第1話 愛宕橋と丸橋
【84g】
広場の中央にはふたりの男。
ひとりの細身の男は開放された天蓋の隙間からサングラス越しに空を見上げてタバコを吸って粋がっている。
もうひとりの大きな男はその姿を眺めながら皮も向いていないパイナップルを丸齧りしていた。
「蝙也ァ、お前の吸ってるの、何ミリじゃあ?」
「…十六ミリだ」
「タールじゃない、ポロニウムの方を聞いている」
今現在、肺を開けて洗浄すればなんとでもなるタールやニコチンを問題視するのは、汚れが落ちなくなるとぼやくクリーニング屋くらいのものだ。
それは二十一世紀よりも多く添加されだした。その名は放射性元素、ポロニウム。
昔から喫煙者を僅かずつ被曝させてきたが、他の毒素が強すぎて注目されていなかったが、他の毒素の解毒方法が確立されてからはポロニウムだけが注目され、取り除こうとする動きが強まり、完全除去に成功し、味の悪いタバコを続出させた。
むしろ、ポロニウムを人工添加するとタバコが引き立つという事実も浮上、いまやタバコは放射能と依存症を撒き散らしていた。
「…だから十六ミリだ。ポロニウムが、な」
その言葉に、細身の男はサングラスを投げ捨て血走った眼でのハミングを添えた。
放射能の影響か、無関係な持病か、それはわからない。
「長生き、できんぞ?」
「お前はしたいのか、獣市郎」
「いいや、全然」
なら聞くな、と細身男が付け加えたところで、時計を見ていた壮年男性の声がマイク越しに響き渡る。
〔それではご両人、名乗りの声明を〕
とても大きな声だったが、取り囲んだ町民たちの歓声がそれをかき消す。
このすり鉢状の闘技場の広さは東京ドームひとつ分、客席数も東京ドームひとつ分、熱狂も東京ドームひとつ分、それはそうだ、東京ドームなのだから。
「宝蔵院流槍術、丸橋 獣市郎。十四勝無敗一分け、三連勝中」
「我流、愛宕橋 蝙也、十一勝無敗三分け、三連勝中」
このふたりを端的に表すならば太と細、黒と白といった対比にしかならないような比喩がよく似合っていた。
黒く太い獣市郎は熊ほどの体格と体毛があり、担いだ槍は持ち主の身長の倍近い丈がある。
方や白く細い蝙也は蝙蝠柄の羽織りを纏い、蜘蛛の足のように細い指を太刀に絡めている。
対照的なふたりに共通するのは、その刀と槍の異質さだけ。
刃が備わっていないのだ、両者ともただ柄があるだけで続きがない。
だが、誰もそんなことに気にも留めず、司会がまたも声を張りあげる。
〔それでは皆様、三十秒後の推察承ります、獣市郎が勝つか、蝙也が勝つか、決着付かずの引き分けか…張った、張ったァ〕
町民たちは既に三択の富籤を買っている者が多く、席から離れる者は僅か。
ギャンブルの常。小銭を賭けて楽しむ町民も居れば、千両箱で人生ごと賭ける町民も居て、それぞれがふたつの眼でひとつの殺し合いを待つ。
「ぶち殺せぇー」
「蝙也ぁ、今日も稼がせてもらうぜーっ」
「宝蔵院流見せてやれぇっ」
「死ぬこたぁねぇ、引き分けろ」
口々に自分の都合でふたりの命を野次る老若男女の町民たちだが、そんなことは戦うふたりにはどうでもいい。このふたりも自分のためだけにここにいるのだから。
「蝙也よ、お前…タバコを吸う前…小さいころ、ひみつ道具、なに欲しかった?」
「…あ?」
「ひみつ道具だよ、ひみつ道具。ネコえもんなアレじゃ」
「それは遺言か、獣市郎」
「儂、タケコプター一択。他にも空を飛ぶひみつ道具はあるがのォ、やっぱりタケコプターじゃ」
「人の話、聞いてないだろう、お前」
そんな指摘に意を解さず、獣市郎は自前の穂先のない槍を振って講釈を続ける。
「この槍はのぅ、儂の“タケコプター”じゃ」
日本語としてガタガタだが、それより変なのが獣市郎がタケコプターと呼んだ槍。
