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寺なし坊主

「出家?」

 唐突な知らせに家族の誰もが驚きました。東光が出家したのは昭和五年十月です。得度式は浅草伝法院で行なわれました。式には家族全員が参列しました。綾は、頭を丸めた東光の姿を見て、涙を流しました。文子によって独占されていた東光は、綾の目の前を通り過ぎ、仏法の世界へ行ってしまいます。

 文壇も驚きました。流行作家の突然の出家は雑誌誌面を賑わせましたが、その賑わいも束の間で、文壇は今東光の名を忘れていきました。足かけ十年に及んだ東光の作家生活が終わり、三十三才の新米坊主が誕生しました。

「年令も年令ですから、大僧都にしてあげましょう」

 教団は、有名な小説家の東光に好意を示してくれました。しかし、東光は感謝しつつも、その提案を拒絶しました。

「位など要りません。一番下で結構です」

 東光は本気でした。すべてを捨てて人生を根本からやり直すために出家するのです。「位など要らぬ」と本気で思っていました。

「なにも自ら好んで一番下にいかなくてもいいじゃありませんか。無茶ですよ」

 教団側は親切に忠告してくれましたが、東光は頑固であり、かつ無知でした。

「無茶でも結構です。位が欲しいんじゃありませんから」

 東光は教師試補という位を得ました。これは教団内で一番下の位です。ちなみに教団内の階級は上から大僧正、権大僧正、僧正、権僧正、大僧都、権大僧都、僧都、少僧都、権少僧都、大律師、中律師、律師、権律師、教師そして教師試補となっています。


 頭を丸めた東光は、修行よりもむしろ社会運動に走りました。仏教青年連盟を設立したのです。取材にきた新聞記者に東光は連盟設立の趣旨を次のように説明しました。

「現在のインテリはあまりに唯物論にとらわれている。自分はむしろ唯心論的な社会運動に転じたい」

 この東光の言葉から推論するならば、維新このかた日本に流入してきた西洋文明、なかんずく各種の西洋思想(たとえば民主主義、自由主義、資本主義、共産主義、社会主義、無政府主義など)に共通する唯物性が、東光の日本的心情に馴染まなかったようです。

 仏教青年連盟の活動は広がりませんでした。東光は気負いすぎ、焦りすぎていました。姿かたちだけは僧形になりましたが、思考も態度も行動も旧態依然としていました。

(出家までしたのだから、是が非でも)

 焦って奔走するうち東光は持病の心臓病を悪くして入院生活を余儀なくされます。東光がどんなに力んでみても心臓に反抗されてはどうしようもありません。

 東光の闘病生活は長引きました。退院した後もなお、東中野の借家で静養せねばなりませんでした。その借家に綾が見舞いに来たことがあります。果物や缶詰や菓子折など、見舞いの品々をたくさん持ってきました。しかし、この母子の関係はもはや固まった(にかわ)のように定型化しています。意思疎通の手段は口喧嘩しかありません。しかも、綾の東光に対する執着はますます強まっていました。干渉して支配しようとする綾、これに反抗する東光、腐れ縁としか言いようがない状態です。

「こんな所にひとりでいないで、家に帰ってきたらいいものを」

 ここで止めておけばいいものを、綾の舌はほとんど無意識に回転します。

「どうせ死ぬなら、親のところで死んだ方がいいじゃないか」

 東光も東光で反射的に口答えします。

「どうせ死ぬなら、親の見てねえ所で死にてえや」

 広がらぬ社会運動と長引く闘病に焦燥していたこともあり、東光は自身の鬱憤を綾に投げつけました。綾も黙ってはいません。

「病気しても、その根性は直らないね」

「直りませんね、死ななきゃ」

「そう、それじゃ、ここでお死に。お見舞いのお菓子や果物、お前にやる必要ないね」

 綾は、せっかく持参した見舞いの品々を持って帰ってしまいました。その様子を、たまたま見舞いに来ていた東光の友人が見ていました。その友人は東光に心底から同情しました。

