第12話 風祭り
【84g】
「おはよう。弾牙くん」
「…おはよう、お姉さん…」
言葉だけを見れば朝目覚めただけの姉弟という風だが、実際には何一つ符合しない。
まず、今は九時は九時でも朝ではなく夜、このふたりも家族ではなく、ここは都立の大病院。十の病棟が立ち並ぶもっとも大きな病院だ。
その病室のベッドの中、弾牙が目を覚ますと隣には、目玉だけやたらに大きい小顔があった。西郷流星だった。
「…ずっと…いっしょに居てくれたの…?」
「一緒に寝てた、ってのが正しいわね。ちょっと眠かったから」
まだ眠たそうな目をこすり、ベッドの横に立てかけていた愛刀と衣類に手を伸ばす。
ちょっと眠かった人間が上着とズボンを脱いで下着姿で深夜から夕方まで爆睡するのだろうか、火星では。
「…ありがと、お姉さん」
「ん?」
「一緒に…居てくれて」
十九才という年齢で公務員忍者ということに流星は驚かされたが、今の表情の年齢的なギャップはそれ以上だ。
小学校にも上がっていない純度百%の少年、そんな笑顔だった。
「あたし、彼氏は募集してるけど…年上限定、あと、あたしより強い人だけだからっ!」
「?…ぼくは年上のお姉さん、大好きだよ?」
流星が自分で何を云っているのか判らない発言を、弾牙も判らないまました意見で、また流星はわけが判らなくなっていた。
「と、年上…年上だから…なにか飲み物買って来るわねっ、何がいい?」
「コーヒー、お砂糖とか牛乳の入ってないやつっ」
点滴のチューブをわずらわしそうにしている右腕を切り落とされた男に笑顔で見送られて、右腕を切り落とした女は紅潮しながら病室を出て行った。
「なんだよぉ、あたしっ」
自販機を見つけるまでに自分が何に動揺しているのかを整理する…そんな考え事をしているときに限って簡単に自販機とは見つかる。そんなマーフィーの法則。
五百円玉を投入口に押し込み、ブラックコーヒーをひとつ押し、オレンジジュースに手を伸ばすが、思いとどまって弾牙と同じコーヒーを押した。
「ねえ、甘えていい?」
回答を待たずに、その声の主は既にオレンジジュースのボタンを押していた。
流星が振り向けば、そこに居たのは黒ずくめの火器使い、雑賀凶華だった。
あとから来た松葉杖の青年に自販機の前を譲り、凶華と流星は入院患者用の椅子に腰を下ろして、それぞれの飲み物を揃って一気飲み。
「ちょっと焦ってるのよね。あと三時間切ってるに、ひとりだけ当った甲賀にも逃げられたから。あなたは?」
「あたしは伊賀とだけ戦いました」
「結果は?」
「殺しては居ないけど、あたしもこの通りです」
満足そうに凶華は飲み終えた空き缶をゴミ箱に投げた。バスケのフリースローのように的確に、吸い込まれるようにゴミ箱にスリーポイント。
真似して流星もやってみるが、フチに嫌われて廊下に落ちる。
「OK。忍者から逃げるのはいいけど、間違っても殺さないでね」
「ああ、ボーナスの件です? いいですよ、別に」
あっさりと了承した流星に、凶華は目を丸くした。
「…へえ、おカネ、嫌いなの?」
「嫌いじゃないけど、好きでもないですね。必要な分だけあればいいから」
云いつつ、流星は立ち上がって転がっている空き缶をゴミ箱に入れて、カネを入れて二度ボタンを押す。今度は両方オレンジジュースだ。
「人殺しは好きじゃないの?」
「知らない。やったありませんから」
「…じゃあ、約束したわよ? 忍者と戦っても殺さないでね」
「凶華さんは、人殺しとおカネ、好きなんですか?」
「両方、嫌いじゃないわね。あと何か知らない? 誰が生きてるとか、誰が死んでるとか。ネットとかでも流れてるけど信憑性がなくてね」
