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蹉跌

 東光は意気軒昂でした。創作においては歴史に取材した小説を次々と発表しました。「朱雀」は菊池寛に称賛され、「異人娘と武士道」は舞台化されました。勢いに乗る東光は周囲の若手作家を糾合して新雑誌創刊を企画し、中心的役割を果たしました。できあがったのは雑誌「文芸時代」です。大正十三年十月に創刊された「文芸時代」を千葉亀雄は「新感覚派の誕生」と評しました。以後、「文芸時代」に参加した若手作家は新感覚派と呼ばれるようになります。

 しかし、悪いこともありました。東光に対する中傷記事が書かれるようになったのです。いつの時代でも醜聞記事は文筆屋の安易な金儲けのネタです。東光もその標的にされてしまいました。

「文芸時代の創刊は若手作家による菊池寛への反抗だ」

 憶測によるデマ記事が流れました。あたかも東光が菊池寛に造反したかのように書かれたのです。しかし、そのような事実はありませんでした。ですから、菊池も東光も、そして周囲の人々も、まったく本気にはしませんでした。

 文藝春秋十一月号に掲載された「文壇諸家価値調査表」も同類の醜聞記事です。醜聞と言うほどでもない、取るに足らない悪ふざけの記事でした。直木三十五の筆になるこの記事は、様々な観点から有名作家の性格や特徴を面白おかしく評し、茶化したものです。明治以来、この種の記事は恒例のようにしばしば書かれてきたものです。笑って受け流せばいいようなものでした。

 ところが、このヨタ記事を真に受けて怒り心頭に発した小説家がいました。横光利一です。横光は憤懣を自身の胸中におさめきれず、賛同者を求めて西片町に今東光を訪ねてきました。

「やあ、あがりなよ。今なら俺ひとりだ」

 この頃、今家の敷地内に建てられた別棟に東光夫妻は住んでいました。たまたま妻の文子は不在でした。

「まあ、聞いてくれ」

 横光は玄関をあがるなり憤懣をぶちまけ始めました。

「こんな調子では文藝春秋は売れるかもしれないが、次第に低俗になってきて、僕はもうついていけない」

 文藝春秋の「売らんかな」路線を痛烈に批判した横光は、非難の矛先を主宰者たる菊池寛に向けました。もともと反抗心の旺盛な東光です。つい同調してしまいました。実は東光自身にも菊池に対する不満の種があったからです。不満、といっても些細な事務連絡の行き違いに過ぎなかったのですが、文学雑誌の成功によって皆が多忙になっていました。また、誰もが成功に酔い、勢いづいて自惚れていたので、ついつい感情が先行したようです。東光は横光の意気にたわいなく感応して吠えました。

「売らんかな主義の編集方針を変えさせるため主宰者に抗議すべし」

 ふたりは直ちに菊池寛への抗議文を書きはじめました。横光は読売新聞社へ、東光は新潮社へ抗議文を投稿することにしました。ふたり連れ立って郵便局へ行き、抗議文を投函して別れました。横光はその足で川端康成を訪れ、さっぱりした表情で事の次第を話しました。驚いたのは川端です。

「何ということをした。僕たちの原稿に菊池さんがいちいち(くちばし)を入れたことがあったか。菊池さんは自由に書かせてくれているだけだ。それは僕でも、君でも、直木君でも同じだ」

 そう言われてはじめて横光は自分の短慮に気づきました。非難する相手は菊池ではなく直木でなければならなかったのです。川端と横光はすぐに読売新聞社を訪れ、投稿文が近日中に届くはずだが、それを取り消すよう依頼しました。川端の周到さは、その場で横光に差し替え原稿を書かせたことです。横光は当たり障りのない無難な評論を書き上げると、必ず差し替えるように依頼して読売新聞社を後にしました。

「今君には僕が伝えるよ」

 横光は川端に謝し、東光宅に向かいました。東光にその後の経緯を伝え、抗議文を取り下げさせねばなりません。西片町の東光宅に着くと、そこに不幸にも文子がいました。

「トウさんはどこにいるの。あなたは誰。帰って」

 文子は邪慳に言い放ち、横光を追い払おうとしました。

「いや、ご主人に大事な用件が」

「うるさい。居たとしてもトウさんには会わせないわ」

「ちょっと待って下さい。ご主人に大切な用件があります」

「うるさい。帰って、帰れ」

 文子は金切り声をあげました。異様なまでの嫉妬心だけが文子の動機です。東光の不在が心の底から不愉快な様子でした。その尋常ならざる感情は妖気をさえ漂わせています。ちょうど日が暮れかかり、その斜陽が文子の風貌に陰影を刻んでいます。ただでさえ狐のような風貌が、薄暗がりのなかで女狐そのものに見えました。気味は悪いし、不愉快でもあります。せっかく訪ねてきた客に「帰れ」とは無礼でしょう。文子の狂態に気圧された横光は引き下がり、二度と東光宅を訪ねようとしませんでした。

