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 集落に溶け込むことは新任の特命住職にとって難事業です。なにしろ前任者がひどかったのです。天台院を占拠していた山伏は、ろくに経も読めませんでした。やむなく檀家が余所から僧侶を呼んでくると、その山伏は読経の最中に怒鳴り込み、暴力を振るって僧侶を退散させました。集落の善男善女が新任の住職に警戒心と猜疑心を抱いたのも無理はありませんでした。

 東光は天台院に入るや、まず得意の話術で笑わせて檀家たちの警戒心を解き、次に晋山(しんざん)式を盛大におこなって檀家の度肝を抜きました。晋山式とは新住職の就任式です。東光は、晋山式の来賓として春日大社宮司水谷川忠麿と四天王寺管長出口常順を招きました。村の衆にしてみれば殿上人のような貴人です。さらに伶人に雅楽を吹奏させ、僧侶衆を練り歩かせました。鄙びた農村集落のボロ寺には分不相応なキラキラしい式典でした。晋山式のあと、水谷川宮司、出口管長、東光の三名で対談を催し、その模様を録音しました。ラジオ放送するためです。遠く歴史をさかのぼり、天台院の来歴を語り合うまではよかったのですが、天台院の現状については話が出来ませんでした。なにしろ朽ち果てたボロ寺なのです。水谷川宮司も出口管長も困り果てて沈黙しました。東光は録音機のスイッチを止め、ふたりを督励します。

「もっと天台院をほめてください」

「そう言われてもねえ、庭も寺も荒れ放題でほめるところがないよ」

「さがせば何かあるだろう、ほめろ」

 宮司も管長も苦笑しました。この対談の様子は後にラジオ放送されました。

「こんど来た坊さんは相当に偉いらしい」

 中野集落の檀家たちは驚嘆しました。驚かせておいて、東光は気さくに檀家に接しました。新住職は偉い人でありながら、敷居が低く、滅法に明るく饒舌で、付き合いやすいと評判になりました。東光は行き会う住人には気軽に声をかけ、当意即妙に世辞を言い、冗談を言い、猥談さえして笑わせました。

「偉いくせに猥談しよる。おもろいオッサンや」

 そんな評判を聞いて、実際に会ってみると本当に楽しい。東光に対する警戒感はみるみる薄らいでいきました。東光は、ボロボロに荒れ果てている天台院を改良せねばなりません。通常ならば檀家に寄進を求めるところです。しかし、東光は檀家に頼ろうとしませんでした。

(新しい坊さんから寄進を求められたらどうする)

 これこそ檀家の一番の心配事です。寺が荒れている責任の一端は檀家にもあるのです。戦々恐々の思いでひとりの檀家がさぐりを入れるように寄進について尋ねてみました。

「寄進は要らん」

 東光はキッパリと言います。狭い集落に噂が立ちました。額面どおりに受け取る者はいません。

「ほんまかいな。うまいこと言うて、あの寺を去にしなに、これこれの銭を返せとなったら、檀家は割りうち食わんならんでえ」

「ありゃアホや。自分の寺でもないのに銭つぎ込んで、どないする気や。檀家に寄進してもらわんかてええ、ぬかしよるだけでもアホ坊主やなあ」

 芳しい噂ではありません。しかし、「アホ」という言葉には「無欲な」という好意的ニュアンスも含まれています。東光は、寄進も要らない、布施の値上げもしないと宣言しました。いよいよ「アホや」ということになりました。「アホ」といわれようがどうしようが東光は初めから寄進にも布施にも頼るつもりがありませんでした。

 この頃、一ヵ寺の経営が成り立つためには檀家三百軒が必要とされていました。それなのに天台院には三十数軒の檀家しかないのです。これでは頼りようもありません。といって自費もないから天台院の改修は容易に進みません。