穂先がないというのもひとつだが、輪を掛けて珍妙なのが荒縄でしっかりと結わえてある発動機、これではタケコプターというよりヘリコプターのエンジンだ。
「…よっぽどイカれてるようだな、獣市郎」
「なら教えてくれや。儂を斬って報酬を得ようとしている…蝙也、お前はマトモな人間なんだな?」
「学歴で云えば国立大卒、IQで云えば百六十七、体調で云えば健常者」
「なんだ、儂と同じか」
獣市郎は何が面白かったのか、底抜けの陽気さで笑い出した。このまま笑いすぎて戦わずして死ぬんじゃないか、そんな調子で。
〔受付終了、集計結果が出ていまする。一番人気は引き分け、二番人気は蝙也勝利、三番人気は獣市郎勝利…最大倍率は概算で五倍超となっております〕
勝負となれば盾代わりにされることも有り、審判の壮年男性は妙にコミカルな様子で走り去っていく。
〔それでは各自、十歩ずつ下がったところで、抜刀承認です〕
勝負は三十秒、引き分けもあるがファイトマネーは勝利の十分の一以下。
両者の戦績が無敗なのは人に命がひとつしかない以上当然だ。一敗でもした人間は墓の中にいなければならないのだ。
「い~ち」
「にぃ」
「さぁん」
一歩下がるごとに観客席が静かになっていく。万が一にも声を戦いへのカウントアップを聞き逃さないために。そして。
『じゅう』
蝙也の姿が消えた。観客たちの目には影も形も映っていないが、獣市郎は姿を逃しても影を逃さなかった。
「上かっ」
ライトに照らされ、跳び上がった蝙也の蹴りが降り注ぐ。
それは雨だ。蹴撃のスコールだ。その鋭さに圧倒され、獣市郎は集中豪雨の中でも差す傘を持ってはいない。
自分の血で獣市郎はズブ濡れだったが、雨が止むのを待つわけにはいかない。晴れとは待つものではない、笑って呼び込むものだと獣市朗は知っている。
蹴の雨はそうやって止めた。
「獣市郎…それは…さすがに…っ」
蝙也の苦悶に獣市郎が言い返すことはない。言い返す代わりとばかりにその大きな口に頬張った蝙也の足首を砕きに入る。
噛み付いている。ガッツリ行っている。攻撃は最大の防御というが、コロッセオ闘士は攻撃以外では防御しない。
「判った、判ったから。仕切り直しだ。蹴りは止めるっ、だから離せ!」
獣市郎は答えない、ただ顎の力を強めていく。
「おい、なんとか云えっ、会話しろッ、話せっ、口を離せ、口で話せ、はなせええええっっ」
「…ふ」
獣市郎の唇から粘ついた赤い汁が垂れた。蝙也の踵骨が割れた。
絶叫する代わりとばかりに蝙也は獣市郎の顔面を踏みつけ、脱出してみせた、だが。
〔これは痛々しいっ、蝙也の右足から夥しい出血があるっ。蝙也は脱出するために自ら踵を捨てた模様ッ!〕
踵に…というより、踵が“有った”場所にくっきりと残る獣市郎の歯型。一生消えない傷をまたひとつ増やしながらも蝙也は爪先立ちで不敵に笑う。
「ダメージは五分といった所か、お前も私の蹴りが効いていないわけではないだろう?」
「効いたがの、お前のカカトで腹が満ちたからのう、元気一杯・腹一杯」
〔残り十五秒ッ〕
「さて、次は儂が飛ぶとするかのゥ。儂のタケコプターで!」
カウントダウンに獣市郎は例の“大槍タケコプター”を振るい、“刃”を具象させる。
炎と同じ蒼で灯ったそれは“えれきてる”の応用、荷電光子の収束によって形成されたリーズナブルな武士の魂。
ビームサーベル、ライトセーバー、光の剣、シャイニングソード、レーザーブレード、用いる流派によってその名は異なるが、商標としてはこの装備を火屯鉞刃=Photon Edegと呼ぶ。
「…ああ、“抜刀”するとタケコプターっぽいな、それ」
「格好良いじゃろ?」