云いながら自分のケイタイのモニターを見せる。そこには誰が忍者三人を既に返り討ちにしたとか、戸隠流忍者が乱入したとか、誰が誰かをレイプしただの、そんな情報が紹介されていた。モノによっては動画付きで。
エログロ画像を眺めつつ、ふたりは平然とオレンジジュースを飲む。
「それだったら…蝙也さんが伊賀に倒されました、首を刎ねられて」
「へえ。アイツ、死んでたんだ。飯篠はあたしがアレしたし、伊藤は昼までは生きてた…そうなると判らないのが松崎と丸橋だけど…。
あたしが会った甲賀がもうダメージを受けてたし、感じからしてどっちかは死んでるわね」
「それでしたら答えは明白、松崎さまは私がお相手したので、甲賀の猿飛さまと戦ったのは丸橋さまですよ」
現れたのは、薄汚れた麻の服と仮面を被った怪人。
「霞心居士…ッ!」
凶華にその名を呼ばれ、その根来忍者は深々と頭を垂れる。
「お久しぶりです、雑賀凶華さま」
「――約束よ、この戦い、譲ってもらうわよ、西郷」
流星が一歩下るが先か、凶華の腕の中にはリボルバー拳銃が現れている。アメリカンなメタリックブラックに短い銃身。
その実はスイスとドイツが世界に誇る名門シリーズが出した七番目の八連装リボルバー、SSS―77。
日本ではシザースの愛称を持つ市販拳銃、凶華はその銃軸を一周させ、弾丸を八発とも吐き出しきる。四×二で八、四肢にそれぞれ二発ずつ。
それぞれが肘や膝に肩、関節に刺さる。仮に痛みに耐えたとしても、弾そのものが“くさび”になり、関節は動かなくなる。
「おや、アタマを狙わないんですか?」
「ふざけんな、ウイルスが詰まってる血袋なんか撃つか」
ウイルスによって他者の脳髄に腫瘍を作り、その腫瘍の圧迫によってツボマッサージのように記憶を操作する、それこそが霞心居士の専売特許。
恐るべき能力を前にしながらも、雑賀凶華は知り尽くしたホールを解説するプロゴルファーのように、何の緊張もない。
「おやおや、影武者とは人聞きの悪い」
「今、あなたが倒した方が霞心居士ですよ」
「だけどね、ぼくも本物なんだよ」
「そう、あなたも霞心居士…私も霞心居士です」
「やっぱり、私だねっ」
ぞろぞろと同じ覆面を被った集団。声や体格からして女に子ども、老人まで。
覆面以外は服装は白衣だったりパジャマだったり、入院患者や医者、看護師に清掃員…どう考えても無関係な一般人だが、それでも凶華は予想していたらしくビビらない。
火屯鉞刃の医療用メス、食器のフォークとナイフ、文房具のハサミ、徒手空拳、クマのぬいぐるみ、各々が凶器を振りかざす。
「当たり前だが、本物以外は何の罪も責任もない一般人だ。盛り上がった客がリングに上がった…よくある話だな?」
「F1のレースで観客が勝手にコースに入ってきても…それを轢き殺しちゃってもしょうがないわよね。クズ野郎」
雑賀は愛用のダマスカス模様のボウィナイフを下手に構え、霞心居士軍団に向かっていく。
対する軍団は、素人丸出しの構えで各々の凶器で迎撃していく。
「クズってのは心外だなぁ、合理的な戦術じゃないか」
「そのことを云ってんじゃないわよ」
パジャマにオモチャの剣を構えた一番背の小さい霞心居士を足払いで転ばせ、凶華は容赦のない肘打ちで昏倒させる。
もちろん本物ではない、自分が霞心居士だと文字通り病的に信じているだけの子供だ。
「てめえと離婚したことを云っているならお門違いだ。俺たちの息子は死んだんだよ。息をしているだけの物体のノスタルジイに付き合ってられねーよ」
次に迫ってきたのは、工業用の火屯鉞刃のスコップを構えた大柄な男の霞心居士。実体剣では火屯鉞刃は止められない、ならばどうするか。