「アホにもほどがあるわい」

 やがて檀家の方が見ていられなくなりました。寄進のための頼母子講(たのもしこう)が始まりました。農業会から借金する仲介もしてくれました。金銭には吝い檀家衆でしたが、畑で育てた野菜は気前よく分けてくれます。おかげで天台院はゆっくりと人の住み家になっていき、檀家との信頼関係も築かれました。

 天台院は、檀家にとって気楽な休憩所みたいな場所になりました。勝手に台所に入りこんで自由に食べ物をつまんだり、仏壇のお供え物を勝手におろして食べたりしています。

「なにやってんの」

 キヨが言います。

「食べてまんがな」

 檀家が答えます。

 東光が在宅ならば面白い漫談を無料で聞かせてくれまう。まずは寺に来てもらう、それが東光の布教戦術でした。大人には猥談を聞かせ、子供には源氏物語や漢文を無料で教えました。そんな苦労の甲斐あって、檀家連中は四六時中、自由気ままに天台院に出入りするようになりました。


「蛮地の酋長」

 谷崎潤一郎は天台院の東光をこう評しました。八尾中野の集落に溶け込んだ東光の様子が未開地の土人の酋長のようであったからです。ちなみに谷崎は何度か天台院を訪れ、土地に伝わる闘鶏を見学したりしました。ほかにも綽名があります。

「陽気なお祭り深海魚」

 これは川端康成の作です。いつも賑やかな東光の性格と、坊主頭に分厚い眼鏡をかけた風貌を端的に表現しています。

「ミミズク」

 これはキヨによるものです。分厚いレンズの眼鏡がミミズクの眼のようであり、また、深夜に小説を書き、午前中に睡眠をとるという東光の夜行性を揶揄したものです。かつては紅顔の美少年だった東光も五十才を過ぎてすっかりオッサンになっています。いずれも的を射た仇名です。

 その東光は嬉々として天台院と取り組んでいます。寺はオンボロだし、食うや食わずの生活ですが、兎にも角にも小説を書いていられます。この境遇が東光にとっては何よりも重要でした。その意味では満足しているのです。野心だって持っています。

(小説によって天台院を再建する)

 これが東光の秘計です。宗教に強く傾倒した晩年の武平が俗世間との交渉を極端なまでに断ったのとは異なり、東光は世俗的な宗教家でした。そもそも利己心を肯定しています。といって我利我利亡者ではなく、常に利他を併せ考えました。

「大欲ならば文句あるめえ。利己も利他も入ってるんだからな。大欲、大望、これだよ」

 東光の大望は、文学による天台院再興です。おしゃべりな東光は、キヨにも檀家にも自信満々に寺院再興の構想を語りました。ですが、誰も本気にはしてくれません。なにしろ赤貧洗うが如き貧窮ぶりなのです。それでも東光だけは本気です。

(禅海和尚の刻苦勉励に比べれば屁でもない)

 東光は自身を鼓舞しました。禅海というのは江戸中期の僧です。豊前国を流れる山国川には難所がありました。青の渡し戸といいます。ここには桟橋が架けられていましたが、人馬が足を踏み外して落下し、死亡する事故が絶えませんでした。この話を聞いて一念発起した禅海は、たったひとり、ノミ一本を頼りに安全な隧道の開削に取り組みました。村人たちからは嘲笑され、キチガイ扱いされましたが、黙々とノミを振るい続け、三十年かけて百間の隧道を掘り終えました。

(笑われようと、何十年かかろうと、書くだけだ)

 東光は、ひと文字ごとに一念を込めて原稿用紙のマス目を埋めていきました。地道に作品を書き続け、商業雑誌に投稿したり、個人雑誌「東光」を発行したりしました。

「小説を書く小使いなんて粋じゃないか」

 かつて綾に啖呵を切った不良少年は、小説を書く住職になりました。しかし、小説による収入はほとんどなく、借金の利子さえ返せません。多分に自己満足の域を出ていませんでした。それでも東光は文学に対する情熱を失いません。それが存在証明であるかのように、静かな真夜中の時間を利用して売れるあてのない小説を書きつづけます。

