【第四章】 灯の雨は天に仇なす
春投稿目標のはずがどうしてこうなった。
改札から止めどなく溢れてくる人の波を眺めながら、私は逸る気持ちを必死に抑えていた。
いくら平常心を装っても、まるで落ち着かない。
隣で欄干に腰かけているモモも、先ほどから口数が少なかった。あんな目に遭ったのだから無理もないけれど……。
あのあと、私達はすぐに出かける準備に取りかかった。イリオシアと名乗った妖しい女――あの女の素性は気になるが、考えていても仕方がない。春を驚かせることになってしまうが、時間がないし罅割れた床や壁に飛び散った血の染みは放置して、荒れた部屋を最低限片づけた。血に染まったモモの服は処分し、代わりに同じような私のパーカを着てもらった。私もアマツカミの制服に着替えようかと悩んだが、あのスーツがあまり好きではないのもあり、私服のままで行くことにした。
遠くで鳴っていた救急車のサイレンが徐々に近づいてくる。呼応するようにじわじわと心臓が弾む。
大通りに目を遣ると、ビルとビルの間を流れ作業のように通過してゆく車の明かりが見えた。その中に混じって勢いよく一台の救急車が流れ去り、次第にサイレンも遠ざかりやがて聞こえなくなった。
――だというのに、弾んだ心臓は元に戻ることなく、私の胸の内側でサイレンを鳴らし続けている。
一台の赤い車が、猛スピードで駅前に走ってきた。歩道に乗り上げ人波に突っ込むのでは、と声を上げそうになったが、コンパクトカーに似つかわしくない機動性を見せたその車は、速度を全く緩めることなく歩道沿いギリギリを攻め、私達の前で急ブレーキをかけ止まった。
助手席側の窓が開くと、そこから駅前の喧噪を掻き消すような大声が響く。
「さっさと乗れ!」
挨拶もできないまま、私は慌ただしく助手席に乗り込んだ。
運転席に座るのは車と同じ赤色の髪をしたド派手な女。黒のアイラインはパンダのように濃く、長い付け睫毛はトゲのように鋭利だ。全身黒一色のパンクな服。常に周囲を威嚇するような目つき。
会うたびに正気を疑わずにはいられない、ヴィジュアル系ファッションをキメるこの女――名を遼という。年齢は二十代半ば。私と同じ討滅課第三〇四班に属する、つまり私の先輩だ。
「よ、よろしくお願いします。遼さん」
遼さんは心底うんざりしたように、ハアーと大きな溜め息を吐いた。
「ほんっとありえねえ! 今日はドラゴンナックルズのライブだったんだぞ! しかもギターのオクのバースデーイベントも兼ねてたんだ! ふざけやがってクソが! てめえ砂原どうしてくれんだおいコラ」
「いや、そんなこと私に言われても……」
不機嫌に顔を歪め、不満を吐き出す遼さん。
私と同程度の長身である彼女は、しかしその尖ったスタイルとスピリットに対しかなり声が高いため、どうにも迫力に欠けるのだった。本人も気にしているらしく、なんでも喉を潰してハスキーボイスを手に入れようと二十四時間カラオケで歌い続けただとか酒を飲み続けただとか、そんな噂を耳にしたことがある。今のところ効果は表れていないようだが。
「明暗の野郎、クダらねえことで呼び出しやがっ……ん?」
遼さんが、後部座席に乗り込むモモに気づいた。モモはモモで、我が物顔でシートの中央に陣取っている。
「おい、誰だこいつ」
「ああ、えっと、なんていうか……アマツカミの関係者です。一応。一緒に乗せてもらっていいですか?」
遼さんは平然と座るモモの顔をしばし凝視したあと、前に向き直ってハンドルを握った。
「ま、いいけど。何か問題起きてもウチは知らねえからな」
「ありがとうござ」
礼を言い終わる前に、車は唸りを上げて急発進した。まだシートベルトもしていないのに。
私達を乗せた車は今、天神中央本部を目指し驀進していた。私や遼さんが所属する討滅課第三〇四班に非常呼集がかかったからだ。
三○四班には班長を除いて八人の班員がいて、非常時にはまず班長が二人に情報を伝達する。その二人が各々次の者に連絡を回していき、最後の二人は情報が回った旨を班長に報告する。
呼集網図通りなら私は二番目に連絡が回ってくるはずだが、班長から直接電話が来たということは私の前の砥粉さんに連絡がつかなかったということだ。私は次の遼さんに電話をして情報を伝えると共に、前々から言われていたように車のお願いをした。ものすごく不服そうに了承した遼さんが迎えに現れ、今に至るというわけだ。
遼さんは砥粉さんとは違い、どんな時でも必ず電話に出る。それは大事なイベントがあった今日のような日でも同じで、彼女は見かけによらず仕事に真摯なのだ。
混雑する道路。
会社勤めの人達が帰宅を始めている時間帯だ。本部まで一時間以上はかかるだろう。焦っても仕方がないし、気持ちを落ち着かせるためにシートに深く身を沈めた。
車内に流れる曲は、腹に響くような低音がスピーカーから発せられていて、私が普段テレビやラジオでは聴くことのないような激しいサウンドだった。いわゆるロックというやつだろうか。それともメタルだろうか。そもそも音楽に詳しくないのでハードロックとヘビーメタルの違いがなんなのかを知らない。
ただ、その曲がどのジャンルに属するものなのかを執拗に力説する層がいることは知っている。これはシンフォニックメタルで、これはパワーメタル。これはメロスピで、これはプログレ……。