火屯鉞刃の槍というのも珍しくもない、それこそ槍術の名門である宝蔵院では標準的であるが、獣市郎の槍は珍奇・神妙。
光子発生装置で発生した二本の光刃を前ではなく横に向けている丁字型の槍。
「うォウ、飛ぶぞのび太ぁっ」
プロペラは実際のそれと同じように回転し、周囲の空気をプラズマジェットのように放出して…実物のプロペラとは全く異なる原理で獣市郎の巨体を浮かせるだけの揚力を得ていた。
「飛んでどうするっ」
「飛ばんでどうするっ」
ただ飛んだだけ。江戸コロッセオでは初年度から天狗を名乗る剣士が、空中殺法を実行してからちょくちょく登場する技であるため、大して珍しい芸ではない。
だが、凡庸な芸でも夜空の月を打ち落とせないのと同じで、蝙也には今の獣市郎に抗う手段はない。
傷ついた足を引きずって蝙也は江戸コロッセオの外周、野球をしていた頃なら左翼と呼ばれた部分まで走って逃げる、それしかできない。
そこに落ちてくるのは流れ星でもレフトフライでもなく獣市郎。そのプロペラは歯車的にフェンスを巻き込み、シュレッダーのようにくずとして撒き散らす。
客の眼前まで刃が迫ってはいるが、フェンスと観客席を分かつ境界に張られているのはこれまた火屯鉞刃の幕、往来のSFではバリアとでもいうべき技術。
光の刃はいかなる金属をも切り裂くが、同じ火屯鉞刃ならば受け止められる。光を止められるのは光のみ。
「うふぇぁぉっ!」
かろうじて身を捻って落下してくるプロペラをやりすごした蝙也だが、彼がいた地面はハンドミキサーが通った後の生クリーム、獰猛なまでに空気が混じって捻れている。
「土だけ混ぜさせるな、赤が好きなんじゃよ、赤が」
獣市郎は槍を構え直し、その切っ先…と呼んでいい形状ではないかもしれないが、とにかく槍の穂先を蝙也に向けた。
上に向ければ空を飛び、横に向ければ主を引きずって地を走り轍を刻んで敵へと向かう。これが獣市郎の槍、巻き込まれればハンバーグ用人肉の出来上がりだ。
「早いっ」
「そりゃあそうじゃ、タケコプターじゃもんなァっ!」
普段ならいざしらず、踵を引きちぎられた足で逃げられるわけもなく、蝙也はここにきて火屯鉞刃を発生させた。
コンパクトな取っ手に直線の刃を発生させるだけ。獣市郎に比べれば驚きも何もない“ただの刀”だ。
刀を青眼に構え、蝙也はタケコプターと獣市郎を待ち構える。
「今更、刀一本で戦える気かっ」
「刀一本でなんとかするのが剣士だろう」
互いの凶器の激突時、衝撃によって蝙也の刀が弾き飛ばされた。
しかし蝙也自身は飛ばされていない、彼自身はむしろ前進していた。刃が交わる一瞬、刀を噛ませて高速回転するタケコプターの回転に便乗してその内側、獣市郎の懐へと飛び込んでいる。
刃自体は火屯鉞刃でも、発動機そのものは普通のエンジン、ならばその回転速度自体は光速どころか音速にすら達していない。
歓声、どよめき、怒号。観客席の大合唱、そして。
「やるじゃないか、さすが国立大卒」
「右に同じじゃのう」
タケコプターの内側で、ふたりの男は予備の武器として持っていた火屯鉞刃の匕首で鍔迫り合いをしながら三十秒の時間切れのコールを聞いた。
獣市郎の武器を持っていない方の腕は蝙也の細い首をしっかりと握り、蝙也の同じく開いている長い指は獣市郎の眼球に届いている。
あと一秒でも有れば、獣市郎は頚椎を捻じ切り、蝙也は眼球から脳髄にまで穴を開け、互いに対戦相手を抹殺することができただろう。
「四連勝できんかったのぉ」
「左に同じだ」
観客席からも様々な声が飛び交う。良い勝負を見せてもらったというエールから、どちらかの死に賭けていて大損したという罵声まで。
勝っても負けても、生きても死んでも、その違いはカネだけだ。
NEXT SAMURAI 西郷流星