ダイナシ仮面がやってくる!(お試し版)
我らの背後には民があり
彼らは、戦う力を持たず
――ゆえに我らは、退く事無く
されど彼らは無力あらず
我らに、力と勇気をくれる
――ゆえに我らは、負ける事無し
―――『鉄壁の守護騎士』ファリアス・バートン
老騎士ファリアス・バートンが砦の外壁から眼下を見渡すと、そこには彼の50年の人生の中で初めて見る光景…… 一言で言って、『絶望』が広がっていた。
砦の南西には見渡す限りの樹海があり、そしてその中にうごめく、数え切れないほどの魔物たちの群れ、群れ、群れ……。
それらが、ゆっくりとこのリグバ砦を目指して――いや、正確には獲物を求めて、その障害となるリグバ砦を踏み越えるべく進んできているのだ。
大地を埋め尽くすかのようなオークやゴブリンの群れの数だけでも絶望的と言うほかないというのに、それに加えて木々の梢を越す身長のオーガや巨人や巨大な魔獣なども混ざり、さらには空にまで幾多の種類の魔獣の姿が見られる。
その歩みは統制が取れておらず、見かける森の動物達に片端から襲い掛かっているようで遅々としたものだ。だがそれでも、今日の昼にはこの砦にたどり着くだろう、とファリアスは日頃の癖で無意識に白い豊かな顎鬚をなでつけながら考える。
歴史書にある、数十年から数百年に一度のタイミングで発生する魔物たちの大繁殖。神の試練とも、『眠れる大魔王』の呪いとも言われるその現象により溢れた魔物たちは、周囲の食糧を食いつくし共食いすら起こし、それでも飢えが治まらずにやがて更なる食糧を求めて人里へと侵攻してくる。
そして、単なる国境警備の砦であるリグバ砦とそこに勤める一中隊には、それらを撃退するだけの力はない。
魔物たちの進行方向がもう少し北か東にずれていてくれたらもう少しマシな砦があるというのに、何故わざわざその穴埋めの小砦に来るのだ、と文句を付けたいところだが、それを魔物に言っても仕方ない……とは、頭ではわかっている。
あらかじめ偵察隊から報告は受けていたにせよ、改めて魔物の群れをじかに目の当たりにしたファリアスは、絶望の悲鳴を上げたい気持ちになった。なんだったら、妻と娘の名を連呼しつつ泣き叫びながら剣を滅茶苦茶に振り回し始めてもいいし、いっそこの外壁から身を投げ出したっていい。
しかし彼にも、国境警備隊の中隊長としてこの砦を預かる責任と、辺境に飛ばされる程度とはいえ騎士の端くれとしての矜持があった。
この時ファリアスは齢50、この時代においては老境と言っていい年代で、実際に頭は白く染まりその生え際はだいぶ後退、職業柄日々の鍛錬を欠かしたことはないが、それでも腹回りの肉が大分ついてきている。そんな彼が、引退前の最後のお勤めとばかりに、貧乏くじ3割に出世7割といった具合で隊長職を得て辺境の砦に配属され早数年、しかしそれも後数ヶ月ほど勤めれば晴れてお役御免だったという頃合にこの事態とは、彼としては『間が悪い』にもほどがある。
小さく嘆息するに止めると、ファリアスは精一杯の威厳を取り繕って背後へと向き直った。
そこには、彼の部下達が整列していた。
先ほどこの砦には中隊が勤めてると言ったが、実際には部下達の数は半数以下に割り込んでいる。加えて言えば年かさのものばかりで、ついでに言えばむさくるしい野郎ばかりである。この事態を王都と周辺の村々や砦に知らせるため、と言う名目で、歳若い者を中心に後方に送っているからだ。
つまり今この場にいるものは、年老いたものであったり、身寄りのないものであったり――要するに自分も含め、比較的惜しくないと判断されたものたちだ。
貧乏くじと言う他ない。しかしその顔にはどれも、悲壮な表情は浮かんでいなかった。
どの顔にも覚悟を決めた者特有の、晴れやかな笑みが浮かんでいる。
立派な部下達だ、と誇らしく思う。
家族の元へ帰してやりたいな、と心から思う。
――それは無理な相談だが、と悲しく思う。
「――諸君」
彼の元に残った部下達を顔を見回して一瞬の感慨に耽った後で、意識的に落ち着かせた低い声を発する。
「状況は見ての通りだ」
肩越しに親指で砦の外を指し示し、端的に説明する。
「それを踏まえた上で、諸君らに一つ、命令を下そう」
改めて言葉にするまでもない。この場にいるという事は、つまりそういう事だ。しかしそれでもファリアスは、あえて改めてそれを明確に口にした。
「ここで死んでくれ」
――部下達の反応はない。
それに構わず、ファリアスは淡々と言葉を続ける。
「状況は深刻だ。しかし、絶望ではない。我らには賢明なる王も、才気溢れる将軍もおられる。そしてその周囲を守る勇壮なる騎士団もついている。この程度の困難はたやすく打ち破ってくださるだろう」
……そこまで事態は簡単ではない。しかしファリアスにできることは、たった二つしかないのだ。即ち、自分が口にした事が事実となってくれると信じることと、そしてもう一つだけしか。
「だが、そのためには……しばしの時間が必要だ」
王都からにしろ近隣の砦からにしろ、軍を動かすには準備が要る。
それを実行するには手続きが必要で、そうと腰を上げるのには決断が必要だ。
どれにも時間が必要なのだ。そしてそれが、致命的な手遅れになる前に終わってくれるとも限らない。
「十分な準備なくば、災いは我が王国を蝕み、その皺寄せは無辜の民に降りかかろう」
そう、ことは王都さえ防衛できれば良いというものではない。
この砦と王都の間には、いくつもの町や村が存在する。
ファリアスの家族は王都在住だが、部下達の中にはそれらが故郷と言うものも多い。
可能な限りそれらの村々・町をカバーできる防衛線を構築するために、カバーし切れなかった地区の住人達を避難させるために。
――そのための時間は、たった一瞬とて千金に値する。
