【第三章】 海の風は地に綾なす
明けましておめでとうございます。
この章を書いているうちに年が明けてしまいました。
電話を終えた私は、しばしリビングルームで惚けていた。何もする気が起きない。電気を点けるのも面倒で、暗い部屋で一人、ソファに深く身を沈める。自分の呼吸音がやけに大きく聞こえた。まだ夕食を摂っていなかったが、とてもではないが今から何かを作る気にはなれなかった。
一人の少女を思い浮かべる。昨日出会ったばかりの少女だ。もっとも、どうやら向こうは何年も前から私の存在を認識していたようだが。くっきりした目鼻立ち、褐色の肌、後頭部で束ねられたアンバーブラウンの髪に、鳶色の瞳。直接的な出会いを果たしたのはほんの数十時間前だけれど、私と彼女を運ぶ軌条はあの日、あの時、私の知らなかったところで既に交わっていて、彼女だけがその苦痛に何年も苛まれ続けていたのだ。
今日何度目かの溜め息を吐いた時、玄関の扉が開いた音がした。鍵は開いているから、私がいるとわかるはずだ。
リビングに入ってきた春は電気を点け、訝りながら言った。
「体はもういいのか。電気もエアコンも点けないでどうしたんだ」
春はバッグを置くと、てきぱきと動いてエアコンとテレビのスイッチを入れる。テレビでは見慣れたアナウンサーが明日からの天気について話題にしているところだった。坂道を転がるようにどんどん冷え込んでゆくらしい。冬はもうすぐそこに迫っていた。
春には体調が悪いと言って学校を休んだのを思い出す。完全に仮病だし春も信じてはいないだろうが、そこは曖昧にしてごまかした。
「ちょっと寝てた。それにしても遅かったね。何かあった?」
「千歳と深川と話していた。進路希望調査があったから、将来のこととかいろいろな」
「へえ……うちのクラスでもやったのかな。たかねに訊かないと」
「学校、明日は行くのか?」
私は少し考える素振りをしてから、事実を半分だけ話すことにした。
「明日は中本に行くよ。学校はサボりになっちゃうけど――班長に呼ばれてるんだよね。たぶん、今度の錬成訓練の件で」
ルームウェアの準備をしていた春は、私の言葉にとりあえずは納得したようだった。
明日も中央本部に行くのは本当だが、理由は私が所属している討滅課第三〇四班の班長に呼ばれたからではない。会って、話をしなければならない人がいるからだ。
「たかねに会ったらうまいこと言っておいてよ。GHEの名前出すと不機嫌になるから、適当に病欠ってさ」
「自分で言えばいいだろう。電話なりメールなりで」
「いや、まあ、そうなんだけどさ……」
着替えを終え、夕食の支度を始めた春を半眼で眺める。手っ取り早くラーメンを作ると言うので、春に甘えて私の分も作ってもらうことにした。最近の春は、外食ばかりしたがる黎さんのためによく料理をする。子供の頃――〈彼岸西風〉で暮らしていた時は、一族から遠ざけられていたとはいえ宗家の娘である以上、身の周りの世話は全て侍女の仕事だったらしい。だからなのか、春は頭は良いがお世辞にもあまり器用とは言えない。そんな春が黎さんのために料理の勉強に尽力している様は、なんとも健気だった。肝心の黎さんは家を空けることが多い上、最近に至っては音信不通なのだが。
「春はさぁ、進学のつもりなんだよね?」
ダイニングルームの椅子に腰かけながら、キッチンの冷蔵庫を物色する春の背中に話を振る。取り出した長ねぎを片手に、春は答えた。
「ああ。勉強して、アマツカミの職員になりたい。できれば研究分野の」
「黎さんの力があれば、すぐにでもなれそうだけどね。春って理数系得意じゃん」
「役に立てないなら、そこにいたって意味がないだろう。所詮あたしはまだ世間知らずの子供だ。それに、大学でもっと勉強したいしな」
「偉いなあ。私はできれば勉強なんてしたくないよ」
二年生になってから、期末試験の対策以外ではまともに勉強した覚えがない。学年の順位はかろうじて維持できても、全国模試の結果は散々だった。
来年の四月には高校三年生。けれどその次の四月はどうだろう。自分はどんな道を歩いているのか、そもそもまだ生きているのか。一寸先は闇だ。
テレビのチャンネルを変えると、先日起きた強盗殺人事件の特集が組まれていた。毎日毎日、人は殺し殺される。テレビで報道される死者の数なんて、ほんの一握りに過ぎないのだ。
春が作ったラーメンを二人で食べた。いつもと同じ麺とスープを使っているはずなのに、私が作るのとは微妙に味が違うのが不思議だった。
麺を口に運んでいる間、あまり会話はなかったけれど――それでも、春と二人のこの時間がとても大切だと感じられて、なんだか急に込み上げてくるものがあった。
「また、姉様と三人でどこかに行きたいな」
春がなんとはなしに言った。夏休みの想い出。未だ連絡の取れない黎さんの顔を思い浮かべながら、私も頷く。
「うん。冬休み、みんなで行きたいね。黎さんが帰ってきたら……だけど」
今までも黎さんが一ヶ月ほど家を空けたことはあったが、連絡が取れないという事態は経験がない。長期間に及ぶ大きな仕事に就いていて、そんな暇もないほど忙しいのだろうか。
「明日、班長にも訊いてみるよ。私と黎さんは違う班だけど、もしかしたら何か知ってるかもしれないし」
「ああ」
春の返事には元気がない。どうやったら上手に、元気がない人を慰めたり励ましたりできるのだろう。私にはまるでわからなかった。
◇
彼女のキスが私から全てを奪ってゆく。
