死顔
国会議員には三つの特権が与えられます。不逮捕特権、免責特権、歳費特権です。このほかにも優遇措置があります。事務所と宿舎が与えられ、国鉄や航空機の運賃が無料になります。すべて国費です。占領軍によって必要以上に拡張され、そのまま放置されてきた議員特権と優遇措置を東光は拒絶しました。東光は宿舎も事務所も辞退し、自費で平河町にマンションを借り、そこを事務所兼住居としました。国鉄や航空機の運賃もすべて自腹で支払いました。それだけではありません。列車や飛行機の中で社会党の議員を見つけると容赦なくどやしつけました。
「てめえら、国鉄の経営が悪いとか、赤字だとか抜かしておきながら、自分がタダで乗るってバカなことがあるか。俺はちゃんとカネ払って乗ってるぜ。赤字解消にゃあ程遠くても、少しでもプラスになるように考えるのが当たり前じゃあねえか。国会議員なら、ガッポリ歳費をもらってるんだろう。運賃ぐらい払え、この馬鹿野郎」
天台院の頃と何も変わりません。電車内で老人に席を譲らない若者をどやしつけていたように、今度は優遇措置に甘えている国会議員を怒鳴りつけたのです。
ちなみに教団は、この翌年から「一隅を照らす」運動を始め、その初代会長に東光を指名しました。しかし、そのはるか以前から東光は独自のやり方で一隅を照らし続けていたといえるでしょう。ただ、東光の場合、その照らす光量がサーチライトのように強烈すぎ、照らされた方は目を開けてさえいられません。説諭というよりは激烈な折伏でした。
意気揚々と政界に乗り込んだ東光は、決して傲慢ではありませんでした。各地で辻説法に立ち、当選後の政治活動を報告し、有権者の声を聞きました。この時代、選挙公約などは嘘同然であったし、当選さえしてしまえば有権者のことなど放ったらかしにするのが当然でしたから、東光の当選後の辻説法は当時としては斬新でした。
しかし、政治の壁は分厚いものでした。東光は、五十回ほど国会の委員会に出席しましたが、結局、ただの一度も発言する機会を与えられませんでした。自民党の首脳は恐れたに違いありません。
(あの毒舌和尚にしゃべらせたら何を言うかわからない)
東光はやむなく国会外で発言しました。なかでも物議を醸したのは、昭和四十五年五月十六日、陸上自衛隊新発田駐屯地での講演です。
「自衛隊は軍隊である。国を自衛することは当然のことであり、軍隊を自衛隊と呼ぶ必要はない。自衛隊を軍隊と呼ばず、大砲や機関銃を装備した船を軍艦と呼ばず、ナントカ艇などと呼ばせているのは自民党の腰抜けどもが悪い。愛される自衛隊なんてバカげた話だ。自衛隊は人を殺すためにある。医者は人を救い、軍隊は人を殺す、坊主は死んだものを供養する。だから君たちは安心して人を殺していい。若い自衛隊の諸君が、自分の属している場がいったい何だろうと疑心暗鬼になっているようでは士気に影響する。諸君は日本国の軍人であり戦士である。国土防衛の防人として誇りと自覚をもってがんばって欲しい。いいかね。軍隊という言葉は、われわれが日常使っている語彙のなかで、ひとつの概念なんだ。憲法にどう書いてあろうとなかろうと、攻撃することができる武器を持っているのは、保安隊と名づけようと自衛隊と言おうと中味は歴然とした軍隊だ。外国は自衛隊を日本の軍隊として扱っている。軍隊、軍団というのは実態ではなく、概念をさすものだ。この概念さえつかむことのできない社会党の連中とは、哲学は論じられない」
左翼一色のマスコミは大いに騒ぎ、東光を非難しました。その余波は国会審議にまで及びます。社会党議員の執拗な追求に対し、中曽根康弘防衛庁長官は当たり前のことを答弁するはめになりました。
「自衛隊は、今東光氏の指揮を受けるものではございません」
結局のところ東光の政界進出は、話題を呼びはしたものの、実質的な意味を生み出すには至りませんでした。与党の自民党は従米政党です。そして、野党の社会党や共産党さえも、占領軍が原案を作成した現行憲法擁護の政党であり、その意味において従米政党でしかありません。与野党一致で戦後体制を維持しているわけであり、憲法改正の声は完全に封殺されていました。東光の意図である国家建設のための下地づくりは、その端緒さえつかむことが出来ません。
