101 文化祭編 回想
静島代議士の私設秘書である九堂亘は、あまり、学校生活にいい思い出がない。
両親を早くに亡くして、施設から定時制の高校へ。それでも学校もろくにいかずに悪いことばかりしていた時に出会ったのが、静島代議士だった。社会奉仕活動としての、見回り活動中だったのだという。未成年のくせに馬鹿みたいな飲み方をして、冬の街で寝ていたところを家まで連れていかれた。
気まずさや気恥ずかしさもあり屋敷からとっととずらかろうとしていた時に、後ろから駆けよってきたのが、当時まだ小学生だった一人娘の咲だった。
『行こう』
顔も見ないで腕を引いて、引っ張るように九堂を連れて家を出た。
『咲も行くから』
勘弁してくれよ、と思ったことを覚えている。
行くっていったってどこへだよ。咲もって、もってなんだよ。
どうやらその頃咲は家の手伝いをしてくれる女性達との折り合いが軒並み悪く、とかく反発心を募らせていたらしい。
誰でも良かった、のだと思う。俺じゃなくてもよかったんじゃねぇのって、今も思っている。
ただ、そのぞんざいな扱いが、むしろ咲には新鮮にうつったのか、どうだったのか。適当に街をまわって、コンビニで肉まんを買って一緒に食って、いくつか話をした。咲に家や家族のことを聞かれたから、正直に、ろくにいないことを伝えた。何を思ったかは知らないけれど神妙にしていた。そして夕方になり、帰る、とようやく口にしたので、家まで連れて帰った。
家を飛び出してきたのに、帰ることは怖いようで、怯えきっている咲を見ながら、屋敷の人間に『俺が』と言った。
『俺が、お嬢さんを』
けれど言葉を遮られた。そして咲の父親から言われたのだ。
『君』
やべぇな、今度こそ警察にでも突き出されるかもな、未成年誘拐とかな。俺も未成年だけどな。
そんなことを思っている九堂に。
『君、うちで働かないか……』
──結局それから、もう十年近く、静島家には世話になっている。大学まで出させてもらったし、社会人としての経験をすべて、先生から学んだ。
ろくでもない人間だったから、苦労はしたけれど、それでもまっとうな苦労だった。つらくはなかった。
唯一途方にくれたのは、中学に上がった咲が、学校にはもう行かないと言い出した時だった。
世間知らずのわがまま娘。それでも、悪くない関係できていたつもりだったけれど。
九堂は、なんと相談にのってやるべきかわからなかった。
自分も、学校が、楽しいと思ったことなんてなかったから。
世話役としての九堂のことも、咲の父母は責めることはなかった。勉強は家庭教師を雇えばいい。多分そういう問題じゃなかったんだろうけれど。誰も彼も、自分も、普通のことが得意ではなかったのかもしれない。
多分、このまま世の中と隔絶されて生きる道だってあったのだろう。それを選ばなかったのは、娑婆につなぎ止めたのは。……他のなんでもない、わけのわからないオタク趣味だった。
それは? 一体? なんだ???
と誰もわからなかった。歯に衣着せない立場の九堂なんかは、あしざまに罵ったりもした。けれど、結局、咲は自分の好きなものを見つけ、行きたい高校まで見つけた。そしてそれから、紆余曲折があったけれど。
「こんにちは」
開け放されたドアの奥で、机に座る、咲が笑っている。
友人だろう、隣には九堂の知らない同級生がいて、咲の開いた冊子を覗き込んでは何かを言い、少し照れくさそうな顔をした咲が、熱心に言葉を返している。
その様子を、九堂は廊下の少し遠くから、ひっそり佇んで見ていた。
「九堂さーん!」
と、声をかけてきたのは咲の先輩であり、九堂にとっても恩人であるところの早乙女朱葉だった。
クラスの出し物だろうか、髪をまとめてシンプルなチャイナ服に身を包んでいる。
九堂は「お久しぶりです」と深々と頭を下げる。
「ごめんなさいお待たせしました? 咲ちゃんですよね」
ああ、いえ、お構いなく……と九堂が言う間もなく、朱葉はテキパキと部屋に入っていき、咲の友人達とも楽しげに話している。やがて咲が九堂の元に小走りでやってきた。
「なんだ、いたの九堂」
とはずいぶんぞんざいな言い方だと思ったけれど、今日は腹も立たなかった。
「先輩には挨拶をしたのね。今ね、先輩に展示のお店番を代わってもらったから……」
「お嬢」
咲の言葉を遮り、九堂が言う。
スーツの上着を腕にかけて、目を細めて。
「俺は今日は……いなくてもいいんじゃないですかね」
本当は、いない方がいい、と思ったけれど。
なんだか当てつけがましい言い方になってしまう気がして……言えなかった。