 こんな経緯から新潮十二月号に東光の「文藝春秋の無礼」が掲載されてしまいます。この記事を読んだ菊池寛は怒り、反論を文藝春秋に掲載しました。東光も後に退けなくなり、やむなく再反論を挑む羽目になりました。以後、菊池と東光の誌上論争が続きます。不毛なやりとりを繰り返すうち、両者の関係は修復不可能なまでに断絶していきました。

 紙上討論は平行線で決着がつきません。こうなると菊池寛の政治力がものをいってきます。菊池は貧乏作家たちの世話を焼き、飯を食わせ、金を貸し、作品を書かせ、発表の場を与えてきました。その菊池に逆らえる同人は、文藝春秋にも文芸時代にもいません。誰もが何かしら菊池の世話になり、恩義を感じています。ごく自然に東光は孤立していき、居場所を失い、同人から敬遠されるようになりました。

 東光は、読売新聞の投書欄を注視し続けましたが、いつまでたっても横光利一の抗議文は掲載されませんでした。疑問を感じた東光は読売新聞社に出かけ、事情を尋ねました。そして、川端と横光が投稿文を取り下げていた事実をつきとめました。

(なぜ川端も横光も俺に黙っていたのか。とくに横光め)

 東光は疑心暗鬼に陥りました。横光からは何の釈明もない。そのため東光は、横光に対して不信の念を抱き続けることになります。菊池寛の寵愛がことのほかあつく横光利一に注がれる様子を垣間見るにつけ、ただならぬ憤怒が湧いてくるようになりました。まさか、文子が横光を追い払っていたとは、東光には想像すらできませんでした。惚れた弱みです。知らぬが仏、身から出た錆、というしかありません。

 大正十四年五月、ついに文藝春秋と袂を分かった東光は、それでも筆の勢いを衰えさせることはありませんでした。すぐさま中村武羅夫の主宰する雑誌「不同調」に参加し、その二ヶ月後には雑誌「文党」を創刊します。作品発表のペースも従前と変わりませんでした。今東光の代表作となる「痩せた花嫁」が婦人公論に連載され、後に単行本化されます。愛妻の文子をモデルとして書かれたこの小説は話題となり、愛妻小説というジャンルを生みました。東光夫妻は仲睦まじく雑誌の巻頭グラビアを飾りました。


 文壇の大御所と事を構え、それでもなお筆勢を衰えさせない東光は、はた目からは順風満帆に見えました。しかし、じつのところ東光は苦しんでいました。文子に対する愛情が失せ、嫌悪を感じ始めていたのです。カメラマンや記者の前では愛妻家を演じ、依頼に応じて愛妻小説を書いてはいましたが、その心中は煩悶の渦です。正直なところ文子の顔を見るのも鬱陶しくなっています。

(なぜ文子と結婚したのか)

 東光は自問自答を繰り返しました。なぜあれほどまでに惚れ、そして、なぜ冷めてしまったのか。自分自身の行為ながら、まるで解りません。文子の独占欲は異常です。日がな一日、顔を付き合わせて東光を監視しています。家族はおろか、友人、同業者、出版社の社員まで、ありとあらゆる人間関係を文子は分断してしまいます。来訪者があっても会うことを許しません。かつての東光には、それが心地よかったのです。しかしながら、人と会わねば仕事ができません。仕事のために東光が強いて人に会おうとすると、文子は発狂したように抗います。

「なら別れましょう、それで文句ないわ」

 文子は二言目には別れを口にします。東光ほど傲岸な男が、なぜか文子の前では蛇に睨まれた蛙のように温和しくなってしまいます。裏表の顕著な文子は虚栄心が強く、雑誌のグラビア撮影を大いに喜びました。綾と東光が話していると、五分もせぬうちに文子が現れ、東光を引っ張っていきます。東光は情けなくも文子の言いなりになっています。綾と文子の口喧嘩になりますが、文子は綾を撃退してしまいます。綾の惨敗ぶりを眺めているのが東光の秘かな愉悦だったのです。しかし、それは落とし穴でした。綾の執拗な過干渉を逃れた先には、文子による雁字搦めの束縛が待っていました。