いや、むしろ奪っているのは私のほうなのかもしれない。
「雪花、あの女に会ってどうするつもりなの? いいことなんてきっとないよ。ヘビーショックなことしか言われないよぅ」
耳元で銀花は心配そうに言った。きっと、心の底から私を案じてくれているのだ。銀花は私のことを――なんでも知っているから。
「でも、会わなきゃ。モモとは話をしなきゃいけないんだ」
「雪花は悪くないんだよ! それなのに、みんなで雪花を責めるなんて! そんなの許せない!」
「仕方ないんだよ。――仕方ないんだ」
怒りを露にする銀花に、私はありがとうと伝えた。
「ん? 何が?」
「私の代わりに怒ってくれて。私は――怒り方を忘れちゃったから。『怒る』の先には、きっと『憎む』があるんじゃないかな。憎み続けたり、憎まれ続けたり……そういう感情の尖らせ方って、すごく疲れるよ。私はずっと憎まれているから、もう、怒ることもできない。疲れちゃったよ」
「可哀想な雪花」
唇が塞がれる。冷たい吐息。瞼の裏、幻視する銀世界。
澄み渡る冬の氷柱のように、透明な光を湛えた長い銀髪。一糸纏わぬ真っ白な深雪の肌。血潮の色に染まった、紅い唇。真ん丸の大きな黒い瞳。曇りなく磨かれた玉の鏡に、私の薄く尖った顔つきが映り込んでいる。
銀花。
私の、唯一人の――
「おやすみ、銀花」
「おやすみ、雪花。でも安心して! 雪花が危ない目に遭ったら、私が絶対助けてあげるからね!」
◇
翌日。
春を見送ったあと、頃合いを見て私も家を出た。荷物はいつものメッセンジャーバッグだけ。中身は財布と日用品くらいで、服装も至っていつも通りのブルゾンにジーンズ、履き慣れたスニーカーである。
朝のラッシュが落ち着き、シートに座るだけの余裕がある電車とバスを乗り継いで、アマツカミの中央本部へ向かう。眠たそうにしている正門の警備員は、私が提示した緑色の正規職員証を碌に確認もしなかった。アマツカミの広大な敷地は周囲を柵に囲われ、侵入防止装置も備えられてはいるものの、実際に敷地内に潜り込むのはそれほど難しくないような気がする。私も入ったことがない、『裏』の本部棟への潜入となれば話は別だが。
本部管理課の脇を抜け、『表』の職員が勤務している建物を通り過ぎ、奥へ進む。今は皆仕事中なのだろう、外を歩いている職員はほとんどいない。特殊技術科学校の校舎を横目に、生徒の寮を遠回りするようにさらに奥へ。しばらくは裸の木々が寂しく立ち並ぶ道をただ歩く。すると今度は別の大きな建物群が見えてきた。一際目立つのは、要塞のようにそびえ立つ白い建物。目的地はもう目と鼻の先だ。
整備された歩行者用の通路を抜け、建物の入口前に確保された広場に足を踏み入れる。相変わらず噴水は止まったままで、豪華な造りの花壇もアグレッシブなオブジェも、どこか寂しげだった。
ここは病院。
そして、呼び名を変えれば研究施設にもなる。
本来なら正門から歩いてくるより裏門から入ったほうが近いのだが、あそこは基本的に病棟勤務の者と緊急車両しか通らせないことになっている。任務で負傷した職員が利用する医務室もここにあるし、私達が定期健康診断を受けるのもここだ。私のような高校生でも出入りしやすい第一病棟の中を進み、昨夜電話で教えられた病室を目指す。
気難しい顔をした白衣の老医、マスクで表情が窺えない看護師、大量のファイルを抱え慌ただしく廊下を行き来する事務員。すれ違う人達は私服姿の私を横目で一瞥するだけで、誰も気にも留めない。職員の家族が見舞いに来ることも多いし、別段珍しくないのだろう。
この病棟へは、職員証の提示も面会証の記入もせず入ることができる。それが必要なのはもっと奥の研究棟と、ひーちゃんを含むあの町の住民や、全国各地で突如意識不明に陥った人達を隔離している病棟だ。
部屋の番号を確認して、私は立ち止まった。引き戸は開いている。中を覗くと、そこに目的の人物はいた。
「――あ、ユキ」
声をかけられずにいると、窓際のベッドで上体を起こしていた作花百夜がこちらに気づいた。向かい側のベッドではイサネちゃんが本を読んでいて、傍らには昨晩連絡を取った鰰田さんの姿があった。会釈を返しながら、小さく拳を握り締める。私は意を決してモモに歩み寄った。
「なんだよ、学校はサボりか? 優等生が聞いて呆れるぜ」
モモは元気そうだった。勝気な表情は、昨日銃で撃たれた人間のそれではない。ただ、アンバーブラウンの髪を結わずに下ろしているせいか、印象がだいぶ違う。洋画の女優感三割増しだ。
「残念ながら、最近は優等生じゃないんだよ。副業が忙しくてね。どこぞの殺し屋にも狙われるし」
「マジかよ。恐ろしい世の中だなあ……。学校なんて辞めて、こっちに専念しちまえば?」
「嫌だよ。中卒になっちゃうじゃん。ありえないって」
「それはワタシへの嫌味かな」
ちらと鰰田さんに目を遣る。彼女は私の意図を察したのか、イサネちゃんを連れて部屋から出ていった。理由を問うことすらしなかったイサネちゃんが、静かに引き戸を閉める。本当によくできた子だ。怪我の心配もなさそうで一安心である。
病室に残されたのは、私とモモだけ。
パイプ椅子に座り、モモの胸元に目を遣る。
「怪我の調子は?」
常識が麻痺しつつあるが、銃で撃たれたのだ。撃たれた箇所が箇所なだけに、普通ならそれは生死に関わる傷になってもおかしくない。彼女が、普通であるならば。
「ん」
モモは答える代わりに、病衣のボタンを外して胸元を覗かせた。乳房の上辺り、撃たれた箇所の皮膚がわずかに変色しているだけで、傷は完全に塞がっているようだった。