「別に気にしてないよ、ただ…」
怯えもせず、平然と凶華は足を振り上げた。ビームを発生させている柄の部分を狙って蹴り上げる。
ビーム以外の部分を狙う、ビーム兵器戦闘の基本であり極意だ。
「ただ、あんたのことが嫌いってだけよ」
白衣の霞心居士が左手に医療用高濃度酸素ボンベを構え、右手にはライター。お約束の即席火炎放射攻撃。
それを凶華は避けるでもなく受け止めて、何事もなかったように燃え立つ身体で関節に弾丸を埋め込むルーチンワークを続行する。
燃える拳を、燃える蹴りを、操られている自称霞心居士たちに叩き込んでいく。
「都合がいいわ、これで私はファイヤー・キョウカッ!」
炎を着たまま暴れまわる凶華の蹴りは、頭突きは、鯖折は、焼鏝のように霞心居士たちに消えない傷を付け、ノックアウトしていく。
「な、なんで…!?」
霞心居士のひとりが呟く。ありえない。炎の攻撃というのは人類有史以来の集団を相手にするときの切り札。それはわかる。
だが、燃えているのだ。凶華の身体も炎に炙られ、煙硝を上げて火傷を広げている。
「動けるわけがないだろう、戦えるわけがないだろう、それでッ!」
これで凶華がサイボーグだとか、バイオボーグだとか、耐火能力を持つミュータントだとか、空想科学的な説明のある超人だというならわかる。
だが違う、凶華の肉は食欲と恐怖を刺激する臭いを出しながら焦げていっているのだ。
「…この辺かしら?」
恐怖と疑問に支配されている霞心居士軍団に向け、凶華は着込んでいたジャケットを投げつける。
もちろんジャケットには無数の火器が忍ばせてあり、それは炎の熱で暴発寸前、というか暴発した。
文字通りばら撒かれた弾丸は霞心居士たちを倒し、何発かは凶華の身体を掠めた。
幸運なことに、この戦いを観戦しているギャラリーは居なかった。
他のコロッセオ闘士の戦いは、非現実的で感覚を麻痺させるものがありギャラリーの感覚を麻痺させていたが、これが雑賀凶華だ。
戦いを見ているだけで命の保障はなく、現実的に死の臭いをさせ、重傷者を量産していく。
あるときは病室に飛び込んで攻撃をかわし、あるときは病人の居るベッドを盾にする。
巻き添いを増やし、怪我人を量産し、燃えている身体で、文字通り戦火を広げていく。
「…どうしてそこまで戦う! あのとき、“あの子”は死んだ! あれはただ息をしているだけです」
弾丸をなんとか潜り抜けた霞心居士が三日月型の火屯鉞刃を振るいながら問い掛け、それを雑賀はガゼルパンチで撃墜。
「あんたが諦めるのは勝手よ。でもあたしは諦めない。あたしは…もうあんたの女でも弟子でもない」
雑賀が色んな意味で火照った身体に医療用の生理食塩水やら飲み薬やらを次々とかぶって消火した頃には霞心居士はたったひとりしか残っていなかった。
普段ならば、待たされている患者が行列を作っている、やたらに広くて椅子だけがゲシュタルト崩壊を起こしそうなほどに直列している待合室。
「安月給の根来じゃ、あの子に息をさせることもできないのよ」
云いながら凶華は顔面をフルフェイスのマスクをかぶる。
現在の病院では、AEDと同じぐらいの頻度で対BC兵器用の防ウイルスマスクが置いてある。
完全に雑賀は霞心居士の能力を理解していた。
霞心居士が使えるのは、松崎を殺したように直接触ってウイルスを注入する接触感染、自身の呼吸によって空気をウイルスで汚染させる空気感染のふたつ。
防毒マスクさえしていれば、霞心居士の忍術は封じられる。
「…アレに息をさせるために、あなたは根来を捨て、私からも離れたのですか?」