だから。
「そのための時間を稼げるのは、今ここに居合わせた我々だけだ」
時間を稼ぐこと、その間に態勢を整えた王都が迎撃に成功してくれると信じること……その二つだけが、自分にできることなのだ。
正直なところ、何故自分がこんな貧乏くじを、という気持ちがあるのは否めない。
しかしこれは、仕方ないことだ。
今この場に居合わせ、多少なりとも何かができるのは自分だけ、自分達だけなのだ。
それを放棄してしまえば、前途ある若者や無辜の民にその皺寄せを押し付けてしまうことになる。
そうであるよりは、そこそこ長く生き、そしてある程度の責務のある自分が貧乏くじを引き受ける方が、幾分かは正しかろう。
もう少しばかりのお勤めを済ませたら、余生を楽しみたい気持ちもあったが……それを仕方ないことだ、と自分に言い聞かせて自らを説得できる程度には、良くも悪くもファリアスは老いていた。
とはいえそんな本音は可能な限り隠し、ファリアスは威厳を装って部下の前で士気向上に努める。
「だから、もう一度命じよう。諸君、我が国のために、我らが王のために、我らの家族のために……」
そこで言葉を切り、部下達の顔を見渡す。
「私と共に、ここで死んでくれ」
そこまで言って、ほうと一息つくファリアス。無意識に手が髭に伸びる。
長広舌は、本来の彼の得手ではない。辺境に配属される程度の生涯下級騎士で、勤続年数だけを評価されての隊長に、そんなものを求めてもらっては困るのだ。
だがしかし、今はそれが必要な時だ。はったりでかまわない、それらしい言葉を紡げと内心で自分を叱咤しつつ、ファリアスは精一杯に威厳を保ちながら語り続ける。
「そして、厚かましいことを承知の上で、もう一つ命じさせて貰いたい」
一瞬、間を取って部下達を顔を見渡し。
「簡単に死なないでくれ」
……その言葉は、しかし生存を期待するものではなく。
「諸君らが一体でも多くの敵を倒せば。
一体でも多くの敵を引き付ければ。
一太刀でも多く剣を振るえば。
一瞬でも長く生き延びれば。
それだけ、王都の準備に費やせる時間が増える。
それは即ち、我らの背後にある者達を、一人でも多く救うことだと考えてくれ」
どうせ死ぬなら、命の搾りかすまでを時間稼ぎに費やせと、そう命じる。
ファリアスはふと、王都の家族を思う。
妻は、当時の上司の紹介で結婚した、ごくごく平凡な女だ。取り立てて器量よしと言うわけでもないが、くるくるとよく働き、常に笑顔を忘れない愛嬌のある存在だった。万年下級騎士で大した稼ぎもなく苦労のかけ通しの家計をうまく切り盛りし、このような辺境に配属された夫に文句一つ言う事なく送り出してくれた妻を、彼なりに大切に思っていた。
彼女がこまごまと折に触れて送ってくる、ただただ日常に起こった盛り上がりもなにもないささやかな事柄を書き記すだけの手紙は、しかし辺境にあって任務に励む彼の支えと言ってよかった。
娘は、嫁に出て久しい。
なのになかなか子ができずにいたが、つい先日の手紙でとうとう授かったとの知らせが届いた。
彼にとって、念願の初孫である。
その手紙を読んで、年甲斐もなく大声を上げてはしゃぎ回ってしまい、部下達を驚かせてしまったのを思い出す。
生まれてくる孫は、男の子だろうか? 女の子であろうか?
どちらであっても元気に生まれてくれれば、と願ってやまない。
任期明けの頃には生まれているはずなので、その時には真っ先に訪れようと考えてた。
そしてこちらは何もない田舎暮らしで、加えて自分は酒や女や賭け事に走るにはいささか枯れている。つまりなけなしの給金もそれなりに貯まっていて、ここぞとばかりに祝いの品を奮発しようと画策していた。
その案の難点はといえば、無骨者の自分には子を授かったばかりの娘に何を送ればいいのかが皆目見当もつかないことだが、それは妻と連れ立って探せばいいだろう、と楽観していた。
妻が「本当にしょうがない人ですねぇ」ところころ笑いしながら、しかしきっちりと手際よく手配してくれる光景が、彼には目に浮かぶようだった。
……ファリアスは軽く目を伏せて益体もない刹那の回想を振り払うと、改めて部下たちの顔を見渡し、深々と頭を下げた。
「どうか、よろしく頼む」
――部下達の反応は、やはりない。
しかし、ファリアスがある種の確信をもって顔を上げれば……果たして予想通りに、そこには不敵な笑顔が並んでいた。
何を今更水臭いことを言っているのかと。
そんなことは百も承知だと。
自分達にだって、守りたいものくらいあると。
そのための覚悟なら、とっくにできている、と。
彼らの笑顔は、何よりも雄弁にそう語っていた。
それを確かめて、ファリアスの口元にも笑みが浮かぶ。
自分は、本当に部下に恵まれた。そんな部下達のいるこの砦に配属されたと言う皮肉な幸運を噛み締めながら、老隊長は言葉を続ける。
「まぁ、幸いなことに……」
その口調は、今までと違い、大分くだけたものだった。
「先だって後方に送ったヒヨッコどもの中に、とある伯爵家の次男坊様が混じってる」
ああ、アイツか、と部下たちの表情に微笑ましげなものが浮かぶ。
本人の酔狂か、あるいは家の意向か、なんにせよご苦労なことにわざわざこんな辺鄙な田舎砦に赴任してきたやんごとなき小僧サマは、最初は鼻持ちならない典型的な貴族のボンボンではあった。しかし、なにせここは大貴族サマのご威光とどかぬ辺境である。遠慮なく何度か叩きのめして揉んでやるうちに、次第に態度を改め、こちらを慕うようになった。そしていつしか、若手の隊員達のまとめ役的な存在に――それを任せられる隊員に育っていたのである。
若手達を後方に送る際、当然そのリーダーを任せようとしたのだが、最後までそれに反対し自分も残ると言って聞かなかったのを「貴族としての職務を果たせ」となんとか言い包めて送り出したのも微笑ましい記憶だ。人間、変われば変わるものである。