「せっかく来たのに見舞いの品を持って帰るなんて、ひどいよ。今さん、あれは継母だろ」

「いや、産みの親だよ」

 東光は本当のことを話しました。しかし、この友人は信じませんでした。東光が継母をかばい、実母と言い張っている。そう勘違いしたのです。

「東光は実に健気である」

 この友人は東光をほめて回ってくれました。思わぬ余得と言うべきですが、友人がそう信じ切ってしまうほどに不仲な母子だったわけです。

 病床の東光は暇にまかせて易学の勉強を始めました。易学はやがて東光のライフワークとなり、後年、天台易を開く基礎となります。


 東光が坊主として修業らしい修行をしたのは、出家して三年目です。病後ではありましたが、思い切って四度加行(しどけぎょう)に挑みました。修業場には茨城県の安楽寺を選びました。当り前ですが修業はつらいものでした。座禅を組んでいると、剃り上げたばかりの坊主頭にヤブ蚊がたかってきます。実に耳うるさく、しかも痒い。それでも坐禅中は追い払うことはおろか、微動だにしてはならないのです。無心からは程遠い心境のまま、ひたすら我慢せざるを得ません。血ぶくれたヤブ蚊が東光の肩から背中、膝上にコロコロところがり、まるで黒い埃をかぶった地蔵のようになりました。体力的にもきついものです。五体投地などの動作を意味もわからぬまま延々と何百回も繰り返さねばなりません。

(なぜ、こんな馬鹿げたことを)

 どうしても頭脳が反応してしまいます。無心など絵空事です。それでも導師の手助けをたよりにフラフラになりながら東光は修業をやりとおしました。


 出家した東光よりもごく自然に信仰生活を送っていたのは武平です。ですが、その武平を翻弄する事態が発生しました。経済不況です。

 欧州大戦中、各国は戦費を調達するために金本位制を廃止し、金保有量以上の通貨を発行しました。そして、戦争が終わると各国は金本位制へと復帰しました。市場に出回っていた大量の通貨が回収され、このためデフレーションが世界に蔓延しました。日本も例外ではありません。金融恐慌、デフレ状況下での緊縮財政、農村地帯を襲った冷害、銀行の破綻、こうした諸々の状況が日本経済を混乱に陥れました。

 そのせいで武平の人生設計が狂ってしまいました。武平は心静かな信仰生活を中断し、取り付け騒ぎでごった返す銀行前の行列に身を投じねばなりませんでした。老後の生活費を生み出してくれるはずだった資産はほとんど失われてしまいました。一家は西片町の宏壮な屋敷を売却し、青山の小さな借家へ移りました。武平はすべての事実を甘受しましたが、綾は悲憤慷慨しました。

 武平の死は昭和十一年です。大正八年に日本郵船を退職して以来、武平はひたすら精神世界を逍遙し続けました。この間、ごくまれに人を集めて神智学の集会を開くことはありましたが、積極的な布教活動などはしませんでした。目立ったことといえば、小説家として名をなした東光の力を借り、「阿羅漢道」という翻訳書を大正十四年に出版したことくらいです。武平の精神世界がどのようなものだったのか、妻の綾でさえうかがい知ることはできません。おそらくは多くの宗教家がそうであるように、生命進化への参加意識と宇宙との一体感を追求していたのでしょう。微生物から霊長類へと至る生命進化の過程に自分自身が参加しているのだという自覚を持ち、自身の精神と肉体をどのように保てば進化を促進しうるか、日常をどのように過せば自身が進化しうるか、それを追求したようです。一般人から見れば浮世離れのした不思議な自意識です。