 数編の原稿を書き貯めると、東光は梅田駅行きの定期券を購入しました。新聞社や出版社に原稿を持ち込むためです。かつて新感覚派の旗手として文壇に知られた今東光も、戦後の文壇ではすっかり忘れ去られ、過去の栄光は何の役にも立たず、どこへ行っても門前払いにされました。うまく交渉までいってもコーヒー一杯をおごられて追い返されるのが関の山でした。

 不遇というものは、人為的な努力ではどうにも動かせないものです。東光には実績も実力もあり、創作意欲も旺盛であるのに、世に容れられません。東光は耐えました。プライドをどこかに置き忘れてきたかのように東光は梅田周辺の出版社や新聞社へ日参しました。日参したところで事態に変化が生ずるわけではありません。ただ、展望があろうとなかろうと、見返りを求めずに活動する。要するに一種の托鉢修行でした。

 往復の電車内でも東光は休んでいません。若者が足を投げ出して座っていたり、老人に席を譲らなかったりすると東光は看過しません。投げ出されている足をわざと踏みつけたり、寝たふりをしている耳元を怒鳴りつけたりして席を譲らせました。相手が文句を言ってくれば、機関銃のようにガナリ立てて沈黙させてしまいます。じつに荒っぽい説法です。そこに八つ当たりの気持ちが無いとは言い切れませんでした。それだけに東光は、ド突いたり怒鳴ったりした後には、心の中で相手のために合掌し、真剣に祈りました。世にも稀なる偽悪的宗教家です。


「東光の所で死にたい」

 鎌倉で日出海の世話になっていた綾が駄々をこね始めました。言い出せば説得など聞きもしません。日出海はやむなく東光に手紙を書き、事情を伝えました。東光は赤電話から日出海に電話しました。

「いつでもいいから連れて来い」

 このときの東光の心情を言葉で言い表すことは不可能でしょう。強いて書けば多情仏心とでもいうほかありません。

 綾は念願の天台院に移りました。すでに八十才を過ぎています。あれほど駄々をこねて行きたがったにもかかわらず、東光と顔を合わせると口論ばかりしています。

「この親不孝者!」

 老いたとはいえ、綾の激しい毒舌は健在です。東光も東光で、この年老いた母に対していっさい遠慮しませんでした。

「このくそババア!てめえがくたばったら万歳三唱して打ち上げ花火をあげてやらあ」

 我ながら大人げないと東光とて感じています。が、どうしようもない。条件反射なのです。心の奥底から昔の記憶が激しい憎悪とともに湧き上がってきます。幼い頃に理由もなく折檻されたこと、文学への努力をことごとく否定され「どうせお前はダメだ」と言われ続けたこと、成績の良い学科は誉めてもらえず、点数の悪い学科のみを責められたこと、弟の文武と比較されて辱められたこと、「お前は橋の下で川から流れてきたのを拾ったのだ」と言われたこと、世間体ばかりを大事にして気持ちに寄り添ってくれなかったこと、相手に非のある場合でも「お前が悪い」と決めつけられたこと、「あんまり手に負えないと角兵衛獅子に売ってやるから」と脅されたこと、メガネをかけさせてくれなかったこと等々、若い頃には抑圧されていた記憶が、五十才を超えてむしろ鮮明に呼び覚まされ、綾に対する激しい憎悪の存在を再確認せざるを得ません。人に話せば笑い話にしか聞こえないことでではありましたが、東光の記憶にはベットリと恨みが張り付いており、反射的に本気の悪口が腹の底から湧いて出てくるのです。

(悟りなんてえものは俺には無縁だな)

