第十二話 『帰宅』
何語かも分からない言語を解析するには、誰も知識が足りない。それだけは確かだった。
「……そっか、喋らねぇ喋らねぇとは思っていたが……喋れないだけだったか」
やれやれと言った風に、筧が天を仰いだ。そのまま暫くの間何かを考えていた様だったが、ふと思い付いたかの様に皆の方へと顔を向ける。だが次の瞬間にはちらりと時計を見て、深鈴と康とにこう言った。
「そろそろ時間も遅いから、二人とも帰った方が良いよ」
良く見れば、既に時刻は六時半を回っている。それなりに遅い時間帯だ。二人共、家に電話の一本も入れなければならない。慌てたものの、深鈴は少し心配そうに膝の上のマニを見た。
「チビはうちで預かるよ。何にしろ、康や深鈴ちゃん家には連れてけないでしょ?」
確かにマニを連れて帰る訳にもいかないし、増してやここに泊り込む訳にもいかない。心配ではあるが、最善策であるのも確かだった。
「えっと、マニくん……いい子にしてるんだよ?」
言葉は通じないものの思い位は伝われば、と深鈴はマニの顔を覗き込んでそう言った。マニは言葉こそ理解出来なかったが何かしら雰囲気で深鈴の言った事が伝わったらしく、こくこくと何度も頷くと自ら深鈴の膝を降り少し離れた場所へと座り込んだ。
「決まりだな。近くの駅まで送って行くよ」
その様子を見て、口を開いたのは太一だった。そのまま有無を言わせぬ様子で立ち上がる。それを見た筧は、慌てて反論した。
「いや、俺の車で送った方が……」
「構わんだろ。ついでに何か晩飯買ってくるし。お前らもそれでいいだろ?」
太一に言われ――と言うか、半ば気圧されつつ――二人は肯定の意を示した。
「これ以上、筧さんにお世話になる訳にもいかないし」
「私と康、家が隣同士だから、大丈夫です」
そう言って、二人は立ち上がった。お前はゆっくり煙草でも吸ってろ、と太一は言うと、二人を連れる様に先に玄関へと歩き出した。それに倣って深鈴と康も、玄関へと歩き始める。
「あの……」
玄関を出る寸前、深鈴が振り返って行った。
「……明日も来て、いいですか?」
遠慮がちに言う深鈴に、筧は苦笑しながら応える。
「勿論。チビに土産でも持ってきてよ」
片手を上げて見送る筧に、深鈴はほっとしながら靴を履き始めた。
駅へと向かう道のりは無言で締められていた。起こった出来事に頭が飽和状態で、深鈴も康もこれ以上口を開く余力が無かったのだ。もう一人の人物、太一はと言うと、元々が無口なのだろう。何を言うでも無かったのだから、道のりが無言になるのは当然と言えば当然なのかも知れない。
そんな状態だったので足だけは速く動き、駅へは割と直ぐに辿り着いた。まだ家に辿り着いた訳では無かったが、何となく人心地着いた気がして二人は少しばかりほっとする。必要な切符を購入すると、二人は太一へと礼を述べた。
「礼なんていいさ。丁度良かったし」
そんな風に太一が言ったものだから、二人は何の事かと思わず顔を見合わせてしまった。太一は口を滑らせた事に気付いて渋い顔をしていたが、まぁいいか、と溜め息混じりに言った。
「あのボウズの言葉が分からんと困ってただろう? 多分、筧はそれの解決策を思い付いたんだと思う」
言われてみれば、さっき筧は何かを思い付いたように顔を向けたのではなかったか。その瞬間に抱いたのと同じ期待が、太一の言葉で二人の胸に再び湧き上がった。
「だが可能性が100%で無いから、アイツはそれを口に出さなかった。そう言う奴な訳だ。更に言うとアイツは何かする時は周りに人が居ると集中出来ん。他人が居るとどうしても気を遣う性分だからな。一度集中しちまえば、それこそ火事が起ころうが気付かんのだが……」
つまり、筧はマニの言語解析(?)の為、何かしら思い付いた。その邪魔をしない為に――そして恐らくは一刻も早くそれを開始させてやりたが為に――太一は二人の見送りを買って出た訳だ。成る程、と深鈴と康は納得した。
「まぁ、今言った事は出来れば忘れてくれ。結局は何の成果も無い可能性も大きいからな」
苦笑しながら太一はそう言った。それに対して、二人は何となく顔を伏せる。まだ駄目だったと分かった訳では無かったが、何となく失望してしまったのだ。取り敢えずは家に帰ってゆっくり寝た方がいい。そう太一に言われ、二人は無言のまま改札へと向かった。そのまま、二人は振り返る事も無く改札を抜ける。そんな二つの背中を、太一は静かに見守るだけだった。
待つ程の時間も無く、二人の乗る電車はホームへと滑り込んで来た。それに乗り込む時も、不躾な揺れに身を任せている時も、二人の間には静寂が流れていた。聞きなれた駅名を聞いて、反射的に電車を降り、人の流れに乗って改札を抜ける。その間もがやがやと周りは煩い筈なのに、逆にその音が今の自分達を何処かへ隔離している気がしていた。
「何か……」
ぽつりと深鈴が呟いた事で、漸く空間に音が戻って来た。深鈴は自分の足元に視線を落としたまま、ぽつぽつと独り言の様に言葉を漏らす。
「……筧さんが何とかしてくれるって、期待したよね?」
「うん……筧さん、凄い人だから……」
深鈴の言葉に、康もぽつりと応える。他人から見れば二人の会話だが、二人に取ってはお互いの独り言の応酬に過ぎなかった。
「勝手に期待して、駄目かもって言われて、がっかりしたよね?」
「そう、だな……何で出来ないんだって思った」
二人共、俯いたまま。顔を上げる事など、出来ずにいた。
「自分は何も出来ないのに、何も考え付かなかったのに……勝手にがっかりして……ちょっと、カッコ悪い、よね……」
「うん…………」
確かに二人共、太一の言葉に失望してしまった。馬鹿げた程、自分勝手な思いだったのに、何よりあの瞬間には気付かずにいた事が恥ずかしかった。
だが、こうやって気付く事は稀なのかも知れない。今回は気付いただけで、今まで勝手に期待をしたり、勝手に失望したり。そんな風に無責任に終わった思いがどれだけあるのだろうか。街灯に照らし出された長く伸びている影。その影の分だけ、そんな自分勝手が付き纏っている気がした。
「明日は何か、出来ればいいね……」
最後に小声だったが確かに漏らされた深鈴の言葉に、康はほんの少し救われた。