「もう治った。いや、『元に戻った』――かな。宿主の体を本来の形状のまま維持するのが、霊玉の力だから」
「モモ」
唇が震える。私は今、きっと情けない顔をしているのだろう。それでも――言わなければならない。伝えなければならない。
「ごめん――ごめんなさい」
深々と頭を下げる。今さらこんなことをしたって、何かが変わるわけじゃない。失われたものはもう返ってこないのだ。
遅すぎた謝罪。
何もかも、遅すぎたのだ。
顔上げろよ、とモモが言った。よく通る声。出逢ったばかりなのに、随分と長い間聞いていたような錯覚に陥る。
「鰰田さんから聞いたのか」
私は頷いた。
そっか、とモモも二度三度頷いた。
「ったく、さすが鰰田さんというかなんというか……。いつの間にそんな話してたんだよ」
「……昨日の夜、電話で話したんだ」
「はあ。はじめからユキに教えるつもりだったのかな。もう少し黙ってようかとも思ったのに」
「モモ、私は」
「いいんだよ、もう」
もういいのだと、モモは繰り返す。モモの鳶色の瞳は、遠くを見ていた。何を見ているのだろう。もしかしたら、あの冬の景色だろうか。あの冬に縛られているのは加害者の私だけではなくて、きっと……。
モモについて、鰰田さんは話してくれた。
作花百夜。
およそ五年前――あの冬の日、あの町にいた少女。
暴走した私の力のせいで、意識を失い――そして。
唯一、意識を取り戻した少女だ。
依頼主なんて、はじめからいなかったのだ。
「目を覚ました時、ワタシは花に囲まれていた」
モモは言う。
「たぶん、奥の研究棟の一室――どこかの部屋。真っ白な部屋だったな。そこの壁や床一面にさ、植物の蔦やら花やらが広がってたんだよ。ワタシの異能が発現した瞬間だったんだろうな。意識を失って、意識を取り戻して――わけのわからない力が使えるようになっていた。どうやら眠っている間に年が一回明けちまったみたいだけど、ワタシはなーんにも覚えてない」
四、五十年ほど前から、世界では不可解な現象が起き始めている。突如意識を失い倒れる者が大勢現れたのだ。彼等の多くは目を覚まさず、そのまま老衰死・衰弱死を迎えてしまう。
ところが、ごく一部の者は意識を取り戻した。そして、目覚めた者は例外なく何かしらの――特殊な力を身につけていた。
しかし、モモは理由もなく意識を失ったわけではない。原因は暴走した私の思念波に触れたためだ。あの日私の異能を浴び、その後意識を取り戻した人の存在なんてまるで知らなかった。皆が皆、この病棟で今も眠り続けていると思っていた。
だが、モモは目を覚ましたのだ。
その身に特異な力を宿して、彼女は還ってきた。
「植物を生長させる力。植物に超常的な性質を与える力。特に彼岸花と相性がいいんだ。見ただろ? ワタシの屍人花――と言っても、当時のワタシの力は微々たるものだったよ。今みたいな『引き裂く』異能を操れるようになったのは――」
霊玉を受け容れたからだと、モモは胸に手を遣る。
「どんな駆け引きがあったかは知らないが、ワタシの身柄はある組織に渡った。自由なんて――選択肢なんてワタシにはなかった。だから流されるまま、九重黄泉――〈作花〉の一員になった」
モモには親と呼べる者がいなかったらしい。母親はフィリピン人だったようだが、モモを生むとすぐに失踪したため顔すら碌に知らない。そして物心つく前に、娘を置き去りにして父親も蒸発した。父親は日本人だが、生きているのか死んでいるのかももうわからない。
父方の祖母に引き取られたモモだったが、その祖母も間を置かずして亡くなり、親戚の家を転々とした。血の繋がりがあるのかもわからない大人達に翻弄される日々。幼少時代の彼女は、とてもつらい環境に置かれていた。名前も知らない大人に、母は娼婦だと貶された。近所の子供に、父はろくでなしだと罵られた。髪の色が違う。瞳の色が違う。肌の色が違う。本当の名前は西洋人みたいなカタカナで、周りの子達とは響きが違う。
居場所なんてどこにもなかった。
そして流れ着いたあの町で、彼女の保護者に当たる数少ない親戚も事故で死んだ。車の運転中に、私の思念波を浴びたからだ。意識を失って電柱に突っ込み、亡くなった。
独りだった彼女もまた意識を失い、長い眠りに落ちたあと――
ただ一人、目を覚ました。
「バクスター効果って知ってるか?」
窓際に飾られた質素なアレンジメントフラワーに目を向けながら、唐突な話題を口にするモモ。
「愛情を持って育てた草花は、それに応えるって話だ。植物にも感情があるってな。ワタシの屍人花もすくすくと育ったよ――憎悪の念を受けてな」
憎悪という言葉が、私の胸に突き刺さる。俯く私に、モモは「そうじゃねえよ」と投げやりに言った。
「当時は――お前のことなんて頭になかった。『ワタシ』の躰をこんなふうにしやがったあの女――作花十六夜をどうやってぶち殺すか、毎日そればっか考えてたよ」
「その人に、霊玉を……?」
「ああ。作花は――九泉は代々霊玉を受け継いできた連中で、欠片の適合者をスカウトしてるんだよ。ちゃんと広報みたいなのもいるんだぜ? 笑っちゃうよな。で、十六夜さん――〈作花〉の序列一位の、ワタシらのボスみたいな人なんだけど、その人に騙されて霊玉の欠片を移植された。今思えば完全に詐欺だったな」