だがしかし、その言葉は決してごまかしではない。
大繁殖の報告を、中央の石頭どもに「何をバカな、ありえない」と一蹴されてしまってはあまりに報われない。
けれども。
「貴族の端くれたるヤツの口からこの事態が報告されれば、王都も無碍にはすまい」
そう言ってファリアスは、にやりとおどけた、しかしどこか不敵な笑みを浮かべた。
「喜べ諸君。我らは無駄死にせずに済むぞ」
その豪胆なかつ悲壮な軽口に、部下達も違いない、そりゃあよかった、と笑い声を上げる。
ひとしきり笑い合ったあと、部下の一人から砦の内壁に自らの名を刻むことが提案された。
群れに目を向ければ、巨大魔獣や巨人達も立ち並んでいる。その巨体の前には、砦ごと破壊され、刻まれた名も塵と消える可能性も高いのだが……それを指摘するものは誰もいなかった。
一通り刻み終わった後で、全員でそれを一つずつ順に読み上げていく。
中にはこの期に及んで綴りを間違える者や、皆がずっと呼んでいた名は通称で今初めて本名を知られたものなどもおり、それを指摘しあって最後まで笑い声が絶える事はなかった。
彼らは再び、外壁に昇り整列する。
魔物の群れは、もうすぐそこまで迫っている。
それを一瞥し、ファリアスは部下達へと向き直った。
そして涼やかな音を立てて、腰の剣を抜き放つ。
部下達もまた同じように、剣を抜き放った。
「――諸君」
ファリアスは、その剣を高々と天に掲げた。
「我らが誇りと忠誠を示すは、今この時ぞ!」
「「「「おおおおおぉおぉおおお!」」」」
部下達も同じく剣を天に掲げつつ鬨の声を上げながら、彼らは老騎士の背後にドンと炎の柱が吹き上がるのが見えた気がした。
「な、なんだ?! 何が起こった?!」
「「「「……え?」」」」
ファリアスが慌てふためいて背後を振り返るのを見て、部下達は一様にいぶかしげな表情を浮かべた。
その姿は赤々と照らし出され、ついでに肌を焼く熱気と、焼き焦げる匂いがここまで漂ってくる。
ひょっとして……今のは……老騎士の気迫を感じたとかでなく……
もしや、マジモンの火柱?
慌てて我先にと外壁に取り付いて眼下を見渡せば、魔物たちの蠢く森のど真ん中に火の手が上がっているのが見て取れた。突然の破壊現象に、魔物たちも混乱しているのがここからでも分かる。
一体何が起こったのか――?
一同の困惑に拍車をかけるように、さらにどんどんどんと連続で巨大な火柱が立ち上り、魔物たちを木の葉のように吹き飛ばしていく。
さらには火柱だけでなく、別の場所では巨大な岩の槍が天を衝き、また別の場所では晴天にも関わらず轟雷が降り注ぎ、鉄砲水によって押し流され、森の一角が白い霜を吹いて凍りつき、吹き荒ぶ竜巻が一帯を薙ぎ払う。
天災と言うにはあまりにも無秩序でありながら、しかし被害を被るのは魔物たちだけという自分達にとって都合がよすぎる現象。
本当に、一体何が起こっているのか?
「お、お前何者だ!?」
理解を超える事態にただ呆然と魔物たちに襲い掛かる災厄を見つめていたファリアスの耳に、部下のそんな叫び声が届いた。
そちらに目を向け、部下の視線の先を辿ると……。
「…………?」
いやホントに何者? という怪しい風体の人物が、無造作に外壁の縁に片膝を立てて座っていた。
おそらく体つきからして男。年齢は不明。ごくありきたりな生成りのシャツとズボンの上から要所要所のみを簡素な革のプロテクターで覆い、その中でこれだけは立派な拵えの頑丈そうな編上げブーツを履いているという、言ってみれば駆け出しの冒険者としてならありきたりな服装をしている。
それだけならば、別に怪しいところはない。いや、そんな服装の人間がこんな所にいると言うのはある意味で怪しいが、この人物の怪しさは一目で分かる顔の部分にあった。
どう見ても麻袋――どこからみてもごく普通の目の粗い麻袋で、すっぽりと頭を覆い隠しているのだ。
もちろんというべきか装飾らしきものはなく、目と思わしき部分に2つ、乱雑に穴が開けてあるだけだ。しかしその部分は月のない闇夜のごとく漆黒で、そこにあるはずの瞳はどうやっても見えず、その視線がどこを向いているかも定かではない。
怪しい。
怪しすぎる。
怪しすぎて、むしろ逆に反応に困る――!
その怪しい麻袋の男は、部下の誰何の声もどこ吹く風、こちらに目を向けることもなく、掲げた右手で無造作に時おり指を弾いて鳴らしている。
部下が声をかけたものの、どう対応すべきか誰も判断がつかないうちにも、我関せずとぱちり、ぱちりと指を鳴らし続ける麻袋の男。
その間にも彼の背後で、魔物たちを蹂躙する天災は起こり続けている。
「…………?」
「……お、おい、あれって」
「も、もしかして」
「いや、でもまさか……」
そして次第に、一同に更なる困惑が広がっていく。
麻袋の男が、指を鳴らす。すかさずその背後で爆発が起こり、魔物たちを吹き飛ばす。
麻袋の男が、指を鳴らす。間を置かずその背後で中空に巨大な氷の塊が見る見るうちに氷結し落下、魔物たちを押しつぶす。
麻袋の男が、指を鳴らす。それと同時にその背後で地割れが起こり、魔物たちを飲み込む。
麻袋の男が、指を鳴らす。その瞬間、その背後で間欠泉が噴き出し、魔物たちを宙へ跳ね上げ、あるいは蒸気で焼く。
麻袋の男が、指を鳴らす。……魔物たちが動きを止めたがそれ以上は何も起こらない……と思っていたら魔物たちが蒸気を噴き始め、その後内部から炎が上がり焼き焦がされていく。
その目で見ても信じられない。しかしどう見ても……麻袋の男が指を鳴らすたびに、彼の背後で天変地異が起こっているように見える。
つまり……この天変地異は、この怪しい麻袋が、引き起こしている……?