「晩年の父は、道を求めてさえ容易に答える人ではなくなっていた」

 と東光は後に書いています。あらゆる執着を断とうとしていたのでしょう。武平は食道癌に侵されていました。苦痛だったに違いありません。ですが武平はいっさいの治療を拒否し、熱があっても横臥さえせず、あくまでも普段どおりの生活を貫き、痛いとも苦しいとも言わず、眠るように死んでいきました。享年六十八才。残された綾は、文武と日出海を頼り、その家に身を寄せました。本来なら長男を頼るべきところですが、東光は一介の寺なし坊主に過ぎず、頼るべくもありません。


 翌年、支那事変が始まりました。ときの内閣総理大臣は近衛文麿公爵です。五摂家筆頭という血筋と、長身長足の体型に恵まれた政界のプリンスは、国民的な人気を背景に、満を持して組閣しました。しかし、支那事変を拡大させ、結果的に日本の針路を滅亡の方向へと進めてしまいます。

 その近衛文麿公爵を東光は直に見たことがあります。近衛文麿の弟に忠麿という人がいて、この忠麿が日出海の級友だったのです。その交友関係に割り込んだ東光は、忠麿が青山に設けた択草社に出入りするようになりました。択草社では茶道や華道が教えられ、時に華々しく茶会が催されました。ある茶会に東光が陪席していると、なんの前触れもなく文麿公がやってきました。

「お兄様だ」

 忠麿は挨拶するため玄関へとすっ飛んでいきます。賑やかな歓談が一気に静まり、全員が序列のとおりに整列してお辞儀します。東光も末席の方で平蜘蛛のように這いつくばりました。皆が平伏するなかを文麿公はスッスッと進み、さも当然のように上座に落ち着きました。その堂々たる態度は千年の伝統を感じさるものでした。

(わが家とはえらい違いだ)

 東光は感嘆しました。しかし、それほどの人物であっても覇権闘争の国際社会にあっては初心(うぶ)すぎたようです。スターリン、ヒトラー、ルーズベルト、チャーチルなどとは比肩すべくもなく、尾崎秀実(ほつみ)という共産スパイを政策スタッフに抱え込んでしまったこともあり、近衛内閣は支那事変を拡大させてしまいます。

 戦争時代に生まれ合わせてしまった人々の不幸は、何ものにも例えようがありません。綾にとって幸いだったのは、息子たちが誰ひとり兵隊にとられなかったことです。強度の近眼のため兵役検査で落第したのです。近眼の功徳といってよいでしょう。

 そんな乱世にあっても常のとおりに行われるのが仏道修行です。出家から四年目、東光は比叡山専修院での修行に入りました。すでに三十代も半ばを過ぎ、かつては有名作家として活躍したという経歴をもつ東光にとって、専修院での修行は屈辱的なものでした。なにしろ三十代の大人がただひとり、十代の小坊主さんと同じ修行課程をこなすのです。机を並べるだけでも恥辱です。年若い小坊主たちは好奇心を剥き出しにして不思議そうな眼で東光オジサンを見つめます。

(チッ、なんてことだ)

 教団の忠告を素直にきいて大僧都になっていれば、こんなことにはならなかったでしょう。しかし、後悔しても遅く、諦めるしかありません。自ら進んで教師試補を選んでしまった以上、自分を笑い飛ばしてでも屈辱に耐えねばなりませんでした。東光は明治の偉人たちを思い浮かべました。日本海海戦で海戦史上に残る大勝利を得た東郷平八郎元帥は、三十才を過ぎてロンドンの商船学校に入学し、十代の英国少年たちと肩を並べつつ航海術を学びました。「西国立志編」で知られる中村正直も、三十代で英国に留学し、小学校で英語を学びました。異国の小学生と机を並べていた中村の心中はいかばかりだったでしょう。

(俺もそれと同じだ)

 その修行中のことです。山内での修業は厳格で、作務や修行の日課は早朝から夜遅くまで詰まっており、各種雑用の役割分担も緻密に定められていました。ですが、なぜか便所掃除の担当だけは決められていませんでした。そのため便所はしだいに汚れていき、耐え難いまでに汚れました。課業に熱心な小坊主さんたちも、課業以外の事柄には冷淡でした。誰もが苛酷な課業に追いまくられており、心身ともに余裕がなく、課業以外には心が向きません。便所掃除を買って出る奇特な者などいるはずもなく、便所は悲惨な状況になりました。用を足す時には誰もがつま先立ちになり、ひどい悪臭に堪えねばならなくなりました。こうなると、課業に不熱心な東光の仏心が頭をもたげてくるのですから世の中はうまくできています。

