役僧
(いったいどこで何をしているのやら)
飛田給のバラックで留守番をしながらキヨは不思議な思いで過ごしました。貧乏暮らしながら飢えることはありません。東光はちゃんと食べさせてくれています。占領期の日本はひどい欠乏のなかにありました。建ち並ぶバラックの中には米兵相手のパンパンの家が何軒もあります。そうまでしなければ食べられない時期に、身を売らずに食べられるだけでも幸せと言うべきでした。
東光は頻繁に出かけていきます。いろんな所に首を突っ込んでは、儲かろうが儲かるまいが、うれしそうに奔走しています。得意の易学を活用して占い師をやったり、春日大社で易学の講義をしたり、刑務所の教誨師を務めたり、頼まれれば何でもしました。用事のない日にはバラック内でセッセと小説を書いています。その原稿が売れると、ひと息つけるのです。
「稚児」という単行本が出たのは、この頃です。この作品は、去る昭和十一年に日本評論紙上に発表されたものでしたが、単行本として出版したいという人物が現れたのです。一万部が完売しました。終戦直後の混乱期であることを思えば、奇跡のような売れ行きでした。この単行本に序文を寄せた谷崎潤一郎は東光の成長を大いに称賛しました。
「君は小説に筆を折ってから十有八年の間に、これだけの芸術を建立する下地を身に着けたのである」
東光は大いに喜びました。ただひとつ東光が遺憾としたのは、占領軍の検閲によって若干の削除を強いられたことです。
占領軍は日本を根幹から変えようとし、事実、多くが変えられ、日本人は変節を余儀なくされました。私刑同然の戦犯裁判、公職追放、出版物の検閲と焚書、婦女子への強姦、裁判への不当介入、法律案の事前検閲など、日本の主権は完全に奪われ、日本のすべてが占領軍官僚たちのオモチャにされました。
そんな占領下の日本にあって、あくまでも自由だったのは東光です。戦時下であろうと、占領軍の支配下であろうと関係ありません。自由な言動を謳歌しました。貧乏な寺なし坊主ゆえに世の誰からも放っておかれたのです。放っておかれたことは東光にとって一種の幸運だったでしょう。戦時中、名のある文学者は誰もが国策に協力させられていました。このため終戦とともに占領軍の支配が始まると、多くの文学者が転向を余儀なくされました。なかには戦争責任を問われて公職追放される者さえ出ました。その意味で東光ほど融通無碍の存在はありませんでした。
東光は教誨師として刑務所に出入りするうち、刑務協会の文化部長を勤めるようになりました。刑務協会とは、法務省管轄下にあって刑務所内の福利厚生などを管理する組織です。
占領軍は、民主化政策の一環と称し、刑務所内の設備と処遇を改善せよと刑務協会に強く要求してきました。食事を改善しろ、設備を改良しろ、図書館を備えろ、あれをしろ、これをしろと矢の催促です。しかし、敗戦後の極端な物不足の時代です。できることは限られていました。そもそも無差別爆撃によって日本の社会基盤を潰滅させたのはアメリカ軍です。占領軍の言い分は、拳銃で撃っておいて、「しっかり立て」と叱咤するようなものでした。
それでも刑務協会としては「ご無理ごもっとも」で何事かやらねばなりません。せめて金のかからぬ所内誌だけでも充実させようということになり、作家でもある東光を頼ってきたのです。東光は引き受けました。
占領軍の官僚は傲慢な勝利者でした。正義の騎士を気取ってはいましたが、日本文化の何たるかも知らぬまま、生かじりの机上政策を無理矢理に押しつけてきます。どれもこれも日本の歴史や現状を無視した無茶な要求ばかりです。気骨の日本人はすべて公職追放されてしまい、日本の官僚はすっかり弱腰になっていました。保身のため、その日の食糧のため、言うべき反論もせず、言われるままに曖昧な微笑を浮かべるしかありません。刑務協会の幹部も占領軍からの理不尽な要求に弱り切っていました。
その様子を脇で見ていた東光の反骨心が鎌首をもたげたのはごく自然ななりゆきでした。嘱託の文化部長ながら、東光は占領軍との交渉役を買って出ました。
「日本は負けただけだ、悪くはない。アメリカは勝っただけだ、正義でも何でもない。さっきもカーペンターの野郎にガーガー言ってやったよ。わはは。だいたいアメ公の通訳の野郎、俺のしゃべる日本語をろくに通訳できやしねえ。ガミガミ文句を言ってやったら、ヤツらめ、ずいぶん丁重な態度に変わりゃがった」
