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葛藤

「じゃあ、行ってくるよ」

 一週間ほど我が家に滞在した武平は、散歩にでも出かけるような調子で出勤していきました。

(もう帰ってくるな)

 綾は胸の内で毒づいていました。インド洋では依然として「エムデン」が暴れ回っています。十月以後、「エムデン」はアラビア海を南下してモルジブで石炭を補給し、再北上するとアラビア海の主要航路に出没し、十数隻の商船を拿捕、撃沈し、そののち行方をくらましています。

(もう知らない)

 綾は達観するしかありません。まともに武平の身の上を案じ続けていたら気が狂ってしまいます。綾は心の矛先を東光に向けました。中学校における東光の評判はとにかく悪い。小説ばかり読んでいる、授業をさぼる、数学ができない、口答えが多い、そんな悪評です。綾は、世間並み以上に外聞を気にする主婦です。由緒正しい津軽藩士の家名を汚してはならないと気が気ではありません。

 そんな綾は積極的に社交をしていました。神戸の芸術愛好家を招いたり、招かれたりと忙しくしています。そんなとき、長男の自慢話のひとつもしたいというのが綾の願望です。が、東光は札付きの不良学生でしたから、むしろ、東光の話題を避けざるを得ません。

 中学校当局はそれなりに努力してくれました。東光を数学教師の家に下宿させ、厳しい監視のもとで数学に取り組ませました。さすがの東光も連日連夜の数学責めに気を弱らせ、一時は温和しくなりました。綾は学校側の配慮に感謝しました。ところが、東光はまた事件を起こします。学校に呼出された綾が聞かされたのは意外な事実でした。

「お宅のお子様は女学生とふたりで歩き、会話していたのです」

「はあ、それで?」

 いまとなっては信じ難いことですが、この中学生の淡い逢瀬は恋愛事件として地元新聞に報じられました。明治の御代にあっては中学生の恋愛は事件だったのです。悪いことに東光の話し相手の女学生は、ミッションスクールの宣教師の娘でした。宣教師は東光を処分せよと強硬に主張しました。学校としてはこれを無視できません。綾は、今度ばかりは学校側にあきれます。退学を勧奨する学校側の要求をすすんで受け容れました。

「こんな学校に入れたのが間違いでした」

 啖呵を切った綾ですが、このままでは東光の学歴が中学中退で途切れてしまいます。綾の奔走が始まりました。伝手を頼って編入できそうな中学校を探し回り、やっとの思いで豊岡中学に東光を編入させる手続きをとりました。例によって東光には無断です。なにしろ東光は退学を大いに喜び、これ幸いと淡路島へ遊びに行ってしまっています。

「東光、城崎温泉に行かないかい」

 淡路島から帰ってきた東光を綾が誘いました。なにやら様子がおかしい。綾が妙に上機嫌なのです。東光は警戒しましたが、城崎温泉には興味があります。城崎温泉は、円山川が日本海に流れ落ちる豊岡市にあり、周辺には玄武洞などの観光地もあります。千年以上の歴史を持つ温泉地に無関心ではありません。

「別にいいけど」

 ふたりは山陰本線を北上しました。東光が不信の念を強めたのは、豊岡駅で下車したからです。城崎温泉駅はあと二駅先です。綾は人力車をひろうと車夫に秘かに行き先を告げました。

「どこへ行くんです」

「いいから、ついていらっしゃい」

 やがて一軒の屋敷に到着しました。東光ひとりが応接間で待たされました。綾は別室で何やら用談しています。やがて応接間に現れて挨拶したのは中年の髭もじゃ男です。黒々とした毛髪と濃い髭に顔の半分以上が隠れています。髭の黒さが肌の白さを際立たせていました。絵心のある東光は、その風貌に魅了されました。

「初めまして。私は近藤英也です。豊岡中学の校長を務めております。お母様はお帰りになりました。明日、豊岡中学の編入試験を受けていただきます」

 若僧の東光に対して実に丁寧な挨拶です。が、東光の耳には入りません。

(あのくそババア、はめやがって)