 東光とは何かと趣味が合い、じゃれ合うように暮らしてきた四男の日出海も文子によって関係を断たれました。日出海は何度か東光との接触を試みましたが、その度に文子に追い立てられました。その恐ろしげな狂態に日出海は辟易し、東光の別棟に近づかなくなりました。日出海があきらめても綾はあきらめず、幾度も東光宅に挑み、そのたびに文子によって拒絶されました。文子は、別棟の木戸を釘で打ちつけさえしました。東光は拉致されているも同然です。東光は結婚を後悔しました。文子の独占欲と支配欲を愛情と錯覚していたと気づいたからです。

「女子にして陰門に黒子あるは貴人を産む」

 この真偽不確かな人相学の一文を信じ、生半可な知識に騙され、文子を唯一無二の貴女と盲目視していたのです。

(なんと愚かな)

 我と我が身が愚かしい。さらに、今家を訪れた文子の実母が財産に対する野心を露骨に口にするのを耳にし、東光はこの結婚が失敗であったことを確信しました。文子の実母の欲深い醜貌が文子の狐顔に重なり、「痩せた花嫁」の虚像は完全に剥がれ落ちました。嫌悪感がふつふつと湧き、女好きだった東光が全ての女を嫌悪するまでになりました。すでに半ばノイローゼに陥っています。

 そんな状態でも東光は作品を発表し続けました。ですから東光の異変に気づく者はいませんでした。息苦しい束縛の下、いつしか東光は死をさえ考えるようになっていました。稀有の好機をつかんで得た作家生活は、いつしか唾棄すべき欺瞞と虚飾にまみれてしまいました。意に沿わぬ文章を注文どおりに書いている自分に嫌悪感が湧きます。

(これで文字を操る武士といえるか。売文商人ではないか。俺は何をしている)

 気が滅入ると、取るに足らない中傷記事さえ大きな精神的ダメージになります。文藝春秋は東光の醜聞記事を執拗に掲載し続けています。毎号かならず今東光をこきおろす中傷記事が掲載されました。それを書くのは雇われ三文文士たちです。菊池寛への忠誠なのか、それともオベッカなのか、三文文士たちは今東光の醜聞を暴き出し、ときには捏造までして罵詈讒謗を書きつづけます。東光はといえば、醜聞ネタを与えまいとし、文子との不仲を隠さざるを得ません。

 東光は混乱しました。思想は左傾化したり、右傾化したりしました。心中の動揺そのままに行動し、左右両派に人脈を広げた東光は、自宅の一階には左翼の壮士を住まわせ、二階には右翼の壮士を居つかせました。文子は、これに我慢がならず家を出ていきました。これは東光の思惑どおりの結果でしたが、その手段の姑息さから自己嫌悪に陥りました。

(いっそ死んでしまおうか)

 そんな折も折、芥川龍之介が自殺しました。昭和二年七月二十四日のことです。服毒自殺でした。有名作家の突然の自殺に世間は驚きました。

 かつてモグリ東大生に過ぎなかった東光に、芥川は何かと目をかけてくれました。文学上の議論にも応じてくれたし、人や本を紹介してくれもしました。広い額にかかる長髪を芥川がかき上げると、知性が撒き散らされるようにさえ感じました。その芥川が自殺したのです。

 芥川龍之介の通夜は、菊池寛の差配のもと芥川宅で執り行われました。そこへ東光は乗り込みました。もちろん故人への哀悼と遺族への弔問のためであり、他意はありません。ですが、菊池寛は東光を見ると露骨に顔をそむけました。他にも見知った顔がたくさんいましたが、誰もが見て見ぬふりをします。思わず目線が合ってしまうと、あわてて視線をそらせます。東光は憤然たる思いで焼香をすませ、座敷に座り込みました。絵に描いたような村八分です。

(こいつら、そんなに菊池がこわいのか)

 憤然たる表情とは裏腹に、東光は正直なところ孤独を味わっていました。元の仲間がたくさんいるのに、誰ひとり声をかけてくれないのです。東光はひとりぼっちで座っていました。まるで自分の通夜に自分が参列しているような気分です。そこへ谷崎潤一郎がやってきました。谷崎は、わざわざ関西から上京してきたのです。弔問をすませた谷崎は、その場の空気を察したらしく東光に声をかけました。