何を馬鹿な、とファリアスは自分の考えを否定した。
おそらく部下達も同意見だろう。
騎士の端くれとして宮廷魔術師の術を見た事があるが、あの規模の魔術を行使するには、事前に魔法陣や触媒を用意し、一流と呼ばれる術者たちが十数人は集まり、長い詠唱を唱和して初めて成功させていたし、しかもそれは今ぽんぽんと起こっている現象の一つにやっと匹敵する程度だった。
このように詠唱もなく指を弾くだけで、しかもここまで続けざまにこれほどの規模の術を発現させるなど、魔法に明るくない自分ですら「ありえない」と断言できる。
しかし一方で、ただでさえありえないこの天変地異と、この怪しい麻袋の男が無関係ともとても思えない。
どうにも反応に困って、その場の誰もが麻袋の男と、吹き散らされる魔物たちを交互に見やるだけでいた。
いくばくかの、膠着状態。
それを破る動きは、麻袋の男の方に現れた。
「――こんなモンか」
指を弾くのをやめ、ちらりと背後に顔を向けた麻袋の男が、そう呟いたのだ。
そして男はひょいと無造作に外壁から降り立つと、ぱんぱんと乱雑にズボンの埃を埃を払い……。
「オマケ」
「「「「?!」」」」
何でもないような仕草で空に大きく右手を振るうと、晴天の昼日中にあってなお星々のように輝く魔力球が、それこそ夜天にひしめく星空のごとく数え切れないほどに空を埋め尽くし、一同を絶句させる。
事前準備がないとか詠唱がないとか以前の問題の、ありえない魔力行使量であった。
「ほい」
そんな反応を歯牙にもかけず、麻袋の男は右手を森に向けてかざす。
その気負いのない声とは裏腹に、魔力球は唸りを上げる速度で各々に弧を描いて、まさに流星雨のごとく森に殺到。
それらはすぐに梢の中に消えたが……時折漏れる音や光からするに、木々の合間を縫うように飛び交いながら、その進路上にあった魔物をことごとく貫いているだろうことは、想像に難くなかった。
ファリアスは、ごくりと生唾を飲み込む。
今ので、やはりあの一連の天変地異をこの麻袋が起こしたと信じるほかなくなった。
後の問題は――それだけの力を振るった後で、この男がどのような行動に出るか、だ――
誰かが彼に声をかけ、その辺りを聞き出す必要がある、のだが……。
ちらりと周囲を見渡す。部下達の半分は麻袋の男を凝視しており、残りの半分はちらちらとこちらを横目に見ている。
ファリアスは無意識に髭を撫で付けながら、小さく嘆息した。
その視線の意味はよく分かる。分かりたくないが分かってしまう。
そら、隊長たる自分がいくしかないわな。
正直気は進まないが。
気の進みようがないが。
気の進むはずもないがっ!
ファリアスは一瞬瞑目すると、嫌々ながらも意を決し、前に進み出て声をかける事にした。
「あー……魔術師どの?」
どう呼びかければよいか少し迷ったが、すさまじい魔術を連発していたので、とりあえずそう呼んでみた。
頭のアレを抜きにしても魔術師だとはとても思えない風体だが、さすがに麻袋と呼びかけるわけにもいかない。
その呼びかけに、麻袋の男がこちらに視線を向けた……ような気がしたが、なにせ相手の目が見えないので自信はない。とりあえず、そうと仮定して呼びかけを続ける。
「その……今の魔術は、お手前が?」
「ん、まぁね」
はい肯定はいりましたー。
予想以上に軽い返答に少々の頭痛を覚えながら、ファリアスは距離感をつかめないままに会話を続けようと試みる。
「失礼、申し遅れました。自分はこのリグバ砦を預かる中隊長、ファリアス・バートンと申す者。魔術師どののご助力に感謝いたします」
そう言って、左胸の上に右拳を添える騎士礼をしながら頭を下げる。
実際、感謝はある。この麻袋の男がいなければ、自分たちは枕を並べて討ち死に確定だった。
「あー、気にしなくていい。こっちにも思惑があってのことだ」
しかし麻袋の男は、手をぱたぱたと振ってそれを軽く流す。
「思惑……ですか?」
ファリアスの声に、固さが混じる。
場合によったら国すら傾く大繁殖を、単騎でほぼ撃退しているのだ。その代償を支払わねばならないともなれば、どれほどの事が必要か、見当もつかない。
ここまでの大事ともなればそれに対応するのは中央のもっと地位の高い面々の仕事ではあるが、彼も関係者の一人としてわずかに戦慄を覚えてしまう。
しかし麻袋の男は、そんなファリアスの様子に気付いたらしく、「違う違う」とまたぱたぱたと手を振った。
「俺はちょっと、アンタに聞きたい事があるだけさ」
「私に……ですか?」
その言葉に、ファリアスは困惑する。
聞きたい事があるだけ、という申し出そのものも予想外だからだが、加えてこれほどの技を振るう人物を満足させるに足ることを話せるだろうか、というのもある。
それは、そんな人物が知りたがるともなれば国家機密級のよほどの事だろうし、そんな重要な情報であれば迂闊に口にするわけにはいかないということであり、同時にそれほどの重要情報、そもそも一介の辺境騎士たるファリアスの立場では知りえないのではないか、と言うことだ。
しかしだからと言って、これほどの恩を受けた相手に拒絶はしにくい。
そんなファリアスの困惑を知ってか知らずか、麻袋の男は気楽な口調で続けた。
「聞きたかったのは、アンタの心持ちってヤツだ」
そこで麻袋の男は一度、こほんとわざとらしい咳払いをする。
我知らず、ファリアスは居住まいを正した。
「アンタ……魔物の大繁殖を前にしてさ……」
そして麻袋の男は、語り始める。
「若い連中を先に逃がすなんていう、リアル『ここは俺に任せてお前らは先に行け!』な事してさ」
ファリアスの頬が、ひくりと引きつった。
「そんでもって、残った部下並べてその前で、チョーっカッコいい演説かましてさ」
ファリアスの額から次々と脂汗が浮き始め、流れ落ちていく。
「その上自分達の名前を壁に刻みまでしちゃって」
その顔色は、赤くなったり青くなったりと落ち着かない。
「その挙句に、こうして無事生き残っちゃったわけだけど……」
老騎士の視線が、四方八方へと彷徨う。何を必死に探しているのか、それは本人にも分からない。
そんなファリアスに、麻袋が下から覗き込むように顔を寄せる。
瞳を写さない黒穴だけのはずのその顔が、にたりと笑ったようにファリアスには感じられた。
「ねぇどんな気持ち? ねぇねぇ今どんな気持ち?」
……ファリアスからの返答はない。
彼は、リグバ砦を預かる責任と騎士としての矜持、それから若干の死を前にしたヤケクソに任せてあんな事をしたわけだが……。
――自分はひょっとして、とんでもなく恥ずかしい事をしてしまったのだろうか?