カーペンターというのは占領軍法務局の大佐です。協会幹部の誰もが占領軍におびえきっていましたが、東光だけは平気です。むしろアメリカ人相手の喧嘩が楽しくてしかたがない様子です。武勇伝を語るときの東光はいかにも機嫌がよい。そのホラ話によれば、カーペンター大佐と東光との間で次のような会話が交換されたようです。
「刑務所には所内教育のため必ず幻燈機を二台備えつけろ」
「今の日本のどこでレンズが手に入るんだい」
「図書館の本が不足している。買いそろえなさい」
「街を歩いてみやがれ、どこに本が売っているんだい。おまえたちの空襲のせいですべて焼けちまったぜ。おれんとこの蔵書もぜんぶパーだ」
「所内の食事を改善しろ」
「どこに食い物があるんだ、この野郎。囚人には銀シャリを食わせて、看守が芋を食ってるってえのに」
カーペンター大佐は現実離れした理想を喚き立てるばかりでしたが、その無知と無理に東光は容赦なく反駁し、相手を黙らせました。東光の鋭い舌鋒と激しい剣幕に閉口したカーペンター大佐は、東光を辞めさせようとし、刑務協会の会長に圧力をかけてきました。
「あの坊主を首にしろ。あんな無礼者に支払う給料はないはずだ」
「文化部長は無給でございます。辞めさせれば本人はさぞ喜ぶことでございましょう」
これにはカーペンター大佐も返す言葉がありませんでした。
すでに出家して二十年、東光の階級は律師でした。権律師から一階級あがっただけでした。このような階級や組織が信仰に必要なのかどうか。東光が出家した際、父の武平は東光の教団入りに反対したものです。信仰は個人の問題だから組織は必要ないと武平は言いました。ですが、東光は教団の負の側面を認めつつも、やはり組織に入りました。
(俺はパパとは違う。自分ひとりでは糸の切れた凧のようになってしまう)
出家した東光を驚かせたのは、浮世以上に俗っぽい宗教界の現実でした。東光は唾棄すべき生臭坊主を幾人も見ました。愚かしい人間集団の愚行を嫌というほど見せられました。寺を乗っ取ろうと企む強欲坊主、博徒に寺を貸して寺銭を稼ぐヤクザ坊主、人生相談にきた女に手を出す淫乱坊主、お籠もりと称して男女を参籠部屋に招き入れる色茶屋寺院、教団内の教区長選挙にからむ贈収賄の数々、教団内に蔓延する階級制度と差別意識、教団の主要ポストをめぐる派閥抗争などなど。
(人を救うべき僧侶が、救われるべき存在になりさがっていやがる)
出家したての東光は大いに失望し、憤慨しましたが、やがて考え方を変えました。
(それでこそ修行の場だ)
教団が理想の世界なら、皆で安住していればいい。修行など必要ない。むしろ俗世間以上に俗っぽい教団内で修行を重ね、それでいて俗に染まらず、聖なる教義を体現できるようになることこそ修行でしょう。東光は、俗と戦う武器として悪を使いました。かつてモグリ学生として東大内を遊泳したように、東光は教団内を自由自在に動き回り、敵もつくりましたが、味方もつくりました。様々な妨害や意地悪を跳ね返しながら修行を続けてきました。
数々の暗黒面を抱えている教団ではありましたが、修行の便宜を与えてくれるのもまた教団です。平安時代から伝わる修行の作法、要具、介添人など、伝教大師以来の伝統は確かに受け継がれています。さらに東光にとって何ものにも代え難い魅力が教団にはありました。書庫です。平安以来の長い伝統を受け継いできた教団の書庫には、貴重な歴史資料がうずたかく積まれています。歴史に強い関心を持つ東光にとって、書庫は悦楽の極地でした。幼い頃から漢籍に親しんできた東光は、漢文で書かれた古文書をスラスラと読み飛ばすことができました。古の出来事に思いを馳せ、古人の心情に触れるたび、東光の創作意欲が刺激されました。
坊主なら誰でも寺持ち住職になることが目標です。ある大僧正が東光に好意を持ってくれ、条件の良い寺を紹介してくれたことがあります。
「米が十三俵ほど上がるから何もしなくても食えるし、檀家も少ないし、楽やからその寺へお入り」
「どのあたりでございますか」
「紀州に近いところや」
「僕は檀家というものがあっちゃ、お断りするよりしようがありません」
生臭坊主にとっては垂涎の的ともいえる好条件の寺を東光は惜しげもなく断わってしまいました。ちなみに跡取り息子でもない限り、僧侶が一ヵ寺の住職になるのは至難の業です。並の僧侶なら誰もが羨むような肉山の富裕寺を東光はなぜか敬遠しました。
それでいて東光は、大日坊という奥美濃の田舎寺の住職を拝命したことがあります。深い山奥に分け入り、長い山道を歩き、やっとのことで大日坊にたどり着いてみると、そこには崩れかけた石垣だけが残っていました。東光は大日坊の再興を志しましたが、戦時中の規制によって構造物の建築が許されず、やむなく断念しました。
