第23話(最終話) 三千年のラブレター
博物館という場所は、巨大な冷蔵庫に似ている。
一年中、温度と湿度が一定に保たれ、時間は冷凍保存され、静寂だけが支配している。
あの汗と泥と、セミの声が降り注ぐ発掘現場とは、対極にある世界だ。
「……混んでるな」
俺はネクタイを少し緩めながら、展示室の入り口で呟いた。
東京・上野にある国立博物館。
特別展『発掘された山の神々展』は、平日の午後だというのに盛況だった。
学生、老人、親子連れ。多くの人々が、ガラスケースの向こうにある「過去」を覗き込んでいる。
「須藤くーん! こっちこっち!」
人波の向こうから、聞き慣れた声がした。
振り返ると、少し大人びたオフィスカジュアルに身を包んだ女性が、手を振っている。
牧村理香。
髪型こそボブカットに変わっているが、その人懐っこい笑顔と、好奇心に満ちた瞳は、あの夏のままだ。
「遅いですよ、学芸員さん。自分の勤め先で迷子ですか?」
「バックヤードでの仕事が長引いたんだ。それに、俺はここの職員じゃない。しがない埋蔵文化財センターの職員だ。今日はたまたま出張で来ただけだ」
「はいはい。相変わらず照れ屋さんですね」
理香はクスクスと笑い、俺の隣に並んだ。
ふわりと、香水の匂いがした。あの時の、泥と汗の匂いとは違う、洗練された大人の香り。
月日が流れたことを実感する。
あれから五年が経った。
俺たちは大学を卒業し、それぞれの道に進んだ。
俺は地元の埋蔵文化財センターに就職し、相変わらず泥にまみれて遺跡を掘っている。
理香は、出版社に就職し、歴史雑誌の編集者として走り回っている。
道は分かれたが、俺たちの関係は切れていない。むしろ、あの夏に共有した秘密が、俺たちを太いパイプで繋ぎ止めていた。
「見に行きましょう。あの子たちに」
理香が俺の袖を引く。
俺たちは人混みをかき分け、展示室の最奥にあるメイン展示へと向かった。
そこには、特別な照明に照らされた、独立したガラスケースがあった。
ケースの中央に鎮座しているのは、一本の櫛。
鮮やかな赤漆で塗られ、把手には精緻な透かし彫りが施されている。
照明を受けて妖しく輝くその姿は、三千年前のものとは信じがたいほどの美しさを放っていた。
『赤漆透彫櫛 縄文時代晩期〜弥生時代初期』
『長野県K村 鬼封じ遺跡出土(重要文化財)』
キャプションにはそう記されている。
そして、その解説文には、こう書かれていた。
『本資料は、当時の高度な漆工芸技術を示すだけでなく、遠隔地との交易、および水銀朱の生産体制を示唆する極めて重要な発見である。また、共に埋葬されていた男女の人骨には、争いの痕跡と共に、深い精神的な絆が見て取れる』
「……いい文章ですね」
理香が満足げに言った。
「俺が書いたんじゃない。上野の偉い先生が書いたんだ」
「でも、元ネタは須藤先輩の論文でしょう? 『古代山岳部における水銀朱生産と階層社会の形成』。あの論文がなかったら、ただの綺麗な櫛で終わってましたよ」
俺たちの発見は、考古学界に小さな衝撃を与えた。
単なる悲恋伝説として片付けられていた遺跡が、実は古代の一大工業プラントであり、壮絶な搾取と隠蔽の舞台だったこと。
そして、その歴史の闇の中で、確かに愛し合った二人がいたこと。
源さんたち村の人々も、最初は戸惑っていたが、今では「村の歴史」として受け入れているらしい。ダム湖のほとりに建てられた資料館には、レプリカが飾られ、観光客が訪れていると聞いた。
「ねぇ、先輩」
理香がガラスケースに指を触れた。
「あの櫛の裏の地図……結局、公表しなかったんですね」
「ああ」
俺は頷いた。
櫛の裏に刻まれた、鉱脈への地図。
それは男が命がけで娘に託した遺言だ。
俺たちはそれを報告書には載せず、内海さんと相談して「製作時の傷」として処理した。
「あれは、彼女だけのものだ」
俺は言った。
「彼女が使わなかった地図だ。今さら俺たちが掘り返して、鉱脈を探す必要はない。それは、彼らの愛の秘密として、そっとしておくべきだ」
「ふふっ。やっぱり先輩は、ロマンチストですね」
理香は嬉しそうに目を細める。
俺たちはしばらく、無言で櫛を見つめていた。
ガラスの向こうにあるのは、ただのモノだ。
だが、俺たちには見える。
毒に侵された男の手の震えが。
それを支える娘の温もりが。
雨の日の絶望と、土の中で抱き合った最期の瞬間の安らぎが。
「彼ら、喜んでるかな」
理香がポツリと聞く。
「こんなにたくさんの人に見られて、恥ずかしいって思ってるかも」
「かもな。でも、もう忘れられることはない」
俺は答えた。
「ここに在る限り、彼らは何度でも語り継がれる。『鬼』と呼ばれた男と、彼を愛した娘の物語として」
理香が俺の方を向いた。
その瞳が、博物館の照明を反射してキラキラと輝いている。
「先輩」
「ん?」
「私、忘れられるのは怖いです」
彼女は五年前と同じことを言った。
「でも、今は前ほど怖くありません」
「どうして?」
「だって、誰か一人でも覚えていてくれれば、それは『永遠』になるって分かったから」
彼女はそっと、俺の手を握った。
冷房の効いた館内で、彼女の手だけが温かい。
骨と骨が触れ合っていた、あの三ミリの距離。
今の俺たちの距離は、ゼロだ。
「俺は忘れないぞ」
俺は彼女の手を握り返した。
「お前がばあちゃんになって、ボケて俺のことを忘れても、俺が覚えてる。あの夏のことも、お前がカレーの玉ねぎを焦がしたことも、全部だ」
「もう、玉ねぎの話はやめてくださいよ!」
理香が笑う。
その笑顔を見ながら、俺は思った。
考古学とは、過去を掘るだけの学問じゃない。
過去を通じて、今隣にいる人を大切に想うための、未来への学問なのだと。
「行こうか。腹減った」
「あ、そういえば駅前に美味しい焼肉屋さん見つけたんですよ! 行きましょう!」
俺たちはガラスケースに背を向けた。
背後で、赤い櫛が静かに輝いている気がした。
まるで、不器用な俺たちの背中を押すように。
博物館の外に出ると、東京の空は茜色に染まっていた。
ビル風が吹く。
でも、俺たちの繋いだ手は離れない。
三千年の時を超えて届いたラブレターは、確かに俺たちの胸の中に届いていた。
君がいた地層から、僕たちが生きる明日へ。
物語は、続いていく。
(完)