霊玉を体内に埋め込まれると、急性拒絶と慢性拒絶が起こる。急性拒絶は、移植後直ちに宿主の肉体が霊玉を拒絶し、最悪の場合死亡することを言う。常人が霊玉を宿すと、多くの者は一日も経たずに死んでしまう。そして常人ではない者――モモのように特異な才覚を有した適合者でさえ、慢性的な拒絶反応に蝕まれ数年以内に死んでしまう。ゆえに九泉の異能遣いは短命だという。霊玉と共に長生きできるのはほんの一握りの適合者だけで、自分はそうではないのだとモモは言った。昨日の『発作』も拒絶反応によるもので、それは彼女の躰を喰い破るように牙を剥く。
「この霊玉を受け容れてから――衝動を抑えられなくなる時がある。攻撃的になるっていうか……たぶん、九泉がずっと殺しの家業を継いできた理由と関係があるんだろうな」
「どういうこと?」
「霊玉ってのは、遥か大昔に存在していた何者かが遺したもの――らしいぜ。それを神とか怪とか天使とか悪魔とか、好き勝手に名前つけて呼んでるんだ。だから霊玉には持ち主だった奴の遺志が籠められていて、こいつの持ち主だった奴は人間を憎んでいたんだろうな。だから九泉は――人殺しから逃げられない。ハジマリがなんであろうと、結果そうなる運命に吸い寄せられるからだ」
モモは自嘲気味に笑った。
「この力を手に入れて最初にやらされたのは、汚染体の駆除だった。例によって九泉にもそういう部門があってな――暗殺だけが仕事じゃないんだ。ワタシたちは汚染体に狙われやすい体質で、打ってつけなんだよ」
私は一昨日のことを思い出した。
モモと初めて会った夜、どこからか現れた汚染体はモモを標的にしているかのように追いかけてきた。疑問に感じていたが、彼等はモモ個人を標的にしていたわけではなく、九泉の者達が放つ何か特別な気配のようなものに引き寄せられているのだろうか?
「汚染体は霊玉に反応する――けど、その意味も理由もワタシにはわからない。でも別にいいかって感じがしたんだ。汚染体をぶっ殺しまくってるうちに、ああ、ワタシは生まれ変わったんだって――普通になれたんだって、そんな気がしたから」
「普通――って」
「今思えば、意識を失う前のワタシはただ死んでいないだけで、生きているわけじゃなかった。自分がどこから遣って来たのかも、どこへ向かって歩いて行くのかもわからない。何のために生きているのかわからないんじゃ――そんなの、死んでいるのと同じだったんだ。でも今は違う。霊玉が生み出す殺意は、ワタシに理由をくれた。ワタシが殺してきた人間だと思ってたそれも、人間じゃなくて――汚染されたゴミだったんだ。どいつもこいつも汚染されてる。掃除しなくちゃならないゴミが、この世界には多すぎる。そりゃあ殺すのも殺されるのも嫌さ。でも、殺されるくらいなら――殺す。それがワタシの存在理由――いや、違うな。存在価値なんだよ。ワタシの価値は人を殺せることが全てなんだ。人を殺せない作花百夜は、何者でもなくなっちまう。以前の空っぽだったワタシに戻っちまう」
「……殺すのも、殺されるのも嫌なら、逃げればよかったじゃないか。どこか遠くに」
「はっ、冗談。あそこにはワタシを否定する人なんていないからな。きっと、それが心地よかったんだ――ワタシは」
限られた余命の中で、モモはどんな景色を見てきたのだろう。意識を失う前と後で、彼女が目にした風景は同じだったのだろうか。
全ては、あの冬。
あの冬を境に、全てが変わってしまったのだ。
数週間ほど前からモモは、事件を引き起こした私に会いたいと強く思うようになったという。アマツカミを少し調べれば、私の元には簡単に辿り着いた。思い立ち、すぐに行動に移した。
被害者が加害者を訪ねて要求することは謝罪だろうか。賠償だろうか。それとも――命だろうか。
モモは昨日、自分が依頼主を殺したと言った。衰弱していた依頼主を、これ以上苦しませないために一思いに殺した。だから私を狙う者などもういないと。
けれどはじめから依頼主なんていなくて――でも全てが嘘ではなくて、モモが殺した依頼主の少女は、きっとモモ自身なのだ。モモは私への復讐心を殺し、ただ私に会うためにやってきた。それはなぜなのか。モモは私の目をまっすぐ見て言った。
「お前に会って確かめたかった」
鳶色の瞳が昏く沈む。
私の内面を見透かすように。
私の内心を見定めるように。
「ワタシには外の世界との繋がりがない。ワタシにはもう何も残っていないからな。そんなワタシにとって、ユキ――お前は唯一外の世界との繋がりだ。あの日からワタシの全てだった九泉を抜け出して――殺しが当たり前の世界を抜け出して、『ワタシ』を殺したお前に会って、自分が何者なのかを確かめたくなった。そしてお前が――ワタシと同じかどうか確かめたかった」
「同じ……?」
「お前はワタシと同じはずなんだ。たくさんの人を殺した」
「違う、私は殺したかったわけじゃない」
「認めろよ。受け容れろよ」
「違う」
「お前は殺したんだよ。どうして否定するんだ」
「違う、私は……」
モモは右腕を伸ばし、私の胸に指で触れた。そして左腕で私の右手を掴むと、自分の胸に触れさせる。
「ワタシのここに化け物がいる。でも、ワタシはワタシだ。作花百夜だ。化け物の言いなりになったわけじゃない。ワタシは自分の意志で殺意を従えてるんだ」
病衣越しに、モモの体温が伝わってくる。体温があるのは、生きているのだから普通のことだ。モモはここにいて、普通に生きている。では私の体温もちゃんとモモに伝わっているのだろうか? 普通の子と同じように? 人間として当たり前のように?