物事を分類し型にはめなければ納得できない人というのは、音楽だけではなくどの分野にもいる。この社会は何ものにも分類されない宙に浮いた存在を決して認めないのだ。私を含め、皆がなんらかの与えられたジャンルに振り分けられ、そこに籍を置いている。
ロックとメタルの違いなんて、明確に説明できる人のほうが少ないのに。
車内では会話はほとんどなかった。やはりまだ傷が癒えていないのか、モモは目を閉じて俯いている。
車が進まなくなると、遼さんは苛々してハンドルを指で叩き続けるし、なんとも居心地が悪い。
それでも、これから先のことについて最低限の情報共有はしておかなければならない。
「……電話でも言いましたけど、汚染体が都内で多数出現しているそうです」
「聞いたよ。つーか多数ってどのくらいだよ。都内ってどこだよ」
「班長も混乱している感じだったので、詳しくはわかりませんが……。非常呼集っていつ以来なんですか? 私、訓練以外で初めてなんですけど」
「さあな。ウチも初めてだし。でもこの様子だと、ウチだけじゃなくほかの部署にも召集かかってそうだな。いざ実戦になったら役に立たねえ集まりのくせによ」
何が起きているのかさっぱりわからないが、まさに今、どこかで汚染体が暴れ回っているのかもしれない。
気にかかるのは、なぜ今なのかということだ。どうしてもあの女――イリオシアが私の前に現れたタイミングと無関係だとは思えなかった。
イリオシアは黎さんを捕らえたと言っていた。間違いなく何かが起きている。一刻も早く手を打たなければ、行動を起こさなければ、全てが手遅れになってしまうような――そんな焦燥感がじりじりと身を焼いている。
しかし、いったいどうすれば――
「ま、行ってみりゃわかんだろ。もしかしたらただの訓練かもしんねえぞ。そうだった場合、明暗は今日で死ぬことになるけどな」
本部に着くまでに、アルバムを一枚聴き終えてしまった。
信号待ちで遼さんが携帯音楽プレイヤーを操作している間、私は少しだけラジオを聴かせてもらうことにした。夕方のニュースは道路交通情報の時間だった。どこどこで工事中で、ここでは検問があって、ここからここまで何キロの渋滞で……。特におかしなことは言っていないが、やけに通行止めが多いなと思った。心なしかアナウンサーの声色も上擦っているような気がする。
異変――と呼ぶには小さすぎる違和感。けれどその正体を確かめる前に、選曲を終えた遼さんが再び音楽を流し始めた。イントロは軽やかなピアノの旋律。そこからギターが加わると、一気に重低音の嵐が車内に吹き荒れた。
仕方ないので携帯電話でニュースサイトを巡ってみたが、気になるような見出しはなかった。汚染体に関わるようなニュースなんて載るはずがないし、当たり前と言えば当たり前だ。それでも何か情報はないかと思い、今度はSNSを覗こうとしたもののなぜかアクセスできなかった。何度試しても繋がらない。普段から利用しているツールでもないし、疑問を抱きながらも携帯電話をポケットに戻した。
なんだか考えるのにも疲れてしまった。
やがて車は郊外のほうへと抜けてゆく。この辺りにはもうオフィスビルはなく、高い建物といえばマンションやホテルくらいのものだ。帰宅を急ぐ車もだいぶ少なくなり、私達は順調に目的地へと近づいていた。
大音量で鳴り響くミュージック。
窓の外、流れる景色は夜に呑まれ――住宅街に点る明かりと車のヘッドライトだけが闇を照らしている。
この街に星の灯は届かない。
だからか――私達は、それに気づくのが遅れてしまった。
「なあっ、何ィーッ!?」
突如、鈍い音を立ててフロントガラスに何かが激突した。ガラスに貼りつき視界を塞ぐそれは――
人だった。
遼さんは驚きの声と共にブレーキを踏んだ。シートベルトをしていなかった後部座席のモモが、私が座っているシートに頭を打ちつけ悲鳴を上げた。どうにか止まったのも束の間、ボンネットの上からそいつは――汚染された虚ろな貌を覗かせ、拳をフロントガラスに叩きつけた。
狂気。
狂喜。
見たところまだ若い男だ。ちょっとコンビニ行ってくる――そんな軽い気持ちで家から出ただけのような軽装で、けれどその双肩には重々しい気配が纏わりついている。拳が潰れるのもお構いなしに、狂ったようにガラスを叩く。いや、狂ったように――ではない。狂っているのだ。狂わされているのだ。皮膚が裂け、飛び散った血がガラスに付着する。それでも男は止まらない。手首の骨が突き出た腕を振るい続ける。
何度目かの衝撃で、フロントガラスに小さな罅が入った。半ば呆然としていた私達は、それを見て車から飛び出した。
「クソ野郎が! ウチの車に何しやがる!」
私と遼さんは車の前方へと走り、フロントガラスに貼りつく男の背後を取った。見るからに男は汚染されている。肢体から溢れ、靄のように揺らめく異質な光――游泳する悪意に汚染された者の特徴だ。
ところが男は、なぜか私と遼さんではなく、路上に飛び出たモモのほうを目で追っていた。
「余所見してんじゃねえぞオラァ!」
叫ぶ遼さんの肢体から、常人には不可視の光が噴き出す。茜色の煌めきを帯びた左腕を前に突き出し円を描くようにくるりと回すと、空中に小さな輪が浮かんだ。ぼんやりと光る茜色の輪――その中心へ、遼さんは間髪を容れず右手を突き込む。