「好きなことやって生涯に悔いはないが、政治にかかわったことが一番愚劣だったな。あれはミスや」
最晩年の東光の述懐です。
昭和四十六年一月、東光はアメリカに渡りました。帰国後、体調に異変を感じ、人間ドックに入りました。検診の結果、S字結腸に癌が見つかります。医師は手術をすすめました。この時代、癌の告知を差し控えるのが医学界の一般常識でしたから、医師は病名を隠しました。これが裏目に出てしまいます。東光は何事か不審を抱き、生来の反骨心から病院を飛び出してしまいました。
東光は、体内に癌を養いながら、従前と変わらぬ多忙な日々を過ごしました。創作活動も、宗務も、寺務も、タレント活動も旺盛にこなし、天台宗の海外普及のため渡航さえしました。行く先々では山のような色紙に揮毫を頼まれます。東光は嫌な顔ひとつせずに筆をとりました。人が会いに来れば時間の許す限り誰とでも面会し、その話を聞き、いっしょに笑ったり泣いたりしました。事業に失敗して貧窮している昔の同級生や、所帯やつれした売れない小説家などに会うと、いつにもまして親しく接し、励まして帰しました。若い日に絶頂期を迎え、そのあとに長い不遇を経験した東光は、不遇の寂しさとつらさを身に染みて知っています。
(俺はあのまま天台院で朽ちていても不思議じゃなかった)
奇跡的に時を得た東光は、確かな謙虚さと優しさを身につけていました。
昭和四十七年の元旦を東光は河内の自宅で過ごしていました。そこへ川端康成がフラリとやってきました。
「あいかわらずだなあ」
川端は若い頃からそうです。何も言わずにフラリといなくなり、突然にフッと現れる。
「腹が減ったからね。おにぎりを食わしてくれよ」
「ああ、いいよ」
「運転手の分もね」
腹が満ちると川端は織部焼きの陶盤にジッと見入りました。
「これ、織部みたいだなあ」
「うん、織部だよ」
「珍しいねえ。ちょっとこれ包んで」
「どうするんだい」
「鎌倉に持って帰る」
「それは、鎌倉へ送るからさあ、割れるといけないからね。ちゃんと梱包して送るから」
「信用しないよ。君は僕に字を書いてくれるといったのに書いてくれない。絵を描いてくれるといったのに描いてくれない。だから信用しない」
「俺はねえ、ノーベル賞作家の家に掛けるような字は書けないし、絵だって描けないよ」
「いいじゃないか。僕が欲しいんだ。それを未だに書いてくれない。これはどうしても持って帰る」
これが親友との最後の会話になりました。
四月、東光は川端の訃報に接します。自殺だといいます。川端邸に駆けつけた東光は、書斎に入りました。キャップを外したままの万年筆が置かれており、原稿用紙には「また」と書かれていました。自殺の理由らしきものは何もありません。
(突然に居なくなりやがって、川端のやつ)
東光はやりきれぬ思いにとらわれました。火野葦平、三島由紀夫、川端康成と、作家の自殺が続いていました。
(取り残されたなあ)
さすがに寂しい。すでに七十才を越えた高齢でもあり、腹中には癌を抱えている。もはや癌を治そうとも思わず、長生きしようとも思わない。
(しかし、死ぬまでは生きなくちゃ)
この命のある限り、愛する小説を書き、僧侶として衆生に奉仕するのです。それがいつまで続くかはわかりません。わからぬことは御仏に任せきり、死や病の不安に心を煩わせず、眼前の仕事に身と心を投入しました。
東光の身体は、ついに悲鳴を上げます。本人はあくまでも強気でしたが、身体は徐々に痩せ細り、七十五キロあった体重が四十五キロにまで減りました。貧血を頻繁に起こすようになり、四十度を超える高熱が出ました。昭和四十八年十一月、前後不覚の状態で国立がんセンターに運ばれ、癌の摘出手術を受けました。ほぼ三年のあいだ放置されていた結腸癌はピンポン球ほどの大きさに成長していました。術後の経過は良好で、東光は体力を回復しました。体重も元に戻りました。ほぼ二ヶ月の入院は、働きどおしの東光にとっては束の間の休息となりました。
昭和四十九年一月に退院しましたが、同年の暮れには血尿が出ました。東光は再入院します。医師は膀胱の半ばを切除する手術を提案しましたが、東光はこれを拒否し、退院してしまいます。