ただひとり残った霞心居士の声は、松崎を殺したあの中年男性と同じだった。
「あんたが一番あたしをイラつかせるのは、あたしを説得できると勘違いしてる所よ」
凶華と霞心居士、同じ二丁拳銃、全く同じ八連装のシザースの拳銃、同じ構え、同じ闘争本能、異なる戦闘動機で対峙する。
「雑賀流砲炮術をあなたに教え、育て上げたのは私だということをお忘れなく」
互いに相手の銃口を視界の端に捉え、相手の弾道を読んで撃つ―――つまり。
「先手は私が頂きますよ」
霞心居士の拳銃が火を噴いた。凶華はその弾道と自分をさえぎる位置に撃ち、弾丸と弾丸を当てる。もちろん人間業ではないが忍者業としてはまあ凡庸といえる。
互いがこの技を使えるならば、肝は弾丸に弾丸を当てた後だ。その弾丸がまだ空中にある内に次弾を撃つこと。
こうすると、弾丸が浮かんでいる位置は、スペースインベーダーのトーチカのように互いの弾が通らない“安全地帯”となる。
浮遊する弾丸に新たな弾丸を掠めさせて自分に有利な位置に動かしつつ、相手を銃撃する。これを二丁拳銃の十六発を撃ち終わるまでの三秒ほどの間に行う。
弾丸によるチェス、空中の弾丸の動きも含めて刹那の間に考察し、相手の弾丸を受け止めつつ、相手に攻撃する。
その応酬の末、膝を折ったのは凶華だった。
「…そんな…?」
「…その程度で、私を…根来を超えられると御思いか」
凶華が受けた弾丸は一発。
頬を抉って右耳にできた大きすぎるピアスホール。もちろん防毒マスクを貫通して。その弾は弾丸チェスで一度は防いだものの、霞心居士が当て直して軌道修正したものだった。
「まだ他に殺さなければならない相手が居るので、次は拳銃ひとつで行ってさしあげます」
歩み寄ることもせず、次なる拳銃をボロ雑巾のような服から取り出す。弾丸を補充するのではなく銃そのものを取りかえる。凶華も用いる独特の戦い方。
凶華は空ろながら二挺の拳銃を取り出したが、一挺しか拳銃を出していない霞心居士はそれでも余裕然としている。
脳腫瘍で量産した霞心居士との戦いで換気扇が止まり、霞心居士が蔓延させたインフルエンザウイルスを含む空気を吸った凶華の虚ろな視線は、もはや霞心居士を捉えていない。
「あなたは十六発、私は八発…本物のチェスで云うならポーンだけで戦うようなものですが、高熱で目も見えていないあなたなら、簡単に殺せそうだ」
霞心居士は右手の拳銃を静かに構えて引き金を絞る。
「いやぁ、無理でしょ、莫迦師匠ッ!」
凶華は素早く立ち上がり、十六発の弾丸で霞心居士の弾丸を迎撃した。
技量では霞心居士の方が上でも、なんぼなんでもチェスではポーンだけで勝てるわけがない。
凶華の弾丸は安々と霞心居士の弾丸を突破し、霞心居士の両足に叩き込まれた。
「“ファイヤーキョウカ”なんて云いたいために燃えてたと思ってた?」
やっと霞心居士は気が付いた。先ほど凶華が消化のために被っていた大量の薬剤、その中にあったエタノールの存在に。
エタノールはシンプルな消毒剤だが、それ故に効果は絶大、頭から被るついでに口や鼻にもしっかりと含んでいた。
「マスクだけであんたの雑菌攻撃を防げると思えない性質でね。あたしは」
「お前…分かっているのか、私のウイルスを防げるほどのエタノール…飲んだのかッ?」
その殺菌能力ゆえに、エタノールは人体には有害。
入手難度およびその殺傷能力の高さから、あるミステリー作家は模倣使用を避けるためにあえて使用を控えるほど。
「吸収されるまでには時間が有るわ、あんたを殺してから吐き戻すわよ」
云いながら、凶華は手洗い用のエタノールを霞心居士に投げ掛けた。