 翌朝、豊岡中学の一室で編入試験が行われました。東光にはまったくヤル気がありません。東光は答案用紙いっぱいに大きな丸を描きました。絵画に興味を持ち始めていた東光は、フリーハンドで真円を描く練習をし、それを提出しました。試験開始から五分も経過していません。試験監督の教師は驚きました。

「ちょっと待っていなさい」

 そう言って廊下を隔てた校長室へ入っていきました。やがて東光の答案用紙をつかんだ近藤校長が東光の前にのっそりとやって来ました。別に怒っている風でもありません。

「どれもできんのかね。ひとつとして」

 穏やかに尋ねます。

「できません」

 東光はふて腐れています。近藤校長は平気な顔で言いました。

「そうか、お前はわざと零点をとって落第したいんだろう。そして東京へ行きたいと思っとるんだろう。母上がそう言っておられた。だが、そうは問屋がおろさんぞ。お前は三年を志望して試験を受けたが、学力未熟につき三年は落第だ。よって二年への編入を許可する」

 東光の顔に落胆の色が浮かびました。

「人生は長いんだから、まあ、ゆっくりやるさ」

 近藤校長は濃い顎髭をジャリジャリと揉みしごきながら笑います。その様子に懐の深さと諧謔を感じた東光は、この学校になら居てもいいと少しだけ思いました。


 東光を厄介払いして神戸に帰った綾のもとへ好いニュースが飛び込んできました。「エムデン」がついに沈んだのです。「エムデン」は、連合軍の七十隻におよぶ艦艇に包囲され、徐々に追い詰められていき、ココス諸島のデレクション島に停泊していたところを重巡「シドニー」に発見されました。そして、砲撃戦の末に沈んだといいます。十一月七日のことです。これでインド洋の航海は安全になるでしょう。綾は一安心しました。

(やれやれ、あとは東光がちゃんとやってくれれば)


 その東光は豊岡で自由気ままな番長生活を謳歌していました。近藤英也校長は知恵を絞り、小島徹三という秀才を今東光に配することにしました。小島徹三は地元の良家の御曹司で、豊岡中学に入学して以来ずっと級長をやっています。しかも小島は東光より二才年上です。東光に良い意味で感化を与えるにはうってつけの人材と思われました。

(よもや東光に呑まれることはあるまい)

 ところが東光の悪の感化力の方が強かったのです。しばらくすると小島徹三の方が悪くなってしまいました。東光の下宿を小島が初めて訪れたとき、東光はいきなりトルコ葉のイギリス煙草をふかして見せ、小島の度肝を抜きました。

「僕は芸術に興味があるんだ」

 東光は雑誌「白樺」を見せながらいっぱしの芸術論をぶち始めます。「白樺」には裸婦の油絵やデッサン画が載っています。そのページを東光は小島に見せてやりました。小島は目を丸くします。初めて見たからです。この時代の若者にとっては、格調高い「白樺」もエロ本でしかありません。東光には小島の内心が手にとるようにわかります。自分自身が経験済みだからです。しかし、そこには触れません。触れれば相手の誇りを傷つけます。知らんふりをして東光は芸術話をつづけます。

「ある日本人がヨーロッパの有名な画家のところへ行って入門させて欲しいと頼んだそうだ。そうしたら、その画家が言うには、塩と砂糖を描き分けてみろ、というんだ。できたら入門を許可するってな。結局、その日本人は入門をあきらめたそうだよ。なんとも厳しいだろ、芸術はさ」

 東光は聞きかじりの挿話を語って聞かせます。いかに模範生とはいえ田舎者に過ぎない小島は、すっかり東光に感服してしまい、以後、東光の下宿に入りびたるようになりました。やがて東光の下宿には一団の悪童が集まるようになりました。

 東光は調子に乗ります。他校の悪ガキ集団とケンカを繰り返しました。さらに秋祭りでは、校則を破って御輿を担いで練り歩きました。そこを風紀担当の教師に見つかってしまいます。祭りの勢いも手伝って、東光はついその教師を殴ってしまいました。

 これが職員会議の議題となりました。教師の口からは東光の悪評が噴出し、退学処分を求める声が優勢となりました。しかし、近藤英也校長はむしろ教師たちに自省を求めました。