直後、男が車体の上から吹き飛んだ。
「ざまあみろ。ったく、本部に着く前にこんな――ん?」
車の明かりが近づいてくる。路上に倒れ伏した男は立ち上がろうとしているが、こんな場面を一般人に目撃されたら面倒だ。私達が車で人を撥ねたようにしか見えないだろう。
「チッ、仕方ねえ」
遼さんは男の首元を掴むと、放り投げるように電柱の陰に隠した。まずは後方から来るあのワゴン車をやり過ごしてから――私達は皆、そう考えていたはずだ。
ところが。
「んな……ッ!?」
激突。
ワゴン車は減速もしなければ避けることもせず、一直線に遼さんの車に衝突した。凄まじい音と共にバックドアがひしゃげ、段ボール箱のように押し潰されたコンパクトカーが弾みで電柱にぶつかり、ワゴン車はガードレールを巻き込みながら一回転、道路脇でようやく止まった。ミニ四駆がコースアウトして吹っ飛ぶのは見たことがあったが、本物の車が転がる光景を目の当たりにしたのは初めてだった。
「うおおおおウチの車があーッ!」
「う、運転手は無事でしょうか……?」
こんな時に事故に巻き込まれるとは――
いや、そんなことよりもまず運転手の怪我が心配だ。
ワゴン車のフロント部分は大破していた。これは、もしかしたら運転手は――不安が心を過る。
砕けたドアガラス越しに中を覗くと、エアバッグに運転手の顔が埋まっていた。
意識の有無を確かめようと近づき――そして。
今度こそ言葉を失った。
運転手は生きていた。主婦と思わしき女性。額を切って血を流しているが、命に別状はなさそうだ。ゆっくりと顔を上げ、動じた様子もなく私を見ている。
だが、その顔は――その瞳は。
虚ろな色をしていた。
「――ユキ!」
咄嗟に車から離れると、モモが声を上げた。
彼女の視線の先。
夜に潜み、姿を見せたのは――悪意の群れ。
「これは――」
汚染体だ。
しかも、確認できるだけで十体以上はいる。道路を我が物顔で闊歩し、こちらに接近している。
反対側に目を向けると、最悪なことにそちらにも同じ影がいくつもあった。
挟み撃ちの形で、汚染体の群れが私達に迫っていた。
「おいおいマジか。なんだこのクソみてえな状況は」
「二十――いや、三十はいるかもしれません。この辺りに住む人達が、一斉に汚染された……? いったい、何がどうなって――」
「これ、まさか東京――いや、全国各地で起きてるわけじゃねえよな。人間の大量汚染体化」
「…………」
「そんなことになったら、終わりだぜ。世界の終わりだよ」
遼さんが投げやりに言う。ぞっとして、体中の毛が立ったような感覚に襲われた。まさに今、想像を絶する破滅が世界に訪れているとしたら――
奴等の歩調は遅いが、囲まれるのも時間の問題だ。早くこの場から離脱しなくてはならない。車はもう使えないし、ここからは自分の足で本部まで行くしかない。急げば三十分もかからないだろう。
だが、この状況を無視していいのか? 周囲にまだ汚染されていない人がいたらどうする? 今ここを離れていいのか?
逡巡する。
行くか、留まるか。
「遼さん、どうし――」
ふと思い至る。この状況は――あの時と似ている。一昨日の夜、モモに襲われた時だ。今ほどの数ではなかったが、あの時も汚染体が同時に発生して私達を狙ってきた。
「ユキ」
モモが私の前に立った。背を向けて――まるで、身を呈して私を守ろうとするように。
「モモ、これはあの時と同じ……」
「ああ、そういうことなんだろうな。つまりこいつらは――ワタシを狙ってるんだろ。ワタシの霊玉をよ」
モモの肢体が淡い桃花色の光に包まれる。道路沿いに並ぶ冬枯れの木々が、にわかにざわめき枝を鳴らした。
「汚染体に狙われるのは慣れてる。霊玉を持つワタシたちはずっとそうだからな。だからユキ、それとリョウさんだっけ? 二人は先に行け。ここはワタシが引き受けるよ」
「モモ……」
「おいおい本気か? ザコとはいえ、この数の汚染体を一人で相手にする気かよ。見たところ異能遣いみてえだが、お前そんなに強いのか?」
遼さんがいつもよりもさらに高い声色でモモに言った。
「こいつらの注意を引いたら、適当に撒くよ。ワタシもあとで本部に行く。ユキも薄々感づいてるとは思うけど、はっきり言ってこれは異常事態だ。早く仲間と合流したほうがいい」
「ダチのために囮になるなんてロックじゃねえか! やるじゃん、誰だか知んねえけど」
「そりゃどうも」
私はモモの背に向かって言う。
「……先に行ってる。無茶だけはしないで。鰰田さんとイサネちゃんも心配するから」
「わかってるよ」
道路沿いに大して高くないビルがある。正面の門は閉められていたが、遼さんは躊躇いなく飛び越え中から私を手招きした。後ろ髪を引かれながら、私もそのあとに続く。
あの数の汚染体を一度に相手にするとなれば、さすがのモモでも中途半端な戦い方はできないだろう。やるとなったら――たぶん、殺す気でやらなければならない。
汚染された人を助ける手段はない――モモと初めて会った時に言われたことを思い出す。お前のはただ単に死を先延ばしにするだけじゃねえか。その通りだ。私の能力でキラーを消し去っても、植物人間を生み出すだけ。それならいっそのこと――死なせて楽にしてやったほうがいいのかもしれない。
わからない。
本当にそうなのか?
それでも、賭けるべきではないのか?