すごく大雑把に、文字通り汚物に対してそうするように殺菌を済ませていく。
「希釈してないエタノールだから、あんたがアミノ酸だかを合成するウイルスなんてどうしようもないわよ、いっとくけど」
血とエタノールの混じった池の中で苦しむ霞心居士に向かって、ダマスカスボウィのナイフを構えて迫った凶華だが、突如として発生した下腹部の痛みに再び膝を折った。
対照的に足に大穴が開いたはずの霞心居士は、何事もなかったように立ち上がっている。
「エタノールも体内には届かないんですよ、当たり前ですがね」
先ほど凶華の銃撃で開いた穴は既に直っている。治ったではない、直った・だ。
医学の世界では病を治すために毒となるものを用いることは多いが、ここまでの例はそうはないだろう。
傷口は充血して晴れ上がり、紫色の水っぽいカサブタで覆われている。血流を滞らせるウイルスを部分的に発症させ、痛みは脳腫瘍で消し去る。
不健全な肉体をさらに不健全に修復する、それが霞心居士のウイルス戦法だった。
「種明かしをすれば…今、あなたを苦しめているのはさっきあなたの防毒マスクを破壊したときの弾丸に付けていたウイルスですよ」
「…う、ウソ…だ…ッ! 高温で発射される弾丸に…ウイルスなんて付着させても…ッ!」
「地球最初の生命は日の光も届かない深海で、三千度の海底火山の中で生まれました…まあ、インフルエンザのように熱の弱いものではできませんが…。
あなたの分かれてから完成したウイルスでね、感染力は弱いが…まあ、足腰立たなくする程度には使えるようですね」
「…みつ…てる…ッゥ」
「その名には用はありません。一十一果心居士衆がひとり、霞心居士です」
静かに霞心居士の腕が、痛みにあえぐ凶華の後頭部に押し付けられる。
倒れ付したその身体で凶華は霞心居士のことを睨みつけるが、霞心居士は意にも介さない。自分が育んだ闘志だ。退る理由がない。
「おやすみなさい、凶華」
「休まないで下さい」
上階から聞こえた微かな声、凶華と同様に明確な闘志に、霞心居士の生存本能は肉体をバックステップさせ、一瞬前には霞心居士の頭があった位置を通過する振り下ろされた超々硬合金の刃を見届けさせた。
「西郷流星か!」
その通り。そう云わんばかりに霞心居士や凶花からすれば天井、上階にいた当人にとっては床を切開いて一人の少女が降ってくる。
脱がない限りは幼児体系、童顔怪力示現流女、西郷流星その人だ。
「…この勝負は…譲ってくれるんじゃ…なかったの…?」
「譲りましたよ、だから凶華さんが負けたからあたしの番です。
…ひょっとして凶華さんって、蝙也さんみたいに生き延びるより負けたら死んだ方がいい、ってヒトでしたか?」
「…複雑だけどね。お礼は云っておくわ」
ここに来て、やっと凶華、そして霞心居士は理解した。
流星にとっては泥覧試合や賞金なんてどうだっていいのだ。ただ強いヤツが居てそいつと戦える手番が来た、それだけだ。
「ならば、お相手しますが…よろしいのですか? 流星さま、今あなたは…私と空気を共有してしまっていますが…」
云うまでもないが、最もポピュラーな感染ルートは空気だ。
喋ることで空気を汚染し、時間を稼ぐ。霞心居士の必勝パターンを知る凶華は痛みに堪えてそれを遮った。
「逃げたいならばどうぞご自由に。ただ私にまだ拳銃があることもお忘れなく」
ウイルスという規格外の攻撃手段に加え、コロッセオ闘士たる凶華と同等以上のガンマン。
そんな人外の相手にバトルマニアの流星は、意外と云うべきか、当然というべきか、冷静そのものだった。
「…いや、あの…ウイルスとか弾丸って…なんとでもなるじゃないですか?」
