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文学修行

 今武平が船を降り、陸上勤務になったのは大正七年でした。第一次世界大戦はなお続いていましたが、五十才を迎えて内勤の管理職になったのです。これまで絶え間のない不安にさいなまれてきた綾は、ようやく安心できるようになりました。

 欧州大戦勃発以来、「エムデン」の暴れ回るインド洋、飛行船ツェッペリンの空爆に曝されるドーバー海峡、そして潜水艦の出没する地中海や北海を武平は航海し続けてきました。その現場を知る由もない綾は、いつも最悪の事態を想像しては心魂を消耗させてきました。

 足かけ五年ものあいだ、戦時下の欧州航路で航海を繰り返してきた武平の功績は称賛されてしかるべきものでした。しかし、武平という人物は極端なほどに無口で、武勇伝らしきものをいっさい語りません。綾も聞きたがりませんでした。

 知りたがったのは東光です。東光は機会あるごとに「香取丸」の乗組員から様々な体験談を聞きとり、それらを総合して父の仕事ぶりを頭に思い描きました。

「いやあ、坊ちゃん、香取丸の眼前にドイツの潜水艦が出現したときには、どうなることかと思いましたよ」

 「香取丸」が絶体絶命の危機に陥った事件のことを教えてくれたのは、「香取丸」のコック長です。ロンドンから日本への復路、「香取丸」は地中海を東進してアレキサンドリアを目指していました。途中、イタリア半島の南部を通過します。航路はふたつあります。シチリア海峡とメッシーナ海峡です。シチリア海峡は広いので航海しやすいですが、多数のドイツ潜水艦が遊弋していると考えねばなりません。一方、メッシーナ海峡はわずか三キロの幅しかないので狙われやすいところです。しかし、配備されるドイツ潜水艦も少数であるに違いありません。確実なことは、どちらを選んでも危険だということでした。

 船長の武平は、メッシーナ海峡の通過を企図し、海峡の手前七十キロにあるストロンボリ島の島陰に「香取丸」を停船させ、無線電信の傍受によって敵情を探りました。すると、どうやら潜水艦一隻がメッシーナ海峡に張り付いているらしいことがわかりました。強行突破は無謀です。機会を待つことにしました。この間、「香取丸」の機関員は石炭を焚き続け、汽罐内の蒸気圧を最大にしつづけました。汽罐内の蒸気圧を動力シャフトにつなげば即座に全速を出すことができます。船員はもちろん乗客まで海面に目を向け続けました。潜水艦の潜望鏡や魚雷の航跡を見つけたら大声を出して知らせるのです。緊迫した時間が流れました。

「前方に潜望鏡!」

 長い沈黙を破って見張員が叫びました。そのとき武平はブリッジにいました。浮上しつつあるドイツ潜水艦を肉眼で確認すると、すかさず命令しました。

「全速前進」

 汽罐内の蒸気圧がシャフトに伝わりスクリュウをフル回転させます。「香取丸」は前進します。焚きに焚いた汽罐の蒸気動力が一万一千トンの船体をドンドン推進させます。ドイツ潜水艦は、停船していた「香取丸」を拿捕しようと考えたらしく、魚雷を発射せぬまま浮上しつつあります。浮上しおえたら艦上砲を「香取丸」に向けるつもりでしょう。ドイツ潜水艦の甲板が海上に現れると直ぐにハッチが開き、数名の水兵が艦上砲に駆け寄り、砲撃準備の作業を始めました。「香取丸」は徐々に速度を上げ、潜水艦を押し潰すようにその巨体を推進させます。艦首からブリッジに衝撃音と振動が伝わってきます。「香取丸」の船体はドイツ潜水艦を押し潰すかのように進みました。

「このまま進め」

「香取丸」は脱兎の如く全速力でメッシーナ海峡を突破し、二日後、無事にアレキサンドリアに入港することができました。

 航海中、武平には苦労の種が尽きません。危険な航海に従事する船員の確保と統率ほど武平を悩ませたものはありません。何しろ戦争中です。誰でも命が惜しい。船員の中にはボイコットする者が出てきます。船員から賃上げを要求されたり、水先案内人に乗船を拒否されたり、港湾労働者から荷役を遷延されたりと、問題山積でした。マルセイユ、アレキサンドリア、アデン、ボンベイ、ペナン、シンガポール、香港と、停泊するたびに武平は問題に直面し、ひとつひとつ解決していかねばなりませんでした。

 その危険と苦労からようやく解放されたのです。むろん陸上勤務にも苦労はあります。ですが、危険はありません。足かけ五年にわたる綾の狂おしい心労も終わる時がようやく来たのです。