東光には、心中、何事か期すものがあったようです。それが何であったのかは推し量るしかありませんが、あえて難におもむくという気概があったことだけは確かです。
「道心の中に衣食あり。衣食の中に道心なし」
という伝教大師の御言葉を実践していたのかも知れず、もしそうだとすればまことに勇猛なことでした。そんな東光に教団はある寺の処理をまかせました。
河内国八尾に天台院という末寺がありました。南北朝以来の歴史を有する寺でしたが、いまでは教団の頭痛の種になっています。檀家が少なく貧乏寺だったことに加え、役僧として雇った怪しげな山伏に占拠されてしまったのです。役僧というのは、要するに雇われ住職です。ですから解雇されたら去らねばなりません。ところが、この山伏は天台院に棲み着いてしまい、教団からの明け渡しの要求を拒否しています。困った教団は特命住職を任命し、明け渡し交渉をさせてきましたが、誰を行かせても上手くいきません。なかには山伏にこっぴどく殴打された者もいました。
「なんとかしてくれないか」
有り難くない御鉢が東光に回って来ました。宗務庁から下相談を持ちかけられた東光は、詳しい事情を聞きました。聞けば聞くほど闘志が湧いてきました。
「お任せいただけるなら、やりますよ」
昭和二十六年九月、宗務庁から通知が届き、東光は正式に天台院の特命住職となりました。東光は下調べをし、準備を整え、退去を通告するために天台院を訪れました。天台院は八尾中野村にあります。江戸期には河内木綿の産地として知られた質朴な農村集落です。
天台院に棲み着いた山伏は筋骨の逞しい大柄の男でしたが、聞く耳を持っていました。というより、東光の背後に屈強そうな二人の猛者がひかえていたため、山伏としても聞かざるを得なかったのでしょう。東光は、空手の使い手ふたりを帯同していたのです。
東光は、書類を見せ、そこにある座主の花押を指で示し、天台院の所有権の所在を法的に明らかにしました。次いで理を説きました。この山伏はもともと役僧です。それが退去命令を拒否して居すわるのは理に反します。さらに情で説きました。
「素直に退去するなら今後の生活について相談にのってやってもいい」
そして最後には、いっさいの事情を警察に通報してあることを告げ、抵抗が無駄であることを山伏に悟らせました。暴力沙汰になれば警官が駆けつけてくるでしょう。
「三ヶ月以内に退去しろ」
そう言い渡して東光は天台院を去りました。
三ヶ月後、山伏は素直に天台院を明け渡しました。山伏は生駒山麓に滝行の行場を開き、大いに繁盛させたといいます。見事に天台院を取り戻した東光に、教団はその再興を命じました。荒れ果てたボロ寺のどこをどう気に入ったのか、東光は快く引受けました。
フィリピン戦線で死線をさまよい、命からがら帰国した日出海は、戦後、首尾よく政府に職を得て、鎌倉に家を構えていました。その日出海に東光から手紙が届きました。
「拙僧、一庵の住職たり」
と得意げに書いてあります。これを読んだ綾は取り乱し気味に言いました。
「おい日出海、おまえ、行って見ておいでよ。気になるじゃないか。あのバカ、どうせ碌なことやってないよ」
言葉とは裏腹に、綾の瞳は活き活きしています。調布のバラックを抜け出して、一ヶ寺の住職に出世したのなら立派なものです。
(兄貴もついにやったなあ)
日出海は我がことのように喜び、東光の自慢する一庵をぜひ訪ねてみたいと思いました。滑稽なことに綾も日出海も天台院を立派な大寺だと思い込んでいます。
「八尾の天台院」
それだけを記憶して日出海は東海道線の特急列車に乗りました。乗り継いで八尾駅に至り、駅前でタクシーを拾い、寺の名を告げれば行けるだろうと高を括っていました。
「天台院?はあ、聞きまへんなあ」
八尾の駅前でタクシーに乗りましたが、運転手は知らないといいます。
「ともかく八尾の寺だ。どこかないか」
「八尾でお寺さんいうたら、八尾御坊でんな」
「よし、それだ」
運転手はエンジンを吹かしました。八尾御坊というのは門前町のある大寺です。やがて賑わう門前町と立派な伽藍が見えてきました。
(兄貴も立派になったなあ)
日出海は感心しきりです。しかし、タクシーが止まってみると、そこは大信寺という寺でした。
「名前が違うなあ。ちょっと待っててくれ。聞いてみる」
日出海はタクシーを待たせて寺内へ入りました。
