第3話 沈みゆく村の怪談
山道というのは、人間を乗せるようには設計されていない。あれは、遠心分離機だ。
長野県の主要駅からバスに揺られて二時間。
車窓を流れる景色は、ビル群から住宅街へ、そして田園風景へ変わり、今では鬱蒼とした杉林の緑一色に染まっていた。
カーブを曲がるたびに、三半規管が悲鳴を上げ、胃の中身がシェイクされる。
俺は青ざめた顔で手すりを握りしめ、ひたすら「無」の境地を目指していた。
「先輩、見てください! あの岩、鬼の形に見えませんか?」
隣の席では、理香が窓にへばりついて歓声を上げている。
彼女には三半規管という機能が欠落しているのだろうか。あるいは、興奮という名の脳内麻薬が、乗り物酔いを麻痺させているのかもしれない。
「……見えない。ただの風化した安山岩だ」
「もう、ノリが悪いなぁ。あ、ガイドブックによると、この辺りが『鬼の哭き坂』らしいですよ」
理香は膝の上に広げた、手作りの旅のしおり(イラスト付き)を指差した。
「昔、村を追われた鬼が、ここで振り返って泣いたんだそうです。悲しい話ですよねぇ」
「鬼、ね」
俺は酔いを紛らわせるために、少し真面目な話をすることにした。
「民俗学的な解釈をするなら、その『鬼』の正体は、漂着した外国人か、あるいは鉱山技術を持った技術者集団だろうな」
「えっ、そうなんですか?」
「ああ。鉄を作る製鉄技術者は、高温の炉を扱うから目が赤くなるし、体も大きくなる。それが『赤鬼』のモデルになったという説がある。この村は昔から鉱山資源があったようだし、外部から技術者が入ってきて、地元民とトラブルになった。それを『鬼退治』という英雄譚に書き換えたんだろ」
夢のない解説を加えると、理香はつまらなそうに唇を尖らせた。
「分析やめましょうよ。もっとこう、ロマンを感じましょうよ。禁断の愛ゆえに追放された悲しきモンスター、みたいな」
「ロマンで飯は食えないし、単位も取れないぞ」
「むぅ……」
そんな軽口を叩いているうちに、バスはようやく減速し始めた。
プシュー、という気の抜けた音と共にドアが開く。
「K村役場前、終点でーす」
運転手のアナウンスに従い、俺たちは重いリュックを背負って降り立った。
そこは、文字通りのゴーストタウン一歩手前だった。
山あいの僅かな平地にへばりつくように並ぶ、古い日本家屋。
その半数は雨戸が閉め切られ、壁には『ダム建設反対』『故郷を守れ』といった、色あせた看板や横断幕が虚しく掲げられている。
建設が決まり、補償金をもらって多くの住人が去った後なのだろう。
村全体を覆う、独特の停滞感。
セミの声だけが、やけにうるさく響いていた。
「……なんか、寂しい場所ですね」
さっきまで騒いでいた理香も、さすがに少しトーンダウンしている。
「まあな。数年後には、ここも全部水底だ」
俺たちは地図を頼りに、村の奥へと歩き出した。
目指す宿舎は、廃校になった小学校だという。
十五分ほど坂道を登ると、木造平屋建ての校舎が見えてきた。
校庭には雑草が生い茂り、錆びついたジャングルジムが墓標のように立っている。そしてその横に、場違いなほど真新しいプレハブ小屋と、数台の軽トラックが停まっていた。
発掘調査事務所だ。
「おーい! やっと来たか、T大の援軍!」
プレハブから出てきたのは、タオルを頭に巻き、作業着を着た日焼けした男だった。
大学院の博士課程に在籍する、内海さんだ。今回の現場監督である。
「内海さん、お久しぶりです」
「おう須藤、よく来たな。牧村ちゃんも。悪いな、急に呼び出して」
内海さんは豪快に笑いながら、俺たちの荷物を受け取ってくれた。
「人手が足りなくて死にそうだったんだよ。地元の爺ちゃん婆ちゃんも手伝ってくれてるんだが、やっぱり力仕事は若者がいないとな」
「状況はどうなんですか?」
「んー、厳しいな。工期まであと三週間しかないのに、遺構の密度が予想以上に濃い。掘れば掘るほど出てきやがる。嬉しい悲鳴ってやつだが、このままだと調査が終わる前にダムの底だ」
内海さんは校舎の方を指差した。
「とりあえず、あっちの教室が寝床だ。女子は保健室を使ってくれ。荷物置いたらすぐ出てこいよ。日没まであと三時間は掘れるからな」
「え、今日からですか?」
「当たり前だろ。一分一秒が惜しいんだ。さっさと着替えてこい!」
鬼は伝説の中にいるんじゃない。
現場監督として、ここに実在していた。
俺は心の中で毒づきながら、埃っぽい校舎へと足を踏み入れた。
廊下を歩くと、ミシミシと床板が鳴る。
壁には、何年も前の日付で止まった卒業制作のカレンダー。
夜トイレに行くのが怖そうなロケーションだ。
「先輩、ここ」
理香が立ち止まり、窓の外を指差した。
そこからは、村を見下ろすことができる。そしてその向こうには、切り立った崖のような山肌が迫っていた。
「あそこが、現場ですね」
重機が入り、表土が削り取られ、赤茶色の肌を晒した山の中腹。
まるで巨人が爪で引っ掻いたような傷跡。
「……なんか、変な感じがします」
理香が自身の二の腕をさすりながら呟いた。
「変な感じ?」
「はい。ゾワゾワするというか……あそこ、すごく『濃い』です」
「濃いって、何がだよ。マイナスイオンか?」
「違いますよ。想い、です。誰かに強く呼ばれてる気がする」
彼女は真剣な目で、その赤茶色の斜面を見つめていた。
普段なら「中二病乙」と笑い飛ばすところだが、この廃村と廃校の雰囲気のせいだろうか。彼女の言葉が、妙なリアリティを持って俺の鼓膜を揺らした。
呼ばれている。
誰に?
もちろん、三千年前に死んだ人間に、だ。
「……熱中症の予兆だな。水飲んでおけよ」
俺は努めて冷静に言い捨て、男子部屋となる教室のドアを開けた。
黒板には、誰が書いたのか、『歓迎 奴隷の皆様』というチョークの文字が残されていた。
俺の憂鬱な夏合宿は、こうして幕を開けた。