自分が勢い任せでやったことを冷静に振り返る羽目になっているファリアスに、返答をする余裕などあるはずもなかった。
不幸中の幸いだったのは、背後に並ぶ部下たちにはその様子を見られなかったことだろう。
なお、今の指摘を受けて衝動的に死を選ぶほどには若くもなければ誇りを最重要視する極まった騎士でもないことが、彼にとって不幸だったのか幸いだったのかは定かではない。
返答はないままに、しかしファリアスの顔を下から覗き込んでいた麻袋の男は、身を起こすとうんうんと満足げに頷いた。
……いや表情は麻袋に隠れて不明だが。こう、仕草的に?
そして一言。
「いい顔が見れた」
あまりと言えばあまりの表現だった。
そして。
「とう!」
唐突に、掛け声と共に飛び上がった。
思わず身構える面々をよそに、麻袋の男は膝を抱えつつくるくると回転しながら後方へと飛び、軽やかに外壁の角へと着地した。
「我が名は……」
そして身を起こし、左拳を腰にあて、ぴんと指先まで伸ばした右手を左に振り、
「ダイナシ仮面!!」
その名乗りと共に、ずばんと手刀を一気に右まで振り抜いた。
ついで腰を落とし、左手の平を前に突き出し、右拳を麻袋の横に添えて。
「勇壮なる悲劇を、喜劇に貶める者なり!」
そう、高らかに宣言する。
「「「「「「………………」」」」」」
一同、言葉もない。
大繁殖から始まる衝撃的な出来事の連続に、さすがにそろそろ理解が追いついていかなくなっている……と、言いたい所だが、この名乗りの場面だけ抜き出して見せても、反応はやはり絶句だった可能性も否定できない。
言葉もなく立ちすくむリグバ砦の面々と、ポーズを決めたまま微動だにしない麻袋の男改めダイナシ仮面。
しばし、沈黙の時が進む。
「…………」
不意に、ダイナシ仮面が無言で居住まいを正す。
そして、それを呆然と見守る一同を一瞬見渡し。
「では、さらば」
「?!」
ごくあっけなく、背後の外壁の外へと身を投げ出した。
一瞬の忘我の後、ファリアスは慌ててダイナシ仮面が身を躍らせた外壁へと駆け寄った。外壁の高さは、樹海の木々の梢を下に見る高さだ。そこから落ちたら、普通ならただでは済まない。
……普通なら。
はたしてファリアスが外壁から下を覗き込むと、しかしやはりあの麻袋の男の姿は影も形も見えなかった。
本人の姿はもちろん、砦のすぐ外で生い茂る木々や茂みにも、着地の痕跡どころか葉揺れすらまったくない。
空中で霞と消えたかのように……いや、あんな怪しい男など最初から幻であったかのように、きれいさっぱりと消え失せていた。
「……な、なんだったんですかね、アレ?」
いつの間にか隣にやってきていて、同じように下を覗き込んでいた部下の一人が恐る恐る、と言った風情で問いかける。
それに対するファリアスの答えは、一つしかなかった。
「知るか」
吐き捨てる、としか言いようがないその答えを聞いた部下に、「ですよねー」とでも言いたげな曖昧な笑みが力なく浮かぶ。
……しばし呆然としていた一同だが、仲間達の呼びかけと、彼らが指し示すものを見て気を引き締めた。
魔物たちが、散発的に砦に取り付き始めたのだ。
魔物たちの大部分はダイナシ仮面に蹴散らされ、残った魔物も四方八方に逃げ出したが、元の数が膨大だっただけに決して少なくない数が砦の方へと進んできている。
どう考えても絶望しかなかった先ほどまでと違い、砦に篭って迎撃すれば今の人員と備蓄でも持ちこたえられる見込みが十分にある程度だが、逆に言えば対処しないわけには行かない程度には脅威である。
「隊長」
「うむ」
部下の呼びかけに、ファリアスは気を取り直す。あれやこれやのドタバタの連続はまだ消化不良だが、なんにせよ全滅必至が一転して生存の目が出たのだ。この期に及んで死ぬのはあまりにも馬鹿らしい。
ファリアスは改めて、剣を天に掲げた。
「迎撃開始! 諸君、生き残るぞ!」
「「「「「おおおおおお!!」」」」」
老騎士の宣告に、勇ましい声が唱和する。
こうしてリグバ砦国境警備隊の戦陣が、本当の意味で斬って落とされた。
――そのことに気を取られ、この時ファリアスは痛恨のミスを犯した。
一連の衝撃の連続を考えれば、この程度の見落としも仕方ないことであるとは言える。しかし、ミスはミスとして、その後の彼の人生に影を落とすこともまた、避けられないことでもあった。
そう、ファリアスはこの時の判断ミスを、一生悔やむこととなる。
……後に『守護騎士の碑銘』と称されることになる、壁に刻んだ自分達の名を削り落とし忘れたことを。
ガリウス・アレンクリフの現在の肩書きは『王都防衛軍・第一偵察小隊隊長』である。
人によっては『アレンクリフ伯爵家第二子』と言う肩書きの方が重要視されるかもしれない。
しかし彼自身として最もしっくり来る、胸を張って名乗れる肩書きは『リグバ砦国境警備隊・第四小隊隊長』、であった。
甘ったれの自分の性根を叩きなおしてくれたリグバ砦の先輩達。そんな彼らが自分のことを認めてくれた証とも言うべき、小隊長の役職。
アレンクリフ伯爵家の子息として大抵のものは与えられてきた自分にとって、初めてと言っていい「自分の力で勝ち取ったモノ」であった。
だがそちらは一旦さておき、現在の肩書きの示す通りに彼は三名の小隊員を率い、一路リグバ砦を目指して馬を走らせている。
偵察隊としては少々慎重さに欠けるというか、急ぎすぎの進行模様である。
しかし、敬愛する(心の中では、第二の父親と思っている)老中隊長に「貴族としての職務を果たせ」と後事を託され、リグバ砦を発ってから既に10日。貴族らしいガリウスの金髪碧眼の端正な顔立ちは、焦りに彩られていた。
公平に考えれば、辺境の砦から王都まで赴き、そこで雑務をこなしてとんぼ返りにここまで来て10日、というのは驚異的と言っていい速度だ。