「…え?」
何の前触れもなく、流星は霞心居士を射程にも捉えていないのに蜻蛉の構えから蛮一文字を大きく振り下ろす、ほとんど西瓜割りの要領だ。
だが、その一振りは刀を寝かせた状態で振り降ろすことで、爆発的な疾風を巻き起こしていた。
疾風は周囲の窓ガラスをことごとく割り、その風は蔓延したウイルスを巻き込んで霞心居士自身へと叩きつけられた。
「山至示現流の火星大帝って呼ばれた人の技でして。ちょっと自慢です」
未知の技への絶叫を上げる霞心居士だったが、そんな声なんて掻き消す轟音、霞心居士はキリモミ状態で窓ガラスに叩きつけられ、院外まで弾き飛ばされた。
「…あたしの勝ちです、霞心居士さん」
瞬間最大風速百メートル越え。はっきり云えば人間の筋力で出せる数字でもなく、人間の骨格がニュートン力学的に耐えられる限界を超えており、そんな衝撃にはさすがの霞心居士も立ち上がれない。
潰れかけた爬虫がする痙攣のような動きだが、生きてはいるようだが。
「換気、換気、換気ッ!」
流星はそのまま団扇でも仰ぐように空気を裂き、入れ替えていく。風邪の予防は消毒以外にも換気、基本だ。
「えーっと…それじゃあ、凶華さんと霞心居士さんの救急車…じゃないか、ここ病院だし」
「…トドメは…刺さないの?」
小動物のように大きな眼で、流星は疑問を顔全面に表した。
「さっき…忍者は殺すなって云ったの、凶華さんじゃないですか」
その素っ頓狂な発言を合図に病院の電灯が点滅した。
ひとつやふたつならば電灯が切れただけだろうが、全ての電灯が磨きぬかれた手旗信号のように点滅しているというのはありえない。そしてそれが停電などではないことは窓から見える平和な町並でわかる。
この病院だけに起きている静かなる異常事態。それはもちろん忍者、異常事態といえば忍者だ。江戸的に考えて。
「…凶華さん、さっき倒したのがニセ居士ってことは?」
「あたしとあれだけ撃ち合えるコピーなんて居ないわ、この停電は甲賀か伊賀よ」
「伊賀でもないはず、伊賀の子がこんなことをする必要がないもの」
「…それなら、これは」
〔その通り。俺だ。甲賀の猿飛だ〕
ふたりの会話をさえぎって病院中のスピーカーから仰々しい男性の声が聞こえてきたが、それよりも流星や凶華を驚かせたものがある。
電灯が減って暗くなった部屋を音もなく照らした光の束、上の階からか下の階からかもわからないが、とにかく天井と床を極太の光が貫通した。
その光の束こそ、アインシュタインが提唱して数多の天才たちが作り上げたソビエトの最終兵器、その名もライト・アンプリフィケーション・バイ・スティミュレイテッド・エミッション・オブラジエーション・ビーム。
そうだ。これこそ僕らのヴィクトリーな超電磁兵器、レーザー砲だ。
「地球じゃあ、これで手術とかするのっ、凶華さんっ」
「違う」
左肩に蛮一文字、右肩に凶華を担いで静かな院内を流星が足音を響かせながら流星が走り抜ける。
そして流星の足跡を追うようにライト・アンプリフィケーション・バイ・スティミュレ…とにかく、レーザーが貫いていく。
レーザーがラップの芯ほどの穴を床や天井に開けるたび、電灯が点滅する。
「流星、ゴメン、部屋に行きたいの、お願い」
「ッ…いや、私も…キツイんですけど…っ」
病原菌のせいかエタノールのせいかは知らないが、息も絶え絶えな凶華が呟いている、
「じゃあ逃がすから。ちょっと待って」
凶華は担がれたまま槍型の火屯鉞刃――以前の泥覧試合でザルツァ一家から奪っていたもの――の刃を極薄に発生させ、凶華はさらに自分の拳銃を押し当てた。