モモのように、眠りから目覚めるほんのわずかな可能性に。
――だが現実問題、あの数の汚染体全てを私が相手にするのは無理だ。とてつもない時間と労力がかかる。
それにもし、本当に汚染体が各地で大量に発生しているのだとしたら、ここでたった数人の意識からキラーを排除したとしても――きっと無意味だ。無意味。命の取捨選択。酷い話だ。自分が今考えていることは、誰かを見殺しにするための正当な理由。私は無力だ。かつてないほどの無力感が全身に渦巻いている。
今はただ、前を走る遼さんの背を必死に追いかけるしかなかった。
「なんだこりゃあ……!?」
鳴り響く警報音。
不安と焦燥を増長させる真っ赤な回転灯。
広場に集めれた職員達は皆一様に険しい表情をしている。統制を取る者が不在なのか、誰も彼もが困惑している様子だった。
天神機関中央本部は混乱の渦中にあった。
秋と冬の境目、吹き抜ける冷たい風が汗だらけの火照った体に凍みる。そこそこ体を鍛えているとはいえ、三十分近く走り続けたせいで全身に疲労感が押し寄せていた。
それでも急がなければと思えたのは、ここに来るまでに何度か路上に倒れた人を見かけたからだ。それが汚染体に襲われた人なのか、汚染体だった人なのかはわからない。
だが周囲に叫び声が響く中、汚染体と交戦しているスーツ姿の影もあった。アマツカミの職員だ。それに警官の姿も。
遼さんはそれらを一切無視し、本部の広大な敷地を囲う三メートル近い高さの有刺鉄線フェンスを軽々と飛び越え、最短距離で突っ走った。私もなんとかその背を追う。遼さんらしいと言えば遼さんらしいが、私のことをまるで考慮していない快足である。黎さんと錬成訓練を続けてきて本当によかった。こんなフェンスは異能遣いの前では何の意味もないのだと改めて思った。
「明暗のとこに行くぞ」
見たところ屋外に避難しているのは本部管理課や業務課に勤める『表』の職員だけで、捕縛課や討滅課などの戦闘職種――いわゆる〈地祇〉の職員は奥の庁舎にいるようだ。
足を止めることなく、特殊技術科学校の脇を通り過ぎる。生徒のみんなは避難したのだろうか。それともまさか現場に駆り出されるのだろうか。
枯れ木の間に敷かれた道を、ひたすら走る。人と車両の往来が多い。それに私服姿の職員も目についた。いざ緊急事態になった時に着ないのでは、あのスーツにもまるで意味がない。
そこで妙な音を聞いた。進行方向から花火のような乾いた連続音。
これは――
「銃声だとォ!? しかも外じゃねえ、中からだ!」
「そんな、まさか――汚染体がアマツカミの中で……ッ!?」
黒い人集りが見える。捕縛課や討滅課、武器課などの『裏』職種の庁舎前に、大勢のスーツ姿があった。
その中に明暗班長を見つけ、私達はようやく足を止めた。
「来たか。吉田、砂原」
さして大柄というわけではないが、鍛えていることはすぐにわかる引き締まった体つきをした男。二十代後半らしいが、老け顔と広めの額のせいでもう少し上に見える。本人もそれを気にしていた。
だが若くして人望もあるし能力もある、優秀な班長だ。
「お疲れ様です」
「おい、どういう状況だよこれは!」
顔を見るなり遼さんが食ってかかる。
班長は遼さんを宥めつつ、既に到着している班員を集合させた。
班員が円をつくる。
「番号」
「一」
「……二」
「三」
「しー」
「ご、ごごご」
班長から反時計回りに数字が進む。
班長の右手側には私がいて、隣は遼さん、その隣が樺さんという六十歳を超えながら未だに現役を続けている人で、遼さんにはジジイとか老いぼれとか散々な呼ばれ方をしている。
次が山吹さんで、班長と同じくらいの年齢だがちゃらちゃらした男の人だ。細身で茶髪、どこにでもいる大学生のような風貌をしていて、よく遼さんに絡んではうざがられている。正直言って私は苦手だ。
最後は小岩井さんという、いつもおどおどした二十代前半の男の人。眼鏡をかけた中肉中背、運動とは無縁そうな頼りない外見をしているが、この人は生徒上がりだ。座学が優秀だったらしいが、なぜか後方支援ではなく戦闘職種の討滅課に配置されている。
ちなみに、この中で戦闘服でもあるスーツを着ているのは班長と樺さん、小岩井さんの三人だ。
「よし、集まったな」
班長が全員の顔を確認して言った。
「早速話に移るが――」
「ちょっと待て! これだけか!? 六人しかいねーじゃねえか! あと三人はどうした!」
遼さんの怒りはもっともだが、しかし全員揃うことのほうが珍しいのだ。仕方ないと割りきるしかない。
「連絡がつかないから諦めた。ここにいる者で全員だ」
「いつものことじゃんねえ。ま、遼ちゃんは案外真面目だから許せないのかもしんないけど――いてっ」
遼さんが山吹さんの胸を突く。
「……チッ、死に晒せあの税金泥棒どもが。ウチもサボってライブ行けばよかった」
「いいか、話を始めるぞ」
周囲ではほかの部署の人達が慌ただしく動き回っていて、何やら不穏な単語が飛び交っていた。普段現場には出てこない課長達の姿もある。討滅課の課長とは、二等諸士から三等術士になり、正規職員として討滅課に配置が決定した春先に一度会話したことがあるだけで、名前すら覚えていなかった。
緊迫した空気。
気温はどんどん下がっているのに、未だに汗が引かない。
「汚染体の異常発生だ。場所は都内、それに京都。不確かだが外国でも同じ現象が起こっているとの情報もある」
「東京と……京都じゃと? 偏った場所で沸いとるのか?」
樺さんの疑問はもっともだ。
「はい。京都のほうは中部本部が対応に当たっています――が、向こうにはほとんど戦力なんてありませんし、九泉に応援を要請したようです」
「ほう。京の女どもが動くか。じゃがなぜ偏っておる? そもそも東京で発生したのも随分都合がええの」
「理由は……わかりません」
「なんだよ、わからねえのかよ」
遼さんがまたしても食ってかかる。遼さんの口の悪さは相手が上司だろうとお構いなしだ。
東京と――京都。
なぜ突然、限られた場所で汚染体が大量に生まれたのか。
私にはある推測が浮かんでいた。そしてそれはどこか確信に近い推測でもあった。
――霊玉だ。
モモの話では、天神や九泉は霊玉と呼ばれる石を集めている。霊玉がなんなのかははっきりとしないが、とにかく超常的な物体であることは確かだ。そして、汚染体は霊玉に反応する。モモと出会った夜もそうだった。あの時も汚染体は霊玉を持つモモを追って――
いや。
違う。モモだけではない。
あの夜、五体もの汚染体が突如追ってきたのは――あの場に私もいたからだ。
あのナイフ。
お母さんの形見のナイフ――その柄に埋め込まれたスノークォーツ。
きっと、奴等は。
――どうする。
報告すべきか?
霊玉はおそらく末端の職員が関わってよい事案ではない。私が得体の知れない女に霊玉と思しき物体を奪われ、その直後に汚染体が発生した――そう話すべきか?
だが、あのスノークォーツがただの石ではないと知っていたわけではない。それに、天神が霊玉を探しているというのなら、なぜ私が持つ霊玉に気づかなかった? 私の知らない天神の暗部――〈神世七代〉が霊玉を集める目的とはなんだ?
