天変
大正七年十一月、休戦協定が締結されて第一次世界大戦の砲火はようやくやみました。それはよかったのですが、戦争景気によって空前の活況を呈していた日本の造船業界、海運業界は供給過剰に陥り、不況に転じました。すでに戦時中から激しさを増していた労働争議はますます熾烈になりました。日本郵船も例外ではありません。航海課長の今武平は会社側と労組側の板挟みになって苦労していました。
その武平が辞職したのは翌年十月です。陸上勤務になって一年ほどしか経っていません。本人が語らないため理由はよくわからないのですが、信仰生活に入るためだったようです。すでに自らの老後と家族を養うに足る財産を築き得ました。武平は、残りの人生を信仰に捧げようと思い切ったようです。まだ五十一才です。
(チッ、欲のない)
英雄主義の綾は不満です。船長時代の武平が十分に英雄的であったことを綾は知っています。そうであるだけに、さらに一旗あげようと野心を燃やしても良いのではあるまいか。
(自分が男だったら)
と綾は歯がゆくて仕方がありません。そんな綾の気持ちを、武平は十分に察しています。ですが、武平の決意も堅かったのです。
そして、もう一人のどうしようもない奴である東光はというと、谷崎潤一郎の腰巾着になったり、同年配の文学仲間とつるんで気焔をあげたり、悪友と連れ立って遊び呆けたりしています。西片町の今家は文学青年たちの梁山泊のようになりました。綾にとっては喧しくもあり忌々しくもありましたが、お気に入りの川端康成が時々やってくるので大目に見ていました。若造たちの声高かつ稚拙な文学論が綾の耳に洩れ聞こえてきまましたが、綾には笑止千万な愚論にしか思えませんでした。
ある日、ひとりの老紳士が今家の戸を叩きました。綾が応対に出ると、老紳士は「今東光を出せ」と言い張ります。尋常な雰囲気ではありません。その日、東光は不在でした。
「どちら様かは存じませんが、東光は不在でございます。どちら様でいらっしゃいますか」
「どちら様だと!」
老人は急に激昂し、紳士らしからぬ大声をあげました。
「キサマの悪ガキが、オレのセガレの嫁を寝取りやがったんだようっ!」
興奮しきった老紳士の話は唐突でした。要するに、この老紳士の息子の嫁を東光が寝取ったのだというのです。「ついては責任をとれ」と強談してきます。喧嘩上手の綾の唯一の弱点は東光です。東光の悪事を追及されると綾は反射的に平身低頭してしまうのです。老紳士はガミガミとまくし立てています。自室で瞑想していた武平は、玄関の様子を聞くともなく聞いていましたが、男の怒声に聞き覚えがありました。玄関に出てみるとやはり知っている人物でした。日本郵船の親会社たる三菱会社の重役です。
「どうしてくれる!」
さんざん怒鳴り散らした老紳士は息を切らして肩を上下させています。そのとき絶妙の間をおいて武平が静かに口を開きました。
「東光は確かに悪い。東光のやったことは世の公序良俗に反しております。父親として責任を感じます。しかし、そんなバカな男に大事な嫁さんを盗まれるとは、御曹司もどうかしていませんか」
猛り狂っていた老紳士は、急に弱気な渋面になり、気恥ずかしそうに下を向くと、背を丸めて悄然と帰っていきました。
(あのバカ)
綾は東光に絶望せざるを得ません。似たようなことが前にも二度ほどあったのです。東光の女癖の悪さ、素行の悪さについては既に悪評が立っています。
「本郷の不良」
と言えば近所の誰もが「ああアイツか」とわかるほどの名物男になりおおせています。
(東光は庄造伯父のようになるのではないか)
これが綾の結婚以来の心配です。庄造というのは武平の兄です。今家の惣領息子として期待を一身に集めていたのですが、美しい芸妓に入れあげて家産を蕩尽したあげくに出奔した男です。庄造のせいで今家の家計は貧窮に陥りました。そのため、若き日の武平は学費不要の函館商船学校に入学したという経緯がありました。庄造は既に故人ながら、今家の血筋に庄造が存在したという事実は、綾の不安をかき立て、気苦労を増やし、東光への態度を決定づけていたのです。庄造は、妓に裏切られて捨てられました。妓は、老いた庄造を布団に寝かし、その布団の四隅に漬け物石を置いて身動きできぬようにして逃げたといいます。親戚筋のあいだでは「庄造のようになるな」と子供たちに訓戒するのが恒例でした。綾もやかましく東光に説教したのですが、不幸にも綾の心配は現実になってしまいました。いまでは「東光のようになるな」が親類縁者の決まり文句になっています。今家に伝わる不幸の連鎖とでも言うほかはありません。