 東光は開き直って強がってみましたが、際限なく襲い来る心中の葛藤は苦渋に満ちていました。そんな東光の心中を察する様子もなく、綾は自由気ままに天台院で暮らしています。東光が檀家を集めて説教する時など、綾は脇で聞き耳を立てています。ひととおり東光の説教が終わると、綾が口を出します。

「みなさん、どうもつまらない話を長々と聞いてくださってありがとう。だけど、こんな男のしゃべることを、真に受けて信じちゃいけませんよ」

 昔の悪戯小僧が真顔で説法する有様が、綾には小面憎くもあり、片腹痛くもあり、黙って見てはいられなかったのです。檀家にしてみれば母子の漫才を見せられているようなものでした。しかし、東光は苦虫をかみつぶしたような顔をしました。冗談のひとつも思い浮かばないほど頭にきます。

(死にやがれ)

 本気でそう思いました。


 しかしながら、そんな綾に魅力を感じてしまった文人がいます。保田與重郎(やすだよじゅうろう)といいます。保田は「日本の橋」を著して世に出た評論家です。戦前の論壇で重きをなしましたが、戦時中は憲兵の監視下におかれ、病後の身でありながら出征させられたりしました。しかも戦後は占領軍によって公職追放されるなど、権力に翻弄された不遇の文人です。

 天台院を訪れた保田が東光と歓談していると、綾がやってきて座り、座談に加わってよいかと尋ね、合掌して御辞儀をしました。その立居振舞が保田与重郎の審美眼を刺激しました。保田の眼には、東光のいう「くそババア」が「美しい老嫗」に見えました。綾は、若い頃から自分を悲劇のヒロインに演出する才能に長けています。その技に保田はまんまと騙されたようです。綾の擬態を見抜けるのは東光だけです。

(ババアめ、生真面目な保田をだましやがるとは人が悪いぜ)

 保田はすっかり韜晦(とうかい)されてしまい、綾の擬態を真実だと信じ込んでいます。

「うちの婆さんは半ば呆けているんだよ」

 東光は保田をたしなめましたが、保田は自身の審美眼に自信があるらしく、東光の言葉を受け付けません。ちなみに谷崎潤一郎も綾をモデルにした小説を構想したことがあるといいますから、綾には芸術家の創作欲を刺激する何かがあったようです。

 天台院での綾の日課は、喧嘩と読書と手紙です。綾は若い頃から手紙をよく書きました。その文面には綾の文才があふれており、谷崎潤一郎が感嘆したほどです。綾は、お気に入りの川端康成には頻繁に手紙を出しました。そのため川端家では綾の手紙を「綾さんからの恋文」と呼んだほどです。

 過干渉だった綾は、東光の文通にさえ介入しました。中学時代の東光は室生犀星や北原白秋と文通していました。これを察知した綾は北原と室生に手紙を出し、文通をやめてくれと依頼しました。事情を知らない東光は、突然に文通が途絶えたことを不審に思いましたが、しばらくして事情を知り、激怒しました。

 綾は人並みに嫁イジメをしました。自分が世話して東光に娶せたのがキヨです。それでも嫁に対する姑の感情は制御できないようです。その嫉妬は、東光への執着の裏返しでしょう。キヨは何事も甘受して受け流しましたから嫁姑が対立することはありませんでした。東光はキヨに同情しつつも介入はしませんでした。口を出せばまた母子喧嘩になります。

 綾が天台院に来て、狭い境内は葛藤に満ちました。その家族生活の何事をも東光は隠そうとしません。貧乏、母子喧嘩、姑の嫁いびりなど、天台院の家庭問題を東光は檀家にさらけ出して見せました。それぞれの檀家にも様々な家庭問題があるに決まっています。互いの問題を隠しあうより、むしろ公開して共有し、共感し、安心しあう方が実際的である、そんな方針でした。


 ある夜、手紙を書いていた綾の手からパタリと万年筆がこぼれ落ち、痴呆が始まりました。綾は読書をしなくなり、手紙も書かなくなりました。詠歌集を高々と掲げて小学生のように朗読し、「共産党が来る」と言って庭をグルグルと歩き回ったりしました。