だがその10日という時間は、大繁殖を前にした辺境の小砦という視点で見れば絶望と同じ意味を持つ。
しかし、それでも諦めきれないガリウスは、こうして焦燥のままに馬を急がせているのである。
この10日は、彼のそれまでの人生の中でもっとも必死だったと言って過言ではない。
10日前、周囲の砦や村々への伝達へと走る同僚達と別れたガリウスは、昼夜を問わず馬を乗りつぶす勢いで一路王都へと向かった。そして宿場町に着く度に、砦暮らしの中ではついぞ忘れていた「貴族の強権」を振りかざして次々と早馬や高速移動用の魔獣を徴収、それを乗り継ぐことでわずか三日で王都へとたどり着いたのだ。しかしそこで彼は旅の埃を落とすこともなく生家へと突撃(そう、まさにそう表現するに相応しい勢いだった)、父親たるアレンクリフ伯爵に直談判に及んだ。
伯爵は、放蕩息子と思っていた次男坊が殊勝に、しかし鬼気迫る様子で頭を下げて頼みごとをする様子にだいぶ驚いていたようである。だが、そこはそれ魑魅魍魎跳梁跋扈の王都を生き抜く政治家たる本領を発揮、息子に対してすら、ここぞとばかりに交換条件を突きつけてきた。
ガリウスはそれに躊躇どころか、検討すらせず全て了承した。
その必死の勢いに押されたのか、父はアレンクリフ伯爵家の培った人脈をフルに発揮することを約束、その甲斐あってその日の内に国王陛下への上奏を果たした。その後も父の根回しがうまく行き、あれよあれよと言う間に、大繁殖を迎え撃つための出兵が決まったのだ。まずは一安心、と言ったところであった……がしかし、そこでガリウスは息をつくことなく、さらなる我儘をねじ込んだ。
その結果として、彼はこうして偵察小隊の隊長の地位をもぎ取り、同じリグバ砦の隊員から二名を選んで引き連れ、こうして馬を急がせている。
本当ならば早急に援軍を率いてリグバ砦へと駆けつけたかったのだが、さすがにそれはコネでどうにかなるものではなかった。それでも王都防衛軍本隊に先んじて砦に向かえるのならば、彼としては文句はない。
あるのは、焦燥だけだ。
しかし、ガリウスとて先輩達の心配だけで猪突猛進をしているわけでもない。もともと、「大繁殖と思われる魔物の姿を発見するまで」という任務を帯びているのだ。つまり「大繁殖による魔物の侵攻がどこまで進んでいるか」の確認が任務であり、それを確認したら本隊へと引き返さねばならない。
そしてここに至るまで、魔物との遭遇はなかった。
彼の中の冷静で計算高い部分は、もっと王都寄りの場所で大繁殖の魔物と遭遇しなければおかしい、と判断していた。
同時に今の彼の大部分を占める最前線に残してきた先輩達を心配する部分は、これ幸いとここまで馬を進めていた。
このままで済むはずがない、と彼の冷静な部分が告げる。
このまま砦までたどり着ければ、と彼の感情的な部分が叫ぶ。
だから、結局魔物と遭遇することなくリグバ砦の裏門を目にしたとき、ガリウスの心中は歓喜と不審がない交ぜになった複雑なものだった。
しかしそれも、砦に近づくに連れて喧騒が聞こえてくるに連れて、喜びの比重が増す。
まだ戦っている――つまり、まだ生きている者がいる!
「か、開門! 開門っ!」
馬から転がり落ちるように門に駆け寄ったガリウスは、必死の形相で門を叩き、そう絶叫する。
小なりとはいえ数十人を収容する砦、その門ともなれば相応に巨大で、人間が叩いてどれだけ響くかは疑問だが、そんなことは思いもせずにガリウスは――そして同道した同僚達も同じように、縋りつくように門を叩きながら「開門!」という絶叫を繰り返す。
果たして――ほどなく、門扉は重々しい音を立てて開かれた。扉を開いた人物を見て、ガリウスたちは喜色を浮かべる。
「イレン隊長! ご無事で……!」
「おう、早かったな」
にっかと笑うその人物の名はイレン・マグダネル。長身のガリウスですら見上げる体躯を持ちながらその顔つきは意外に親しみやすい、砂色の髪を短く刈り込んだ壮年男性である。ガリウスの呼び名の通り第一小隊の小隊長であり、この中隊の副官的存在でもある。
……本来ならば中隊長つきの副官はまた別に存在するのが正しい組織図なのだが、こういった辺境においてはこの手の兼任や簡略化はしばしば見られる。
それはさておきガリウスたちは互いに無事を喜びあい、他の面々も大事ないことを確認したうえで、手早く必要最低限の情報交換を行った。
イレンの話でも、危機を潜り抜けた詳細に関しては説明してもらえなかった。「説明されても信じられないだろう……色々な意味で」と言われただけである。だが、その後の流れに関しては教えてもらえた。大繁殖の大部分を退けた後、散発的に襲撃する魔物たちを、交代で迎撃しているそうだ。交代と言っても仮眠しか取れずどの隊員にも疲労も溜まっていて、死者こそいないものの怪我人は徐々に増えてきているという。近隣の大砦からの援軍も期待はしたが、今をもってそれがないという事はそちらはそちらで残党の迎撃に忙しいのだろう、援軍が来ているならなるべく早く来て欲しい、とのことだった。
早速その情報を部下二人に託し、本隊へと走らせる。
本来ならば偵察小隊の隊長たるガリウス自身が持ち帰るのが筋ではあるが、既に脅威は去ったと言うなら――少々信じがたいがそれが本当だと言うのなら――このくらいの公私混同は許してもらおう。まだ戦闘続行中につき至急その救援を行なう為、と言えば良い訳も立つし、あながち虚偽でもない。
そのガリウスは、彼がもっとも気にしているファリアス隊長の安否を自らの目で確かめようと、イレンに教えられた通り隊長室に向かった。ファリアス隊長は現在そこで仮眠を取っているらしい。そして扉が開け放れたままの隊長室を覗き込み……部屋の隅の椅子で、剣を抱きかかえるように蹲るファリアスの姿を見て腹の底が冷え切る感覚を覚えた。