ところが人の世には奇跡のようなことが起こるようです。それが東光の身の上に起こりました。
大正十年二月、第六次新思潮が発刊されました。川端康成、鈴木彦次郎、石浜金作、酒井真人らとともに同人に参加した今東光は「女人転身」、「黄雀風」、「童女」などの作品を発表しました。これらの作品が好意的に評価され、今東光は若手の旗手として文壇にデビューすることができました。この嘘のような成功は、もちろん東光の創作努力の賜物ですが、同時に川端康成の友情に負うところが絶大でした。本来ならば第六次新思潮の同人になる資格を欠いていた東光を強引に同人に加えたのは川端だったからです。
「雑誌をやるなら、新思潮を継承したらどうだ。ぼくが継承権を持っているから、君にあげるよ」
そういって川端康成に新思潮の継承を勧めたのは菊池寛です。菊池寛は川端よりもひとまわり年長で、第四次新思潮の同人でした。すでに「忠直卿行状記」や「父帰る」などで世に筆名を高めています。その菊池が新思潮の継承権を川端に譲るというのです。川端康成にとっては絶好のチャンスでした。とはいえ同人誌を発行するには仲間が必要です。川端は文学仲間に相談しました。
「やるべきだ」
真っ先に声をあげたのは東光です。誰よりも成功に貪欲なのは東光でした。なにしろ東光は無学歴の徒手空拳であり、つかめる好機は何でもつかもうと野心を燃やし続けています。ほかの仲間には帝大生という堂々たる学歴があり、その気にさえなれば官吏にもなれるし、会社員にもなれる。必ずしも文学の道に進む必然性がありません。だから、賛成ながらも戸惑うところがありました。そもそも新思潮を継承するといっても雲をつかむような話であり、学生たちには実感が湧きません。小説を書き上げるのは当然として、その文章を印刷し、製本して雑誌にし、販売するという一連の業務手続きが学生たちには半知半解だったのです。
「そもそも資金がないじゃないか」
同人誌の発行には金が要ります。みなで金策に奔走することになりました。やがて資金の目途がつくと、川端康成は鈴木彦次郎を伴って菊池宅を訪ねました。川端は菊池寛に新思潮継承の決意を語り、参加する同人について説明しました。その中に今東光の名があったので、菊池は驚きました。東光の悪評を知っていたからです。
「あれは不良だよ」
「ぼくらは一高時代から文学をともに語ってきた仲間です。東光が入らないなら、新思潮を継承しません」
口数の少ない川端は、結論だけをズカリの言い、あとは押し黙りました。川端の潔さに菊池の方が気圧されました。
「しかしなあ、君」
菊池は反対意見を言いつのりましたが、川端は無言のまま眼を見開き、菊池を見つめ続けました。頬骨の突き出た精悍な顔が凄味を増しました。
「君がそれでいいなら、これ以上は反対しないよ」
菊池が折れました。川端の腹の据わり具合にこそ驚嘆すべきでしょう。友情のためならチャンスを捨てても惜しくなかったようです。
このときのやりとりを東光が知らされたのは、すでに同人が確定して後のことです。菊池と川端のやりとりを間近で目撃した鈴木彦次郎が石浜金作に語り、その石浜が東光に伝えたのです。東光が感激したのは言うまでもありません。
昨日までの不良が押しも押されもせぬ小説家になりました。人が世に出る、という現象の不思議さです。東光は、雑誌「新潮」からの執筆依頼に応えて「佐藤春夫論」や「出目草紙」を発表しました。軽妙な随筆の「出目草紙」が菊池寛の目にとまり、東光の文才はようやく菊池の認めるところとなりました。
菊池寛は度量の大きな人物で、若手作家に活躍の場を与え、生活の面倒まで見ていました。そんな菊池が文壇のボス的存在になっていたのは自然の流れだったでしょう。
「みんなが勝手なことを書ける雑誌をやろうじゃないか」
大正十二年二月、菊池寛は雑誌「文藝春秋」を創刊しました。第六次新思潮の同人を含め、多くの若手作家が同人に参加しました。この雑誌は商業的に大成功し、日本文学史にひとつの画期をもたらします。文学の大衆化が進み、いわゆる中間小説の時代がきたのです。