(どいつもこいつも便所を掃除しやがらねえなあ。なら俺がやってやろうか)

 東光は、育ちが良いだけに誰よりも便所の汚らしさに閉口していました。意を決した東光は、日課より早い時間に床を出て、ひとりで便所の掃除を始めました。凍えるような寒さの中、井戸と便所を何度も往復し、桶の水をぶっかけぶっかけ隅々まできれいに掃除しました。そこまでならば人並みな善行です。東光のアクの強さは、おのれの善行を隠さなかったことです。隠さないどころではありません。僧兵よろしく長柄のブラシを構えて便所の入り口に仁王立ちし、用を足しにやってくる小坊主どもをにらみつけ、大喝しました。

「この俺がきれいに掃除した便所を汚すんじゃねえぞ!」

 東光の憤怒の形相に小坊主たちはみな恐怖しました。用を足していると東光がのぞきに来ます。

「ちゃんと狙いを定めろ!一滴もこぼすんじゃねえぞ」

 小坊主たちは便所が汚れないように細心の注意を払うようになりました。小坊主たちの東光を見る眼が変わりました。

「なんや、あのオッサン」

 という侮蔑の表情だったものが、畏敬の眼になりました。やがて便所掃除を手伝う小坊主が現われ、その数が徐々に増えていき、便所掃除は東光の手から小坊主たちの手に移りました。以後、便所は清潔に保たれました。この修行の後、東光は教師試補から教師にのぼりました。

 

 文壇が今東光を忘れ去って十年が経過しました。それでも東光は文学への志を失ってはいません。文学の根幹たる何事かを探し求めていました。東光は仏教修行のかたわら創作を続け、「僧兵」、「稚児」、「偽僧正」などを発表しました。これらは世の評判にはならなかったものの、東光の健在ぶりを文壇の一部に知らしめました。

 源氏物語の現代語訳に取り組んでいた谷崎潤一郎は、平安時代の仏教思想について理解を深めるため東光に助力を乞いました。

(ようやく先生のお役に立てる)

 文学の師匠から頼りにされ、東光は感無量です。東光は、これまでに学び得たすべての天台教学知識を大喜びで進講しました。

 東光は易学の研究も続けました。研究に必要な支那の古い漢籍を購入するため、流行作家時代の貯えをはたきました。その研究成果は「今氏易学史」に結実します。同書は、易学の通史として国内よりむしろ支那大陸において高く評価されました。


 昭和十五年、教団から思いがけない通知が東光に届きました。証書です。

「権律師に任ずる」

 位が上がったのです。

「位が欲しいんじゃありません」と出家時に啖呵を切った東光でしたが、不覚にもこの通知をみて無邪気に喜んでしまいました。さっそく浅草に行き、出家の導師たる大森大僧正に報告しました。

「何も功績がないのに、権律師に昇進しまして、驚いています」

 東光のうれしげな顔を見て、大森大僧正は顔を曇らせました。

「それはおめでとう。ただ、そのことは、あまり大きな声でおっしゃいますな」

「どうしてですか?」

「実はこのたび宗規が改正されまして、教師がなくなりました。それで、自動的に権律師におなりになっただけです」

 東光の仏教修行はまだまだでした。


 大東亜戦争が始まると物資の欠乏が著しくなりました。出版界にとっての大問題は紙の不足です。紙がなければ本も新聞も作れない。紙は配給制度下におかれ、その権限を陸軍官僚が握りました。出版界は陸軍に平身低頭せざるを得ません。紙の配給権限を背景に陸軍は何かと出版界に注文をつけます。結果、戦記物ばかりが氾濫する状況となりました。

