
間の悪い時ばかりに会う人間って、いるものだ。
そんなことを思いながら、縁の後ろについて、ホットドッグを注文する。千円札しかなかったから、お釣りをもらおうと手を出したら。
太一の目が、ふと、その手に止まった。
「あんた」
思わず、というようにその手首がとられる。
その仕草よりも、呼び方がかんに障った。
「あんた!?」
「いや、すんません、先輩さん」
聞き返したら、即座にあやまられた。いや、確かに、そこがひっかかりは、したのだけれど。
「──マリカよ。何?」
ため息まじりにそう言ったら。
太一は気まずそうに、つかんだ手首、その手の中を見て言った。
「いや……この、ID」
書かれていた、都築のIDを見て。
「書いたやつ、多分、調子と顔だけはいい男だったと思いますけど。こうやってID書くの、常套手段なんで。……気ぃつけて、下さい」
なんだ、と思う。ちょっと、冗談ぽく笑って。
「気をつけてって」
そんな、大げさな、と言おうとして。
「……軽いんで、あいつ」
迷惑、かけます、きっと。と。
言葉少なに、お釣りを渡しながら太一が言った。
(……なんだかな)
ほんの少し、やわらかいような、むなしいような思いで、マリカはそのお釣りを受け取って、思う。
(……言われたかったんだな、あたし)
心配して欲しかったんだ。
自分のことを。まだ、女として。
でも、あいつは……桐生は、先生として、生徒の心配を、優先させた。
(なんだか、なぁ……)
騒がしい模擬店の声が、大学時代のあれこれを思い出させる。
楽しかったな。
でも、もう、過去のことなのかもしれなかった。
「……ありがと」
大丈夫だ。全然大丈夫だし、あんな子供、眼中にない。それでも。
お礼を言ったら、少し、心が楽になった気がした。