「彼は確かに悪い。だが諸君、素行の悪いあの学生をそのまま放り出して、それが教育といえるのか。あの不良を真人間に変えることが教育ではないのか。諸君には教育の本旨について再考してもらいたい」

 近藤校長は教師たちの自覚を促しつつ、東光をかばおうとしたのです。東光も近藤校長にだけは心服しています。文学について語りあったり、漢文の素読を習ったりするうち、その風韻に感ずるものがありました。ですが、官僚臭の強い並の教師たちを好きにはなれません。教師たちの方も、大人を大人とも思わぬ東光を忌み嫌い、恐れました。近藤校長のような人格力をすべての教師に求めようとする東光は、やはりワガママだったというしかありません。結局、年内限りで退校処分と決まりました。

 その年の暮れ、雪に覆われた豊岡駅に東光はひとりで来ました。始発列車に乗り込むと客車内の薪ストーブに火を入れました。そこへ近藤英也校長が見送りにきました。近藤校長は一場の訓戒を垂れ、東光を励まそうとしました。

「何があっても失望するな」

 ですが、東光には響きません。

「今まさに失望しているところです。あれだけ面倒をみてやったのに誰ひとり見送りに来やがらねえ」

 東光は悪童グループの番長として子分の面倒をみてやったつもりでいます。せめて数人でも見送りに来てよさそうなものです。それが、ひとりも来ていないのです。近藤校長は笑います。

「それは来ないよ。駅に見送りに行く者は退学処分だときつく言ってある。駅には来ない。駅にはな」

「え?」

 蒸気機関車が汽笛を鳴らし、重い車輪がゆっくりと回転し始めます。列車は速度を上げながら一番目の踏切にさしかかります。そこでは悪童たちが群れをなし、手を振り、大声を張り上げていました。東光も窓から身を乗りだして大声を上げました。


 東光が神戸に舞い戻ってくると、当然のように悶着が起こりました。綾はクドクドと文句を言いつのります。東光を受け入れてくれる中学をさがすためにどれほど苦労したか、その苦労を台無しにした東光は親不孝者である、そんなことを言いつづけました。やがて感情が激し、綾は泣き喚いてしまいました。ヒステリーの母を、東光は不思議なものでも見るような目で観察しました。東光は、綾とまったく異なる価値観を持っています。自信満々に言い返しました。

「あなたはくだらんことを言うけど、そんなの考え方ひとつじゃないか。よそのガキが中学五年かかるところを、うちの伜はたったの二年半でやっちまった。実にアッパレだ。そう思えばいいじゃないか。親としてこれほど安上がりなことはないんだし、むしろ孝行息子じゃないか」

 綾は言葉を失いました。事実上、東光を受け入れてくれる学校はもうありません。綾の気力も失せています。綾は、自分が正しいと信じているし、すべては東光のためだと信じ切っています。心底から家族のため息子のため自分を犠牲にして心配し、世話を焼いているつもりです。それなのに東光は「くだらん」といいます。

(どうして東光は反抗ばかりするのか)

 それが綾にはわかりません。しかし、東光を反抗的にしたのは綾です。東光にしてみれば綾は暴君でしかありません。理由もなく叱責し、折檻し、命令する。ああしろ、こうしろとうるさく言うからそのとおりにしてみる。すると「何をやってもダメだ」とけなす。悶着が起これば「お前が悪い」、兄弟喧嘩をすれば「お前が悪い」と決めつける。弟を依怙贔屓する。綾に過失があっても絶対に謝らない。ほめてくれたことがない。優しい言葉をかけてくれたこともない。世間体ばかり気にしており、人前では被害者を装って平気で嘘をつき、東光を悪者にする。小説を書けば「無駄だ」と焼却し、絵を描けば「通用しない」と断定する。そんな綾に従うことは奴隷になるのと同じでした。

「ママは自分の心配をしているだけだ」

 これが東光の言い分です。しかし、綾にそんな自覚はありません。綾は確かに東光の将来を心配しているのです。東光の絵画や文章を、親の欲目で下駄を履かせて見ても、とてもではないが世間に通用するとは思えません。それなのに東光は芸術家になりたいなどと甘い夢を見ている。その夢を壊してやるのが親の義務だと思っています。その親心が東光に通じないのはなぜなのか。綾の心中は不安だらけです。