だがすぐに、静かに寝息を立てている様子をみて、自らの早合点に気付く。
「たっ……!」
そうなると、止まらなかった。脳裏にこの10日間の冷静な諦めと微かな希望が終わりなくせめぎ合った葛藤がよぎり、事前の「休んでいるなら、起こしては悪い」「無事な姿だけ見せてもらおう」といった配慮も吹き飛んだ。
「だいぢょう~~~っ!!」
ガリウスは涙と鼻水を溢れさせながら、今の今まで蓋をしていた激情の赴くままに老隊長へと抱きつき。
寝入りばなに抱きつかれたファリアスは、「んあ?」と寝ぼけた声を漏らした。
王国暦317年、ラムリス王国南西部の大樹海を臨むリグバ砦よりもたらされた「大繁殖の発生」の報は、文字通り王都を震撼させた。それが本当ならば未曾有の危機ではあるが、だからこそその真偽に対して慎重なスタンスを保とうとした――ストレートに言えば、そんな事があるわけがないと斬って捨てようとする動きもあったのだが……しかし実際にはいくつかの政治バランスの歯車がうまくかみ合い、奇跡的な迅速さで派兵が決まった。
そして出立した防衛軍を見送った王都はしかし、時置かずしてもたらされた「大繁殖を鎮圧」の続報に別の意味での衝撃を受けた。
その報そのものもさることながら、さらに「死者0」という信じられない報告に、誤報だったのではないか、いっそ大繁殖発生の報自体が捏造ではないか、などなどの論議も飛び交うこととなるのだが、実際に現地を見た全ての者が証言した壮絶な破壊の痕跡や、王都防衛軍が持ち帰った膨大な魔物素材の前にはそういった声も程なく消えていくこととなる。
伝わる話によれば、防衛軍が現地に辿り着いたときには大繁殖の群れは既に壊滅状態で、散発的な群れを蹴散らす程度で済んでしまったと言う。
別の表現をすれば、鳴り物入りで出立した防衛軍ロクに剣を振るうこともなく、しかし希少な魔物素材をありえないくらいにたんまりとせしめてきた、となるわけだ。
その様子は、「武功を挙げ損ねたとしかめ面をしていても、魔物素材の売れ行きを問えばにんまりと笑う」などという冗句がはやったほどである。
だが結局、何が起こって辺境の小砦の半規模の中隊が大繁殖を前に持ちこたえられたのか、という事には後々まで曖昧なままであった。
王都防衛軍に参加した貴族家の中には、「大繁殖を前に、駆けつけた当家の勇士達が魔物をちぎっては投げちぎっては投げ」云々といった調子の良いことを吹聴するものもあったが、もっとも初期から大繁殖に関わったガリウスが「自分達が辿りついた頃には、既に魔物の群れは壊滅状態だった」と公式に語っている以上、それも酒の席の冗談の域を越えることはなかった。
ガリウスの身分が低ければまた別の展開もあったかもしれないが、仮にも伯爵家の第二子の語る真実ともなれば、他の多くの参加者もわざわざそれをそれを否定しようともしなかったのだ。そうして、ガリウスの語る様子が、事実として認識されていくこととなる。
話が少々ずれたが、要するに結局「いかにして『既に壊滅状態だった』となったのか」に関して、それなりに長期間で公式の見解がなかった、と言うことだ。
何しろ、当事者達は地位の低い下級騎士たちである。当時の慣例としては、それはつまり発言が重要視されない、という事を示す。ファリアスが大繁殖の報をアレンクリフ家第二子たるガリウスに託したのもそういった事情によるものだ。彼らの発言は、公式の報告に纏められ、地位か、あるいは権威のある者がそれを認めて、初めて発言力を持つ。
そして、その「彼らの発言を纏め、認めた公式の報告」が問題となる。何しろ、その証言を総合し公式文書としてまとめようにも「正体不明の仮面の男が一人でほぼ一掃した」としかならないのだ。
ただでさえ、例え複数からの証言であったとしても疑わざるを得ない内容である。ましてや、そんな一文を自分の名前で残すのを文官の誰もが渋ったというのも、さもありなん、と言う他ない。
結論として公式文書には、「王国暦317年、大繁殖発生。王都防衛軍を結成し出兵、その到着までリグバ砦国境警備隊の中隊の半員がこの迎撃にあたり、助力を得て戦線維持に成功。死者0」という、シンプルながらも目を疑うような一文のみが記載されることとなる。
――この迎撃戦で何が起こったかが世間に浸透するのには別の媒体の登場を待たねばならないのだが、それに関しては後述する。
リグバ砦国境警備隊の面々には、大繁殖よりの防衛に成功した(と、公式にはされている)という事で莫大と言っていい報酬と褒章が与えられた。
そして、それをチャンスとして出世したものもあれば、そこで調子に乗って身持ちを崩したものもいる。まさに人それぞれ、悲喜こもごも、と言ったところである。
その中の、特に二人に関して記す。
一人は隊長であったファリアス・バートン。彼には王都からの中央騎士団への招聘や、あまたの貴族家からの勧誘もあったのだが、彼はその全てをあっさりと断り、当初の予定通りのリグバ砦での任期の残り数ヶ月を黙々と勤め上げ、そのまま引退した。そして家族の元に戻ると、孫娘の遊び相手や、近所の子供達に剣の手ほどきを施しながら穏やかな余生を過ごしたと言う。
もう一人は元第四小隊隊長のガリウス・アレンクリフ……彼はファリアスとは対照的に、この時から歴史の舞台に踊り出た、と言えよう。
ガリウスはこの時を最後に、地理上の意味でも配属の意味でも、リグバ砦に戻ることはなかった。大繁殖の報を上奏した事と引き換えに、父親であるアレンクリフ伯の指示通りに、国境警備隊を辞して王都に残り中央騎士団に再配属、指示された家の娘と見合いし妻と迎え、他家と誼を通じ伯爵家を盛り立てる事となる。