「今春聴という坊さんはいませんか」
「さあ、聞きまへんなあ」
「今東光という名前で小説も書いている男ですが」
「さあ?」
どう尋ねても東光は居ないようでした。日出海はタクシー運転手に尋ねます。
「ほかに寺はないか」
「そうでんなあ」
運転手は記憶を頼りに数件の寺に日出海を案内しましたが、どうしても天台院には行き当たりません。
「仕方がない。警察へ行ってくれ」
日出海は警察署の窓口で尋ねました。
「天台院という寺はどこですか」
「聞きまへんなあ」
「そりゃ、あんたは知らんだろうけど、警察なら記録があるだろう。今東光という小説家がそこにいるはずだから」
窓口の警察官は上司に聞いたり、地図を見たり、市政便覧の頁をめくったりしてくれました。それでも見つかりません。
「いや、わかりません」
(そんな馬鹿な)
日出海は自信を失いました。ひょっとしたら寺の名称を誤って記憶したのかも知れません。日出海は脳裏に東光からの手紙を思い描いてみました。確かに「天台院」でした。日出海は気を取り直し、消防署にタクシーを向かわせ、同じように聞いてみました。
「聞きまへんなあ」
タクシーの運転手は辟易し、「もう、堪忍や」と言い捨てて走り去ってしまいました。
(どこにあるんだ、天台院は)
日出海は途方に暮れました。それにしても警察や消防さえ知らないとは、どういうことなのでしょう。もし天台院で事件や火事が発生したら、どうなるのか。そもそも警察も消防も知り得ぬ秘密の場所が、この日本国内にあり得るのか。そんなことを考えながら日出海はあてもなく歩きました。たまたますれちがった老婆に聞いてみました。
「天台院を知りませんか」
「さあ、聞きまへんなあ、そんなん」
「そうですか。最近、そこの寺に、ちょっと変わった坊さんが来ているはずなんですが」
「変わった?ふん、しかし、あれ、寺やおまへんでえ。しかし、なんか陽気なオッサンが来とるって言うとった」
「それは小説家ですか」
「そんなん知りまへんわ。けど、変わった人が住んではるいうてた。そこやないか」
「それはどこですか」
「ああ、すぐそこやでえ」
老婆に礼を言って日出海は歩き出しました。教えられたとおりに行くと、はたしてそこに廃屋がありました。
(まさか、これが?)
日出海は戸惑いました。どこをどう見ても寺には見えません。しかし、そこが天台院でした。廃屋の内側から声が聞こえたのです。
「おい、キヨ、どこにいる」
「はーい、ここですよ」
日出海は茫然としました。誰に聞いてもわからないはずです。ボロボロの荒屋なのです。
(ここが寺だとはさすがに警察も消防も思うまい)
庭には雑草が生い茂り、タヌキが棲んでいそうです。屋根は波打ち、板壁が所々剥がれています。崩れかかった玄関を入るとすぐ本堂と座敷があります。日出海が靴を脱いで上がると床がたわみました。
「よう日出、よく来たな」
東光はニコニコしています。
「兄貴、悪いが便所をかしてくれ。捜し回っていたから、たまってるんだ」
「便所はあっちだよ。肥溜めに落ちるなよ。それからなあ、油断するなよ。下手に歩くと床を踏み抜くぜ。さっきもキヨのやつが踏み抜いて膝小僧を擦り剥いたばかりだ」
肥溜めに板が渡してあるだけの簡易な便所です。便所はたいていジメジメして薄暗いものですが、ここには屋根がないのでずいぶん明るい。用を足し終えた日出海は尋ねます。
「雨の日はどうするんだ」
「傘をさしゃあいいじゃねえか」
日出海は屋内を見て回りました。障子も襖も何やら歪んでいて容易には動きません。それでも東光とキヨは懸命に立ち働いています。ともかくこのボロ寺を、人が住めるようにせねばなりません。ドタッと何かが落ちる音がしました。見ると青大将が這っています。「此処の主は俺だ」と言わんばかりの大蛇です。キヨがシッポをつまんで庭に放り投げました。見上げると天井板が脱けています。
「天井板だけじゃない。雨戸が全部ないんだ。あの山伏の野郎が薪がわりに燃やしやがったんだなあ」
東光は雑巾をバケツに投げ入れると、一服するため煙草に火をつけました。
「しかしなあ、日出海、こんなにいい所はないよ。外を見てみな、北から生駒、信貴、葛城、金剛の山並みが一望だ。それに歴史にも事欠かないぜ。楠木正成が陣を布いたのはなあ、この先を行ったところの・・・」
東光は自慢話を始めました。天台院の惨状にはいっさい触れず、八尾の歴史、地理、文化、風習など、下調べをしたり実地に歩いたりして得た見聞をトウトウと披露しはじめました。
(このボロ寺が一庵かい?)