いなくてもいいんじゃないか。大丈夫じゃないか。来て欲しいと言われ、来てはみたけれど。
もう、いいんじゃないか。
けれど、咲はその、黒目の大きな目をぱちくりとまばたきして。
「なあに? 九堂」
なんでもないことのように言う。
「お仕事のサボりはいけないわ」
手間のかかる子供を相手にするみたいに。
「パパやママに、咲のことは言いつけられているのでしょう?」
そしてそれから、九堂の腕を引き、言う。
「行こう」
既視感を感じた。でも、あの時とは違っていた。あの時は、自分も、咲も、行くところなんてなかったけれど。
「高校の文化祭なんて、九堂にはつまらないかもしれないけれど、きっと、楽しいところもあるんじゃないかしら」
そう、言うから。言いながら、歩き出すから。
「……いいえ」
小さな声で、九堂は言った。
いいえ、多分。
俺は、もう。
もう、十分楽しいですよと、口には出さずに、九堂は思った。
♥
朱葉は結局開店の手伝いをして、軌道に乗り始めたところを見て部室の方にやってきた。
看板を背負った桐生の女装コス(としか言いようがない。聞けばやっぱり秋尾の衣装だという)は破壊力抜群で、面白がった生徒が客として入りはじめていた。都築の占いやフォーチュンクッキーの仕様も、口コミで徐々に広まっていくだろう。それに比べたら部室の展示は静かなもので、けれど咲の友人だという後輩が何人か来てくれていた。
「こんにちは。部誌もらってくれた?」
はい、と楽しげに返事をする。
静島さんが言ってました、ポスターとかも、先輩がみんな描いてくれたって。すごいですね! と手放しで褒められるのは、嬉しいけれどくすぐったい。
「漫研に興味があったら、兼部も歓迎だよ」
強くはないけれど朱葉の勧誘の台詞に、後輩達は顔を見合わせる。それから、おずおずと朱葉に聞いた。
絵が下手で。「関係ないよ」動画とかばかりすきで。「それはそれでいいじゃん!」
そんな話をしていたけれど。
「仲良い先輩が先輩が言ってたんですけど……顧問の先生が、格好良いって、本当ですか?」
「えっ」
かっこう……かっこう……かっこう……。
朱葉がかたまっていると、いきなり展示会場である部室に派手な女が現れた。派手な、女、と思ったけれど、それは印象だけで、その実際は。
「早乙女くん!!!」
ずかずかと踏み込んできたゴシックチャイナ桐生はがしっと朱葉の肩を掴んで言った。
「マリカが来てる」
あ、そういえば、言おう言おうと思ったのに、忙しさにかまけて……と朱葉が考えているうちに。
「気をつけて」
それだけ言い残して、クラスの看板を肩にかけたまま桐生は出て行ってしまった。
隣にいた後輩達もぽかんとしている。ええっと、なんと説明したらいいかな……格好悪くはなかったと思うけど……と朱葉が考えているうちに。
「へーここ?」
「ここみたいですねー」
よく通る話し声をさせて、部室に入ってきたのはマリカその人と、朱葉のご近所である、梨本縁だった。そうか、二人は大学の先輩後輩の関係だったか、と朱葉が思い出す。この学校の文化祭の日程を聞くのも、縁に聞けば確実だろう。そして、聞けば、一緒に行こうかという話になってもおかしくない。
縁の弟である梨本太一は、バスケットボール部で模擬店を出しているはずだったし。
「あ、朱葉~!! チャイナ服かわいー!」
先に朱葉に気づいてそう言ったのは縁だった。マリカは朱葉に挨拶も早々に、
「カズくんは?」
と切り込んできた。今さっきでていったでかい女がそうですけど、と思ったけれど言わなかった。
「さぁ……教室の方かもしれませんけど……」
「教室? 朱葉、クラスでもなにかやってるの?」
「いや、わたしはこの、服装だけですけど。一応、中華茶房を……」
へえ、そうなんだ、と縁は言って。
「行ってみます?」
「ええ、行ってみましょ」
そう言った二人だったけれど、ふと、朱葉の前に置かれた部誌に目を留めて。「あ、もらっていっていい?」と縁が騒ぐ。
もちろん、だめとは言えない。さりげなくマリカも手にとっていった。今日も過不足なく、隙のないマリカの姿には、その手作りの部誌はちょっと不似合いだったけれど。
またね~と楽しそうに二人、廊下を歩いていった。ほっと朱葉は、胸をなでおろす。
まあ、桐生は、見つかるかもしれないけれど。自分のことは自分でしてもらおう。大人だし。
「ごめんね、騒々しくて」
ぽかんと口をあけて眺めていた後輩達に言ったら。彼女達も顔を合わせて。
「わたしたちも、先輩のクラスいってみます!!!」
そう言って出て行った。
破壊力抜群だな……と、ちょっと呆れた様子で、朱葉は笑った。