 一家は神戸から東京の本郷西片町の屋敷へ引っ越しました。敷地が三百坪ほどもあって実に広い所です。もとは福山藩の江戸屋敷でした。東光は、この宏壮な屋敷への引っ越しを手伝う内、何となく家内におさまりました。勘当はウヤムヤのままに許され、東光の下宿生活は終わりました。


 ほとんど不在だった武平が、昨日も今日も明日も家にいる。毎日、顔を合わせていられる。家族にとっては大異変です。もはや命の危険はなく、心配する必要もない。それにもかかわらず綾はあいかわらず落ち着きません。心の中の不安が解消しないのです。長らく家を守るうちに心配するのが習慣になってしまったようです。

 圧倒的な統率力で大型客船を指揮統率してきた武平ですが、家庭内ではまったく存在感がありません。何もかも綾に任せきりにしています。武平は二十年前から神智学という新興宗教に傾倒し、宗教生活を実践し続けています。教祖クリシュナ・ムルティの教えに共鳴し、暇さえあればその著作を熱心に読み、座禅ばかり組んでいます。空気のように沈黙し、ごくまれに口を開いても宗教論ばかりです。「クルミ船長」という武平の愛称は、その菜食主義から来たものでした。さらに四十才を過ぎた頃からは禁欲主義者にもなっていました。

(居ても居なくても同じだわ)

 綾は満たされませんでした。むしろ武平が海上にいてくれた方があきらめもつくというもので、なまじっか目の前に居られると余計にムシャクシャしてきます。綾は攻撃的です。

「そんな暗いところで本を読んでいると眼を悪くするでしょ」

 読書中の武平から本を取り上げ、放り投げたりします。武平は笑って相手にしません。そういう武平の態度が綾をますます寂しくさせました。同じ土俵で喧嘩をしてくれる方がよほど慰められたでしょう。綾は物質的には恵まれていました。船長の給料は高額でしたから、高価な食材で料理をつくり、家には女中を置き、社交を楽しみ、和漢洋の膨大な書籍に囲まれて暮らすことができました。綾は、我がまま放題に暮らしたともいえるのです。でも、何か根本的なものが不足していました。それは武平だったでしょう。かつては物理的な距離がふたりを引き離し、いまでは精神的な溝が二人を隔てています。陸にのぼった武平は宗教という大海原に漕ぎ出してしまったのです。綾は不満の捌け口を東光に向けるしかありません。

 その東光は、綾の目には遊びほうけているようにしか見えません。ですが、東光は東光なりに世に出る道を模索していました。東京の文壇と画壇を懸命に遊泳しています。文人や画家の知り合いを得ると、その伝手を頼って次から次と人に会い、崇敬の対象たり得る人物を捜し求めました。弟の文武が一高から東大へと順調に進学すると、東光はその交遊関係に割り込み、一高生や東大生の友人を得ました。学生寮に入りこんで文学論を語り、学生でもないのに講義を堂々と聴講し、大学図書館で本を読みました。典型的なモグリ学生です。かつて東光を放逐した中学校と異なり、一高も東大も東光に寛大でした。口の悪い学生は東光(とうこう)を「盗講(とうこう)」と呼びましたが、その程度の陰口など屁でもありません。

 無学歴の不良少年でしかない東光が知遇を得た人々は実に多彩です。画家では東郷青児、岸田劉生、小林全鼎、関根正二、藤島武二など、文人では芥川龍之介、生田長江、石坂洋次郎、片岡鉄兵、菊池寛、久米正雄、小内山薫、佐々木味津三、サトウハチロー、佐藤春夫、佐藤紅緑、佐佐木俊郎、鈴木彦次郎、富田常雄、中河与一、福士幸次郎、藤沢清造、渡辺ゆめと、横光利一など、そのほか声楽家の石井漠、作曲家の山田耕筰などもいます。挨拶を交しただけですが、夏目漱石や森鴎外にも会いました。ひとりの不良少年がこれだけの人脈を築き得たことは奇とするに足るでしょう。綾が見込んだとおり東光には社交の才がありました。

 そんな多士済々の中、東光に強い影響を与えたのは谷崎潤一郎と川端康成です。谷崎潤一郎の知遇を得た東光は狂喜しました。かねてより谷崎の悪魔主義的作品に絶大な魅力を感じていたからです。東光は、谷崎潤一郎という人物そのものに肉薄し、文学者たるべき何事かを吸収しようとしました。谷崎は弟子をとらない主義でしたが、東光は懸命に接近しようとし、谷崎家を頻繁に訪れ、細かい雑事や使い走りを引受けました。谷崎が暇なときには雑談のお相手をし、谷崎が気晴らしに出掛ける時には遊びのお供をしました。要するに押し掛けの通い弟子です。