日出海はあきれるしかありません。
「あらまあ、どうも」
庭の方からキヨの声がします。檀家が来たようです。東光は檀家に挨拶するため出て行きました。
日出海は、寺には感心しませんでしたが、東光には心の底から感心しました。その変貌ぶりにです。驚いてさえいます。正直なところ、日出海は、このように汚らしい場所には一秒とて居たくありません。ところが東光はこのボロ寺が好きで好きでたまらないらしく、檀家らしき農家の善男善女と肩を抱きあわんばかりに歓談しています。黄色い前歯を剥き出しにしてケラケラ笑う野良着姿の皺クチャ婆さんなど、日出海は触れる気もしません。
(兄貴も変わったなあ)
東光の変貌ぶりに日出海は眼を見張る思いがしました。なにしろ若い頃の東光は目立つほどの美男子であったし、身嗜みにも人一倍気を使っていました。芸術家を志しただけあって鋭い美意識を持っており、美しいものを称賛する半面、醜いものは容赦なく嫌悪しました。身につける物にもうるさく、織元に注文した高価な着物しか着ませんでした。箪笥や骨董にも凝り、おのれの審美眼を誇るように高価な品々を買い並べていました。父が外航客船の船長だったおかげで食事も住居も衣類もすべてが贅沢でした。教養を鼻にかけるところもあって、無知蒙昧な人間を軽蔑さえしていました。同じ家庭で育った日出海にはよくわかります。
「豊岡の田舎者といったら話しにならないぜ。俺が一万トン級の外航汽船の話をしてやったら誰も信じやがらねえ。鉄が水に浮かぶはずがねえだの、船の上に食堂や洗濯屋や旅館があるはずがねえって、先公までが俺を嘘つき扱いしやがった。無知蒙昧なバカには付ける薬なんかないよ、まったく」
若き日の東光の愚痴を思い出しました。日出海は東光に同感でしたし、現在でもそうです。日出海と東光は、この感覚を共有していたはずでした。ところが東光は解脱したようです。かつてのバタ臭さは微塵もありません。
東光は、坊主頭に分厚いレンズの眼鏡をかけ、脂ぎった丸顔をニコニコさせています。本の虫だったせいか、小説修行のためか、読経のせいか、すっかり猫背になってしまっています。粗末な法衣を無造作に着こみ、不満げな色ひとつ見せません。家具らしい家具などありもしない無残なボロ寺を恥ともせず、むしろ大いに誇ってさえいます。八尾中野のことも気に入っているようです。無教養ではありますが、生な感情を剥き出しにして純朴に生きている土着の人々に心から近親感を抱いているようでした。もはや東光はかつての東光ではなくなっていました。
(負けたなあ)
日出海は素直にそう感じました。日出海には国家公務員としての地位もあり、給与もあり、それ相応の一軒家を構え、仕立ての良い背広を着て、タクシーにも乗れます。小説を書いては直木賞も受賞しました。人並み以上の苦労だって知っています。なにしろフィリピン戦線では生死の境をさまよったのです。世俗の価値観からいえば、何から何まで日出海の方が抜きん出ています。それでも日出海は、東光に負けた気がして仕方がありません。それは人間の大きさということかもしれず、あるいは人間的成長ということかもしれません。小我を捨て去った大我というべきか、小欲を脱ぎ去った大欲とでもいうべきか。幼い頃から五才年上の東光にあこがれ、その背中を追って文学を志してきた日出海ですが、もはや手の届かぬ崇高な境地に東光が飛び立ってしまったような気がしました。檀家たちとワイワイ話している東光をぼんやり眺めながら、日出海は感慨にふけりました。
「!」
ふと気配を感じて目を向けると、掌を広げたほどの大蜘蛛が柱にへばりついています。ゾクッとして日出海は我に帰りました。
「兄貴、じゃあ帰るよ」
鎌倉の自宅では綾が待っています。東光の消息を知らせてやらねばなりません。