東光は病身を推して働き続けました。周囲は頻りに休養をすすめましたが、東光の心のなかには綾の声が常に響いています。
(なんだい、だらしがないねえ、そんな程度のことで)
(黙れ、ババア)
体調の芳しくない時には、香を焚き静座して経文を唱えました。心身を統一することによって不可思議な法力が得られました。ワクチン治療にこだわり、医師がすすめても外科手術を拒否しつづけました。
「人工肛門なんか俺は嫌だね」
これは東光の美意識だったようです。東光は、精神力とワクチン治療で癌を抑えながら激務をこなし続けました。
翌年七月、東光は力尽きるように倒れます。すでに癌は体内各部に転移しており、手の施しようがありません。それでも東光は意気軒昂です。
「こんなことで死んでたまるか。おれは八十九までは生きるんだ」
キヨが尋ねます。
「どうして八十九なんです。どうせなら九十とか百まで生きたらいいじゃありませんか」
「そうじゃねえ、あのババアは八十八まで生きたんだから、オレは八十九まで生きるんだ。そうでなけりゃ、あの世でババアに会った時、だらしがねえなって言われちまうだろ」
死の瀬戸際でも東光は綾を意識していました。
終末期の癌は激しい苦痛で患者を苦しめます。東光は一度も「痛い」と言いませんでした。そのかわり経文らしきものを誦しました。東光は病床でもよく話しました。話し相手はキヨです。病勢は甚だ悪く、見舞を謝絶せねばなりませんでした。
九月十九日、この日も東光はいつもどおりでした。東光がしゃべり、キヨが聞きます。ふと東光は黙り込み、目をつぶりました。
(疲れたのかしら)
キヨは東光を休ませようと思い、三十分ほど待ってから声をかけました。
「スープでも飲みませんか」
東光は返事をしません。キヨが東光に触れてみると、手も額も冷えていました。
東光の遺体は浄められ、納棺されました。その死顔は眉根を寄せ、口を真一文字に結んでいました。まるで喧嘩をしているような顔です。
(まさか、三途の川で母子喧嘩でもしているのかしら)
キヨは思いました。そのとおりだったのかもしれません。東光の魂魄は、その死際に至ってなお、心の内の母なる存在と闘っていたようです。
「おい東光、あんまりいい気になるんじゃないよ。お前なんぞは一時の流行作家に過ぎないじゃないか。谷崎潤一郎や川端康成の作品は不朽だよ。でもね、お前の作品ときたら、どれもこれも文学史に残るような代物じゃあない。見ていてごらんよ、十年も経たないうちに今東光の作品なんぞはきれいさっぱり忘れ去られてしまうよ。ざまはないね。だから、あれほど外交官になれって言ったのに」
「黙れ、このくそババア。だいたい、この俺が、外務省みたいな狭苦しい官僚組織の中で生きられるわけがないだろう。広々としたお天道さんの下でしか俺は生きられないぜ。俺は、文学に志し、文学から離れたことはない。だから文学する坊主になったんだ。生涯かけて、やるだけのことはやったから、これっぽっちも悔いはないぜ」
「そりゃ、悔いなんかないだろうさ。あれだけやりたい放題やったんだからねえ。こっちはいい迷惑だよ、まったく」
「それはこっちのセリフだぜ。確かにあんたの教養は素晴らしい。でもなあ、だからといって優れた母親だったと言えるのか。あんたが素直にメガネをかけさせてくれてたら、こんなことにはならなかったんだ」
「男のくせに女々しいじゃないか。過ぎた話をクドクドと持ち出すなんて」
「忘れたとは言わせねえ」
「こっちだって思い出したら際限なく出てくるよ、お前の悪行の数々が」
「黙れ、ババア」
「コンちゃん、もう、そのくらいにしなよ」
「わっ、川端じゃないか。いきなり現れやがって。驚かせるなよ」
「さっきからここに居るさ」
「あいかわらずだな、康さん」
「静かになったね」
「え?あれ、ババア、どこ行きやがった」
「向こうを御覧よ」
「チッ、ババアめ、パパに甘えていやがる」
「そう言うなよ。コンちゃん」
「あれ、あちらにいらっしゃるのは谷崎先生だ。康さん、行こうぜ」
「ああ、行こう」
葬儀は佐倉市内の自宅で営まれました。僧侶が呼ばれ、枕経が始まりました。キヨも手を合わせて目をつぶり、合唱しました。枕経のあと、キヨが死顔を拝むと、明るい温顔になっていました。