 谷崎潤一郎には頻繁に引っ越すという癖がありました。これが東光にとって格好の出番になりました。東光は朝一番に駆けつけて甲斐甲斐しく引っ越しを手伝います。が、それほどの重労働ではありません。なぜかといえば、谷崎は旧宅の家具をことごとく古道具屋に売り払ってしまうからです。新居に運ぶのは、余程のお気に入りだけに限られていました。だから東光の作業は案外に楽でした。そして、新居には新しい家具を買い入れるのです。その剛胆さに東光は感服しました。家具ばかりではありません。谷崎は、蔵書までも古本屋にすべて引き取らせてしまいます。小説家といえば誰でも例外なく蔵書家であると東光は思っていたし、東光自身も蔵書を大切にしています。ですが、谷崎は違いました。谷崎が蔵書に無頓着だった理由は、その驚異的な記憶力に理由がありました。谷崎は、一度でも読んだ文章はその細部までことごとく記憶してしまいます。だから蔵書に執着する必要がないのです。東光は驚くしかありません。

(なんとしても追いつきたい)

 東光は、はるか前方を走る谷崎の後ろ姿を視界内にとらえようとしました。谷崎が内に秘めている文人の心得に触れ、可能であればそれを我がものとしたいと考えたのです。

 谷崎は谷崎で、この徒手空拳の美少年に興味を持ちました。不良少年との悪評をさんざん聞かされていましたが、実際に接してみると意外でした。東光は並外れた古典の教養を身につけていましたし、何よりも気が利いて如才なく、仕事も遊びもまかせられました。実に便利な使い走りだったのです。

「おまえ、春陽堂に勤めないか」

 谷崎潤一郎の口利きで東光は出版社に入社できることになりました。気難しい谷崎をさえ満足させる才気の持ち主であれば、会社員くらいは十分に勤まるだろうし、東光が出版社にいてくれれば谷崎にとって何かと好都合です。春陽堂としても人気作家とのパイプを確保でき、利益に適いました。

 東光は生まれて初めて履歴書を書くことになりました。春陽堂に提出するためです。バカバカしい形式だとは思いましたが、谷崎先生の口利きですから書かねばなりません。学歴欄は賑やかになりました。転校が多かったからです。函館市弥生尋常小学校、小樽市手宮尋常高等小学校、横浜市野毛老松尋常高等小学校、大阪市偕行社附属小学校、神戸市諏訪山尋常高等小学校と、小学校の学歴は豊富です。その後、関西学院普通学部中退、豊岡中学中退、で終わりになります。不本意に思った東光は、その下に「後独学」と書き入れました。この三文字には東光なりの自負が込められています。一高や東大の学生と論争しても負けたことはないし、むしろ教えてやっているくらいです。レポートの課題をさぼる学生のために東光が代作してやることもしばしばでした。東光のレポートはたいてい「優」の評価を得ました。

(学歴がなんだ。俺は東大でも十分に通用する)

 確かな実感があっただけに、東光は自信満々に「後独学」と書き入れました。ところが、それを弟の日出海がのぞき込んでいました。

「兄貴、そりゃ履歴にならんよ」

 不意に指摘された東光は、自負心を吹き飛ばされて、とっさに履歴書を隠しました。日出海に冷やかされて気恥ずかしくなったのです。いつも威張っている兄が見せた珍しい照れっぷりを日出海(ひでみ)はおかしがり、ゲラゲラ笑いました。

「笑うんじゃねえ。ド突くぞ、日出」

 綾は、意外にも東光の就職に狂喜しました。

「東光が会社員になった」

 周囲が唖然とするほどの喜びようです。綾が喜んだのには理由があります。東光が谷崎に私淑しているのを察知した綾は、谷崎に秘かに手紙を出していたのです。その文面には「東光をどうか一人前にして欲しい」という願いが切々と書き込まれていました。あつかましいとは思いましたが、綾としてはなりふり構っていられなかったのです。今家の長男が「本郷の不良」では、世間にも親類にも御先祖にも顔向けができません。谷崎は、この母親の切なる願いに応えてくれたのです。知らぬは東光ばかりでした。

 初出社の日、綾は赤飯を炊き、惣領息子の門出を祝しました。東光はいきなり編集長として入社しました。破格の好待遇です。谷崎潤一郎の声望の大きさがわかるというものです。

(月給取りの奴らなんぞになめられてたまるか)

