(2)
一瞬見せたあの表情。
霧也の瞳の奥で、得体のしれないものが蠢いた。それは整った顔立ちを歪めて、まるで別人のような顔になった。
それは何に向けられたものか。自身の故郷に対してか、自然を破壊した人間にか。
清美も気づいたのか、怯えたように、黙って運転していた。
「ああ、ここでとめて」
長い沈黙の後、最初に口を開いたのは霧也だった。
開発によって切り崩された山の麓。清美は車をとめる。
「こっちからなら、見晴らしがいいでしょう」
霧也は車を出て、トランクから画材を取り出す。そして後部座席の窓を、笑顔で叩く。隆史はその笑顔に見られて、逆らうことができなかった。
隆史は車を降りる。
「季節外れの台風が近づいてるので、今のうちに下絵を完成させましょう」
「ああ……」
霧也は帰省だが、隆史はスケッチの名目。台風が予定に重なったので、当初は中止になると思っていた。しかし霧也はそれでも行くとのことで、隆史もついて行くしかなかった。
「じゃあ姉さん、旅館に荷物おいてきて」
「うん、分かった」
そこで隆史は、人気のない山奥で、霧也と二人きりになることに恐怖した。
清美は車の向きを変えて、引き返そうとする。
霧也はさっさと、山に分け入っていった。
「どこまで行くんだい?」
「この先に、いい場所があるんですよ。昔、姉さんとよくきてて」
「清美さんと?」
それに霧也が振り返った。
「ええ……」
肯定したが、その顔に困惑があった。隆史もここまで動揺すると思っておらず、面食らう。
霧也を先頭に、下草が生えた道を行く。
霧也の話では、ここの一帯は奥月村。遠雷のように、重機が山肌を削る音がする。
「ここらへんにしましょう」
そこからは、月前町と、向こうの山並みが一望できた。谷から流れる、小川が続いていた。その小川から水田に水を引いていたのだろうが、刈り入れの季節もおわったからか、稲穂は一つもそよいでいない。
まるで死んだように静かだった。
少なからず霧也もショックを受けているらしく、その表情は引きつっている。
二人は三脚の椅子をすえ、画板を抱えて座る。そして木炭での、簡単なデッサンを始めた。
「わざわざ、すみません。お時間をとって」
「いや、卒業制作も準備できたし、暇だから大丈夫」
「せっかく来てもらって、あいにくの天気ですからね」
よく、なにかにつけて「秋の空」と銘打つぐらい、この時期の空は描きがいがある。しかし今、灰色の雲が垂れこめ、どんよりとした色合いだった。
「いいさ。勝手についてきたようなもんだから」
「そんなに気になるんですか?」
「ん?」
「僕の描いた絵ですよ」
隆史の背中に、冷たいものが走る。恭次の話が思い出された。隆史は自分を奮い立たせ、
「ああ。少しでも手がかりになればと思ってね」
「じゃあ、仮に、の話をしましょうか」
そう霧也は笑いかける。
「仮にですよ。仮に恋人を奪われたら、あなたならどうします?」
それは「仮に」の話とは思えなかった。奪われたら、とは、つまりはそういうことだろう。隆史はどう答えたらいいか、言葉に迷った。感情でいえば、犯人を殺してやりたかった。その場合、犯人は霧也だ。
霧也は隆史が沈黙する中、続ける。
「もし恋人が殺されたとして。法の裁きを望みますか? その結果に納得できますか? その犯人が異常者で、なんの罰がなかったとしても?」
「それは、まあ、納得できないだろうね……」
「僕がその立場だったら、犯人を殺してやりたいですね。たとえ法の裁きが公正だとしても」
霧也は、挑発しているのだろうか。暗に、香奈を殺したことをほのめかし、異常者に霧也自身をなぞっている。これは見方によれば脅迫だ。しかしそこまでいわれて、黙っていられるほど、隆史はプライドがないわけではない。
「どちらにしろ、俺は、ゆるすことはできない」
「復讐は許されるでしょうか? 命を奪われたから、相手の命を奪う。よく、連鎖を生むといいますね。またその親族が復讐にくると。その繰り返しだと」
「勝手な論理だ。当然の報いだろう」
「では、復讐は罪ではないと?」
隆史は憎しみを霧也に向ける。
「ああ。もし本当なら、俺はそいつを殺す」
霧也は笑う。
「よかった。なら僕は、正常なようだ」
それが何を意味しているのか分からなかった。
少なくとも、霧也の瞳に宿る光は、まともとは思えなかった。