 それでも口論して憤激し、大声を出したせいか、鬱憤が少し晴れ、なにか吹っ切れたように感じた綾は、東光への干渉をやめました。おかげで東光は絵を描いたり、小説を書いたり、芸術家の卵たちとつるんだり、自由を満喫できるようになりました。


「東京へ行きたい」

 東光が言い出したのは夏が過ぎた頃です。綾はいい顔をしませんでしたが、放ってもおけません。家出でもされたら面倒です。

(この小僧は好きにさせるしかない)

 そんな諦めもあります。やむなく綾は再び世話を焼き出します。親戚筋に依頼して東光を下宿させてもらうことにしました。下宿先は小石川茗荷谷の旧弘前藩邸です。そこには旧藩主の津軽承昭侯爵が住まわれており、家令の斎藤家の屋敷もあります。その斉藤家に下宿できることになりました。

 東光が上京する日、三宮駅に綾が見送りに来ました。夜行列車の発車時刻が間近になったとき、綾が車窓に近づきました。説教を浴びせられると思った東光は身を固くしました。

「東京では決して他人様に御迷惑をかけるんじゃありませんよ。親なればこそどんな迷惑をかけられても仕方ないわ。苦しかったり困ったりしたら、家へ戻っておいで。わかったかい」

 綾の声音はいつになく優しく、しっとりしていました。どのような悪口雑言をも跳ね返す気構えでいた東光は、予想外の柔らかい言葉に動転してしまいます。鼻の奥がツンとして涙が出そうになりました。

(早く発車してくれ)

 東光は列車の天井を見つめ、涙を懸命にこらえました。


 東光を送り出してしまうと、綾の関心は欧州航路上にある武平の身の上に移りました。綾にとって心配の種は第一に武平、第二に東光です。その目障りな東光を東京へ片付けました。自然、心は武平へと向かいます。

 ちなみに綾は四人の男子を産みましたが、不幸にも三男の信巳を失っています。しかし、次男の文武と四男の日出海は成績優秀です。お気に入りの文武は素直で素行も良い。それが精神安定剤でした。ところが、またもや綾の心労が始まります。

「潜水艦による無警告攻撃」

 大正四年二月、ドイツ帝国の発した宣言が世界を、そして綾を驚かせました。ドイツ潜水艦による無警告攻撃の対象海域はイギリス周辺海域だといいます。攻撃対象には連合国側の軍艦だけでなく、商船も含まれます。欧州航路の大型客船「香取丸」などは格好の標的として狙われるに違いありません。綾の悶々たる日々が再び始まりました。

 五月七日、イギリス客船「ルシタニア」号がアイルランド沖で魚雷攻撃を受け、沈没しました。同船は全長二百四十メートル、排水量四万四千トンの巨船です。千百九十八名の乗客が犠牲になりました。以後、イギリス周辺海域では断続的に商船の被害が発生しました。日本船がドイツ潜水艦から魚雷攻撃を受けたのは十一月です。貨物船「靖国丸」が地中海で撃沈されました。綾は極度に緊張します。

(地中海ってなによ、宣言と違うじゃないの)

 ドイツ帝国の宣言によればイギリス海域が無警告攻撃の対象範囲だったはずです。綾は憤慨しましたが、どうなるものでもなく、祈るような気持を抱き続けるしかありません。

 十一月以降の二ヶ月間に撃沈された主な日本船は「靖国丸」、「千寿丸」、「八坂丸」、「報国丸」、「建国丸」です。なかでも「八坂丸」は日本郵船の貨客船であり、武平の乗る「香取丸」の僚船でしたから、綾にとって他人事ではありません。

 十二月二十一日、日本を目指して地中海を横断しつつあった「八坂丸」は、幾度かの潜水艦攻撃を巧みにかわし、アレキサンドリアの近海までたどり着いたのですが、不幸にもあと一歩のところで魚雷を喰らってしまいました。

 事態を重視した商船各社は、地中海航路をあきらめ、アフリカ大陸を迂回する喜望峰航路を採用することにしました。長大な迂回であり、時間と燃料の浪費になりますが、安全にはかえられません。


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