そもそも――あれは本当にモモが持つ霊玉と同じ類のものなのか? あの女――イリオシアは〈カルディア〉と呼んでいた。葛籠の男はそれを危険と見做し、私を襲ってきたようだが――
どうする。
どうすればいい。
悩んでいるうちに、班長が話を進めた。
「これより俺達は、病棟内に進入し標的を討滅する」
「――え」
自然に声が漏れた。
「標的は病棟内で好き勝手やってる汚染体及び変容体だ。生存者がいた場合、可能な限り救出せよという命令だったが、討滅と班の安全を第一に考えて行動する」
「病棟内……?」
冗談であってほしかった。
だが、班長の言葉が嘘でないことは今この状況が証明している。
要塞のようにそびえ立つ、闇に浮かぶ白い建物。
何度も足を運んだ病棟に、黒い悪意が巣食っている。
何度も足を運んだ――何度も会いにきた人がいるこの病棟に。
すぐさま頭に浮かんだのは――とある可能性。私にとっての最悪はただそれだけであって、今のこの状況なんてたかだか朝三十分寝坊した程度の問題に過ぎない。電車は平常通り運行しているのだ。遅延も運休もしていない。しかし、脱線して大事故を起こす恐れのある可能性が、ただ一つだけ――頭に浮かんだ。
口の中が渇いて仕方ないのは、寒気からか、緊張からか。
「ははあ、やっぱりねえ。さっきから中でドンパチやってると思ったら、そういうことっすか、班長。その割には、随分前に突入してった連中から何の連絡もなさそうっすね」
「先に突入した三〇三班からの連絡は――きていない。山吹、お前もへらへらしてる場合じゃないぞ。小岩井、健康状態は問題ないな? ――砂原」
班長が私に向き直る。いつもより些か強張っているその表情に、私の不安も膨らむばかりだ。
「班での実戦は初めてだったな。荒野の手伝いはしていたみたいだが、行けそうか?」
一瞬の迷い。
けれどごちゃごちゃした考えを振り払うように、強く頷いた。
頷くしかなかった。
「……はい。やれます」
「よし。だが無理はするなよ。――それにしても、お前がいるのに肝心の荒野は何をしてるんだ? 連絡が取れなくて三〇一班の班長が文句言ってたぞ。マルイチは敷地外の汚染体担当で、もう出ていったけどな」
「……わかりません」
「まあいい。直ちに武器搬出! 一九〇〇に進入を開始する!」
激流に揉まれるように、思考も渦を巻いている。どうすればよいのか、正解がなんなのか、答えもわからぬまま――それでも、まさかとは思う。
まさか、そんなはずはないと。
この大騒ぎも、きっと過剰な反応に過ぎないのだと。
だから、早くあの場所に行かなくては――
開けっ放しとなっている正面ドアを、私達は一列になって通り抜ける。
先頭は樺さん、その後ろに山吹さん、小岩井さん、私、遼さん、そして最後尾に班長が続く。
手には各々拳銃や散弾銃などの武器。
火器の常時携行は一部の方士や衛士にしか許可されていないので、こういった武器の扱いに皆が慣れているわけではない。今は非常時であるためにほとんどの者に武器の使用が許されているが、私のように銃器の特技検定を受けていない者にはさすがに許可は下りない。私が携えているのは、ベルトのシースに収められたサバイバルナイフ一振りだけである。
受付や待合室がある一階。
椅子が並び、ソファーやテレビも置いてある見知った場所だが、いつもとまるで空気が違う。異様なほど静かで、医師や看護師、事務員の姿は一切ない。患者も含め、皆もう避難したのだろう。
鰰田さんとイサネちゃんも無事に逃げられただろうか。あの二人なら心配はいらないだろうけれど……。
それにここはまだ一般病棟で、目的地はこの先――一般人は入ることが許されない、ゲートの向こうにある特殊病棟のほうだ。
両開きの堅牢なゲート。本来なら受付に職員証を提示して手続きを踏まなければ通れないが、今は警備員もいないし素通りだ。
窓もなく、壁一面が白いだけの連絡通路。照明が煌々と灯る廊下を、私達はゆっくり進んだ。
実は、先頭の樺さんのさらに前を行く者がいた。
カラスだ。
どこにでもいるあの黒い鳥が、樺さんの前をとことこ歩いている。たまに羽をばたつかせて軽く飛んでは、またとことこ歩き始める。三〇四班一行を先導し、奥へ奥へと向かっていた。
「待て、誰か倒れておる」
廊下の角に差しかかる前、樺さんは曲がった先を見もせずにそう言った。カラスだけは既に角を曲がり、私達からは見えない位置まで進んでいる。
「職員……じゃな。数は三。うーむ、どれも頭をかち割られとって顔がよくわからんが、たぶんマルサンの若い衆かの」
「汚染体は確認できますか?」
後ろから班長が尋ねる。
「いや、辺りにはおらん。明暗、一応後ろにも注意しておけ。何やら思っていたよりも雲行きが怪しくなってきたぞい」
樺道士長。
ついた異名は、炯眼の樺。
カラスは優れた眼を持っていると言われている。ヒトは赤・緑・青の三原色しか識別できないが、カラスはそれに加え紫外線も感知できる。さらにはヒトの五倍以上の視力を有し、夜目も利くという炯眼の持ち主なのだ。
そして樺さんは、超感覚的知覚能力によってあのカラスの視覚に干渉することを可能としていた。カラスが目にしているものを自分が見ているかの如く認識できる、リモートビューイング能力の一種。ただし、樺さんがカラスの視覚に干渉してもカラスに影響はないが、その間樺さんはほかのものを見ることができない。かなり離れた距離からでも能力を働かせることができ、監視や偵察には打ってつけの、本来なら屋外でこそ本領を発揮する遠隔視能力だ。
一説によると、あのカラスは樺さんと同じくらいの年齢を重ねているという。そろそろ三本目の足が生えてくる頃かもしれない。
遼さん曰く、老眼ジジイ。
あまりにも無礼千万である。