文藝春秋創刊号は、わずか二十八頁の薄っぺらな雑誌で、しかも質の劣るザラ紙でできていましたが、一部十銭という安価が強みでした。同時期の中央公論が一円八十銭、新潮が八十銭でしたから、価格破壊です。この創刊号は三千部を完売しました。二号の四千部、三号の六千部も完売。五号は一万一千部を印刷しました。この後、出版が産業化し、それに伴って小説家の社会的地位も向上していきますが、その画期に東光は世に出たのです。
綾は驚くしかありません。本郷の不良が、あれよあれよという間に小説家になりおおせたのです。綾は、内心はともかく、外見的には強情を貫きました。決して東光の作品を認めませんでした。古典から海外文学にまで深い造詣を有している綾には、大衆小説そのものがいかにも薄っぺらく感じられるのです。
「ふん、いつまでも続くもんかい」
などと言い続けました。それだけでなく、東光に意地悪さえしました。東光が新聞小説を連載しているときの事です。小説の原稿が不足したため新聞社から今家に電話が入りました。受けたのは綾です。
「今東光先生をお願いします」
「東光は不在です」
編集者は大いに慌て、自動車を飛ばして西片町にやって来ました。今家を訪ねてみると東光は在宅していました。事情を聞いた東光はピンときました。
(さてはあのババア)
あとは普段どおりの口喧嘩です。
大正十二年九月一日正午前、順調にたちあがった文藝春秋を大地震と大火災が襲います。関東大震災です。相模湾沖を震源地とする大地震が発生し、これに伴う家屋倒壊、地盤崩壊、大火災、津波などにより、百九十万人が被災し、十万人が死亡または行方不明となりました。
この未曾有の大災害に対して文人は無力でした。刷り上がったばかりの文藝春秋九月号は印刷所内でことごとく灰になりました。
「芸術なんか駄目だ、髪床屋にでも、いっそなった方がいい」
自然の圧倒的な威力に菊池寛でさえ動揺しました。文藝春秋は休刊となり、ようやく復刊したのは十一月号からです。
川端康成は、どういう考えからか、被災の現場を見て歩きました。水を入れたサイダー瓶とビスケットを持ち、吉原弁天池や陸軍被服厰跡地などの死屍累々たる被災現場を巡りました。
本郷西片町の今家は幸い無事でした。今家に避難してきた谷崎潤一郎は余震のたびに怯え、その惰弱ぶりを綾に叱咤されました。こんなところを弟子の東光には見せられないと谷崎は思いましたが、恐ろしいものはどうしようもありません。
東光はといえば、震災の混乱下、ひとりの女の消息を捜し続けていました。名を草間文子といいます。かつて今家に怒鳴り込んできた三菱会社重役の御曹子の妻女です。東光と文子は、その後も逢瀬を重ねていたのですが、震災後、文子の行方がわからなくなりました。東光は懸命に捜し続け、十日目に本郷駒込の路上でようやく見つけました。ふたりはそのまま秩父の山中に駆け落ちしました。しかし、三菱の重役に雇われた私立探偵によって見つけ出され、連れ戻されました。
その後、文子は正式に夫と離婚し、東光と再婚しました。文子は元女優で、東光より四歳年上です。東光自身は満悦の様子でしたが、友人知人はみな意外の感を持ちました。
(今東光ほどの色男が、なぜ、よりによってこの女を選んだか)
文子に対する周囲の印象は概して芳しくありません。肌が黒く、痩せていて、風貌は狐のようでもあり、鳥のようにも見えます。
「シャモと孔雀を足して割ったようだ」
そんな辛辣な声さえありました。しかしながら東光は、文子のどこにどう惚れたのかゾッコンです。ふたりは人前も憚らずに睦み合います。
「トウさん」
文子は東光をそう呼び、ひとときも離れようとしません。東光は一銭の小遣いも持たされず、床屋へいくにも単独行動は許されない状態でした。不思議なことに誰よりも自由を欲していたはずの東光が自由を奪われて喜んでいたのです。
「水と空気と情熱があればいいのよ」
などと文子が言うのを東光は惚れ惚れと聞いていました。今家では当然のごとく嫁姑の闘争が始まりました。通常、姑が嫁をいびるものですが、文子は綾との口論に常に勝ちました。それでいて家事は何一つできず、やろうともしません。綾は東光を勘当し、嫁もろとも追い出しました。