(1)
一年前、「来週の日曜、約束だから」
そのメールを最後に、彼女は姿を消した。
水沢隆史は美大の四年生。
隆史は、想像力があまり豊かでないといえばそれまでだが、写実主義の名を借りて、ありのままに描くのを好んだ。山なら山、川なら川。そこにないものは描かない。
社団法人――石木会は、いわゆる華美さや、演出よりも、技巧を重視する。それで勝負がしたい隆史は、ただ山と湖の絵を、描くにあたって三ヶ月を要したが、なんとか締め切りまでに完成させた。
それなりに納得のいく出来だった。新人賞を取り、さらに会員からの推薦も受けた。技術を重視する石木展は、入賞者の平均年齢が高い。22歳の隆史は最年少ではないだろうか。
しかしすぐに、うかれた隆史のプライドは、最高賞の、文部大臣賞を取った青年に打ち壊された。
井上霧也。20歳。いろいろな公募展に目を通してきた隆史は、この狭い業界、見覚えのある名前が多い中、初めて見る名前だった。
悔しさと敵愾心からも、隆史は公募展に向かう。
会場は都心の一等地。オフィス街のまっただ中。そこの一角を大きく貸し切り、二百点もの作品が並んでいた。普通の家だったら、その絵一枚で、壁を覆い尽くされるだろう。力作揃いだった。隆史の作品も、運送業者に運んでもらった。
多くの絵に感心しながら、件の、井上霧也の作品を見つける。
他に比べて、それほど大きくないカンバス。そこには仰向けに寝る、女性の姿が描かれていた。目は確かに開かれているのだが、あらぬ方を見て虚ろ。花に囲まれ、ただその花は、顔から下にいくにつれて、刃のように鋭い、結晶に姿を変えていく。胴から上で切られているが、力なく、寝ているのが分かった。
「午睡」――昼寝のことだ。被写体の女性は確かに目を開いているのだが、生気を感じない。だから、眠っているように感じられた。それは死による永遠の眠り。
「どうです?」
声をかけられ、驚いて振り返る。
線の細い、色白の青年がそこにいた。ただ目だけが、飢えた獣のような、強い輝きをひそませていた。
「賞なんて、お恥ずかしい。自信はありますが、そこまでとは」
「これは君が?」
「はい。お恥ずかしいかぎりで」
青年――井上霧也は肩をすくめてみせる。
隆史は偶然会えたことに、嬉しさや悔しさよりも、どうしてもぶつけたい疑問があった。
「この絵のモデルは、誰なんですか?」
霧也は不思議そうな顔をしたあと、
「さあ」
「いや、この人物が、知り合いに似ていてね。描いたのはいつ?」
「けっこう前に描いたのを、勝手に送られたんですよ。モデルにしても、この絵は想像で描いたんで」
話を聞くほど、要領を得なかった。
「そんなわけがない。これだけの大作だ。想像で描けるもんじゃない」
構図や陰影、立体感は、そう易々と出せるものではない。
それに霧也は、困ったように頭をかいた。
そこへ、
「霧也くん」
すらりと背の高い女性がやってくる。霧也は微笑み、
「姉さん」
と呼ぶ。姉にしては、ずいぶんと顔立ちが違った。見惚れるような女性だが、鼻筋が高いのに対し、霧也は低い。目つきも違う。柔和な雰囲気に対し、霧也のそれは、ナイフのように鋭い。
「あれ、お友達?」
怪訝そうに隆史を見る。目を細め、どこか敵意のある感じだった。隆史は居心地が悪くなる。
「ううん。僕の絵を見てたから、嬉しくてつい、話しかけちゃったんだ」
「そうなんだ」
ほっとしたように、だいぶ歳の離れているだろう、霧也の姉は胸をなでおろす。
「それじゃ、これで」
霧也が頭を下げた。隆史は納得いかないが、軽く頭を下げる。
去っていく二人を見送って、隆史は再び、「午睡」を見た。
人間、個人を特定するもの。指紋、網膜、DNA、そして耳介もまたそうだった。彼女の耳の形。よく覚えている。舟状窩が、耳輪より外に出ている。そこまで精密に描き込まれていた。そうなれば、顔がよく似ているのも、忠実に再現されているからだろう。
井上霧也は何かを知って隠している。隆史はそう直感した。
顔を合わせる機会は、これだけではない。霧也も会員の推薦を受けているはずだ。石木会で、嫌でも顔を突き合わすことになる。
やっと手がかりを見つけた。