現在のアマツカミの中で、古参の部類に入る人だろう。長きに渡り組織の一員として尽力し、その能力で仲間を支援してきた。班長の明暗方士長も敬意を表しているし、断じて遼さんが貶していいような人ではないのだ。
もっとも、子のいない樺さんにとってそんな遼さんは愛すべきじゃじゃ馬娘に過ぎないかもしれないけれど。白が混じった豊富な眉毛も、弛んだ瞼も、樺さんの温和な顔つきに自然と威厳を与えていた。
角を曲がると、診療室の前に血だらけで倒れている人がいた。三人とも、一目で絶命しているとわかるほど頭部が損傷している。カラスは屍体の脇で呑気に毛繕いしていた。
白い廊下と壁に飛び散る赤黒い染みと、柔らかそうな肉片。
私は堪らず目を逸らした。
「異能遣い三人を瞬殺する化け物じゃ。用心せい」
「うひ、頭蓋骨の中身だあ。ぼ、僕達はここで死ぬんだあ……」
「黙ってろメガネ。おい明暗、まだ警備室には誰もいねえのかよ」
この病棟には、数は少ないが監視カメラが設置されている。しかしそのカメラの映像を確認できる警備室は一般病棟と特殊病棟の中間に位置していて、まだ安全が確保できないため先行した職員が少しだけ調べた程度らしい。
その情報によれば、各階をうろつく複数の汚染体が確認できたものの、奇妙なことに先に進入した班の姿が見つからないという。
携帯無線機で現場指揮所に連絡をしていた班長が、静かに答えた。
「変化なし。まだ時間がかかりそうだ、カメラを当てにするのはやめたほうがいい。樺さんの眼と各々自分の感覚を信じろ」
「ったく、いっそのこと病棟ごと爆破したほうが手っ取り早いんじゃねえのか」
「そんなことできるか。とにかく危険な奴がいるのはわかったんだ、油断だけはするな。当初の予定通り最上階を目指すぞ」
レントゲン室、操作室、CT室……樺さんのカラスは首を右に左に振りながら、楽しそうに歩いてゆく。
リネン室を通り過ぎ、柱の角を曲がった時――
「むっ! 左からキラー――三体!」
樺さんの、決して大きくはないが鋭い声。カラスが羽をばさばさと鳴らし戻ってくる。
通路の先から三つの影が現れた。汚染体だ。薄い色の病衣を着用した壮年の男性が二人に、初老の女性が一人。皆が似た表情をしている。生気のない虚ろな表情だ。
「山吹!」
「あいよっと」
班長に応えた山吹さんの動きは迅速だった。
長い茶髪を振り乱し前に躍り出ると、構えた9ミリ拳銃を透かさず撃つ。狙いを定めもせず、如何にも素人といった射撃姿勢だったが、発射された弾丸は三発全て寸分違わぬ正確さで眉間に穴を開けた。
山吹さんの射撃技術の賜物――というわけではなく、これも超能力だ。どちらかというとPK寄りに分類される、物体操作能力。
その名も変化弾。
山吹さんは体積が小さく軽いものに限り、あらかじめ指示した通りに物体を操作することができた。標的を目視し、位置を確認。思い描いた弾道を念じれば、撃ち出された弾丸はその軌跡をなぞるように標的へ向かう。
ただし、軌道が強引であればあるほど弾丸の速度は急激に低下する上、目で見えない速さで動く弾丸に対し、撃ったあとに軌道を変えるのも不可能であるため、動きの素早い相手には通じない恐れもある。だが、並の汚染体が相手であれば何の問題もない。
余談だが山吹さんは野球経験者で、ブレーキングバレットとは変化球を意味するブレーキングボールから来ているらしい。ちなみにブレーキングボールは『ブレーキの効いたボール』という意味ではないのだと、いつだったか山吹さんが力説していた。この能力を持つ山吹さんにストラックアウトをやらせたら、パーフェクトは間違いない。
ブレーキング・バレット。
山吹さん自ら命名した技である。
「あれ?」
額に穴を穿たれてなお、初老の女性は斃れなかった。血を滴らせ奇声を発しながら、山吹さんの後ろにいた小岩井さんに向かって突進する。
「ひいいっ!」
恐怖に固まった小岩井さんに襲いかかる汚染体。その頭が、突如小岩井さんの前に出現した人型の影に、豆腐のように叩き潰された。振り下ろされた拳によって砕かれた骨肉と血を床にぶちまけ、女性は今度こそ絶命した。
「悪いねえ、小岩井君。大丈夫?」
「あぶ、あ、危なかった……。もうダメだ、僕はここで死ぬんだあ……」
「そっか、大丈夫か」
「もうお終いだあ!」
小岩井さんの嘆きと共に、人型の影は霧散して消えた。
どす黒い色をした、小岩井さんと同じ体格をしたそれは、通称・小岩井人形。
異能で形づくられた人形は、小岩井さんが危険を察知すると現れ、主を守り外敵を破壊する。凄まじい膂力を誇る、常人には不可視の人形。欠点は、小岩井さん自身にも操れないということか。
「おら、さっさと行くぞメガネ」
泣き言を続ける小岩井さんを無視し、階段へ。
三つの屍体の傍らを通り過ぎる際、私は心の中で謝罪した。意味のないことかもしれないけれど、助けてあげられないことが、救ってあげられないことが、ただただ悲しかった。そしてその気持ちは、こんな状況でも失くしてはいけないもののような気もした。
「目を覚ましおったんじゃな、最後の最後に」
「そうですね……。早く楽にしてあげましょう。俺達にできることはもうそれしかない」
「ほっほ。もし全員が目覚めるとなると、ちょっと骨が折れるの」
「三百人はいるようですからね。もし、そうなった時は――」
樺さんと班長の声に、私は耳を傾ける。
この病棟にいる患者は――病衣に包まれ眠り続けている彼等は、普通の病気でここにいるわけではない。
彼等はある日突然、意識を失った人達だ。
世界各地で起こる謎の現象の犠牲者であり、アマツカミが収容している被験者でもある。先ほどの三人も、おそらくそうなのだろう。つまり私達は、何の罪もない不運な人達を殺して回らなければならないのだ。
溟海を游泳する悪意に取り憑かれ、望まぬ形で目を覚ました哀れな人達に、本当の眠りを与えるために。