 東光は気負いました。羽織袴を身に着け、人力車で社屋に乗り付けました。社内では上司を上司とも思わず、同僚や部下にも横柄に対応しました。昼食には豪華な弁当を取り寄せ、応接室をひとりで占領して食べました。東光の心得違いは甚だしいものでした。それでも春陽堂は、谷崎潤一郎に遠慮して、腫れ物に触るように東光を扱い、その傍若無人の振舞を大目に見ました。

 谷崎潤一郎は東光を誤解していました。東光は、あくまでも谷崎潤一郎という文学者に心酔し、だからこそ見習い書生のように従順に立ち働いていたのです。つまり、東光の才気は会社員としての適性とはまったく別種のものでした。

 一方、望外に会社員となった東光の心中には、苦難に満ちていた小中学時代の苦い記憶が呼び起こされていました。記憶というより無自覚な反射であり、投影です。東光にとって春陽堂は学校当局であり、上司は無理解な教師です。これでは人間関係の構築は不可能だったでしょう。


「谷崎先生の原稿を受取ってきてくれませんか。先生は那須温泉にいらっしゃるから」

 東光に仕事らしい仕事が与えられたのは入社して一ヶ月後です。春陽堂にしてみれば、このためにこそ東光を採用したのであり、ようやく役立ってもらうべき時がきました。経理課で旅費を受取った東光は、さっそく出かけました。ところが東京駅で友人とバッタリ会ってしまい、旅費の半ばを飲食に使い込んでしまいました。すでに会社員失格です。ですが、東光にはその自覚がありません。やむなく残った旅費で行けるところまでの切符を買い、列車に乗ってたどり着いたのは閑散とした田舎の駅でした。東光は那須温泉を目指してテクテク歩き始めました。途中、農夫の馬車に乗せてもらいながら暢気に旅を続け、ようやく那須温泉の旅館にたどり着きました。

「先生、原稿なんですが」

「ああ、まだできてないんだ。せっかくだから、おまえも泊まっていけよ」

「はあ、それでは」

 師匠が師匠なら弟子も弟子です。東光が粗忽だったのは、連絡を待っているはずの上司に電報の一本も入れず、葉書の一枚も書かなかったことです。驚くべき会社員です。

 谷崎と東光が帰京したのは一ヶ月後です。東光が久しぶりに春陽堂に出社すると、机がなくなっていました。当り前です。


 東光の就職に糠喜びしていた綾は、東光をはげしく罵倒しました。谷崎潤一郎も東光に対する認識を改めました。

(会社員では不満らしい)

 東光の志があくまでも文学にあることを知った谷崎は、東光を便利にこき使いながらも、折にふれて文士たる者の心得を仕込んでやるつもりになりました。

「おい東光、おまえ、牛車の乗り方、知っているか」

 和気藹々と談笑していた谷崎が唐突にこんなことを言い出します。

「は?牛車ですか」

「そうだ、牛車だ。牛車は前から乗るのか、後ろから乗るのか。どうやって乗るんだ」

 東光は即答できません。失格です。谷崎の顔は見る見る不機嫌になり、かたく口を閉じました。

(馬鹿者め!キサマの顔など見たくない)

 顔にそう書いてあります。東光は退散するしかありません。谷崎家を辞すと、すぐさま牛車について調べるため、友人に聞いたり、東大の図書館で調べたりしました。ですが、なかなか要領を得ません。牛車は誰でも知っています。様々な本にも載っています。しかし、牛車に乗るときの作法や、具体的な乗り方というものを実感とともに把握することは難しかったのです。おそらく「百聞は一見に如かず」なのでしょう。しかし、東京に牛車などあるのだろうか。

(皇居ならば)

 あるかもしれないと思いましたが、いくら東光でも気軽に皇居には出入りできません。どの本を読んでも百科事典的な解説しかなく、谷崎への回答としては不完全でした。

「牛車の乗り方、と言われてもなあ」

 人に聞いても半知半解の答えばかりが返ってきました。とても谷崎を納得させる自信が持てません。

「康さん、知らないか、牛車の乗り方」

 東光は川端康成にも聞いてみました。

「ああ、それなら平家物語を読みたまえ、猫間だよ」

 こともなげに川端は教えてくれました。東光はさっそく自宅に帰り、猫間の章を読んでみました。

(なるほど)

 平家物語の猫間の章には、京に上った木曽義仲の不作法ぶりが描かれています。ある日、義仲は牛車に乗りましたが、作法を全く知らなかったために都人に笑われて大恥をかきます。東光はようやく牛車の乗り方を会得しました。

(なんてことだ。ウチのババアだった即答しただろうに)