 そんななか、ただひとり谷崎潤一郎だけは超然と「細雪」を連載し、異彩の光芒を放っていました。時代に迎合することなく、あくまでも文学に取り組んでいたのです。しかし、この谷崎の文士的態度が陸軍や右翼を刺激しました。「細雪」は発売禁止となり、谷崎に対する脅迫が繰返されました。一世の文士たる谷崎潤一郎にも弱点がありました。それは幼い頃から極度に運動音痴であり、暴力に対して臆病だったことです。

 東光は、無法な暴力から師匠を守るため熱海の谷崎宅に馳せ参じました。家屋敷と周囲の様子を確認し、暴漢の侵入経路を予測しました。夜には谷崎夫妻を二階に寝かせ、戸締まりを厳重にし、東光自身は日本刀を抱えて玄関に座り込みました。

(職業軍人ならばコソコソした真似はすまい。襲うなら早暁、玄関から堂々と来るだろう)

 数日間、何事も起こりませんでした。脅迫文の殺害予告日はとっくに過ぎました。

(待っているばかりでは(らち)があかない)

 東光は積極的に禍根を絶とうと考えました。文学報国会で働いている日出海の情報によれば、谷崎批判の急先鋒は陸軍報道班の杉本和朗少佐であるらしい。

「谷崎潤一郎『細雪』の如きは国民の戦意を阻喪させる無用の小説である。断じて谷崎を消す」

 杉本少佐は日出海たちの眼前で一場の演説をぶったといいます。この杉本少佐を、東光は本気で殺そうと考えました。

「脅迫文はただのこけおどしだったようです。おそらく心配はないと思いますが、念のため上京して様子を探ります」

 谷崎にそう言い残し、東光は上京しました。仕込み杖を調達し、陸軍報道班に杉本少佐を訪ね、用談を装って一刀のもとに斬り捨てようと覚悟を決めました。東光は陸軍省周辺の地理を調べ、杉本少佐の顔を記憶し、省内の廊下や部屋割りの様子を下見するなど暗殺の準備を進めました。幸い、決行に及ぶ前に杉本少佐が異動となり、東光は人殺しとならずにすみました。


 国家総動員体制の下、名のある文学者は戦争と無関係ではいられませんでした。良くも悪くも日本の文壇は日本社会の中で発展してきたのであり、日本政府による法治の下にありましたから、国家の危難にあたって国策に協力するのは当然でした。文学報国会が組織され、文人に国策への貢献が義務づけられました。その最たるものが従軍記者としての徴用です。

 東光を慕って文学の世界に身を投じていた日出海は、陸軍報道班員として二度まで徴用されました。二度とも派遣先はフィリピンのマニラです。一度目は昭和十七年でした。日本軍の勝勢下であり、危険らしい危険はありませんでした。ですが、昭和十九年の派遣では非常な苦労を強いられました。日出海がマニラに到着した頃には、すでにレイテ決戦の敗北が決定的となり、ルソン島の日本軍は同島の北部へと敗走を始めていました。混乱する行軍のなかで日出海は仲間とはぐれて孤立し、たったひとり熱帯ジャングルを放浪するハメになりました。山中をひとりで歩いていると、アメリカ軍の戦闘機に発見され、執拗なまでの銃撃を受けました。

(たったひとりの丸腰民間人を殺すことに、いったいどれほどの戦術的意味があるのか)

 日出海は不審に思いましたが、米軍パイロットは人間狩りのつもりだったようです。狩られる側の恐怖は尋常なものではありません。金属の固まりでしかない戦闘機から殺気が湧き上がって見えました。泣き出したくなるような衝動が日出海を敏捷にしました。日出海の命を救ってくれたのは樹木です。ひたすら樹幹の陰に隠れました。度重なる銃撃のあげくにアメリカ米軍機が飛び去り、命が助かったとわかると、不思議なもので日出海の口からゲラゲラと笑い声が湧いて出てきました。本人にも説明不可能な笑いでした。それでも負傷した腕には蛆が湧きました。それを取り払いつつ山中の小屋で生き延びました。およそ五ヶ月に及ぶ命がけの単独行の後、日出海は運良く輸送機に搭乗し、台湾に逃れることができました。