「おい、東光、帰ろう」

 谷崎潤一郎の威風は辺りを払います。さすがの菊池寛も谷崎には会釈せざるを得ません。東光は、谷崎の後を悠々と歩きました。

(文壇なんぞ、クソ喰らえ)


 芥川龍之介の自殺は新聞雑誌にとって格好のネタでした。紙面は芥川龍之介の特集記事で満ちました。

「なぜ自殺したのか」

 しかるべき人物の実体験に基づく記事はともかく、三流の俗悪記者による奇聞怪聞が紙面を賑わせます。

(あれほどの知性の人でさえ、こんな扱いになるのか)

 東光は業界の残酷さを見ました。芥川龍之介は生前こんなことを書いていました。

「公衆は醜聞を愛するものである。・・・与論は常に私刑であり、私刑はまた常に娯楽である。たといピストルを用うる代りに新聞の記事を用いたとしても」

 その芥川が醜聞の餌食になったのです。なんとも皮肉な現実です。

(芥川龍之介でさえそうであってみれば、俺ごときが死んだらどうなるのか。蛆虫に餌を与えるようなものではないか)

 それでなくとも菊池寛との関係が悪化して以来、菊池の傀儡文士たちに有ること無いこと散々に書かれていまする。東光は思い直します。

(死んでたまるか)

 闘志がよみがえりました。しかし、かつての新感覚派の旗手は完全に針路を見失っていました。エンジンは全開で回転しているのですが、舵がありません。東光は自分に欠けている何事かを求めて迷走し、左翼から右翼さらにアナーキズムにさえ手を染めました。筆勢に衰えはなかったものの、被害妄想的な感情にとらわれすぎるようになりました。

 映画「生ける人形」に対する評論がその例です。この映画は、片岡鉄兵の小説を内田叶夢監督が映像化したものです。この映画は文壇に好意的に評されましたが、東光だけは公開抗議書なるものを連載し、しつこく批判を展開しました。

「僕は失望したことを正直に言いたい。原作者の片岡はたいへんにほめていたが僕は反対だ。のみならず川端康成その他、僕の耳に入った噂はことごとく好評嘖々だった。それは『仲間ほめ』か、然らずんば何等イデオロギーに関心を持たない人の盲評にすぎない」

 東光は、かつての同人たちをひとまとめにして論難しました。これに対して川端康成は東光の批評を的外れだとして反論します。

「今日では今東光君はもはや私たちの文学上の仲間ではない。その今東光氏が今日なお『仲間ほめ』を憎んだり恐れたりしているのはなぜなのか、私には分からない。今日なお多少信頼すべき批評があるとすれば、それは『仲間ほめ』くらいである」

 親友だったはずの川端から落ち着き払って反論され、しかも「仲間ではない」とまで書かれてみると、さすがの東光も平気ではいられません。東光は、仲の良かった頃を思い出しました。誰よりも文学に対して腹を据えていたのは川端でした。

「陋巷に朽ちるを以って名誉としよう」

 文士の卵たちは大声で叫んでいたものですが、川端康成はいっさい相手になりませんでした。川端には浮ついたところがまるでなく、各種の文芸誌に目を配り、同人誌も軽視せずに目を通し、金にもならぬ小説や書評をせっせと書いていました。第六次新思潮の継承が決まったとき、誰よりも落ち着いて創作に励んだのは川端でした。新思潮の継承に大賛成し、いの一番に気勢を上げた東光は、いざ創作となると白紙の原稿用紙を前にして呻吟し、筆がまったく進まなかったものです。それでいて「陋巷に朽ち果てん」などと大げさな気勢をあげていたのです。

「オダをあげても仕方がない。まずは作品を仕上げたまえ」

 川端は東光を叱咤したものです。そんな川端は、世に出ても驕らず高ぶらず、さも当然のような顔をして従前どおりの川端のままでいます。川端には覚悟と準備があったに違いありません。

(望外の成功で高みに駆け上ってしまった俺には準備がなかったのだ)

 我が事ながら、我と我が身が不甲斐ない。

(何かが欠けている)

 東光は、自分の思想的根幹に決定的な欠損があると気づき、それをいかにして埋めるべきかを考え続けます。


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