火屯鉞刃の光熱により、銃はフライパンに押し当てた氷のように溶け、そして蒸発する。
「当たり前だけど…最近の拳銃って合成プラスチックの部品も使われてる…ちょうど電波欺瞞紙みたいにね」
「…ちゃ、チャフ?」
拳銃が蒸発した直後、レーザーの角度が流星から大きく逸れ、あらぬ方向へと貫通していく。
「甲賀流忍者があたしたちの位置が判るのは…多分、電磁ソナー。電気のエコーロケーションっていうか、レントゲン写真みたいなもので位置を探ってたのよ。
空気振動のソナーにしては広すぎるし、床にこんなに穴が開いてたら空気の振動なんて見極められるわけがない」
「…何云ってるのか全然判りませんけど、すごいですね」
凶華の読みの正しさは、先ほどまでは沈み登る太陽のように規則的に撃たれていたものがヘタクソなピアニストの演奏のように不規則かつ、発射ごとの連携もない連打に変わったことから明らかだ。
「本物のチャフじゃないから効果は何秒かしか続かないわ、その部屋に隠れてもらえる?」
凶華が指差したのはひとつの病室の入り口。
霞心居士と凶華の戦いのせいで、壊れていたり焼け落ちているものが多い中で、今描いた絵の様に汚れ一つない扉。まるでふたりしてその扉だけは手を触れなかったようだ。
流星はレーザーに注意を払いつつ扉を蹴り開けて転がり込んだ。
「…これは…説明してもらえるのよね?」
「カワイイっしょ? あたし専用の癒しツール、息子の凶星よ」
部屋の中央に置かれたベッドには、むくんでボテボテになり、全身には素人目には用途もわからないチューブやコードで埋められている少年が居た。
凶華は重い身体を引きずりながら、その設備の電源を予備電力に切り替えた。
明らかに科学の力で生かされているその身体、猿飛がこのまま電力を全て吸い上げれば確実に死に至るであろう機材を、予備のバッテリーに換えたわけだ。
「こんなにゴチャゴチャ付けられて…痛いとも痒いとも感じられないし、このまま甲賀野郎に停電にされたら…死んじゃうんだって」
「…おカネのために戦ってる、って聞いてたんだけど?」
「もちろん。この子が一日で使う機器、一日いくらか教えようか」
火星育ちで日本円に疎い流星にでもわかることがいくつかある。眠っている彼を支えている機器や薬品は多すぎる。
科学の力は脳波もなく、自力で呼吸もできない彼を生かし続けているが、それでも命は廃用性症候群。人間の精神と肉体は動かなければ衰えていく。
「…それ、公表した方が人気上がるんじゃない?」
「あなた、息子に“自分のために母親が人殺しをしていた”って思わせたい?…あたしは殺人狂の変質者、それでいいのよ」
科学的な理由なんて必要なかった。
凶華が生身でありながら炎で焼かれても戦えたり、エタノールを飲み込めたのに、SF的な理由なんて必要なかった。
凶華はただの母親だ。
息子は心臓を動かすだけで真っ当な稼ぎでは間に合わないような生き方をしており、その息子を必死に支えている。
火を纏って戦い、毒を飲み干して戦うなんて、子供を思う母親ならば科学的にも魔法的にも何の不思議もない。
「起きる、の?」
「…医者は絶望的だって云ったわ。前の夫もそう思ってたみたいだけど…でも、あたしはまだ諦められないから」
絶望と諦めと死というゴールは、人間を強く引きつけ、誰もがそこへと逃げこみたがる。
だが、凶華はゴールを嫌う。根来という仲間を捨て、根来という誇りを捨て、根来という愛を捨て、根来という安らぎを捨てて。
「…ねえ…命って…大事なの?」
痛みに呻きつつも漲らせていた母親らしい笑顔を曇らせたのは、ひとりの青年。