「お前のここに化け物はいない。でも、お前は殺意と同じ化け物みたいな力を持ってる。ほかでもないお前自身の力だ。お前が自分の意志で殺したんだ」
「違う――私じゃない。好きでやったんじゃない。やったのは、私の中の、化け物で」
「化け物なんていないんだよ。全てお前なんだ」
「違う。モモだって――きっと化け物に唆されてるんだ。謝るよ。謝るから――全部私のせいで、あの日私が暴走しなかったら、モモは普通のままでいられたのに」
「おいおい。お前はワタシを否定するのか。ワタシはワタシだ。こんな化け物に好き勝手されてたまるかよ。ワタシは――自分の意志で生きてるんだ」
「私は――いや、私も、そうだけど、でも」
「お前にだっているだろ? 殺したいほど憎い相手が。普通なんだよ、それが」
「……私は、いつだって、恨まれる側だから。私に人を憎む権利なんて、ない」
「ワタシはお前を恨んでなんていないぜ。むしろ肯定しているんだ。なあ、悪い奴を殺すのは正しいことだよな? ワタシは――普通だよな?」
ぎゅっと、私の服を握り締めるモモ。縋るように、頼るように、弱々しく。
その指にそっと触れた時、モモの手がかすかに震えていることに気づいた。
モモにとって、私は外の世界の人間。だからこそ、自分が何者なのかを正当に評価してくれる他者の存在として――私を探していたのかもしれない。『普通』という特別な価値を再認識するために。
「ごめんね。私のせいで……つらかったよね……」
「謝るなよ。謝らないでくれよ。殺意を否定するな。お前は――殺したかったんだ。母ちゃんが殺されたその瞬間、全てをぶっ壊したいと思ったんだ」
「違うよ、モモ」
「違わない。それがお前だ。お前が望んでやったんだ。ワタシもそうだ。全てはワタシが望んだ結果だ。これがワタシだ。ワタシの実在根拠だ。たとえもうすぐ死ぬことになったっていい。作花百夜として――唯一人のワタシとして死ねるなら」
「じゃあどうして」
どうして――
――そんなに苦しそうな顔をするの?
私の問いに、彼女は唇を噛んで項垂れた。
しばらくの間黙り込み、そして小さく――萎れた花のような声で、零した。
「……ワタシはよぅ、みんなとお揃いのものがほしかったんだ。ガキの頃の話だけどよぅ、ワタシだけ、いつも、何もかもみんなと違ったから……。みんなと――同じでいたかった。九泉に拾われて、霊玉を受け容れたら同じになれるのかと思ったけど、結局ワタシにはよくわからなかった。ユキ――お前は、ワタシにとって最後の希望だったのかもしれない」
「希望……」
私なんかが誰かの希望になれるわけがなかった。私とモモの関係は、あくまでも加害者と被害者であって、加害者が被害者の希望になどなれるはずがない。
それでも。
私がモモにとっての希望なら、モモも私にとっての希望なのだ。
モモは私に、ある可能性を示したのだから。
「モモ。私はね、あの日のことを後悔してる。なかったことにできればいいのにって、全て戻ってきたらいいのにって――何度も何度もそう思った。でも、失ったものは返ってこない。死んだ人は生き返らない。そんなの、当たり前で――だからこそずっと後悔してるんだ。私には謝ることと、少しでも償いを果たすことしかできない。失ったものは返ってこない――そう思ってた。でも」
私は言った。
「モモは還ってきた。モモは――私に希望を教えてくれたんだ」
「ワタシが……希望?」
「正直、もう諦めてたんだ。きっと、誰も目を覚まさないんだって。誰も助からないんだって。でもモモは違った。モモは還ってきてくれた」
ありがとう。
私は心からの感謝を口にした。
モモの過去を知ったからこそ生まれた希望だ。私の異能を受けてなお、モモは意識を取り戻した。つまりそれは、意識を失ったほかの人達にも――可能性があるということだ。
ひーちゃんの意識が戻るという夢のような希望も、まだ潰えてはいないのだ。
「なんで、ワタシに礼なんて」
「そりゃ、私のせいでこうなったのに、私がお礼を言うなんておかしな話かもしれない。でも、私がモモの希望かどうかはわからないけど、モモは私の希望なの。モモが生きているだけで、私はまだ夢を見られる。諦めずにいられる。だから――ありがとう」
私はぎこちなく笑った。
限りなく可能性の低い話かもしれない。それでも、ゼロではないのだと思うことができた。今はそれで十分だった。
「私さ、あんたに殺されるのを覚悟してたんだよ。アリーチェに――ある女の子にもうすぐ死ぬって予言されたんだけどさ、モモと出遭った時、ついに来たか! って思って。もちろん黙ってやられるつもりはなかったけど、今思えば、モモに殺されるんなら私は納得できるかも。それでモモの気が晴れるなら」
「……殺さねえっつっただろ。いいんだよ、もう。ワタシは別にお前を憎んでない」
「どうして?」
「え?」
隙間風が吹いたのか、窓際のアレンジメントフラワーが小さく揺れた。
「どうしてモモは、私を憎まないの? そんな目に遭ったのに」
九泉という特殊な環境に置かれていたせいで私を憎む暇すらなかった。そしてモモにとって私は憎悪の対象というよりも、外界との繋がりを意味する存在だった――という理屈はわかったけれど、それだけで自分の人生を捩じ曲げた相手を許せるものだろうか。私には甚だ疑問だった。
「ワタシは……」
黙り込み、窓の外へと目を遣るモモ。
今日は好い天気だが雲の流れが速い。上空は風が強いのだろうか。モモが口を開くまで、私もただ窓から見える青空をぼんやりと眺めていた。
「友達」
ぽつりと、モモは言った。
「ユキと、友達になりたかった、のかもしれない」
予想外の言葉に、私は意表を突かれた。
「と、友達?」
「……ああ、そうだよ! 悪いかよ! ワタシ友達なんていなかったんだもん! 仕方ないだろ!」
