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 第6話 伊藤幽鬼

 〔84g〕




 正しい人間は正しい考えなのだから、間違いだと疑念を抱く必要はない。

 かといって、本当に間違っている人間は、自分が間違っているということにすら気付かない。

 それが正しい考えならば信念、間違っているならば妄信と日本語では区別するが、それを区別することになんの意味があるのだろう。


 〔本日も引き分け。不殺の巫女、伊藤幽鬼っ、これで連続引き分け記録を十七にまで伸ばした~ッ!〕


 決着は引き分け。ファイトマネーはふたりとも勝利した場合の十数分の一、一ヶ月の生活費程度にはなるが、筆者の主観では死闘の報酬としては不釣合いな金額。

 それでも、 江戸コロッセオのちょうど中央、野球をやっていた頃ならセカンドとセンターの守備位置のような位置にいるふたりのコロッセオ闘士の様子は大違いだった。

 「…ァ…ッゥォォ!」

 ひとりは声にならない苦しみに咽び、口元に蓄えた乱雑なヒゲを涙で湿らせている。

 周囲には鈎針のような形状の火屯鉞刃が無数に転がり、世界中に中継されていながら彼は赤ん坊のように啼いていた。

 「立って下さい、塚原さん。あなたほどに強い人が…泣いてちゃおかしいですよ?」

 本当に白い小袖に袴、仮装のような格好をしているがその手にはサムライソード型の火屯鉞刃が握られ、息ひとつ切らしていない。

 今回の試合のルールは七分間一本勝負で、勝敗はもちろんどちらかの死亡しかない。この塚原と呼ばれた剣士は鈎針型の火屯鉞刃を駆使したが、それを幽鬼は避けきった。一度の反撃をすることもなく。

 「俺は…怯え続け、逃げ続けてきた。泥覧試合に出て腕を試したくても…死ぬのが…殺すのが怖くて、気付いたらこんなジジイになってて…」

 「それが普通ですよ、塚原さん」

 祖父と孫ほどの歳の差のある老人の涙に、幽鬼は母のように笑いを手向けた。

 心を解かすような優しい声で、休んでしまいたくなる慈愛を覗かせて、男の男としての部分を叩き折るほどの母性で。

 「それが、やっと決断できたんだ。末期ガン…大昔、原子力事故での被爆で…死ぬリミットが見えて、やっと…決断できたんだ」

 「希望を捨ててはいけません、明日死ぬとしても、こんな見世物の戦いで…命を捨ててはいけません」

 幽鬼には、その老成たる剣士の心は理解できていなかった。命を諦めないための真剣勝負であったことを。

 「…殺してくれ…伊藤幽鬼…ッ!」

 「引き分けは恥ずかしいことではありません。あなたは勇ましかった」

 諦めてしまいたくなるような包み込む声。

 「違う、違う…ッ! 違ゥァア!」

 引き分けがイヤだったんじゃない、むしろ望んでいた。誰かを殺したかったわけじゃない。

 ただ、一度だけ、一度だけ、自分が鍛えてきたそれをぶつけたかった。自分のしてきた修行という方法論を試したかった。

 「…俺は…俺には…殺す価値もない、そういうことか…ッ! 伊藤幽鬼…」

 「殺人に価値なんてありません。死ななきゃいけない人なんているわけがありません…生きてください、塚原さん」

 何を云っても通じない、この女には。

 命知らずではあったが、塚原は死にたがりではなかった。生きるために参加していた。

 自分が生きた証を確かめるために、命以上の価値をこの試合に見出していた。

 ランダムに組まれたこの試合によって、幽鬼の優しさによって、塚原の目は涙で白濁していた。




 試合も終わり、後楽園駅の構内には今日も彼女の歌が響く。

 特定の人物が鳴らしているわけではない。彼女とは無関係な着メロを使っている人間が居ないだけだ。

 十万人に名の知れた人間が曲をリリースすれば十%が買ったとしても一万枚売れるが、誰も知らないような人間が聞いた人間が全員買いたくなる名曲を出しても、千人しか知らなければ千枚しか売れないのだ。