その全てが、伯爵の思惑通り……と言うわけでもなかった。ガリウスは、この件に関しての功ありとされ、数年後に国王より男爵の地位と分家創設の許可を与えられたのである。
このアレンクリフ男爵家は、本家であるアレンクリフ伯爵家と区別され「アレンクリフの騎士分家」と称される事となり、それなりに栄えたと言う。
なお、男爵でありながら「騎士分家」と呼ばれるこの通称は、初代男爵であるガリウスが騎士道精神に溢れる人物であることを、概ね賞賛され、わずかに揶揄された事によるものであるが……まぁ、当の本人がいたくそれを気に入っていた、というのが最大の理由であろう。
余談だがこのガリウスの騎士道精神は当主引退後も陰る事がなく、「歳も考えずに騎士道騎士道うるさい、憎めないのだが困った老人」としていくつかの戯曲などのモデルとして名を馳せることとなるのだが……それはまた、別の物語である。
――後年の話である。
王国で、ある演劇が流行った。
とある伯爵家がスポンサーとなって王都のみでなく王国全体で広く何度も公演されたその演劇の題目は、『鉄壁の守護騎士』というものであった。
「実話を元に、関係者への詳細な取材を元に作成された」という触れ込みのそれは、大繁殖の発生により危機に瀕した王国を守るため、命がけで時間稼ぎをしようとする騎士が、寸でのところで助力が間に合い迎撃に成功すると言う……捻くれた言い方をすれば、現代からしてみれば王道と言えるものだ。
「情報伝達どころか、娯楽そのものが未発達な当時ならば、貴族の後ろ盾を得て広範囲に、幾度も上演されればそれだけで洗脳に等しい」とか、「国のために身を捨てて尽くそうとするという筋書きが、王国にとってもちょうどいい宣伝となった」などと言った生臭い意見もあるが、なんにせよその演劇はこの地域で長く愛され、馴染み演目の一つとなっていくのである。
具体的には――
騎士でありたいと願いながらも、その騎士道に迷う貴公子が、前線の大砦にてそこを統べる、騎士道を体現すような厳格な壮年の騎士に出会い、その背中を見て自らの歩むべき騎士道に目覚めていく様子と、自分にも他人にも厳しくも部下達への心配りは忘れない師団長の姿や、そんな彼が娘が生まれたとの知らせが届いて人が変わったように破顔し喜ぶ意外な側面。
二人の主役と言うべき騎士二人のそんな心理描写を挟むことで観客の共感を誘い。
そんな師団長を影ながら慕いつつも、彼の家族への愛情を知るために自らの想いを隠す副官の女騎士の健気な姿に女性客の歓心を引き。
大繁殖が発生し、死ぬのは自分達だけでいいと若い隊員たちを逃がし、残った老兵たちを前に「民のため、自分と共にここで死んでくれ」と語り、この章の序文にもある「ゆえに我らは引く事はなく、ゆえに我らは負ける事なし」の有名な一文を唱和し(余談だが、この一文の唱和は観客達も共に行うのが観劇の定番となっている)、自分達の名を碑に刻むシーンで兵士や騎士達の胸を熱くし。
魔物の群れに立ち向かい、果敢に戦いながらも一人、また一人と仲間達が倒れていく様子に子供達が悲鳴を上げ、そこに現れた流麗な仮面をつけた謎の魔術師がその大いなる魔術を振るって魔物たちを蹴散らすと歓声を上げ。
そこに援軍を引き連れて舞い戻った貴公子が、互いの無事を喜ぶ師団長と涙ながらの抱擁を交わすと、一部の特殊なご趣味を持つご婦人方が黄色い悲鳴を上げ。
そして、「理に従って動き、そのために人の情には疎い」という性格付けをされる事が多い仮面の魔術師が、師団長に対し「何故、命を棄ててまで敵わぬと分かってる敵に立ち向かったのか……その心持ちを知りたくて手を貸した」と語るシーンでは、師団長役の俳優は観客に背を向けたままで沈黙を持って答えるという演出がなされ、仮面の魔術師を納得させた師団長の表情はいかなるものだったのか、今をもって論議の的になっている。
場所により時代により細かな差異は見られるが、この辺りの骨子は概ね共通している。
それだけ親しまれてきた物語という事でもある、とも言えよう。
そして。
その舞台の公開初日には、後援の伯爵家からの招待で、王都で暮らす老夫婦が観劇に訪れた。
にこにこと温和に笑う夫人と対照的に夫君のほうは何やら落ち着かない様子で、劇が始まってからは最初は愕然とし、仕舞いには憮然とした表情で黙り込んでしまった。主人公の守護騎士が部下たちの前で演説するシーンに至っては俯いて拳を震わせるばかりで、観劇中に口を開いたことはと言えば、女騎士の思慕のくだりの辺りで、夫人より笑顔のまま意味ありげな視線を向けられた際にやや慌てた様子で「あんなヤツは知らん」と言い捨てた程度である。
最後に「演出と脚色の必要性は理解している」というコメントだけを残し、劇の感想を聞く知人達にも何も答えようとしなかったし、それ以降も幾度かあった伯爵家ないし男爵家からの招待には応じようとしなかった、という。
……のだが。
孫娘が物心つく年頃になった頃、巷で流行る『鉄壁の守護騎士』に興味を示し、せがまれて連れて行く羽目になった。
それで済めば彼にとってまだよかったのだろうが、孫娘は初めて見たその演劇をいたく気に入り何度も観劇をねだるようになり、特に女騎士に憧れて祖父から剣の手ほどきまでをせがむようになったと言うから、老人の苦労がしのばれる。
そして彼は、孫娘の憧れる守護騎士や女騎士の真実について語るべきか否か、後々まで頭を悩ませたそうな。
余談だが。
王都の公立劇場で件の『鉄壁の守護騎士』が公開された際、貴賓室の一つを一人で貸切にした客がいたという。
最初から最後まで、腹を抱えて笑い転げながら観劇をしたその客は、風変わりな仮面を被っていたために氏素性は明らかになってない、とのことだが……詳細は不明である。
活動報告に、没ネタ含むネタ解説を置きます。
ご興味のある方は、2014/6/29の活動報告をご覧ください。