「どうせ俺が起きているから、おまえは寝ろ」

「そんなことできません」

 東光はキヨを気遣いましたが、キヨは綾が疲れて眠るまで面倒を見ました。

 綾は、だれかれ構わず人をつかまえて妄想物語を延々と語るようになりました。綾の目には様々なものが見えるようです。戦乱で死んだ若武者たちの霊、甲冑姿の騎馬武者、戦死した夫のために涙を流す妻などが天台院に現れるといいます。綾の物語に興味を抱いたのは保田與重郎です。妄想であるだけに飛躍が多く、意味不明な部分も少なくありません。ですが、そのなかに不可思議な神話性を保田は見出していました。

「小説のあくどさや、欲ぶかさのない、微妙なニュアンスだけでできたもの」

 と保田は後に評しています。綾は、楠木正成が天台院の庭に現れた話や、木村重成の墓に墓参したら猛雨になったという話などを保田に語りました。

 木村重成は大阪夏の陣で戦死した豊臣方の武将です。まだ若武者でしたが、その堂々たる戦いぶりは後世の語り草になりました。綾によれば、重成の墓前で合掌していると自然に涙があふれてきた。すると雨が降ってきた。それも親指ほどの大きさの雨粒である。たちまちに地面が濡れ、ぬかるんで泥だらけになった。綾は着物の汚れるのも構わずにぺたりと座り込み、いっそう悲しんだと語ります。綾は、木村重成の妻の身の上に深い同情を寄せ、自分を重ね合わせているらしく、唐突に武平を呼びました。

「キャプテン」

 綾は遠くを見る目をしました。綾の妄想話に対する保田の没頭を、東光は喜びません。

「呆けているんだよ」

 東光は幾度か声をかけ、保田をたしなめました。それでも保田は綾の物語を礼賛してやみません。

 呆けた綾の徘徊は、中野集落を恐怖のどん底に陥れました。綾は杖をついて夜昼となく出かけていき、他人の家に勝手に上がりこむようになりました。野良仕事から帰ってくると天台院のバアさんが座っている。

「ご飯を食べに来ましたよ」

 風呂に入っているといきなりバアさんが覗き込む。まだ暗い明け方にドンドン戸を叩く音がするから起き出してみると、天台院のバアさんがいる。

「朝御飯を食べに来ました」

 東光もキヨも極力面倒を見てはいますが、それにも限界があります。やがて綾はすっかり弱り、温和しくなりました。もう母子喧嘩はありません。東光とキヨが世話するなか、綾は静かに死にました。

「医者の話ではせいぜい三ヶ月だったんだけど、一年以上もよく生きたもんだ。よほど嬉しかったんだね」

 日出海は東光に言いました。

「いい気なもんさ。俺はいいとしても、キヨのやつなんざあ、大変だったんだ」

「じゃあ、兄貴、打ち上げ花火を上げるのかい」

「バカ言うんじゃねえぞ、日出」

 綾の死後、保田與重郎は東光に許可を請いました。綾から聞いた物語を作品化したいと考えたのです。

「悪いがそれはダメだなあ。だいたい元気な頃のバアさんはだなあ、あんなもんじゃねえんだ」

 東光は綾の教養の凄味を語りました。綾の妄想話は、その教養の断片が口を突いて出てきただけのもので、文学にはならない。そう説明して保田を説得しました。それでも保田世重郎は後に「狂言綺語の論」の中で綾に触れ、そのたたずまいを次のように表現しました。

「本当に小さくととのった様子の老嫗」

「人間ばなれのした小さく美しい老嫗」

「上品で、こがらで、しづかで、いよいよ小さく、だからといふのだろうか、何かにこやかな暖かげなものが感じられて、この上なく美しくをられる」

 これを読んだ東光はただ苦笑しました。


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