「雪花ちゃん、大丈夫? 顔色がよくないけど」
階段の途中で、振り返った山吹さんが言った。気遣ってくれているようだ。
「大丈夫です。初めてで緊張してしまって」
「初めては緊張するよねえ。生徒上がりの人は期待されちゃって可哀想に」
山吹さんはからかうように小岩井さんを一瞥したが、小岩井さんはさっと顔を逸らし目を合わせないようにしていた。
「黙って歩けバカ」
後ろから遼さんの罵声が飛ぶ。
「はいはい。俺のほうが年上なのになあ」
「知るか。ここに入った時期は同じだろうが。先輩面すんな」
「え、そうなんですか?」
知らなかった。遼さんと山吹さんは同期だったのか。
「そ。俺と遼ちゃん、実は同期なの。最初の教育も一緒に受けたんだよ」
「黙って歩けバカ」
アマツカミの職員になる前、山吹さんはフリーターだったと聞いたことがある。ここに来た経緯はわからないが、以前「この仕事は天職だよ」と口にしていたのを耳にしたことがある。
アマツカミが把握していない未登録の超能力者は、世間にまだまだたくさんいるのだろう。理由もわからず特異な力に目覚める者もいれば、理由もわからず意識を失う者もいる……。それは確率なのか偶然なのか運命なのか。前者である私達は今、後者である人達を殺している。運悪く游泳する悪意に取り憑かれた人達を、きっとその本当の目的も知らずに。
全ての原因はいったいなんだ。
私達は何のためにこんなことを強いられているのか――
「むう……」
「何かありましたか、樺さん」
「廊下に血の跡が続いとる。まるで屍体を引き摺ったような……」
丹念に遠隔視を行い、二階廊下へ。
見ると白い床に、筆で引いたような緋い線があった。ところどころ壁にも飛び散った緋い染み。その量から察するに、おそらく致命傷だろう。
赤い髪を弄りながら、遼さんが高い声で班長に訊く。
「これも汚染体の仕業かよ?」
「たぶんな。汚染体が人間の屍体を運ぶとは考えづらいが――知性を持っているタイプなら話は別だ」
「チッ、マルサンの連中を殺ったのはこいつかもしれねえな。屍体引き摺ってどうするつもりか知らねえがよ」
「最大限の注意を払え。敵はかなり厄介かもしれない」
キラーが殺人衝動以外をもたらすのは稀だが、中には智恵を有し殺人に関係のない行動を取るタイプもいる。昨冬、黎さんが仕留めた汚染体――あの鬼もそうだった。
血の線路を辿るように廊下を進む。
中央エレベーター前を通り過ぎ、スタッフステーションの中を確認。誰もいない。その後、左右に病室が並ぶ長い通路に出る。
そこには血に塗れた病衣を着た屍体が、いくつも転がっていた。断定できないが、おそらく汚染体だったのだろう。悪意に憑かれ目を覚ました彼等が、自ら病室のドアを開け外に出てきたのか。
これだけの騒ぎにもかかわらず、眠り続けている患者も大勢いた。
異変に気づくこともできず、しかし悪意に憑かれずに済んでいるのは不幸中の幸いと言うべきなのか。
スタッフが避難した病棟に取り残され、ひっそりと臥したまま、緩やかな死を待っている。
「行くぞ。患者はあとの連中に任せろ。俺達は任務に専念する」
班長の言葉に、皆が無言で病室をあとにする。
一通り見て回り、三階へ。
血の跡は階段にも続いていた。
「山吹、左からキラーじゃ」
「あーい」
呻き声を上げて、不自然な動きで迫る影。歓んでいるのか、哀しんでいるのか。笑っているのか、泣いているのか。もはや誰にもわからない。きっと呻いている本人にさえも。
山吹さんが照準を定めることなく放った弾丸は、正確に眉間を撃ち抜き標的を絶命させる。
地祇の主力を担う、捕縛課と討滅課。どちらも汚染体と直接関わる職務であるため、アマツカミの中でも取り分けて優れた戦闘能力を有する職員が必要となる。
だがそれは超能力や異能力の有無、格闘能力や射撃能力の優劣――そういった能力の話ではない。如何に標的となる汚染体を――人間を躊躇なく殺せるかという話だ。
世間に汚染体が今ほど発生するようになる前、アマツカミの主力は捕縛課だけという時代があったらしい。だが増え続ける汚染体に捕縛という方法だけでは対処できなくなったアマツカミは、新たに討伐課を設立。元は捕縛課の職員を異動させただけのものだったが、さらに勢いを増す汚染体、そして変容体に対抗するため、標的を捕まえるのではなく討つことに特化した集団が必要だったのだ。
そして討伐課は独自に人材を集め、十年ほど前に名称を今の討滅課に変えたのだという。
汚染体を殺すために力を揮う山吹さんは、この仕事が天職だと言う。遼さんも、班長も、皆それぞれ理由はあるのだろうけれど、この仕事に就いている。
この――人を殺す仕事に。
なぜだろう、今になってそれがとても恐ろしいことのように感じられる。決意なんて何度も固めたはずなのに。
それでも。
それでも――私の力が完全で完璧なら、人を殺すことなく悪意だけを葬り去れるのに。
銃声。そして床に倒れる音。また銃声。床に倒れる。なんという省エネ殺法だ。一ミリの無駄もない。人を殺す訓練を積み、それを躊躇なく実行できる汚染体討ちのエキスパート。
それが、私を含めここにいる者達が分類されるジャンルなのだ。
「いやあ、今日は調子がいいなあ。思ったように弾が曲がるぞ」
「バカか。そんな能力なくても普通に狙えば当たるだろ。だいたい、ショットガン使ったほうが手っ取り早いっつーの」
「わかってないなあ、遼ちゃんは。こういうのはスマートさが大事なんだよ。如何に無駄なボール球を放らずに打者を仕留めるかってね」
「ピッチャー返しくらって死ね」
三階の廊下にも、引き摺られたような血の跡があった。それが汚染体のものなのか職員のものなのかはわからないが、先を進んでいたはずの班の姿は未だに見えない。
そして四階へと足を踏み入れた時。