「え、でも、イサネちゃん、とかは」
「イサネは家族なんだよ! 九泉の連中を友達とは言わねえだろ! ワタシ引っ越してばっかだったしガキの頃は外見のせいでからかわれるし! もちろんムカつく奴は全員ぶっ飛ばしてやったけどなぁ!? でも親もいない頭も悪い性格も悪いじゃ、誰も友達になんてなってくれねえだろ! だから普通の女の子みたいに友達がほしかったんだよ! たとえそれがワタシをこんな目に遭わせた張本人だとしても、そんなこと今さらどうだっていいの! だって、お前くらいしか――」
捲し立て、視線を落とす。
「ワタシのことを理解してくれる奴なんて、いない気がしたんだ」
「…………」
俯くモモの手を取ると、驚いた彼女が顔を上げた。掌がわずかに湿っている。モモはモモなりに、決意を込めて告白したのかもしれなった。
「ねぇ、星河灯雨って人――知ってる?」
「な、なんだよ急に」
「たぶん、あの町で――モモと同じ中学校に通っていたはず。モモって、私より一歳年上だよね? 一年生にいなかった?」
「いや、知らないな……。そもそもクラスメートの名前すら覚えてねえよ」
「そっか……」
「なんだよ。そのホシカワってのがどうかしたのかよ」
「私の、大切な友達だった。でも、あの日私が意識を奪った。今も目を覚まさない。もうずっと覚まさないのかと――諦めてた」
モモと出逢うまでは。
モモの手を握りながら私は笑う。たぶん、今度は自然と笑えたと思う。
「モモは私の希望だよ。ありがとう、生きていてくれて。私はもうすぐ死んじゃうかもしれないけれど――最後にモモと出逢えてよかった。友達になれて嬉しかったよ」
「と、とも――」
「モモが私のことを友達だって言ってくれるなら、私は喜んでモモの友達になる。いや、もうなった、かな? うん、そうでしょ?」
「お、おう」
「一緒にアマゾネス系美女を目指そう」
モモも穏やかな笑みを浮かべた。それは年相応の、普通の女の子の笑顔となんら変わりはなかった。
「はん。ユキは美女ってより男役でも目指したほうがいいんじゃないか? ジェンヌ系美女な」
「それ褒めてんの? さっきモモの胸触ったけど、私の勝ちだね。イサネちゃんと大して変わらないんじゃない?」
「それは酷すぎるんじゃないかぁ!?」
モモが心外といった感じで胸を押さえた。私は自然と声を上げて笑えた。もう違和感はなかった。
「なぁ、そもそも――その予言とやらは信憑性があるのか? ユキが近々死ぬとかいうふざけた予言はよぉ」
「知らない」
「ただユキをビビらせるつもりなんじゃねえだろうな。ったく――世話が焼けるぜ」
モモは大仰に腕を組んで言った。
「よし、ワタシがお前を守ってやる。安心しな、ワタシがいる限りお前は絶対に死なせない」
「え?」
「だから今晩、お前の家に泊めてくれ。病院なんて一秒でも早く抜け出したいしな」
鳶色の瞳が力強い光を宿している。健康的な褐色の肌に、はらりと肩に垂れかかるアンバーブラウンの髪。くっきりした顔形はモデルのようで、やっぱり綺麗な娘だなと思った。
「……わかったよ。頼りにしてる」
友達。
つい先ほどまで、私達の関係をどう表現するかは複雑な問題が絡んでいてとても難しかったけれど。
一言で言い表せる繋がりになれるのなら、それは素晴らしいことだと思った。
病衣を脱ぎパーカに袖を通したモモは、スニーカーの紐を結び終えると大きく伸びをした。束ね直した髪が勝気に弾む。私もモモと小一時間話をして肩が凝ったけれど、胸の内はすっきりしてとても軽くなった気分だ。鰰田さんと目が合うと、彼女は私達の様子を察したのか柔らかく目尻を下げた。
昨日着ていたTシャツは捨ててしまったので、新しい服を鰰田さんに買ってきてもらったらしい。モモは半袖のTシャツだけでいいと言い張ったようだが、鰰田さんは至極真っ当な感性で冬用パーカも買ってきていた。
東京に来てからモモはホテルに滞在していたらしく、荷物もそちらにあるため今は完全に身一つだ。一昨日の黒いワンピーススーツ――あれは九泉の仕事服らしい――もホテルに置いてあるそうだ。
「じゃあ鰰田さん、また今度」
「はい。一応怪我人なのですから、無理はしないでくださいね。十六夜様には伝えておきますので」
「大丈夫だって。あの人大雑把だから気にしないよ」
「わたしは鯨伏の人間ですので。他家のことはしっかりさせていただきます」
「へいへい」
怪我の状態も良好なので、イサネちゃんは鰰田さんと一緒に明日には京都に帰るという。もしかしたら、もう二人と会う機会はないかもしれない。そう思うと少し名残惜しくもあった。
「じゃあな、イサネ」
モモがイサネちゃんの頭を撫でた。すると彼女が抱えていたボストンバッグから、何かが飛び出してきた。
「うおっ、こいつ――犬神じゃねえか!」
「あ、だめだよ出てきちゃ……」
バッグから半身を覗かせ鼻を鳴らしている小動物は、昨日のアヤカシ――犬神だった。ネズミ大の大きさで、体には斑模様があり、バッグからはみ出ている長い尻尾の先端は二つに分かれている。貌の皮膚に埋まりそうなほど小さな目、鋭く発達した牙と爪。しかし檻の中に閉じ込められていた時よりもリラックスした様子で、イサネちゃんに甘えるように胸元に前脚を伸ばしていた。
「残念ながら、犬はほとんど死んでいたみたいだけど……生きていた子は動物病院で治療を受けています。でも、この犬神の子を病院に連れていくわけにはいかないから」
「全然気づかなかったぜ。こいつ、本当にアヤカシなのか? モグラかなんかの新種じゃねえだろうな」
「霊玉の力も、だいぶ弱っているみたいです。もう、ほとんどアヤカシじゃなくて動物です」
犬神はイサネちゃんに撫でられ、気持ちよさそうに小さく鳴いた。