患者らしくスリッパにパジャマ。隻腕になり残る腕にも点滴のチューブを強引に抜いた小さな傷から血が滴っている伊賀忍者・百地弾牙。
「…ここでキミが登場するわけね、弾牙くん」
「…怒ってるの、お姉さん?」
「んーん、全然。キミともう一回戦えて嬉しいだけだよ?」
嬉しそうに弾牙は笑い、どうやって持ち込んだのか、手元には蝙也を葬った形状記憶超硬合金のホイルが握られている。
そして、いつの間にか既にこの病室は鏡に覆われ、何百体の死体でも収容できそうな広大な死体置き場として果てなく広がっているように見える。
鏡の中は死の世界だ。ただ肉体と影だけを映し出す。
弾牙お得意の鏡分身、形状記憶超硬合金の鏡を用いた眩惑だが、ファミレスでの戦いでは付着した蝙也の返り血は落ちており、流星にはその位置を確かめる方法はなく、上下左右にいる無数の弾牙の中から本物を探し出す術はない。
「位置が…わからん」
無数の弾牙の手には、現地調達したらしい医療用のメスや注射器。それをどこからナイフを投げてくるかすら判らず、流星はとっさに蛮一文字を盾にすべく構えたが、それが無意味であることを直後に悟った。すぐ隣の弾牙の吐息を感じて。
「…え?」
弾牙はファミレスのときとは違って投げてなどいない、鏡像の弾牙たちもメスを振り上げている。ちょうど立ち上がれない凶華の首筋へと向けるように。
そして、そのメスは女の柔肌に深々と突き立った。
「…誰だっけ、お姉さん?」
「これは恐縮です、私の名は伊藤幽鬼…コロッセオ闘士です」
凶華の首筋へと振り下ろされたメスは、別の女の腕に突き刺さって止まっていた。受けていたのは、小袖に袴を纏った巫女さん風剣士だ。
「…あんた、私のこと嫌いじゃなかったの?」
「嫌いですよ、あなたなんて」
云いつつも幽鬼は火屯鉞刃で素振りをするようにし、空間を裂く。幽鬼は継ぎ目の見えない鏡を破壊し、道を作る。
「お子さんを護ろうとする母親を見殺しにはできませんから…西郷さん、あなたは雑賀さんを安全なところへ」
「…ねえ、僕たちが場所を変えた方が早いよ」
鏡の角度を微調整して全天に凶華の息子を映し出し、そのまま弾牙は出て行った。
「それでは行って来ます。西郷さん、雑賀さん」
「幽鬼…あんた…」
「大丈夫ですよ――もう誰も死なせません」
微笑みを鏡の中に残し、幽鬼は身を翻して弾牙を追う。
呆然と成り行きを見守ってしまった流星を正気に戻したのは、背後に現れた全身を包帯で覆い、車椅子に乗った男。
ただの入院患者ではない、その隻眼には明確な敵意があり、その敵意にふたりは覚えがあった。
「猿飛…重三」
丸橋獣市郎との死闘を演じ、凶華からの狙撃に晒され、慢心創痍の身体で地下鉄まで落ち延びたその男。
「狙撃の借りはレーザーで返した…ここからは二対一、正面対決と行こうか」
車椅子には黒い尻尾が生えていた。床を伝って包帯の中にもぐりこむように生えた黒い絶縁ゴムで覆われている電源コード。
限界を超えた出力にコンセントがのた打ち回り、空焼きしているフライパンのように重三の全身から煙が立ち上っている。
「さあ、ラストバトルだッ」
NEXT STAGE 駐車場
二対三
選抜七人
死亡・愛宕橋 蝙也(我流)
死亡・飯篠 土輔(天真正伝香取神道流)
生存・伊藤 幽鬼(一刀流)
死亡・松崎 仁(人造理心流)
生存・西郷 流星(山至示現流)
生存・雑賀 凶華(雑賀流炮術)
死亡・丸橋 獣市郎(宝蔵院流槍術)
忍者三派選抜
生存・霞心居士(根来)
生存・猿飛 重三(甲賀)
生存・百地 弾牙(伊賀)
現在の賞金:一億÷三=三千三百三十三万三千三百三十三円
現在時刻:二十一時二十六分