「左からキラー――むっ!」
樺さんの声に一際濃い警戒の色が混じり、その炯眼に赤みのある橙色の光が宿る。先を行くカラスの眼も同じ色の光を帯びていることだろう。樺さんはカラスの眼を通しても、常人には不可視の事象――溟海との境界を越えた際の揺らぎを視認することができた。
「気をつけい、変容体じゃ!」
瞬きの間、皆の瞳に走る光。私も慌ててそれに倣う。眉間白毫相に意識を集中、織り重なった世界の向こう側を覗き込む。
「下がってろ山吹!」
廊下に飛び出す遼さん。その脇をカラスが跳ねるように戻ってくる。遅れて私達も階段を駈け上がり、標的を視認する。
「変容体――餓鬼が一体!」
「あー、俺の能力は変容体と相性が悪いからなあ。遼ちゃん任せた」
廊下の先、こちらに迫る男が一人。血に塗れた病衣。その肢体からは赤茶色の霧が噴き出している。
常人には不可視の霧は、この世界と溟海との狭間に生じる歪み。霧は不気味に明滅を繰り返し、男を覆うように、呑むように、喰らうように、悪意に従いその姿を形作る。
餓鬼。
宿主の男の二倍ほどの体躯。手と足は細長く、腹だけが丸く膨れ上がっている。しかし貌の部分だけがぼやけて不明瞭だ。
赤茶色の光に揺れる異形。
強欲だった者が死して生まれ変わったとされる、悪意の顕現――悪しき意識が変容せし鬼だ。
「貌なしのザコが。くたばりやがれ!」
そして遼さんの肢体からも、鬼と同様の霧が噴き出す。茜色の霧は遼さんを包むように揺蕩い、やがて光を帯びてゆく。
変容体は相互不干渉であるはずの領域である溟海から、一方的にこちら側に干渉してくる。あの霧のように見える空間の揺らぎ――境界を越えた光る障壁に干渉するには、こちらも溟海領域に意識を飛ばすしかない。その際に生じる意志の光が、遼さんの周囲で茜色に煌めいているのだ。
亡者の呻き。迫る餓鬼。ゆっくり動いているように見えて、その実かなり速い。
遼さんが振り回すようにして肩からスリングを外し、散弾銃を右腕に提げる。不敵に跳ねる派手な赤い髪。左腕を前に突き出し円を描くようにくるりと回すと、空中に小さな輪が浮かんだ。
宙に現れた茜色の円環。
その中心へ――構えた散弾銃を突き込むようにして射撃。落雷のような銃声が棟内に響き渡り、その衝撃は私達の元にも伝わってきた。
直後。
餓鬼への干渉を阻む赤茶色の障壁を砕き、宿主の男が後方に弾け飛んだ。霧散する餓鬼の姿。残ったのは頭部を損傷し屍体となった宿主の男のみ。茜色に煌めく円環は既に消えていた。
侵入者の円環。
遼さんが生み出す円環をくぐった物体は、短距離空間跳躍とでも呼ぶべき事象変異を引き起こす。円環は数秒で消えてしまうが、小さな輪ならば同時に五つ程度まで出すことができ、円環を通り抜けた物体はまるでワープしたかのように前方に現れる。腕を突き込めば肘から先だけが前方の空間に出現し、たとえその状態で円環が閉じたとしても腕が消失するなどということはなく、その場合は本来あるべき位置に腕が戻るだけだ。跳躍距離はおよそ十メートルが限界だが、この能力の神髄は空間歪曲とは別にある。
溟海領域への侵入。
通り抜けた先で、変容体への干渉が可能となるのだ。
ただの散弾銃では変容体がもたらす揺らぎに阻まれ、奴等を攻撃することはできない。だがトンネルをくぐったあとの弾丸はどういうわけか変容体に効く。
遼さんがつくる円環は、言わばこの世界と溟海を繋ぐ門だ。
つまり、何かしらの事象変異によって不法侵入を果たした散弾が、餓鬼をあっという間に討ち滅ぼしたのだ。
「ん? こいつは――」
遼さんは倒れ伏した男の傍らで怪訝な顔をしたかと思うと、ドアが開いていた病室の中を覗き込んだ。
「どうした、吉田」
「……食ったな、こいつ。どんな悪意に憑かれたんだか知らねえがよ」
頭部に散弾を受け絶命した男――たぶん、まだ若い男の人だ――が身につけていた病衣は、胸元が赤く染まっていた。それは遼さんに撃たれたからではなく、はじめから汚れていたものだ。
つまり、自分以外の誰かの血。
「餓鬼――か。よほど腹を空かせてたんだろうな」
私は病室の中に入る気にはなれなかった。樺さんと山吹さんも確認する気はないらしい。小岩井さんだけが興味津々といった感じで、眼鏡の奥の瞳が笑っていた。
「が、餓鬼は三十種類以上いるらしいですからね。じ、食肉もその一つ。六道絵のひっ、一つに『正法念処経』というのがあってですね、げん、現存するのは」
「どうでもいいっつーの。さっさと行くぞメガネ」
五階。
未だに職員の姿は発見できないが、床に垂れた血の跡はまだ続いている。遼さんと山吹さんが前面に立ち、汚染体と変容体を蹴散らしていった。
六階に足を踏み入れると、樺さんが手で私達を制した。
「キラーじゃ。何かしておる」
中央エレベーター前の様子をしばらく遠隔視したあと、樺さんは通路から顔を出し、私達にも合図した。
見ると。
「え、何してんの? あいつら」
山吹さんが疑問を発した。
エレベーター前に汚染体が四体。
床に跪き、何かを取り囲んで輪になっている。一心不乱に手を口に運んで――その何かを食っているのだと、少し考えてから気づいた。病衣が汚れるのも意に介さず、食事に没頭している。咀嚼する音が耳にまで届く。
なんだ。
何を食っている。
ちらと――斑模様が見えた。黒っぽくて丸まっている、小さな塊。細長い紐のようなものも。
――紐?
いや、あれは紐じゃなくて――尻尾だ。先端が二つに分かれた――やけに長い尻尾。毛に覆われた四肢は――千切られてしまっていた。もう動かない肉の塊。ぴくりともせず、カラスに啄まれた屍肉のように――腹の内側を晒している。
そんな。
どうして。
どうして――ここにいる。
「犬神……!」
この章は長くなりそうなので分割して上げることにしました。