 綾は平家物語をすべて暗誦しています。文学者にとって教養がどれほど重要なものか、それを思い知らされました。ともかく解答を得た東光は谷崎宅に顔を出しました。ですが、谷崎は答えを聞こうともしません。そんなことは百も承知なのです。

「おい東光、奥州街道の松並木はアカマツかね、クロマツかね」

 小説家たるもの、小説に登場させる森羅万象について知悉していなければならない。そのことを谷崎は東光に仕込もうとしたのです。東光は喜んで応じました。どれほど小僧あつかいされても、東光は谷崎にだけは従順です。谷崎の厳しい薫陶にむしろ感謝し、いつかは谷崎と対等に口を利けるようになりたいと発奮しました。そんな東光を、谷崎はごくまれに励ましました。

「文士とは文字を操る武士だ。文士だけが権威に屈することなく言いたいことを言い、書きたいことを書くのでなければ、いったい誰が日本国民の意思や感情を伝えるのか」


 川端康成とは妙に馬が合いました。ふたりの性格は対照的です。川端は極端なほどに無口で温和しく、そばにいても気配さえ感じません。人知れず居なくなり、いつの間にか戻っている。幼くして肉親を失った川端は、親戚の家に居候するうち、そんな特技を身につけたのです。よほど肩身が狭かったのでしょう。しかし、文学に対する熱意と知識においては川端が周囲を圧倒していました。川端の意見が重きをなし、川端を中心に文学好きの学生がサークルを形成していました。その文学サークルでは川端がアイデアを出し、東光が実務運営するのが常でした。

「ただ仲良くしていてもつまらないから、研究会でもつくって、月に一回、芝居を観て、その批評会でもしたらいいんじゃないか」

 川端が提案します。これに東光が賛成します。

「それは、俺、賛成だ」

「じゃあ、おれは口下手だ。君はおしゃべりだから、コンちゃん、皆にそう言ってくれ」

 自分勝手な学生たちをまとめるには、東光の押しの強さと図々しさと口喧しさが役立ちました。

「芝居を観るのに銭を使うのはもったいないから、コンちゃんが松竹に交渉してくれよ。無料で観られるように」

 川端は東光をこき使います。

「おいおい、そりゃいくらなんでも無茶だよ、康さん」

「コンちゃんならできるよ」

「おだてるない」

 さすがの東光もたじろぎました。松竹本社に乗り込んで無料の観劇券をせしめて来い、と川端は言うのです。さすがに図太い神経の東光でも気後れがしました。なにしろ東光はモグリ学生なのです。

「まあ、頼むよ」

 川端はこともなげに言います。人の命令など平気で蹴飛ばす東光でしたが、東大の文学仲間を失いたくありません。それに川端には妙な気迫があり、なぜか説得されてしまいます。ふたりは松竹本社の玄関前まで来ました。川端はそこから動こうとしません。

(何から何まで俺にやらせやがって。こうなりゃ、当たって砕けろ、だ)

 腹を決めた東光は受付に名乗り出ました。

「東京帝国大学の演劇研究会の者ですが、重役の方に面会をお願いしたい」

 東京帝国大学の神通力は絶大でした。東光は重役室に通されて歓待され、新富座と歌舞伎座の無料観劇券を手渡されました。

「康さん、見てみろ。無料券がこんなに」

「それみろ。交渉はやってみるもんだ」

 川端は顔色ひとつ変えません。引っ込み思案と剛胆とが同居しているような性格です。ちなみに川端は、東光が喧嘩を始めると常に平然と傍観しました。少し離れたところから黙って見ています。東光が殴られていても助太刀しません。

「意味ない」

 喧嘩が終わると決まってこう言います。ずいぶん薄情ですが、そんな川端に東光は文句のひとつも言いません。東光は川端に顎で使われましたが、それを補って余りある何かを川端は持っていたのです。

 身寄りがないため盆暮れになると川端は行き場を失います。そんな川端を、東光は西片町の家に招いてやりました。招かれても川端はろくに口も利けませんでした。幼くして肉親を次々に失った川端にとって、家庭といえば親戚の家庭であり、常に緊張し、身を縮めて遠慮し、気配を消していなければならなかったのです。その癖がなかなか抜けないようです。ですが、今家の方では頓着しませんでした。

 綾は川端を気に入りました。そこに理想の息子像を見たのです。綾は川端を大いに歓待し、実の息子と同じように大切にしました。毎年末、綾は絣の着物を縫い上げて三人の息子に着せるのを習慣としていましたが、そこに川端を加え、四人分の絣の着物を縫うようになりました。川端は着物を着せられても不器用に礼を言うばかりでした。そんな川端を見て綾は悦に入っていました。


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