 だが、彼女は十億人に名を知られ、その歌は百人中百人が欲しがる曲。

 今、この御茶ノ水駅を彼女の試合を見るために江戸コロッセオに向かう人々が埋め尽くし、そんな中、ひとりの男が青年の肩を叩いた。

 「なあ、あんた、明後日の入場券。持ってるんじゃない? 十五万出すぜ?」

 周りには聞こえないように、小声での誘いだった。

 「…持っていません」

 人がごった返している状況で値段を云えばパニックとなり、相手が持っていたとしてもオークション状態になって値が釣りあがってしまう。

 だが、そんなことはどうだっていい、青年はこのチケットを売る気はない、売る気がないんだから持っていると云うわけがない。

 「本当に? 本当にアンタ、持ってないの?」

 「ええ、あなたが二枚入手したら私に売ってほしいくらいですよ」

 今まで何度もの泥覧試合を演じ、自身は重傷を負わず、そしてひとりの対戦相手も殺害していない剣士、伊藤幽鬼。

 それもそのはず、彼女は命を見世物にする泥覧試合そのものに反発しており、不殺の自分が勝ち残ることで無意味さを訴える、自他共に認める正義の味方。

 「いや、あんたは持ってるよ、絶対に持ってる」

 「は? なんでです?」

 「持ってない人間が、あんたみたいに笑ったりしねえよ」

 云われて初めて、青年は自分の口角の位置に気が付いた。

 泥覧試合はファンにとっては全ての試合が見逃し厳禁、その試合が応援する選手の最後ともなりかねない。

 こんな大勢の人の中で、彼女の試合を見られる感動に酔っていた。

 「なあ譲ってくれよ、二十万…いや、二十六万までなら出すからよ」

 「嫌ですよ、諦めてください、もう電車も来ますから」

 その男は両腕を私に絡めてきた。その上で私のショルダーバックにまで手を伸ばしてきた。

 バックの中にはチケットが入っているのだ、今日の試合の入場券が。

 「離して下さい、諦めてくださいよ」

 「あんたもしつこいな、売ってくれよ! カネは払うって云ってるだろ」

 「しつこいのは…お前だろうがっ」

 青年は体が浮いた気がした。青年の主観では電車が急にゆっくりになった気がした。

 整備がされていないのか、欠陥商品だったのか、彼らが体重を掛け過ぎたのか。

 予算もないのに落下防止柵を普及させようとしたのが間違いだったのか、そんなことはどうだっていい。

 線路に落下していた。頬に突撃してくる電車の風を感じる今、叫ぶこともできずに居た。




 「大丈夫ですか?」

 「…だ、大丈夫です」

 「こっちも…」

 何が起きたのか、青年達には理解できなかった。

 青年たちは彼女に抱きかかえられるように電車の屋根の上に居た。

 彼女は、観客席から見るよりも透き通った声と優しい眼差しで青年たちを案じていた。

 「あの…あなたは、その、伊藤幽鬼さんですか」

 「ご存知なんですか、私のこと」

 変装なのか、試合中とは違って和服でもなく、白いワンピースに同じ色のニット帽を目深に被り、サングラスをしているが、青年たちが見間違うわけがなかった。

 圧倒的な剣力を持ちながらも、十七回の試合では全て引き分け。自身も雑賀凶華との戦い以外では傷一つ受けたことがない。

 彼女の名前は伊藤幽鬼、名門一刀流の全時代通しての最強の剣客。

 「気を付けて下さいね、あなたの命は世界の命…あなたと世界に本当の平和が訪れる日を祈っています」

 足元から状況を理解したらしい駅員やファンの声が聞こえ始めた頃、彼女は電車の上から飛び降り、数十メートル先に見える車へと走っていった。

 「…なあ、オイ、あんた、さっきは悪かった」

 「いや、気にしてない…むしろ、落としてくれてありがとう…ありがとうついでに…チケット買わないか? 二十六万円で」

 「なんでよ?」

 「あの人は…伊藤幽鬼は絶対に負けないからさ、見なくても分かる」

 相手に情けをかければその隙に逆転されて自分が死体、それが泥覧試合。

 そんな中でも伊藤幽鬼は制限時間中、休むことなく相手の攻撃を避け続け、それでいて相手を傷つけないように配慮までする…そんな剣術でも、今青年たちを助けた芸の正体はわからない。

 轢かれる直前の男ふたりを抱きかかえて電車の上に跳ね上がった、それは分かる。

 だが、いかに超人的な身体能力を持っていても、電車より先に彼らを助けるには“彼らが落ちる前から”車から降りて駅に向っていたとしか考えられないのだ。


 「…それでは、出してください」

 幽鬼は何事もなかったように後部座席に座り込み、ほんの数十秒だけなのに眠っていた運転手の男も目を覚まし、エンジンを点火する。

 〔…さんの遺体が発見されました。新鮮組の発表では、試合終了直後に試合でも使用した鈎針状の火屯鉞刃で心臓を貫いた模様です〕

 運転手の男は、無造作にチャンネルを回して音楽番組にチューニングした。十数年前のどこかで聞いたことのあるような曲だった。

 「また…誰も救えなかったんですね、私は…」

 その呟きを運転手は聞いておらず、楽しそうにラジオから流れてくる曲を口ずさんでいる。

 「…どうすれば終わらせられるのでしょう、この悲しみを、泥覧試合を…」

 自分の優しさが他人を傷つけていることを知ってか知らずか、彼女の頬を一筋の涙が伝う。


 

 NEXT SAMURAI 飯篠土輔

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