 東光が戦争の惨禍を目の当たりにしたのは昭和二十年五月です。三月の東京大空襲によって下町は焼け野原にされていましたが、五月の山の手空襲では赤坂、青山、中野などが狙われました。アメリカ軍戦略爆撃機の大編隊によって大量の爆弾が投下され、三千人以上が焼死し、皇居の一部さえ焼失しました。

 東光は、綾を弘前の実家に疎開させ、青山の借家をひとりで守っていました。空襲下を運良く逃げ落ちはしましたが、二万冊以上の今家の蔵書がことごとく灰となりました。東光は知人を頼り、調布飛田給(とびたきゅう)の職工寮に避難しました。

 災難ばかりの戦時下、東光に思わぬ僥倖が訪れました。文子がわざわざ飛田給を訪ねてきて、離縁を切り出したのです。

「別れましょう」

「わかった」

 予想外の返事に文子はキョトンとしました。どうしても言えなかった返事を東光は難なく口にしたのです。仏教修行の成果なのでしょう。善は急げと東光は戦災処理で大混乱する区役所の人混みをかき分けて離婚届を提出しました。東光の心身を雁字搦めにしていた女狐がようやく離れました。二十二年に及ぶ不幸な結婚がようやく終わりました。

「バンザーイ、バンザーイ」

 東光の喜びが爆発しました。調布飛行場脇の草地を狂喜しながら東光は走り回りました。その狂態を目撃した人は、熱狂的な軍国主義者と思ったでしょう。

 東光の離婚を知り、綾も喜びました。綾は弘前からわざわざ上京すると再婚話を進めました。相手は、かつて今家で女中奉公したことのある佐倉の女性で名をキヨといいます。東光は素直に綾の提案に従い、再婚しました。綾とは喧嘩ばかりしているくせに、ときに意外な従順さを示してしまうのが東光です。昭和二十一年十一月のことです。東光は四十八歳、キヨは二十四歳、なんとも年の離れた夫婦です。

「結婚したときは貧乏のドン底、坊さんの資格を持ってる人だなんてまるで知らなかった。何か書いていましたけど、小説家といえるほどではないし、年はくってる、カネはない、家はない、何もないドン底時代でした。何がなんだか分からないままに、いっしょになってたんです」

 晩年のキヨの述懐です。キヨは虚飾とは無縁の正直な女性でした。そのキヨと東光とを再婚させると、綾はいっしょに住みたがりました。しかし、焼け出された東光は飛田給のバラックで暮らしています。玄関と一間しかなく、夫婦二人でさえ手狭です。それなのに綾は「構わない」と言い張ります。文武や日出海は立派に一軒家を構えているから、そこに居ればよさそうなものなのに、東光のバラックが好いというのです。

「東光が来いって言うんだよ。行かなきゃしょうがないじゃないか」

 綾はありもしない嘘を言い、駄々をこねました。弟たちの予想に反し、東光は綾を受け入れました。

「兄貴の奴、いつも喧嘩ばかりしているくせに、どういう風の吹き回しだい」

 日出海は驚きました。東光の心情は複雑です。ただでさえ狭苦しいバラックに綾が来れば、邪魔に決まっています。喧嘩にもなるだろうし、そうなれば不愉快な思いをせねばなりません。東光とて嫌に決まっている。ところが、東光の心の深層には不可解な悦びがありました。綾に頼られていることが堪らなく嬉しいのです。子供の頃は、いつも次男の文武と比較され、ダメな兄と決めつけられ、一度も贔屓してくれたことがありませんでした。その綾が「東光の所へ行きたい」という。これが無性に嬉しい。何とも不可思議な長男の心理です。


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