アマツカミに許可なく連れ帰ろうとしていることに少し驚いたけれど、別段止める気にもならなかった。私があの現場にいたことは知られていないので、無関係を装って知らないふりをしていよう。それにイサネちゃんに懐いているみたいだし。
「よし、じゃあ行こうぜ」
モモに続いて病室から出ようとした時、鰰田さんに呼び止められた。
「いろいろとご迷惑をおかけしました。どうか、お元気で。モモをよろしくお願いします」
「ユキお姉ちゃん、またね」
私は返事の代わりに頷いて、深く頭を下げた。
冷たい風が吹きつける昼下がり。
いつしか西の空から押し寄せた灰色の雲が太陽を呑み込み、辺りはどんよりと重苦しい暗さに包まれていた。乾いた空気が肌に痛く、叩きつけるような突風が目に沁みた。
モモと二人で、寄り道をしながら自宅へ向かった。予言のことは気にかかるけれど、モモと肩を並べて歩いている今は不思議と安心感があった。それはモモが強いからとかそういう理由ではなくて、きっとどこか似た色の哀しさや寂しさやを共有しているからのような気がする。私が加害者でモモが被害者という関係は変わらないけれど、モモが私を友達と呼んでくれるなら――私もそう在りたかった。
「たぶん、今誰もいないから。春は学校に行ってるし」
マンションには日が暮れて間もない頃に着いた。エレベーターで最上階まで昇り、玄関のドアを開ける。モモは〈作花〉の本邸に住んでいるらしく、こういう高層マンションが珍しいようだった。
「お邪魔しまーす!」
玄関に春の靴はなかった。まだ学校にいるのだろう。何の連絡もしていないので、帰ってきたらモモのことを話さなければならない。
「あれ? 誰かいるのか?」
背後から肩越しにモモが言った。
「いや、誰もいないはずだけど」
「え、でも――」
靴を脱いでいると、不意に冷たい風が通り抜けた。おかしい。窓を開けて出た覚えなんてないのに、どこから風が入ってくるのだろう。
モモが怪訝そうに眉を顰めている。
見ると、なぜかリビングのドアが開いていた。
――ぞわり、と。
背筋に寒気が走った。何か――何か妙な気配がする。自分の家だとわかっているのに、まるで知らない迷宮にでも踏み込んだような感覚に陥った。
なんだ――この胸騒ぎは。
モモが胸を押さえている。呼吸が荒い。いや、それは私もだ。全身に針が突き立っているかのような緊張と焦燥。
誰か――いる。
ヒトとは思えない歪な存在感を纏った『何か』だった。
「だ、誰……!?」
誰もいないはずの薄暗いリビング。
開け放たれた窓から這入り込む宵の風を背に受け――
その女は妖しく笑っていた。
「待っていたぞ、憑代の娘」
艶やかな声色だった。そして、この世のものとは思えないほど美しい女だ。背は高く、白い優雅なドレスはまるでギリシャ神話の女神のようで、黄金色の長髪と双眸が仄暗い部屋の中で光を放っている。寒気がするほど白い肌、顔には歌舞伎役者の火焔隈のような深紅の紋様。
人間ではない。
直感的に、本能的に、そう思った。
「ひ、人の家で何を――」
「ユキ!」
言葉を遮って、モモが私の前に飛び出した。肩が上下し、酷く息が乱れている。
「……てめえ、何者だ」
威嚇する声でモモは言った。
女はモモを一瞥しただけで、興味がないのか質問には答えなかった。ただじっと私のほうを見ているようだった。
窓から侵入したのだろうか。しかし、いったい何の目的で。誰が標的で。脳裏にはあの予言がちらつく。私が死ぬ理由。私を殺す者。まさか――この女がそうなのか。
そこで気づく。
女が右手に何かを持っていることを。
あれは。
お母さんの――
「その、ナイフは……!」
女が右手を掲げた。
右手にあるのは――お母さんの形見。黒く厳つい、仰々しい見た目をしたアートナイフだった。淡い輝きを放っているのは、柄に埋め込まれた白いスノークォーツ。
いや。
あれはただの石なんかではないことを、私はもう薄々察していた。葛籠の男の言葉は信憑性を増すばかりで、それは現状を認識すればするほど確信へと近づいてゆく。
あの石は――
「そなたが砂原雪花だな。砂原六花が遺した娘――アスィミアの器たる神格者。まだ幼いな――二十も生きていないか。だが同調は進んでいるようだ」
「なっ、お、お母さんを知って……!?」
「会ったことはないが、あの女がアスィミアの〈カルディア〉を持っていたことは知っている。砂原六花は数百年前に封印されたアスィミアとなんらかの形で接触し、そのカルディアを手にした。そしてどういうわけか――肉体を失ったアスィミアを甦らせるべく〈器〉を育てていた」
「な、何を言って……」
「カルディア――霊玉のことか! なんで霊玉のことを知ってる。誰なんだてめえは!」
モモが割って入る。だが女は見下すような目でモモを睨んだ。
「喧しいぞ雷の娘。そなたも神格者のようだが――紛い物か。所詮は小さき雷しか扱えぬ小娘に過ぎぬ」
「何――」
「柝雷に連なる者――〈柝花〉の娘だろう。九重黄泉、八雷神の一柱。ヒトの身でありながら未だに旧き神との合一を続けている愚か者共。だが小娘――そなたは神格者と呼ぶにはあまりにも矮小だな。震えているぞ、そなたのカルディアが」
モモが苦しそうに呻く。女は何もしていない。まるで見えざる蛇が私達に纏わりついているようだ。それでも――モモの苦しみ方は普通ではなかった。額に脂汗を浮かべ、体を震わせていた。
「用があるのはそなたのほうだ」
女が私を見て言った。
「一目見ておきたかったのだ。砂原雪花――そなたは特別な存在。そなたの神格ならば、新たなる神と共に永遠を謳うに不足はない。我が姉アスィミアの憑代となり、生まれ変わるのだ」
女が初めて動いた。一歩、また一歩、部屋の中を私のほうへと進む。
意味が――わからない。
この女はお母さんの形見を奪い、私を連れ去ろうとしている?
どうして?
私はいったい――
それは瞬きの間だった。肢体から桃花色の雷光を迸らせ、モモが女に飛びかかる。モモが突き出した右腕から稲妻形の光線が縦に走った。引き柝く雷――霊玉を受け容れたモモが得た異能。焚き火が爆ぜるような音と、次いで銃声のような乾いた音が鳴り響く。揺れる部屋。フローリングの床に罅が入り、近くにあった椅子が壁際まで吹き飛んだ。一瞬の間。桃花色に煌めくモモの躰から光が失われた直後、飛び散った液体が壁に染みをつくった。
「――まるで獣だな、柝雷の小娘。そなたの神格では私に傷一つつけられん」
「がっ、は……ッ」
「腐敗した女神が纏いし八匹の蛇よ。其は千のヒトだけではなくカミをも殺めるおつもりか?」
悠然。
女は身動き一つせずモモの速攻をいなし、それどころかモモに傷を負わせていた。胸を押さえ蹲るモモの手が、真っ赤に染まっている。
「て、てめえ……」
「蛇――蛇か。フフ、これは面白い。もっとも、我等の母は雷の蛇などではなく、死と再生の蛇だがな」
なんなんだ――この女は。
いや、今はそんな疑問を浮かべている場合ではない。モモを助けなければ。早く逃げなければ――
「ふざっけんな……! ユキは、ワタシが守る……!」
「モモ――」
再び立ち上がり、女と対峙するモモ。緋く染まったパーカ。靄のように滲む桃花色の光。窓から這入り込む冷気を浴びても、今は全く寒さを感じなかった。
右手にナイフを持ち、左手からは黄金色の光がわずかに零れている。間違いない、異能だ。だが私達が扱う能力と同質の力なのかどうかは判断できない。
「やれやれ、私の力も完全とは程遠い。旧きカルディアの欠片一つ砕けないようでは……。やはり神格者は合一前に消さねばならん。イレギュラーである彼岸西風天明も、今のうちに拘束しておいて正解だった」
「え――」
今――なんて?
手も、膝も、唇も震えている。けれど訊かなければならなかった。
「彼岸西風――って、黎さんを……」
「先日、私の同胞が捕まえたはずだ。優先事項だからな、溟海と現世との狭間で生まれた新たなる意識体――高き神格を有しうる者の確保は」
話がうまく呑み込めない。理解することを拒んでいるかのように、頭が回らなかった。
女が私達に背を向け窓の外に目を遣った。堂々たる立ち居振る舞い。どう見ても隙だらけなのに――私は微動だにできなかった。
「やがて溟き海から、大地を綾なす風が吹く。彷徨える魂に安らぎを与えねばならない」
女はそう言って、ベランダへと出た。宵闇の空を背にすると、女の黄金の髪と白いドレスは一層映え、神々しいとさえ思った。
「我が名はイリオシア。近い未来、この国を治める者の名だ」
最後にそう言って、女はベランダから飛び降りた。ここは最上階だ。常人なら無事では済まない高さだが、慌てて下を確認した時には既に女の姿はなかった。
お母さんの形見を奪われた事実に思考を巡らせるよりも、今はモモの傷のほうが心配だ。クローゼットの中から急いで大きめのタオルを掻き集め、胸の傷口に宛てがう。霊玉の力か、血は止まりかけているが――モモは苦悶の表情を浮かべていた。
「クソッ、わりいなユキ……。守るとか、カッコつけたこと言っといてこの様だ……」
「そんなこと気にしてる場合じゃないでしょ。傷はどう?」
「傷は大したことねえよ。それよりも、あの女――体の中の霊玉を直接ぶん殴ってきやがった。九泉の奴等を殺す方法を知ってるんだ」
イリオシアと名乗った、黄金の髪に白い肌の女。髪と同じ色をした、蛇のような瞳を思い出すだけで戦慄が走る。何かとてつもなく大きな災いが起こりそうな――そんな胸騒ぎがした。
その時、ポケットの中の携帯電話が着信を告げた。画面を見ると、電話は私が属する討滅課第三〇四班の明暗班長からだった。
「はい、砂原です」
「明暗だ。非常呼集が掛かった。呼集網図に従って次の者に回してくれ」
訓練以外で非常呼集が掛かったのは私にとって初めてのことだった。
嫌な予感がする。
「何があったんですか?」
「汚染体が都内で大量発生している。未曽有の事態だ」
とても書くのが苦しかったです。書きたい表現がうまく使えないというか……。
どうしても投稿間隔が空いてしまうので、勢いに任せて一気に書くという術を身につけたいですね。
次の章は短い話になると思うので、春になるまでには投稿したいです。




